7. 隣に
足は自然に、装置の中心部――魔導共鳴板へと向かっていた。
あれを破壊すれば、演出の全てが止まる。
それだけは、視覚記憶が教えてくれていた。
だが、その瞬間――セオドールが動いた。
「……それは、許しません」
静かに、だが確かに、彼がミハエルの行く手を遮った。
次の瞬間、金属の悲鳴のような音が、空間を裂いた。
風が生まれた。
それを裂くように――黒い外套が、空間へ飛び込んでくる。
「下がれ、ミハエル!」
耳に届いたのは、聞き慣れた――けれど、今、響くとは思わなかった声。
コンラートだ。
一瞬、ミハエルの息が詰まった。
救いなんて信じてないはずの自分の中で、心臓が跳ねた。
振り返る間もなく、鋭い風と共に黒い外套が視界を裂き、剣が閃く。
それは、かつて合わなかった光景――けれど今度だけは、確かに俺の目の前に間に合ったように彼の剣が、セオドールの目の前を斬り抜けると同時に、魔導装置の補助柱の一部が、火花を散らして吹き飛んだ。
轟音と共に、天井のレンズ装置が片側だけ崩れ、光の焦点が大きくずれた。
共鳴板が悲鳴のような音を上げ、音の振動が乱れる。
装置が――止まった。
爆裂音が収まり、煙が引いた後、最初に聞こえてきたのは、誰かのすすり泣く声だった。
祈っていた修道女たちの数人は、床に膝をつき、茫然と立ち尽くしていた。
彼女たちは何が起きたのか理解していない。
けれど、光が消えた瞬間、それが神の光ではなかったことだけは、誰の目にも明らかだった。
中には、少年の無事を確かめに走る者もいた。
台座から降ろされた少年は、まだ意識はないが、安定した呼吸をしていた。
「……お母さん……」と、うわごとのように呟いた声が、ミハエルの胸をかすかに締めつけた。
数人の修道女は戸惑いながらも、仲間の手を引き、少年を抱えて部屋を後にする。
この空間に残されたのは――ミハエルとコンラート、そして、崩れた祭壇だけだった。
ミハエルは思わず、ぐっと息を飲んだ。
崩れた光とざわめきの中で、コンラートはミハエルを一瞥し、剣を構え直した。
「遅れて悪かった」
「……いや、ちょうどだ」
その背中に、確かに安心が宿る。
そして目の前には、再び静かに立ち上がるセオドールの姿。
「なるほど。奇跡は、失敗ですか」
セオドールは、微笑んでいた。血もなく、怒りもなく――ただ記録者として、冷たく。
「……やっぱり、お前は一人じゃ無理だと思ってな」
剣の刃が閃く。
コンラート・ハインリヒ・フォン・アイゼンシュタインが、ミハエルの横に立っていた。
「……遅ぇよ、騎士様。死ぬかと思ったわ」
「だが、まだ死んでないだろ」
「フン。……なら、こっからは一緒に地獄を覗いてもらおうか」
二人は、並んで立つ。
そして、対面に――セオドール・クレメンスがいた。
彼は相変わらず表情を変えず、静かに二人を見つめていた。
「なるほど……否定する者と、守ろうとする者……ようやく揃いましたね」
「構造に当てはめるなよ。人間は予定調和で動かねぇ」
ミハエルが言い放つと、セオドールは首をわずかに傾けた。
「それはどうでしょう。すべてが定められた通りに動く――その姿こそ、神の模倣です」
その言葉と同時に、床の魔導円が光り、空間がわずかに歪んだ。
「……お前、これ、ただの演出じゃないな」
コンラートの声に、セオドールは、ほんのわずかに笑った――その目だけで。
「ええ。仕掛けは、どこにでもあります。貴方たちの足元にも、心の中にも」
「ミハエル。あの装置、止められるか?」
「わかんねぇ。でも、壊せば止まるだろ」
「では、俺が時間を稼ぐ」
「へえ、今回は騎士様が囮かよ」
「たまにはいいだろ。……お前を信じてる」
ミハエルは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに口元を歪めて笑った。
「……ありがとよ。信じるなんて柄じゃねぇが、今だけは借りるぜ、その言葉」
剣が抜かれる音。魔導銃の構え。
二人は同時に動いた。
コンラートは一直線にセオドールへ。
その動きは洗練されていて、一切の無駄がなかった。
セオドールは避けず、ただ指先をひとつ振る。
それだけで、床の装置から突き上げるような魔力の奔流が弾けた。
雷撃。
コンラートは剣に魔力をまとわせ、それを斬る。
