3. 聖なる奇跡の裏
重厚な扉の奥、静謐な空気が満ちる一室。
そこには、巨大な書架と長い会議机、そしてその奥で書類に目を通す一人の青年がいた。
ユリウス・フォン・リヒテンフェルス。
セラフィム聖教会、最年少の枢機卿。
白磁のような肌、絹のごとく滑らかな金の髪、そしてその青い瞳には、まるで星の光すら映らない冷徹さが宿っていた。
ペンの先が書類の端を弾く。
淡々と、まるで日常の一部のように記された報告書の数々。
そこに記されているのは――リューゲンで起こった奇跡の経過報告。
「リューゲンの状況は?」
静かな問いかけ。
まるで湖面に石を投じるかのような、ささやかながらも確実に波紋を生み出す声だった。
その声に応じたのは、一人の壮年の男だった。
黒い衣に身を包み、堂々とした体躯を持つ異端審問官。
バルド・フォン・バルトハイム。
ユリウスの右腕として、異端審問官をまとめ上げる男。
40に届くかどうかの年齢ながら、冷静でありながらも冷徹に振る舞える、現場を知る実直な男。
彼はユリウスに敬意を払いつつも、彼の手腕には一抹の警戒心を抱いていた。
バルドは深く一礼し、報告を始める。
「信者たちは熱狂しています。じきに奇跡を疑う者たちは小数になって行くでしょう。異端審問官たちも、信仰の名のもとに動くことに迷いはありません。すでに幾人かの異端者を捕まえています」
ユリウスは書類をめくる手を止めずに、淡々と頷く。
「では、信仰の再構築は、計画通りに進んでいると見ていいのですね?」
「はい。しかし……」
バルドは慎重に言葉を選び、少し間を置いた。
「神聖調査官が動いています」
その言葉に、ユリウスの指がピクリと動く。
彼は書類をめくる手を止め、初めてバルドへと視線を向けた。
「……名前を」
「ミハエル・フォン・ヴァイセンブルク。そして、神聖騎士団からコンラート・ハインリヒ・フォン・アイゼンシュタイン」
ユリウスのまつげがゆっくりと伏せられ、次いで静かに上がる。
まるでこの名前を聞くのが、予定調和であったかのような冷静さ。
だが、彼の目の奥にはかすかな興味が見え隠れしていた。
「なるほど」
「彼らは、すでに聖者像を調査し、奇跡の細工を疑っています。しかし、証拠はまだ完全に掴めていません。とはいえ、放置すればやがて……」
「そうでしょうね。しかし、計画はそのまま進めてください」
ユリウスはゆっくりとペンを置いた。
彼の指が、一枚の書類の隅を軽く弾く。
その書類には、リューゲンの現状が細かく記された調査報告が載っていた。
「あなたにリューゲンへ向かっていただきます」
バルドは一瞬、目を細めた。
「……異端審問官を、どこまで動かせばよろしいのですか?」
「動かしすぎないことです。無駄な波を立てるのは得策ではありません」
ユリウスは、まるで教典の一節を暗唱するように淡々と言った。
バルドは一礼しながらも、心の奥に小さな棘のような違和感を覚えた。
ユリウスは決して「排除しろ」とは言わない。あくまで「牽制しろ」
つまり、ミハエルたちがどこまで掴んでいるかを見極め、必要なら次の手を打つということだ。
バルドはもう一度深く一礼し、静かに部屋を辞した。
扉が閉まると、ユリウスはゆっくりと目を閉じる。
「神聖調査官……興味深い」
静かに呟きながら、ユリウスは机上の書類をひとつ手に取った。
そこには、ミハエル・フォン・ヴァイセンブルクの名前が記されている。
「さて……どこまで進めば、彼らは気づくのでしょうね?」
ユリウスの唇が、わずかに微笑を描いた。
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