1. 招待状
朝靄にけぶる皇宮の中庭での出来事。
金の巻き毛はまだ柔らかく、頬は幼さの残る丸みを帯びている。
だが、その青い瞳には、年齢に似合わぬ鋭さと、言葉にできない不安が浮かんでいた。
「母さまはどこに……?」
使用人に尋ねても、誰も答えなかった。
いつものように紅茶を淹れてくれる侍女は消え、宮廷の廊下はやけに静まり返っていた。
ただ、誰もが彼のことを見ないようにしている。それだけははっきりと感じ取れた。
不意に、扉の奥から怒鳴り声が聞こえた。
——「異端だと?証拠はあるのか!」
——「……の御意向です」
男たちの声。
母の名前が、その中にあった。
「……どういうこと?」
彼は扉に近づこうとしたが、老いた侍従がそっと彼の肩を押さえた。
その手は震えていた。
「坊ちゃま……ここは、お戻りなさいませ。陛下のお側に」
「母さまは……?」
侍従は答えなかった。
その瞳には、憐れみと、どうしようもない諦念が滲んでいた。
ミハエルはわかってしまった。
何か、取り返しのつかないことが起きている、と。
その夜、母は姿を消した。
馬車も、荷物も、影も見せず。
皇宮の誰もそのことを口にしなかった。
母は「神を信じなさい」と言っていた。
優しい声で、抱きしめながら。
――母が消えた翌朝から、宮廷の空気は一変した。
ミハエルの部屋を訪れる使用人の数は極端に減り、残った者たちもどこかよそよそしく目を合わせようとしない。
昨日まで優しく微笑んでいた者たちも、声に温かみが消え、彼をまるで存在しないもののように扱った。
「ねぇ、母さまはいつ戻るの?」
誰に問いかけても答えはなかった。
冷え切った沈黙が、宮廷の壁に重く沈んでいるだけだった。
幼いミハエルは何もできなかった。
ただ、あの背中が、祈りが、崩れていくのを見ていることしか出来なかった。
「母さま――」
声が出た。
夢の続きのように息が荒く、喉がひりつき冷や汗が首筋をつたっていく。
だが、次に耳に届いたのは、それとはまったく違う音だった。
金属の車輪がレールの上を滑る、一定のリズム。
視界に、ゆるやかな明かりが差し込み、現実が少しずつ輪郭を取り戻していく。
椅子の感触。
窓の外を流れる霧の森。
列車の揺れ。
揺れるランプの灯。
そして――魔導列車の、規則正しい振動。
窓の外には、暗闇が延々と続いていた。
ここは、魔導列車の個室、
前の座席を見遣れば誰もいない。その静けさが、まるで夢の続きを押し返してくるようだった。
「……そうだった、今回は俺だけだったな」
ミハエルは額を押さえ、吐息をこぼしながら身体を起こした。
無造作に床に転がったコートを引き寄せ、ポケットを探ると葉巻のケースを取り出し一本抜き取ると、指先でころりと転がす。 火をつける気はない。
ただ、何かを考えるときの癖のようなものだった。
悪夢の余韻を振り払うように、眉間に皺を寄せながら指の間に葉巻を挟み背をシートに預ける。 窓の外では、漆黒の闇が途切れなく流れている。
――次の現場へ向かう列車は、静かに疾走を続けていた。
目的地はリューネ村。
帝国北部の山間に位置する寒村だ。
数日前、この村で奇跡が起きたという報告が届けられた。
だが、それは通常の流れ――つまり神聖調査局の局長を通じた正式な依頼ではなかった。
彼の執務室の机の上にひっそりと封筒が置かれており、差出人は不明。
〈神聖調査官ミハエル・フォン・ヴァイセンブルク殿――〉
宛名にはしっかりと、彼のフルネームが記されていた。
まるで最初からお前が来るのが当然だろうとでも言いたげな、そんな文面。
内容は詳細で極めて的確。
これはまるで、仕組まれた招待状だった。
