幼さなき日の優しさと罪
――母が消えた翌朝、宮廷の空気は一変していた。
ミハエルの部屋を訪れる使用人の数は急に減り、残った者たちもどこかよそよそしかった。
彼と目を合わせることを避け、まるで彼の存在を恐れるかのように、ささやかな挨拶すら交わさない。
昨日まで笑顔で接してくれた家庭教師も、何かに怯えた目で彼を遠ざけた。
それでも幼いミハエルは、毎日欠かさず小さな祭壇の前で祈った。
「……神さま、母さまを返してください。僕、もう悪いことしませんから……」
小さな声が震え、頬を伝う涙が祭壇の蝋燭を濡らしていく。
だが、どれほど熱心に祈りを捧げても、その願いは虚空に溶け込むように消えるばかりだった。
孤独な日々が続くうちに、ミハエルは次第に皇宮内にある図書室へ通うようになった。
そこは静かで温かく、誰も彼を咎めることはなかった。本だけが黙って、彼の孤独を埋めてくれた。
そんなある日――。
「……ミハエル?」
図書室の静寂を破って、小さな足音が近づいてきた。
振り返ると、穏やかな金髪の少年が立っていた。
三歳上の兄、ルートヴィヒだった。
彼は気まずそうに微笑みながら、ゆっくりと弟に近づく。
「またここにいたのか。本が好きなんだな」
「うん……ここにいれば、寂しくないから」
ルートヴィヒは何かを言いかけて口ごもり、代わりに懐から小さな包みを取り出した。
「これ、焼きたてのマドレーヌだよ。こっそりもらってきた。一緒に食べよう」
ふわりと漂う甘い香りが、部屋の冷え切った空気を和らげる。
ミハエルの固く閉じた表情が、わずかに緩んだ。
二人は本棚の隅に並んで座り、小さな菓子を分け合いながら静かに話をした。
宮廷の日常、読んだ本のこと、些細で穏やかな時間。
「兄上はいま、何を勉強しているの?」
「ガリア王国の歴史さ。ミハエルもきっと好きになると思うよ」
「もう読んだよ。第九章のトラキア地方で起きたゴートとの戦記も、三回くらい」
ミハエルがマドレーヌを口にふくみながら言う。
ルートヴィヒは驚いたように一瞬、目を見開いた。
そして優しく微笑んだ。
「すごいな、ミハエル。お前はきっと、誰よりも遠くへ行ける。一緒に学ぼう」
その言葉が、ミハエルの心に灯りをともした。
兄が言うならば、それを信じてもいい気がした。
しかし、それは同時に、運命の歯車を動かしてしまった。
ルートヴィヒの計らいで兄の授業に参加したミハエルは、一度目にした教科書の内容を流暢に話すことで教師たちの注目を浴びた。
「……この子は、尋常ではない」
その評価は決して好意的なものではなかった。
婚外子、しかも母は異端として処理された子だ。
すぐに皇后に報告が上がり、やがて冷淡な決定が下された。
「お前は、誕生日を迎える前に教会へ行きなさい。セラフィム聖教会で学ぶのです」
ミハエルが皇后に呼び出され、静かな声で告げられたそれは、「追放」とも呼べる宣告だった。
幼い目には皇后は恐ろしく、絶対で、小さく頷きその宣告を聞くしかできなかった。
旅立ちの前夜、兄がひそやかにミハエルの部屋を訪れた。
「……ミハエル、ごめん。僕がお前を目立たせてしまった……」
兄の声は震えていた。
彼にとってミハエルは唯一の弟だった。
半分しか血は繋がっていない。けれど、半分でもちいさく守るべき弟だった。
「兄上、謝ることなんてないよ……僕、何か悪いことをしたの?」
ミハエルの問いにルートヴィヒは何も答えられず、ただ無言で弟を強く抱きしめた。
その腕の強さと震えが、彼の胸に苦しく刻まれる。
「手紙を書くよ。必ず」
その言葉の意味を、まだ幼いミハエルは理解できなかった。
ただ兄の肩が震え、温かな涙が自分の肩を濡らしている。
マドレーヌの甘さも、皇宮の冷たさも、兄の温かさも全てが深く幼い心に焼き付いていた。
次回は「神聖調査官失踪事件」です!よろしくお願いいたします。




