メタ(X面)
『トリックスター』
小鳥遊瑠香は一貫してキャラクターであり続けた。
自身が生を受けた世界とは異なる世界でかつての人生を全うしたこと、以前の世界において眼前の世界は作り話として観測されていたこと。それらの事実が、未だ幼かった小鳥遊瑠香の内部に一挙に流れ込んだ結果、彼女の自我は崩壊しかけた。
やがて再構築された人格は、彼女の知識として存在する「小鳥遊瑠香」というキャラクターを基盤としたものであった。好奇心旺盛で天真爛漫。それまでの内気な性格とは真逆の性質を見せるようになった彼女を、しかし彼女の両親は良い変化であると認識し、むしろ歓迎の意さえ示した。
嬉々として素晴らしい「成長」だと語り笑いかけてくる両親に、小鳥遊瑠香は人懐っこい笑みと戯れの抱擁で応えていた。だが、ひとたび自室へと籠ると、彼女は枕に顔を埋めながら声を押し殺して涙を流した。
すでに後には引けなくなっていた。自分ではない虚構を演じ、平面的な記憶を辿っては、それに沿った行動を機械的に、かつ不自然に見られないようにこなす日々。空白の日常部分でさえ、整合性を損なわないために「小鳥遊瑠香」として過ごすことを己に課した。
ある時、小鳥遊瑠香は恋をした。しかしその人物は彼女の記憶にある「運命」に沿う相手ではなかった。想い人の隣に自分ではない誰かがいて、両者が仲睦まじく腕を組んで歩いている様子を目の当たりにした日、抑え切れない絶望を抱えた小鳥遊瑠香は、久方ぶりに声を上げて激しく泣いた。
彼女の境遇を正しく理解し慰めてくれる者は、誰もいない。ただ、開け放たれ自室の扉だけが、取り繕う余裕さえなくした彼女の悲鳴が、これまでの彼女の努力を無に帰してしまうことがないようにと、パタリと小さな音を立てて閉まった。
のちに、小鳥遊瑠香と極類似した背景を持つ人間が、少なくとも同世界に2人は存在することが判明した。
1人目の名を前園華恋、2人目の名を渡辺陽菜という。小鳥遊瑠香のケースほど鮮明ではないにしろ、彼女達も自身の前世や作り話としての現世界に関して、ある程度は自覚的であるようだった。
前園華恋は、前世としての人格に回帰し、現世界をフィクションと割り切り生きることを選択していた。一方で、朧げな一部の記憶を取り戻すに留まったと見られる渡辺陽菜は、多少の違和感を抱えつつも、単なる現世界の住人として生活をしていた。
彼女達はいずれ、小鳥遊瑠香の理解者となる可能性を秘めている。
世界の気まぐれだろうか。渡辺陽菜の周囲に限定して因果律が捻れ始めた。
渡辺陽菜の幼馴染である少年、芳賀玲央には、同級生らに熱心な支持者達がいた。
親衛隊と名乗る組織で密かに活動していた彼女達だったが、ある時を境に、組織内の人員がひとり、またひとりと、文字通り天啓を受け始めた。彼女達に根深く植え付けられたのは、「芳賀玲央と親しくする渡辺陽菜を、徹底的に制裁せねばならない」という強迫観念。
次々に伝播していく不可解な使命感に精神を蝕まれていった彼女達は、ついにそれを実行しようと試み、渡辺陽菜を呼び出すに至った。
けれども世界の思惑は呆気なく打ち壊された。渡辺陽菜自身が、対話を通して支持者達に正気を取り戻させたのだ。
元来、管理者らが人間に接触することは禁忌とされている。にも関わらず、世界は、間接的とはいえそれを犯した。さらに言えば、人間界の因果律を定めた世界自らが、敢えてそれを破壊したのだ。
より正確には、「小鳥遊瑠香が親衛隊に制裁される」という筋書きだったものが、「渡辺陽菜が親衛隊に制裁される」というものに書き換えられたのだ。前者の方は、小鳥遊瑠香が再現しようとするシナリオに世界が合わせたものであったはずだ。
