10. 鐘楼の幽霊
市場を抜けた二人は、薄暗い石造りの建物の前に立っていた。扉の上には黒い狼の木彫りが掲げられており、「黒狼亭」という名が刻まれている。ヴァイデンの街でも歴史のある酒場のひとつで、旅人や地元の労働者が集う場所だった。
扉を押し開けると、室内には煙草の煙とアルコールの匂いが混じり合い、かすかに古びた木材の香りが漂っていた。ランプの明かりが揺れ、奥の暖炉には薪が燃え、赤々とした炎が周囲を温めている。カウンターには酒瓶がずらりと並び、店主が無愛想にグラスを磨いていた。
「お前は飲むなよ」
コンラートは警戒するように釘を刺した。
「俺が酒場に来て、酒を飲まないなんて無理な相談だな」
ミハエルは軽く笑いながら、バーカウンターに肘をついた。
「ったく……」
コンラートは小さくため息をつき、仕方なく酒場の奥の席へと向かう。
ミハエルは、酒場の客たちを一通り観察した。地元の漁師や商人、それから旅の商隊らしき男たちが数人。中には、やや異様な雰囲気を纏った男も混じっている。ローブを纏い、顔を隠すようにしている──追ってか、それとも脛に傷のあるやつか。
(さて、どこから話を聞こうか……)
彼は一瞬だけコンラートに目配せをする。コンラートはわずかに頷き、背後を警戒しつつ席についた。
ミハエルはゆっくりとバーカウンターに身を乗り出し、店主に向かって軽く顎をしゃくった。
「何か温まる酒をくれ」
店主はちらりと彼を一瞥し、無言のまま棚から琥珀色の液体を注いだ。グラスの中で揺れるウイスキーから、ほのかに香ばしい香りが立ち昇る。
ミハエルはグラスを指先で転がしながら、隣に座る中年の男に目を向けた。男はすでに酔いが回っているのか、酒を片手にふらついている。
「いい酒だな」
軽くグラスを掲げながら、ミハエルは気さくな調子で声をかけた。
「最近、この街で何か面白い話はないか?」
男はしばらく目を瞬かせた後、にやりと笑い、くぐもった笑い声を漏らした。
「面白い話か……そうだな。最近、夜中に鐘楼の鐘が鳴るんだよ」
「鐘楼の鐘?」
ミハエルはグラスを傾けつつ、さりげなく続きを促す。
「ああ。昔から言い伝えがあってな、夜中に鳴る鐘の音は、亡霊が鳴らしてるんだって話だ。だから、誰も近づこうとしねぇ。そんなもん、わざわざ確かめに行く酔狂な奴もいないってわけよ」
男は肩をすくめ、また酒をあおった。
「へぇ……」
ミハエルは興味深げに目を細める。
「それだけじゃねぇ。最近、人が消えてるって噂もあるんだ」
男は酔いで赤らんだ顔を歪め、声を潜める。
「人が消える?」
ミハエルは何気ない素振りを装いながら、さらに話を引き出す。
「おうよ。この前も旅人がひとり、忽然と姿を消した。そいつだけじゃねぇ。この街の住人の中にも、ある日ふっと消えちまった奴がいる。いなくなった連中がどこに行ったのか……誰も知らねぇがな」
「なるほどな……で、心当たりは?」
ミハエルの問いに、男は少し考えた後、周囲を気にするようにして低く囁いた。
「南の方に修道院があるんだが……どうも、あそこが怪しいって話だ」
「修道院が?」
「ああ。ただの噂だがな。けど、昔からあそこはよそ者をあまり歓迎しねぇし、何かしら秘密を抱えてるって言われてる。ま、信じるかどうかはあんた次第だが……」
男は苦笑しながら首を振る。
「だが、あんたみてぇな旅の男が、深入りするもんじゃないぜ。余計な詮索は、命を縮めることになるかもしれねぇからな」
ミハエルはゆっくりとウイスキーを飲み干し、グラスを置いた。
「忠告、感謝するよ」
