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異端なる神聖調査官と聖騎士の奇跡事件録  作者: 嘉乃いとね
第2録:聖者の黄金(サンクトゥム・アウルム)事件
29/52

9. 黄金の幻と異端審問官の影

 二人は書庫を後にし、静かに廊下を抜けた。

 ――そして、夜の帳が降りた頃。

 彼らは大聖堂の裏手にある石造りの階段を降りていた。

 扉を開けると、空気が一変する。

 カタコンベ――聖職者の眠る地下墓地。

 分厚い石壁に囲まれた空間は、外界と完全に隔絶されていた。

 冷気が肌を刺す。

 湿った石畳からは、長年染みついた土と死の匂いが立ち込めている。

 奥へ進むにつれ、空気はさらに重く、音すらも吸い込まれるような静寂が広がっていた。

 壁の両側には無数の石棺が並び、それぞれに聖人や司祭の名が刻まれた銘板が飾られている。

 苔むしたもの、彫刻が風化したもの――時代を超えて並ぶ石の棺は、ここが長い歴史を持つ場所であることを物語っていた。

 燭台の火が、闇に揺れる。

 天井から吊るされたわずかな灯火が、湿った壁を照らし出し、影がゆらゆらと歪んだ。

 まるで眠れる死者たちが、微かに動いたように錯覚するほどに――。

「……静かすぎるな」

 コンラートが低く呟く。

「そりゃ、死者の眠る場所だしな」

 ミハエルは気楽そうに言うが、その青い瞳は警戒を解いていない。

 二人は慎重に足を進める。

 石畳に響く足音は、妙にくぐもって聞こえた。まるで、この地下墓地そのものが、何かを秘めた生き物のように思える。

 だが――ここには確かに生者の気配があった。

 ミハエルがふと足を止め、指先で床をなぞる。

 埃がわずかに乱れ、靴跡のような跡が残されていた。

「……誰かが、ここを通ったな」

 コンラートも目を細める。

 確かに、カタコンベの床は普段ならほとんど手つかずのはずだ。

 だが、所々に土埃の乱れた箇所があり、それは最近になって通行があった証拠だった。

「この扉の奥に何があるか……気になってきたな」

 ミハエルは鍵を取り出し、慎重に鍵穴へ差し込んだ。


 カチリ。


 鈍い音が響くと、目の前の扉がゆっくりと開いた。

 扉を押し開けると、そこには古びた棚が並び、埃をかぶった木箱や巻物が無造作に積み重ねられていた。長い間人が出入りしていなかったことを物語るように、空気は重く、微かにカビと蝋燭の煤の匂いが混じっている。