では何故、世界は筋書きを改めようとしたのか。
恐らく、世界は小鳥遊瑠香に退屈してしまったのだ。
これまで小鳥遊瑠香が執着するシナリオ通りに世界が動いたのは、一度や二度ではない。だからこそ、彼女は「小鳥遊瑠香」を維持することに強くこだわっていた。
しかし、小鳥遊瑠香と世界の暗黙の蜜月は、無機質な行動ばかりする彼女を、刺激を期待していた世界が見限ったことで、緩やかに終わりを迎えた。世界は「予知している運命に抗う者」を生み出したかったのだ。己の意志を殺している小鳥遊瑠香は、その願いにそぐわなかった。
かくして、世界はもうひとりのイレギュラーである渡辺陽菜に接触し、因果律を捻じ曲げた。変更点が消滅したことに関しては落胆させられたに違いないが、渡辺陽菜は結果として意図せずとも「運命に抗った」のだから、世界の欲求は概ね満たされたともいえる。
渡辺陽菜はその後も、自らの意志で道を選び続けた。対する小鳥遊瑠香には変化は見られない。
「小鳥遊瑠香」であり続けることが彼女の望みなのだ。世界もそれを悟ったのだろうか。
人間でなくとも情はあるものだ。
小鳥遊瑠香が最も意識していた高等学校での生活を開始すると、再び世界は彼女のシナリオ通りに展開し始めた。彼女の布石を無駄にさせるには、世界は小鳥遊瑠香を見守りすぎていた。
ある程度、想定内ではあったが、小鳥遊瑠香は渡辺陽菜や前園華恋の前でも「小鳥遊瑠香」を崩さなかった。渡辺陽菜との交流を深めることよりも、前園華恋の介入で未遂となった「運命」の相手との出会いのために階段を駆け下ることを優先したのが、最たる証拠だ。
小鳥遊瑠香が変わることはないのだ。いつしか目線は彼女から離れ、代わりに渡辺陽菜の周辺に向くようになった。世界が苦笑する気配を感じた。
*****
渡辺陽菜は生きている。彼女と共にいる者達もまた、生きている。
彼女に魅せられたのは世界だけではなかった。やはり道を切り拓く者は美しい。
小鳥遊瑠香は、随分と遠くなってしまった。
*****
とてつもない異変が起こっている。そう漠然と気付いた時、間髪入れずにひとりの人間を辿った。
小鳥遊瑠香が屋上のフェンスを登り切って、外側の狭い足場へと着地していた。屋上には彼女しかいない。校内の人間を呼び寄せたところで、間に合う保証はない。
華奢な脚が、空中を歩こうとした。
一瞬のことだった。
小鳥遊瑠香は誰にも気づかれず、独り静かに地面へ向かって落下していった。表情は晴れやかだ。
これが彼女の選択だった。最初で最後の、「小鳥遊瑠香」ではなく小鳥遊瑠香としての、選択。それは喜ばしいことだ。それは尊重されるべきだ。
そしてそれは、何者にも止められない。
本当に?
ーー時間がなかった。
「ようやく私を見てくれましたね、神様」
腕の中の少女は、どろりと瞳を溶かした。
「私、知っていましたよ。小さい頃から、神様がずっと私のそばに居て下さったこと。だから思う存分、泣き顔を晒せたんです。けれど、中学の頃から少しずつ、私から離れていってしまったことも知っています。私以外の人間に神様が視線を注いでいると思うと、嫉妬でどうにかなりそうでした。それでも耐えて、自分の役割を全うし続けました。なのに依然として、神様は違う子を見ていて、悲しかったです」
小鳥遊瑠香は瞬きさえ惜しみ、眼前のすべてを脳裏に焼き付けようとしていた。
「だから、ねぇ、神様。お願いですから、もう二度と私から目を離さないで下さい。そうじゃないと、私、」
死んでしまいます。
崇拝と恍惚と執着を孕む彼女の独善的な相貌は、何にも優って、一等に美しかった。