白刃に宿った雷の煌きが、セオドールの術式を斬り裂いた。
ミハエルはその間に裏側の装置へと滑り込む。
魔導触媒のコアが露出している。
複雑な魔法陣が交差し、仕掛けが神の意志を模倣している。
「へえ……こんな風に、祝福って作れるんだな」
ミハエルはポケットから小型の魔導火薬を取り出し、コアにぴたりと貼り付けた。
「お疲れ、神様。芝居はここまでだ」
そして、火をつけた。
爆裂音と共に、祭壇の光が弾け飛んだ。
装置が崩れ、光の柱が一瞬で霧散する。
修道女たちが叫び、祈りの声が途切れた。
そして――セオドールが、初めて表情を変えた。
「……ああ。なるほど。やはり、あなたは……」
「導かれた記録じゃ、俺はただの構造を読む駒だったらしいがな」
ミハエルは一歩前に出る。
「……悪いが、舞台から降りさせてもらうぜ」
セオドールは静かに後退し、指を鳴らした。
それが退場の合図だった。
足元に魔導の光が走り、彼の身体が霧のように分解されていく。
だが、その分解の途中、彼の輪郭が一瞬だけ歪み、何重にも重なる“誰か”の影が揺らいだ気がした。
「お会いできて、光栄でした。あのお方も、きっと喜ばれるでしょう」
「おい、逃げんな。まだお前の顔、ちゃんとぶん殴ってねぇ」
ミハエルが銃を構えたが、もう遅かった。
セオドールの姿は、完全に消えた。
だが、空間にはいつまでも皮膚の裏にざわめくような、奇妙な違和感だけが残っていた。
地下の空気は静まり返り、祭壇の残骸の中、かすかに揺れる祈りの痕跡だけが残っていた。
奇跡の光は消え、祈りの声もなく、ただ瓦礫と焦げた空気の匂いだけが残っている。
床の魔導陣は砕け、祝福の象徴だった祭壇も、無残に崩れていた。
それはまるで――神が最初から、ここにいなかったかのように。
ミハエルは、片膝をつきながら書類の残骸を拾い集めていた。
焼け焦げた羊皮紙、ひしゃげた金属片、魔導触媒のコア……導かれた記録と呼ばれた芝居の小道具たち。
「これで、奇跡は終わりか」
ぽつりと呟いた声は、静かな空間に吸い込まれていった。
「終わったな」
背後から、コンラートの声。
彼は剣を納め、静かに立っていた。
傷だらけの外套には、灰がまだ残っている。
「再演の仕掛けは全部壊した。少年も、無事だ」
「そうか。……なら上出来だ」
ミハエルは葉巻を取り出し、口にくわえる。火はつけない。
少しだけ口元が緩んでいた。
「……昔、母が祈ったんだよ。俺のために……ひどい熱が続いて、医者も匙を投げた。母は、それでも祈ってた。何日も、夜が明けても……それでも、神は沈黙した。ただ、それだけのことだ」
言葉は淡々としていたが、その奥に、乾いた傷のにおいがあった。
コンラートは黙って、それを聞いていた。
「……そっからずっと、信じるってのが分からなくなった。信じても意味がないって、自分に言い聞かせてた」
コンラートは静かに息を吐いた。
――それじゃあ、お前は今、ここにいるのはなぜだ? そう問いかけたくなったが、今は言葉にする時ではない気がした。
ミハエルの横顔には、長い孤独を背負った者だけが見せる影があった。
問いは喉まで出かかったが、コンラートはそっと呑み込む。
「…………それでも、今日お前は動いた――あれが信じるってことだ」
ミハエルは、ちらりと横目で見た。
「……お前、ずいぶん軽く言うよな、信じるって」
「軽いさ。だが、俺は重くするために信じてる」
「……変なやつ」
ミハエルは葉巻を噛んで、火のついていない先をじっと見つめた。
「けどまあ……信じたって、いいのかもしれねぇな。信じても壊れねぇ何かが、隣にあるなら」
ミハエルはわずかに目を細めた。
そして、静かに立ち上がる。
上を見上げれば、崩れた天井の隙間から、灰色の空が覗いていた。
雲は重たく、太陽は見えない。
けれど、風は吹いていた。
そして、それはどこか、次の旅路の始まりを告げるようでもあった。
「……ま、次があるなら。皮肉も構えておくさ。俺らしく」
「期待してる」
二人は、無言で並んで歩き出す。
奇跡が偽りだったとしても。
祈りが届かなかったとしても。
それでも歩き続けるしかない。
信じることと、疑うことのあいだを。
次回、最終話ですが、短いので番外編と2本合わせてアップします