列車のブレーキが悲鳴のように鳴り、ホームに停まる。 ミハエルは、重たい空気のような吐息をつきながら席を立った。
扉が開くと乾いた風と、雑踏の熱気がいっぺんに吹き込んできた。
靴がホームの石畳を鳴らすたび、ミハエルの周囲に熱気がまとわりついてきた。
駅前の小さな広場は、まるで巡礼地のような賑わいを見せており、臨時の露店がずらりと並び、そこかしこで奇跡の水や癒しの護符と書かれた粗末な札が風に揺れている。 瓶を掲げて売り子が叫ぶ。
「この水を飲めば、病も消える!神の祝福だよ!」
ミハエルは眉をひそめたまま、それらの喧騒をくぐり抜けてゆく。 人々の瞳には熱狂と盲信が浮かんでいた。
「どいつもこいつも、簡単に信じすぎだ」
乾いた笑みが、ミハエルの唇に浮かんだ。
それは自嘲にも似ていた。
「お待ちしておりました、調査官殿」
馬車ちかくに立っていた老人が帽子を取って頭を下げた。 彼は村の教区が派遣した案内人でガロ・ルーデルと名乗った。
「遠路はるばる、この辺境へ……やはり、あの奇跡の調査に?」
「奇跡、ねぇ……本物ならいいが、神様も暇じゃないだろ」「し、しかし、少年は確かに歩いたと……」「歩いただけなら、医者でも説明がつく……だが、修道女が祈ったら起き上がったってんじゃ、調査官の出番だろ」
ガロは曖昧に笑い、首をすくめて歩き出す。
ミハエルはその背を追いながら、視線を遠くに向けた。
山の稜線の奥に、修道院の尖塔が小さく見える。 聖フロレンツィア修道院――少年が目覚めたという奇跡の中心。 その名が、彼の記憶をかすかにざわつかせた。
「また、神の名を騙る連中の芝居じゃなきゃいいんだが……」
小さく呟いた声は誰に届く事もなかった。
※
静まり返った典礼省の一室。 深夜、石造りの廊の奥にある重厚な扉の向こう――その空間には、人の気配がほとんどなかった。
ただ、頁を繰る音だけが、蝋燭の揺れる火とともに細く響いていた。
ユリウス・フォン・リヒテンフェルスは、机の上に広げた数枚の古い報告書に目を通していた。 蝋燭の炎が彼の睫毛の影を長く伸ばし、紙面をなぞる瞳には一切の揺らぎがない。 だがその沈黙は、まるで火の奥でじりじりと熱を孕む煤のように、目に見えない動きを秘めていた。
一枚の書類の端に、古びたインクで記されている。 ――「奇跡申請記録」
彼は指先で一度だけ、そこをなぞる。
「……きっかけはここ」
呟きは小さく、部屋の隅にすら届かない。
次の頁には、宮廷内での異端審問の記録がある。 信仰に逸脱があった可能性、聖歌の禁忌、異端判断は不可逆的である――乾いた文字が、淡々と罪を刻んでいた。
扉の開く音が聞こえ、影からバルド・フォン・バルトハイムが現れる。
「……報告を」
ユリウスの声が静かに響いた。
「神聖調査官はリューネ村に到着しました。想定より半日早く」
「そう……彼は、どちらへ転ぶでしょうね」
彼は書類を閉じ、静かに蝋燭の火に近づけた。
「信じることを奪われた者が、再び信仰に触れた時……それは、奇跡にも勝る光となる。あるいは……」
紙が焼ける匂いが、わずかに部屋を満たす。
「彼はどちらでしょうか……」
炎を見つめながら、唇の端だけがわずかに動く。
「彼が……信じるのなら、それは喜ばしい。けれど、もしも拒絶するなら――」
ユリウスは目を伏せた。
「それはそれで、役に立つでしょう」
燃え尽きた紙の灰がふわりと舞い、夜の静けさに溶けていった。
再開しました!しばらく月曜と木曜の20時に更新します(今日だけ18時)よろしくお願いします!
2月からオリジナルを書き始めて初めて躓いた回です……




