6. 再現
その知らせは、修道院の小さな扉の向こうから届いた。
「……調査官殿、例の使者が、お呼びです」
修道女が緊張に引き攣った声で告げる。
ミハエルは無言で立ち上がった。
案内されたのは前夜と同じ応接室。
しかし、すでにその場には誰もいない。火が消えかけた蝋燭だけが弱々しく揺れており、静寂が部屋を包んでいた。
机の上には一通の封書と、黒い手袋だけが置かれている。手袋はきちんと揃えられていたが、指先にはうっすらと灰が付着していた。
ミハエルは無言で封書を手に取り、ゆっくりと開いた。
そこには短い一文だけが、流れるような筆跡で書かれていた。
『——儀式の始まりを見届けられるのは、あなただけです』
署名はなかった。
ミハエルは封書を机の上に戻し、静かに葉巻を取り出した。
しかし火はつけず、ただ指先で無意味に転がしながら、静かな吐息をひとつ漏らした。
「……見届けろ……ねぇ」
乾いた微笑が唇に浮かぶ。彼の瞳には皮肉な光が宿り、ゆらりと揺れる蝋燭の光を受けて妖しく光った。
自分に、何を見せようというのか。
完成されたと称する記録か。 再現された奇跡か。 それとも、信仰という名の空虚な構造か。
あるいは、彼自身がどう動くのかを試すつもりなのか。
ミハエルはゆっくりと葉巻を指の間に挟んだまま立ち上がると、深く息を吐いた。
地下への階段を降りるたび、空気が重く沈んでいった。
ミハエルは足を止めることなく、冷たく湿った石段を踏みしめる。
――セオドールが、この修道院で何を再現しようとしているのか、その意図は頭では理解していた。
だが、胸の奥を掠める不穏な予感が、どうしても拭えなかった。
もしも、また祈りが繰り返されたら。
もしも、また奇跡が起きたら。
あの時と、同じ。
母がすがった、あの祈りと同じ。
(……なら、俺は……)
思考に刃が走る前に、ミハエルは扉を押し開けた。
そこは、祭壇直下の古い礼拝堂。
燭台に火が灯され、中央の台座には、少年が横たえられていた。
その横に、黒衣の男が立っている。
セオドール・クレメンス。
漆黒の礼装は塵ひとつ許さぬ緊張感を纏い、そこだけ空気が触れるのを拒むかのように静まり返っていた。
白磁のように滑らかな肌、瞳は前髪の奥に潜んだまま微動だにせず、まるで生きていない。
――呼吸の気配すら、感じられない。
まるで、舞台を仕切る演出家のように。
彼は祈る修道女たちに囲まれながらも、ただ淡々と身振り一つで儀式を整えていく。
その指先ひとつ、目線ひとつが、人々の信仰を並ばせてゆく。
ミハエルはその光景を、冷えた目で見つめた。
「……再現を、始める気かよ」
その声に、セオドールがゆっくりと振り向いた。
「始まっていますよ、調査官殿」
前髪の奥から覗く瞳が、まばたきひとつせずミハエルを見据える。
「もう間もなく、光が降るでしょう……信じる者の祈りが、奇跡を呼ぶ」
「バカバカしい」
ミハエルは乾いた声で言った。だが、自分の胸がざわめいているのを抑えきれなかった。
「仕組んだだけの光だろうが。祈りを操って、子供たちまで道具にして……そんなもん、奇跡でも信仰でもねぇ」
セオドールは一歩、前に出る。地面を滑るような静かな歩幅で。
「違います。奇跡とは、構造です。信じる心の連鎖。その起点となる舞台を、私は整えているだけ」
その声音に、激情も迷いもなかった。
ただただ、無感情なまでに冷たかった。
「あなたが信じないのは、自由です。ですが、あの子たちは信じます。父母たちは、信じます」
「……それが、救いだって言うのかよ」
「人々は、奇跡を信じたいのです」
その言葉に、ミハエルは目を細めた。
「信じたいんじゃなくて、縋りたいんだろ。現実から逃げてな」
「それもまた、信仰のかたちです」
セオドールの声には、どこか哀れみのようなものすら含まれていた。
だが、それが演技ではないという保証は、どこにもない。
「再び、神の奇跡が訪れます」
ミハエルは拳を握りしめた。
このままでは、また奇跡が始まる。
そして、信仰は生まれてしまう。
それが仕組まれたものであっても、
人々はそれを本物として教会が記憶し、信じるのだ。
「……舐めんなよ」
――あの日、母が願った奇跡は訪れなかった。
足元で、石の床がわずかにきしむ。
胸の奥で、幼い自分が問いかける。
――信じたから、助かるの?
――信じても、助けてくれなかったら?
「救いとは、結果ではありません」
セオドールは囁くように言った。
「……信じるという行為、そのものが、魂を救うのです」
まるで、母の祈りと同じ言葉だった。
ミハエルは、拳を握りしめた。
「だったら、俺は――」
言葉が喉に詰まる。
母は、異端と呼ばれ、すべてを失った。
それでも、まだ「信じろ」と?
「……だったら、俺は、救われなかったってことになる」
吐き捨てるように言った。
手の中で、しおれた葉巻が、きしりと音を立てた。
セオドールは微笑んだ。それは、慰めでも勝利でもない。ただ――観察者の笑みだった。
「あなたは、どちらへ傾くのでしょうね、ミハエル・フォン・ヴァイセンブルク」
そのときだった。
台座の上、少年のまぶたがかすかに震えた。
指先がわずかに動き、唇が、息を吸うように開く。
ミハエルは思わず、半歩、踏み出していた。
祈りの言葉が、再び地下に満ち始める。
修道女たちの声は整然と揃い、まるで聖劇のように展開されていく。
鐘の音――いや、共鳴装置の低音が、空気を震わせていた。
光が、天井から降るように射し込む。燭台のレンズが回転し、神の顕現を模していた。
装置は、動いている。再現された奇跡が完成する。
ミハエルは、剣を持っていない。
祈りも、持っていない。
だが、足はすでに前へ出ていた。
「だったら、俺が壊す」
小さく呟いた声に、誰も気づかない。
「この茶番を」
――たとえ、それが、神に抗うことだったとしても。