そのとき、コンラートがゆっくりと席を立ち、ミハエルの横に立った。
「そろそろ行くぞ」
「もうちょっと飲んでたいんだけどな」
ミハエルは愚痴をこぼしながらも、彼の気配の変化を察し、ゆっくりと立ち上がった。
「……どうやら、俺たちを見ている連中がいる」
コンラートは低く囁く。
ミハエルは目線を移し、酒場の隅に座る黒いローブの男を捉えた。
「……なるほど。俺たちはもう、目をつけられてるってわけか」
彼は不敵に笑いながら、カウンターに硬貨を置いた。
「さて……どう出る?」
コンラートは答えず、ただ静かに剣の柄に手を添えた。
酒場の扉が軋みを上げながら開いた。
ミハエルとコンラートは、街の夜風に吹かれながら外へ足を踏み出した。ヴァイデンの市場はすでに活気を失い、石畳の上には露店の名残である木箱や破れた紙が散らばっている。かすかな灯りが通りを照らしていたが、夜の闇はなお深く、隅々には陰が落ちていた。
「……ここからどうする?」
「もう少し情報がほしい
ミハエルが気だるげに言う。
「だが、お前の様子が完全に回復するまでは慎重に動くべきだ」
コンラートは低く言った。
ミハエルは苦笑し、未点火の葉巻を指で転がす。
「俺はもう大丈夫だよ」
「そう言うやつが、一番信用ならん」
コンラートは溜息をついたが、その時だった。
ふとした違和感が、彼の背筋を冷やした。
静寂の中に、微かに足音が混じっている。最初は市場の雑音かと思ったが、それは一定の間隔を持ち、彼らの動きに合わせて響いていた。
「……つけられてるな」
ミハエルがぼそりと呟いた。
「分かってる」
コンラートは剣の柄に手をかけたが、ここで戦うのは得策ではない。酒場の前は開けた場所であり、騒ぎになれば衛兵が駆けつける可能性がある。無駄に目立てば、この町に長く潜伏するのが難しくなる。
「回り込むぞ」
二人はさりげなく進路を変え、人気の少ない路地へと入った。
そこは夜の闇が深く、石造りの建物が狭い道を挟んで並んでいる。行き止まりも多く、逃げ場を誤れば袋の鼠になりかねない。
ミハエルが耳を澄ませると、やはり足音はついてきていた。
「さて……どうする?」
彼が小声で問うと、コンラートは短く答えた。
「戦うしかない」
その瞬間、路地の影から黒いローブの男たちが現れた。
彼らは異端審問官ではなかった。鋭い目つきをしたその男たちは、いかにも戦闘に慣れた動きをしている。
「……修道院長の手先か」
ミハエルが静かに言った。
「どうやらそうらしいな」
コンラートは剣を抜いた。
男たちは問答無用で迫ってきた。
ミハエルは即座に動いた。体はまだ完全ではなかったが、それでも素早く身を引き、闇に紛れるように動く。
コンラートは正面から応戦し、一人の剣を受け流しながら、相手の腕を蹴り上げた。鋭い音が響き、男が短く呻くが、怯むことなく再び襲いかかった。
(やはりこいつらおかしい……)
コンラートは剣を巧みに操り、二人の攻撃を受け流しながら、確実に距離を取る。ミハエルは短剣を抜き、隙をついて敵の動きを牽制する。
ただの修道士にしては力がある。
それに加えて、剣を振るえば確かに手応えはある。肉を裂き、骨を砕く感触が確かに伝わってくる。だが――動じない。
傷ついたはずの体はわずかに揺れるだけで、痛みを感じている素振りすらない。切られた腕がだらりと下がるが、次の瞬間には、何事もなかったかのように再び構え直してくる。
普通の人間ならば、剣を受ければ怯む。裂傷を負えば、血を流せば、恐怖や痛みによって動きが鈍る。だが、こいつらは違う。まるで肉体の限界を超えた、異質な“何か”に突き動かされているかのようだった。