 しかし、問題はそれではなかった。

 黄金の輝き。

 コンラートが足元に目を落とし、ゆっくりと屈む。

 石畳の上に、微細な粒子が散らばっていた。

 光を反射し、わずかに煌めくそれは、数日前ミハエルが聖者像の近くで見つけたものと同じだった。

「……これは」

 コンラートが指先で軽く触れる。

 細かく砕かれた金粉――。

「やっぱり……この奇跡、仕組まれてたんだな」

 ミハエルは静かに呟き、部屋を見渡した。

 この部屋は、単なる倉庫ではない。

 壁際には木箱の蓋が乱雑に開けられたものがいくつかあり、中には緻密な細工が施された器具や、未使用の蝋燭、薬品の瓶が並んでいた。


 そして――


 壁に掛けられた、一枚の巻物。

 ミハエルは埃を払いつつ、それを手に取った。

 重厚な羊皮紙に描かれていたのは――

 聖者像の内部構造図。

「……なんだこれは」

 コンラートが眉をひそめる。

 巻物には、像の内部に張り巡らされた仕掛けが細かく記されていた。

 像の両目には、極細の管が通され、外からは見えないよう巧妙に隠されている。

 その管を通じて液体を流し込む仕組みが設けられていた。

 さらに、表面の彫刻部分には特殊な細工――黄金(オルムアウレウム)が施し、極小の溝を利用して金粉が付着しやすくなっている。

 ミハエルは指で金粉を弾きながら、棚の奥に手を伸ばす。そこには、もう一つの巻物があった。広げてみると、それは市場の金貨流通計画だった。

 そして教会から意図的に裏金を流し、異端審問官に集約させ、金貨を撒く。

「……この仕組みがあれば、涙も黄金も演出できる」

 コンラートが設計図をじっと睨みながら、低く言う。

「つまり、最初から偽の奇跡を作るつもりだったってことだ」

 ミハエルの指先が設計図をなぞる。

 青の瞳が、鋭く光った。

「いやぁ……完璧な詐欺じゃねぇか」

 微かに笑いながら、指先で金粉を弾く。

 聖者の涙に空から降ったは、神の奇跡ではない。

 巧妙に仕組まれた、完璧な偽装だった。

 その時だった。

 軋む扉の音。

 反射的に振り向く。

 ――そこにいたのは、漆黒の影。

 無音で現れた黒装束の一団が、出口を塞いでいた。

 光を吸い込むような深い闇色の外套。

 硬質な革の靴が、無機質な音を立てる。

 誰も声を発しない。ただ、冷たい視線が突き刺さる。

 その場の温度が一気に下がったような錯覚を覚える。

 だが、それだけではなかった。

 この場を支配する、圧倒的な気配。

 静かに、一歩前へ出た男。

 黒髪を鋭く撫でつけた、軍人のような風貌。

 端正な顔立ちに似つかわしくない、無慈悲な冷気を帯びた灰色の瞳。


 バルド・フォン・バルトハイム――異端審問官の監督役。


 漆黒の外套の下に纏う、動きやすい革の装束。

 装飾のない剣が腰にあるが、その存在だけで十分な威圧感を放っている。

 その全身が発する圧に、まるで石畳そのものが軋むかのような錯覚を覚えた。

 バルドが、一歩、前へ出た。

 それだけで、コンラートの背筋が粟立つ。

 ――この男は、迷いがない。

 その一歩は、相手の抵抗を考慮する余地すらない、一方的な「通告」だった。

「おまえたちは、これ以上この奇跡に関わるべきではない」

 まるで「おまえたちは、ここで終わる」と言わんばかりに。

 低く響く声。

 ただの命令ではない――それは、裁きだった。

 ミハエルは肩をすくめ、気怠げに笑った。

 だが、その指先は葉巻を弄ぶふりをしながら、確実にナイフの位置を確認している。

「へぇ……俺たちって異端者だったっけ?」

 バルドの表情は、微動だにしない。

「これは神の意志であり、疑問を持つ者は、それ自体が異端である」

 凍るような沈黙が落ちた。

 異端か、信仰か。

 選べ――と、そう言っている。

「さもなくば、貴様らも神の裁きを受けることになる」

 その言葉が響いた瞬間、コンラートが一歩前に出た。

 革靴が石畳を踏む音が、妙に大きく響く。

 黒装束の一団が、一瞬、わずかに身構えた。

 ――殺気が膨れ上がる。

 この場の空気が、一触即発の境界に達する。

 だが、バルドは動かない。

 ただ、金色の瞳でコンラートを見据えたまま、静かに息を吐いた。

「……つまり、これは脅しか」

 コンラートが低く呟く。

 バルドの瞳が僅かに細まる。

「忠告だ。教会の意思に背くな」

 次の瞬間。

 黒装束の男たちは、一斉に動いた。

 ……音もなく、まるで影が揺らめくように、その場から消えた。

 まるで最初から存在していなかったかのように。

 残されたのは、深く沈黙した地下室。

 濃密な緊張の余韻だけが、まだこの場を包んでいた。

 ミハエルは、ポケットから葉巻を取り出し、くるくると指で回した。

 彼の微笑には、どこか愉快そうな色が滲んでいる。

「……さて、どうするよ?」

 コンラートは無言で、バルドたちが消えた方向を見据えたまま、ゆっくりと息を吐いた。

 ――これは、ただの警告ではない。

「これ以上調査を進めれば、消すぞ」という明確な宣告だった。

 ミハエルは、軽く首を傾げる。

「……なぁ、なんか妙じゃないか?」

「何がだ?」

「なぁ、コンラート」

「……なんだ?」

「俺たち、バルドと会うのって初めてだろ?」

「……ああ」

「でもさ、変じゃないか?」

「何がだ?」

 ミハエルは、葉巻を指先で転がしながら、わざとゆっくりと口を開いた。

「あいつ、俺たちのことを知っていたみたいだったぜ?」

 その瞬間、コンラートは気づいた。

 バルドは、二人の名を問わなかった。

「おまえたちは、これ以上この奇跡に関わるべきではない」と言った。

 まるで、最初から俺たちがここに来ることを知っていたかのように。

 コンラートの指先が、わずかに冷えた。

 ミハエルは葉巻を指先で転がしながら、ニヤリと笑った。

 コンラートは僅かに目を細め、思案するように口を引き結んだ。

 バルド・フォン・バルトハイム。

 ただの異端審問官の監督役ではない。

 彼はすでに、この奇跡の真相に近づく者の存在を知っている。

「……これは、思ったより厄介なことになりそうだな」

 コンラートの言葉に、ミハエルは軽く肩をすくめる。

「厄介? いや、これは面白くなってきた、の間違いだろ?」

 夜の静寂の中、ミハエルの含み笑いが、わずかに響いた。



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