11. 仕組まれた奇跡の証人
夜の帳が降りる頃、ミハエルとコンラートは会計局を後にした。
街は静かだが、どこか張り詰めた空気が漂っている。
ミハエルは歩きながら手にした設計図を眺めていた。
それは先ほど地下墓地から持ち出した、聖人像の設計図だ。
「どうした?」
コンラートが静かに尋ねると、ミハエルは設計図の端を指で示した。
「ここを見てみろよ」
コンラートが目を落とすと、小さな文字が記されていた。
「職人の印だ。ギルドに登録されてるはずだぜ?」
ミハエルは薄く笑いながら、視線を市場の方角に向ける。
「ギルドだな。あそこに集まる連中が詳しい」
「……時間はあまりないぞ」
「分かってるよ」
ミハエルは楽しげに唇を歪めると、設計図をポケットにしまった。
冷たい夜風が、二人の間を吹き抜けていった。
※
昼下がりの陽が傾きかけた頃、ミハエルとコンラートは職人ギルドの門をくぐった。
街の建築や修復を担う職人たちが集う場所——石造りの広間には木製の机が並び、大小さまざまな工具が壁に掛けられている。かすかに木屑と油の匂いが漂い、背中を丸めた職人たちが黙々と作業に没頭していた。
ミハエルは気怠げに首を傾げ、袖をまくり上げながら適当な机に肘をついた。
「なあ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
声をかけられた壮年の職人が、無精髭の生えた顔を上げた。
「……なんだ?」
「この印に見覚えは?」
ミハエルは、聖者像の設計図の片隅に刻まれた小さな刻印を指で示した。
職人は目を細め、擦れた指先で紙をなぞる。
「……ああ、この印か。これはヨアヒムの刻印だな」
「ヨアヒム?」
「彫金師だよ。教会の仕事も時々引き受けてた。聖堂の装飾や聖具の修復をしてたんだが……」
そこまで言いかけて、男は少し眉をひそめた。
「最近見ないな……」
「見ない?」
コンラートが口を挟むと、職人は顎に手をやった。
「ここしばらく、ギルドにも顔を出してねえな。あいつ、酒が好きでな……いつも仕事帰りに飲んで騒いでたんだが……」
「行方不明?」
「いや、死んだって話は聞いてねえ。ただ、奇跡が起こった後に町外れで見たって話は聞いたな」
「街の外れにか?」
「ああ。誰かが言ってたんだ。『あのヨアヒムが珍しくしおらしい顔して、街の外れでぼんやりしてた』ってな」
ミハエルとコンラートは互いに目配せをする。
「それは……いつ頃の話だ?」
「奇跡が起こった翌日か、その次の日くらいだったかな。ヨアヒムは最近、妙に怯えていたな……」
職人の言葉にミハエルは興味深げに目を細めた。
ギルドを出て町外れへ向かう道すがら、コンラートがふと口を開いた。
「……ヨアヒムを追い詰めているのは誰だと思う?」
「そりゃ当然、奇跡を演出した黒幕の連中だろうよ。司祭を殺すほどの奴らだぜ?」
ミハエルは不敵な笑みを浮かべる。
「……今頃、怯えきって隠れてるさ。さっさと見つけ出して安心させてやろうじゃないか」
町の喧騒を抜け、寂れた小路を進んでいく。
舗装のない道には枯れ草が生え、ところどころに崩れかけた石壁が残っていた。かつては人が住んでいたのだろうが、今では打ち捨てられた廃屋が並んでいる。
「さて、ヨアヒムってやつはどこかな……」
ミハエルは歩きながら軽く口笛を吹いた。
その時だった。
——カサリ。
どこかから微かな物音が聞こえた。
コンラートがすぐに反応し、剣の柄に手をかける。ミハエルも足を止め、視線を音の方向へ向けた。
道の端にある古びた家の扉が、ほんの僅かに揺れている。
「……いるな」
ミハエルが扉に近づくと、中から怯えたような声が漏れた。
「誰だ……!?」
「ヨアヒムか?」
「ち、違う!俺は何も知らねえ!!」
——やっぱり、いた。
ミハエルはゆっくりと扉を押し開けた。
中は埃っぽく、暗かった。
狭い部屋の片隅に、ボロボロの布を被って身を縮めた男が座り込んでいた。
彼の目は血走り、頬はやつれ、指先は微かに震えていた。
ミハエルは気怠げに歩み寄り、無造作に腰を下ろす。
「よぉ、落ち着けって。別に取って食いやしない」
「……誰だ、お前らは……」
「ただの調査官さ。まぁ、最近の出来事にちょっと興味があってね」
ミハエルは軽く葉巻を転がしながら、視線を落とした。
怯えきった男を正面から見据えれば、余計に萎縮する。ならば、じっくり話しやすい空気を作る方がいい。
「なぁヨアヒム。お前、何か知ってるんじゃないか?」
「な、何も……俺はただの職人だ……!」
「だよなぁ。でもな、ただの職人がこんな場所に隠れてるってのは……普通はねえんだよ」
ミハエルは言葉を切り、少し間を置く。
ヨアヒムの喉がごくりと鳴る。
「だからさ。何を見たんだ?」
沈黙。
ヨアヒムは震える手で顔を覆い、かぶりを振った。
「……俺は……俺は神の御業に手を貸してしまったんだ……」
彼の声は震えていた。
「どういうことだ?」
コンラートが低く問うと、ヨアヒムは苦しげに呻く。
