5. 死者が遺した手記
陽の光が聖堂の巨大なステンドグラスを照らし、色とりどりの光の粒が石畳に映し出されていた。
朝の礼拝を終えた信者たちが、ゆっくりと広場を歩き、神へ祈りを捧げるために再び聖堂へと戻っていく。
祭壇へと続く長い回廊には、修道士や見習い神官の姿もあり、敬虔な雰囲気が漂っていた。
その巡礼の波に紛れ込むように、ミハエルとコンラートは聖堂の門をくぐった。
目的は死んだ司祭の部屋だ。
「昼間にこんな堂々と入るのも悪くないな」
ミハエルが低く笑いながら、簡素な巡礼者の衣服の襟元を整える。
「……油断するな」
コンラートは眉をひそめながら、周囲の様子を観察する。
二人は目立たないように、他の巡礼者たちとともに聖堂内へ進んでいった。
荘厳な礼拝堂の中央には、巨大な聖母像が鎮座している。
その足元には献花や寄進のための金箱が並び、信者たちが次々と跪いて祈りを捧げていた。
ミハエルは軽く首を傾げながら、その様子見てる。
「奇跡」が起きて以来、この聖堂には以前にも増して多くの信者が詰めかけている。
聖母像を前に涙を流しながら祈る者もいれば、熱心に聖歌を口ずさむ者もいた。
(……信仰が強まるのはいいが、これは過熱しすぎだな)
ミハエルは表面上は何食わぬ顔で祈るふりをしながらも、心の中で苦笑する。
だが、彼らの目的はここではない。
「……そろそろ行くぞ」
コンラートが小さく促す。
ニ人は礼拝堂の片隅にある、一般巡礼者の立入禁止区域へと足を向けた。
昼間とはいえ、神官や修道士の行き来は多く、そこに紛れられれば案外見咎められにくい。
石造りの廊下を進むにつれ、巡礼者の賑わいは遠のいていく。
代わりに、静けさと寒さが増していくようだった。
ミハエルは心の中で舌打ちする。
あまりに監視が薄いのも不自然だ——まるで「人を寄せ付けない雰囲気」があるかのように感じられた。
「……普通、こういう奥まった区画には衛兵がいると思うんだが」
コンラートも警戒を解かないまま呟く。
「それだけ都合よく誰かが目を逸らしてるか、あるいは……表向き何もないことにしてるってことだろうな」
ミハエルはフードの奥で薄く笑う。
「にしても怪しすぎる。ここまで堂々と来られるとは」
二人は足音を殺して廊下の先へ。
聞き耳を立てると、遠くから誰かの囁き声が聞こえた。
修道士か衛兵か、それとも異端審問官か——。
声が近づきそうになり、二人はとっさに壁際に身体を寄せる。
巡回の神官らしき二人が会話しながら通り過ぎていくのを、息をひそめてやり過ごす。
「危なかったな」
コンラートが安堵する間もなく、ミハエルは扉へ手をかける。
そこが司祭オスヴァルトの部屋だ。
「施錠はされていない。単なる病死として片付けられたのかね」
呟くと同時に、彼は慎重に扉を押す。
ギィ……。
扉が軋む音が妙に大きく響き、二人は一瞬だけ緊張の視線を交わす。
だが、廊下からの足音は聞こえない。
誰も気づいていないようだった。
部屋の中は埃っぽく、肌にまとわりつくような空気が漂っていた。まるで司祭が死んで以来、ずっと放置されているかのようだった。机の上には書きかけの文書、インク壺に放置された羽ペン。生活の痕跡はそのままに、時間が止まっているようにも見える。
「……争った形跡はないな」
コンラートが部屋を見回し、低く呟く。
「そういう手合いは毒でも使うんだろう。急な病死に見せかければ、誰も深く疑わないしな」
ミハエルはランプの弱い灯りを手で遮りながら、机や棚を調べる。
言葉の端々には皮肉が滲んでいた。
ふと、外の廊下で何かが動く気配がした。
軽い足音が近づいたかと思うと、ドアの前で一瞬だけ止まる。
——二人は視線を交わし、息を殺す。
ノブが回りかける気配……しかし、思い直したのか、足音は遠ざかっていった。
「……危ねえな」
ミハエルが鼻を鳴らし、軽く舌打ちする。
「さっさと証拠を探って消えるか」
コンラートも深く頷く。
やがて部屋の奥、隅にある小さな暖炉が目に止まった。