「長くは持たないな」
コンラートが低く言う。
「なら、さっさとずらかろう」
ミハエルが笑う。
二人は息を合わせ、同時に飛び出した。
狭い路地を全速力で駆け抜ける。背後からは追っ手の気配が迫るが、コンラートがミハエルの腕を掴み、強引に脇道へと引き込んだ。
「こっちだ!」
さらに数回曲がり、二人は古い鐘楼の裏へと身を潜めた。
追っ手の足音が近づき、そして……止まる。
二人は息を殺し、闇の中でじっと待った。
数秒の沈黙の後、男たちは通り過ぎていく。
「……振り切ったか?」
ミハエルが囁く。
「一時的にな」
コンラートは剣を戻しながら、鋭い視線を向けた。
「このままでは、また見つかる」
「逃げるか?」
ミハエルの問いに、コンラートは僅かに逡巡した。
ミハエルが口元に笑みを浮かべる。
「むしろ、ここに留まろう」
コンラートは眉をひそめた。
「正気か?」
ミハエルは壁に背を預けながら、視線を上げる。
「この街には何かある。それに、俺たちは追われる側じゃなく、追う側にならなきゃな」
コンラートは短く息をつき、剣の柄を軽く叩いた。
「……お前の直感が外れたら、どうする?」
「そのときは、また逃げればいいさ」
ミハエルは悪びれもせずに笑った。
夜が更けのヴァイデンの街は静寂に包まれていた。
石畳の道にはほとんど人影がなく、時折、街灯の明かりが揺れるだけだった。
ミハエルとコンラートは、鐘楼へと続く裏道を進んでいた。
「鐘楼の音か……」
ミハエルは低く呟く。
「本当にそんなものが聞こえるのか?」
コンラートが慎重に周囲を見渡しながら言った。
「さあな。ただ、ならないはずの鐘がなるならば何かしら理由があるはずだ」
二人は修道院の外壁に沿って歩きながら、慎重に偵察を続けた。
修道院の門は鍵がかかり固く閉じられている。
「正面から入るのは難しそうだな」
コンラートが囁く。
「そうか?俺たちの得意な方法があるだろ?」
ミハエルは口元に笑みを浮かべた。
「……まさか」
「そのまさかさ」
ミハエルはそっと修道院の壁に手をついた。
「塀を越える」
コンラートはため息をついた。
「……お前は本当にそういうところだけ器用だな」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
ミハエルは軽やかに壁をよじ登り、静かに修道院の庭へと降り立った。
「次はお前の番だぞ、騎士様」
コンラートは顔をしかめながらも、無言で壁を乗り越えた。
二人は身を低くし、鐘楼の方へと向かった。
鐘楼は、修道院の中央にそびえていた。
見上げると、古びた石造りの塔が暗闇にそびえている。
「……静かすぎるな」
コンラートが警戒するように言った。
「何かを隠しているのかもしれないな」
ミハエルは慎重に歩を進めた。
そのとき──
ゴォォォォン……
低く、重々しい音が夜の静寂を切り裂いた。
鐘楼の鐘が鳴り響く。ゆっくりと、だが確かに、空気を震わせながら。
まるで何かを告げるかのように。死者の目覚めを知らせるかのように。
コンラートとミハエルは同時に顔を上げた。
闇にそびえる鐘楼。その頂から、鈍い月光に照らされた巨大な鐘が揺れ、ふたたび──
ゴォォォォン……
音が響き渡った。
「……どうする?」
コンラートは静かに剣に手をかけ囁く。
「行ってみよう」
ミハエルは低く笑う。
コンラートは短く息をつき、仕方ないな」と呟いた。
お読みくださりありがとうございます。すみません昨日の投稿だけ21時設定になっていました。今日からは19時になります;;