「俺は……聖堂の修復を手伝っただけのはずだった……。でも、あの時……俺は確かに、“奇跡”の仕掛けを作らされた」
彼の言葉に、ミハエルの瞳が鋭く光る。
「仕掛け?」
「像の……聖者像の目に、細い管を通せと言われたんだ……それで、俺は地下墓地の奥の部屋を作業部屋にしろって、鍵を預かってあそこで作業をしていたんだ」
ヨアヒムは震えながら続けた。
「俺はただの職人だ……何に使われるのかも知らなかった……でも……奇跡が起こって、俺は全てを知ったんだ。街の熱狂を見た瞬間、俺は恐怖したんだ……もしこの奇跡が嘘だったとしたら?もし、神の意志ではなく、人間の手で作られたものだとしたら?信じている人間はどうなる?それが怖くなって、司祭様に戒告をしたんだ。『これは間違ってる』って。そしたら、あの人は……ほんの少しだけ微笑んで、『お前は正しい』と言った。まるで、覚悟を決めたみたいな顔で……俺の持っていた作業部屋の鍵を預かってくれて……」
ヨアヒムは喉を詰まらせる。
「そして俺に隠れろって、そう言ったんだ。そして司祭様は次の日、死んだ……」
沈黙が落ちた。
ミハエルは静かに懐から手帳を取り出し、埃を払った。
彼はゆっくりとページをめくった。
「……これは、司祭が残した最後の言葉だ」
「奇跡は作られたものだ。」
「しかし、それだけではない。」
「私は、この黄金の奇跡の裏に、さらに恐ろしいものを見た。」
「もし私が突然死んだとしたら、それは“神の罰”ではなく、人の仕業だ。」
沈黙が落ちる。
ヨアヒムの顔が、さらに青ざめた。瞳は見開かれ、呼吸が浅く早くなっていく。
「まさか……」
「そのまさか、だ」
ミハエルの低い声が響いた。
「司祭は真実を知って、殺されたんだ」
ヨアヒムの肩が、小刻みに震える。乾いた唇が何か言おうと震えるが、声にはならない。彼の瞳には、後悔と恐怖が渦巻いていた。
ミハエルはそんな彼を一瞥すると、小さく息を吐き、静かに手帳を閉じた。
「死んだ者は帰らない。もし償う気があるなら、協力するんだな」
その言葉にヨアヒムがハッと顔を上げる。迷いを払おうとするように瞬きを繰り返し、縋るように何度も頷いた。
コンラートがその様子を横目に、僅かに眉をひそめた。
ミハエルの態度は冷徹に見えるが、その眼差しには彼なりの優しさも含まれているのだと、最近ようやくわかり始めていた。
ヨアヒムの証言、司祭の手帳、聖者像の設計図――すべてが揃った。
奇跡は仕組まれ、暴こうとした者は消された。
※
宿へ戻る道すがら、昼間の喧騒が嘘のように静まり返った広場は、石畳を這う夜の冷気が漂っていた。
霧に霞む街灯の灯りは弱々しく、軒を連ねる店は全て扉を固く閉ざし、街全体が何かを恐れるように息を潜めている。
ミハエルはふと足を止め、路地裏の壁に貼られた紙片に目をやった。それは今日になって突然、街中に貼り出されたものだった。
『異端を疑え。神の奇跡を疑う者こそ、信仰に背く者である』
整然と並ぶ印刷された文字。その内容は明らかに異様だった。本来、信仰とは心の中で自由に抱くものであるはずだ。だがこの文面は、「疑うこと自体が罪である」と断じている。
「……随分と露骨だな」
隣で腕を組んでいたコンラートが、低い声で呟いた。
視線を巡らせると、通りの向こうでは人々が集まり、熱に浮かされたように祈りを捧げている。
額に手を当て、震える声で神を求める老女。
目を閉じて何かを囁き続ける男。
互いの手を握り合い、涙を流しながら祈る若い女たち。
信じることでしか、心を保てないかのような熱狂だった。
ミハエルは無言でその様子を見つめる。
「信仰というのは、こうやって作られていくのかねぇ……」
皮肉な微笑を浮かべながら呟く彼の耳に、すれ違う人々の囁きが届いた。
「商人が三人も、昨夜から姿を消したらしい……」
「学者も一人、帰ってこないって……」
「宿の主人も朝から見当たらないとか……」
ミハエルは手元の葉巻を指先で転がしながら、静かに呟いた。
「異端を疑った者から消えている、か」
コンラートがすぐに答える。
「疑問を口にした者が狙われている。街の空気もここ数日で明らかに変わった。最初は奇跡が本物かどうかを話題にしていただけだったのが、今は疑念そのものが罪という流れになりつつある。あの貼り紙もそうだ。これは自然な信仰の広がりじゃない。明らかに意図的な動きだ」
ミハエルは貼り紙を無造作に剥がし取り、握り潰す。
「最初は、奇跡が本物かどうかを話していた街が、今では疑う者は異端という空気になりつつある。あの貼り紙もそうだ。……これは、ただの信仰の広がりじゃない。明らかに意図的なものだ」
ミハエルは張り紙を無造作に剥がし、くしゃくしゃに握り潰した。
指先で葉巻を転がしながら、静かに笑う。
「……近いうちに何かが起こるな」
コンラートの言葉に、ミハエルは葉巻を回しながら冷たく笑った。
「手間をかけずに異端を炙り出す方法……公開処刑だろうな」
その言葉が、夜の空気に溶けていく。