「おい、これ……」
コンラートが炉の中の灰を覗き込む。何かの紙片が燃え残っているのが見えた。
部分的に焦げた紙や革装丁の破片が積み重なり、形状を保つものもある。
焦げ跡を指先で払うと、まだ読めそうな手帳の一部がうずまっていた。
「誰かが、慌てて処分しきれなかったのか……」
ミハエルは手袋越しにそれを拾い上げる。
ページの大半は煤で汚れているが、かろうじて数行読める文字があった。
奇跡は作られたものだ。
しかし、それだけではない。
私は、この黄金の奇跡の裏に、さらに恐ろしいものを見た……
「……途中までで燃やされたんだな」
ミハエルが呟き、視線を炉の奥へやる。
「完全に処分する時間がなかったか、あとで回収するつもりだったか」
コンラートは歯を食いしばりながら暖炉を調べる。
もし誰かが戻ってくるなら、ここで見つかる可能性が高い。
時間はない。
「ともかく、それだけじゃ決定打には足りんな」
ミハエルは軽く手帳を捲り、読める部分を探る。
「まだ何かあるはずだ」
コンラートが机の引き出しを開ける。
書類や記録は整然と並ぶが、ぱっと見には何の変哲もない。
だが、彼は一枚一枚を急いで捲っていき——
底を軽く叩く。何やら妙に重い音が返ってきた。
「二重底か」
ミハエルが短剣を取り出し、器用にその板をこじ開ける。
すると、小さな手帳と一緒に、金色の鍵が転がり出た。
「……焦げ跡もない、こっちは綺麗だな」
コンラートがすかさず手に取り、ページを捲る。
そこには司祭の走り書きが──。
異端審問官たちは、神の名のもとに何かを隠している。
もし私が突然死んだとしたら、それは神の罰ではなく、人の仕業だ。
短い文章にこそ、彼の危機感が詰まっている。
ミハエルは低く笑い、さっと手帳を懐に仕舞った。
「……やれやれ、核心に近づいたってわけか」
「つまり、彼は奇跡に疑問を抱き、異端審問官の陰謀を掴みかけていた」
コンラートは腕を組み、思案げに言う。
「だが、すぐに殺された……これがその証拠か」
しかし、まだ決定的な裏付けはない。
沈黙が落ちた瞬間、廊下の足音が再び近づいてきた。しかも人数は増えているようだ。
ミハエルとコンラートは視線を合わせる。
「……まずいな。あまりここに長居するのは危険だ。撤退するぞ」
ミハエルは小声で同意し、部屋の乱れを最低限整え、速やかに扉へ向かった。
外へ出ると、遠くの廊下で修道士らしい集団が一瞬こちらを向いたが、二人のフードを深く被った姿を巡礼者か何かと思ったのか、そのまま通り過ぎていく。
ぎりぎりのすれ違いに、コンラートは胸を撫で下ろした。
「……ふう、危なかった。昼間にやるには、ちとスリルがありすぎたな」
ミハエルは軽く笑い、足早に巡礼者の列へ溶け込んでいく。
「異端審問官たちは、奇跡を演出しつつ、それを利用して何かを企んでいたという事か……」
コンラートの言葉にミハエルは再び手帳をめくり、淡々とした口調で続ける。
「だが、決定的な証拠に欠けるな」
もし手帳の内容が事実ならば——「奇跡の演出」は、異端審問官のさらなる目的のために仕組まれたものである可能性が高い。
奇跡の裏に潜む、さらに恐ろしいもの。
司祭はそれを知り、口を封じられたのだとしたら——。
ミハエルはコンラートの方を向いた。
「さて、次の手はどうする?」
「……この手帳と鍵をもとに、奴らの計画をさらに探るさ」
だが、それが静寂の前の嵐であることは、彼らにも分かっていた。
風に揺れる聖堂の影を横目に、二人は昼下がりの雑踏へと戻っていく。
手帳の先には震えた筆跡で、こう記されていた。
『これは……神の御業ではない』
「……どうやら、この神父は奇跡を信じていなかったようだな」
「奇跡を疑う者は、異端――か」
この街では何かが起きてる。
そして、それを知った司祭は消された——。
大聖堂の鐘が遠くで鳴り響く。
しかし、それが救いの音か、それとも罠の合図か——いまの彼らには判断がつかないまま、静かに人混みに紛れていった。




