4. 奇跡の裏に流れる金
会計局は、教会の財政を一手に担う機関であり、その権限は計り知れない。
信徒からの献金、巡礼地の管理、聖堂の維持費、異端審問官の活動資金、さらには各国貴族からの寄進や秘密裏の融資まで——教会のあらゆる金の流れを管理する要である。
教会組織は「信仰」の力によって支えられていると人々は信じている。
だが、信仰を維持するには莫大な資金が必要であり、その流れを司るのが会計局だ。
巡礼者が祈るために大聖堂を訪れる。その祈りを受け入れる神殿を支えるのは、金である。神聖騎士団が異端を討つ。その剣を鍛え、鎧を作り、遠征を支えるのも、金である。異端審問官が法の名のもとに裁きを下す。その裁きが成り立つのは、背後にある金の力だ。
奇跡ですら、金がなければ維持できない。
ただし、それを知る者は少ない。
※
セラフィム聖教会・会計局リューゲン支部。
リューゲン中央大聖堂の一角に構える、財務管理を司る組織の一つである。
大聖堂の外観は荘厳で、壮麗なステンドグラスが陽光を受けて輝いていた。しかし、その一角にある会計局の扉をくぐれば、そこに広がるのは別世界だった。
華美な装飾は最低限に抑えられ、無駄のない配置で書架や帳簿が並ぶ。外の喧騒が嘘のように静まり返り、聞こえるのは筆が走る音と、時折紙が捲られる微かな気配だけ。
この部屋にあるものは、すべて数字でできていた。
分厚い帳簿が机の上に並べられ、蝋燭の炎が静かに揺れている。
無数の数字の列が紙面にぎっしりと記され、その一行一行が、ただの取引記録ではないことを示していた。
市場の取引記録――不正な金貨流通の痕跡を探る。
エーレン・フロイデンは椅子に深く腰を落とし、ため息混じりに帳簿をめくる。
しかし、膨大なデータの海に沈み込む前に、早くも頭を抱えた。
「えーと……こういうのって普通、記録に残さないんじゃないですか?」
不正を行う者が、わざわざ証拠を帳簿に残すはずがない。
しかし、向かい側の男は書類を捲る手を止めずに、微かに鼻を鳴らした。
「それは素人の考えだ」
冷たい声が響く。
黒髪をきっちり撫でつけ、細縁の眼鏡をかけた端正な男。
リヒター・シュヴァルツ。
セラフィム聖教会会計局の頂点に立ち、教会の財務を一手に握る男。
彼は黒檀のデスクの向こうで書類を捲りながら、視線を上げることなく淡々と筆を走らせていた。
整然とした額縁の中に収められた肖像画のような男——完璧に整えられた装い、隙のない姿勢、そして決して感情を揺るがせることのない無機質な瞳。
その双眸は、まるで紙面の数字の羅列すらも疑うかのように鋭い。
彼の前に広がる帳簿は、誰にとってもただの数字の海かもしれない。
しかし、リヒターにとって、それは「教会の血流」だった。
彼は無駄な動きを一切せず、ペンの先で帳簿の一角を軽く叩いた。
「むしろ、記録を消した痕跡こそが証拠になる。消えた金の穴埋め、不自然な取引の増減、そして……焦って誤魔化した形跡」
静かな声が、まるで確定した結論を突きつけるように響いた。
エーレンは思わずゴクリと喉を鳴らす。
「帳簿は、細工されたものほど語るものが多い」
リヒターの冷徹な声が響く中、エーレンは震えながらも書類をめくった。
帳簿の紙は古びており、淡いインクの記録が並んでいる。
市場での金貨の流通記録――日付ごとに詳細な取引が記され、売買の履歴が一覧になっていた。
最初の数ページは、特に異常は見当たらない。
定期的な取引が淡々と記録され、商人たちが帝国通貨や銀貨をやり取りする一般的な取引ばかりだ。
「……やっぱり、こんな簡単には出てこないか」
エーレンが小さく息を吐いたその時、リヒターが無言で手を伸ばし、ページを数枚めくった。
「ここを見ろ」
指で示されたのは、数日前の市場取引の記録だった。
通常の金貨流通のパターンとは異なる、大量の取引が記されている。
さらに、それらの金貨が一度に市場に流れ込んだ日付を辿ると――奇跡が起こった前夜。
エーレンの指が小さく震えた。
「……これは……」
思わず言葉を飲み込む。
リヒターは静かに書類を指で弾き、淡々と続けた。
「市場に流れた金貨の供給元……全員が教会関係者だ」
「そんな……まさか……」
エーレンの手が汗ばむ。
「まさか?」
リヒターの声は、淡々としていた。
「市場に出回るはずのない備蓄資産が、どこからともなく現れた。奇妙な話だと思わないか?」
「えっ……」
目を凝らしながら、別の帳簿を引っ張り出し、取引の流れを照らし合わせる。
市場には、一夜にして異常な数の金貨が放出されていた。
しかも、それが「商人同士の取引」ではなく、特定の供給元から流れ込んでいたことが明らかになった。
供給元の欄には、ある共通点があった。
――教会関係者。
「……」
額に汗が滲む。
市場で流通する金貨の供給元には、聖職者の名がいくつも並んでいた。
それも、教会の財務に関与する立場ではなく、司祭や修道士――本来、金貨を大量に扱うはずのない者たちだった。
「教会関係者を……経由してる?」
エーレンは震える手でページをめくる。
さらに別の帳簿と照合すると、奇妙な事実が浮かび上がった。
金貨の中に、「流通しないはずの教会の備蓄資産」と同じ刻印が押されているものがある。
それを確認した瞬間、エーレンはゾクリと背筋を凍らせた。
本来、教会が備蓄する金貨は流通には使われない。
それは、財務管理のために保管されるものであり、表には出せない用途として使用されたりする事はあるものの、基本的には準備資金として蓄財されるものだ。
それは市場に出回ることなど絶対にないはずなのに――なぜか、それと同じ刻印を持つ金貨が、流通していた。
リヒターは何も言わず、書類を指で弾いた。
「そうだな」
彼の視線は冷たい。
エーレンの喉が乾いた。
市場に流れた金貨の真相――
それが、「奇跡」の裏側と繋がっているのではないかという疑念が、はっきりと形を成した。
奇跡の前夜に放出された金貨。
流通経路には教会関係者が絡んでいる。
出所は、本来流通するはずのない教会の備蓄資産。
「……さて、これをどう考えるか」
エーレンは青ざめた顔で、リヒターを見上げた。
「これ……マジで教会の隠し財産じゃないですか?」
震える声が部屋に響いた。




