第2話:240億人の記憶と、閑職部長の父
アルムが差し伸ばした手から、不可視の微細なナノマシン群が光の波動となって猪俣課長の体内へと浸透していった。
「な、なんだ……!? 肩が……急に軽くなって……胃のムカムカも消えた……?」
猪俣は自分の肩を回しながら、狐につままれたような顔で絶句している。長年の不摂生とストレスでボロボロだった彼の内臓機能が、アルムの放った『ナノバイタルオブジェクト』によって一瞬で健常化されたのだ。
「体が健康になれば、心にもゆとりが生まれます。もう誰かを威圧したり、不当に虐げたりする必要はありませんよ、猪俣課長」
「あ……あ……」
圧倒的な存在感と、すべてを包み込むような慈愛の眼差し。
猪俣は恐怖とも感謝ともつかない感情に打ち震え、逃げるように病室のドアを飛び出していった。
その背中を静かに見送ったあと、アルムは病室の大きな窓へと歩み寄った。
窓の外に広がるのは、排気ガスとビル群が沈む2026年・東京の街並み。
(2026年……。カルダシェフ・スケールType 0.7の原始世界か)
アルムの脳裏に、彼が80年間の人生を過ごしたもう一つの故郷――西暦2326年の光景が色鮮やかに蘇る。
太陽系のハピタブルゾーン(生命居住可能領域)の同じ軌道上に、見事な正三角形を描いて並ぶ三つの緑豊かな人工惑星。
テクノロジーの極致によって病や貧困はもちろん、「寿命」という概念すら克服され、240億人の人類種が互いに慈しみ、高め合いながら暮らしていた。
全エネルギーはフリー。誰も何かを「奪う」必要などなく、自らの知恵と愛を「分かち合う」ことが当たり前の理想郷。
アルムはその世界で、無限エネルギーを生む『ナノアークリアクター』と、次元間波動演算システム『DW-QCS』を管理統括する最高峰のエンジニアとして大往生を遂げたのだ。
(なぜ僕はこの時代に引き戻されたのか……。それは、この2026年こそが、人類が『分かち合う未来』へ進むか『奪い合って滅ぶディストピア』へ向かうかの、最大の分岐点だからだ)
DW-QCSの演算結果が、地球の危機的未来の可能性を弾き出している。
だが、今のアルムにはそれを正しき道へと誘う知識と力がある。
その時――病室のドアが、遠慮がちにコトコトと鳴った。
「アルム……? 猪俣が慌てて走り去っていくのが見えたが……大丈夫か?」
入ってきたのは、アルムの父親である縦溝 巌だった。
かつては頼もしかった父の姿は、見る影もなくやつれていた。
過酷なストレスによる胃潰瘍で顔色は土気色。頭頂部は寂しく禿げ上がり、数年前に妻(アルムの母)に逃げられてからは、散々な生活を送っている。
何より切ないのは、同じネクスト・ソリューションズに勤めていながら、父の肩書きは「部長」という名の完全な閑職であることだ。
部下もつけられず、社内の冷たい視線に晒されながら、ただじっと耐え忍ぶ毎日を過ごしていた。
「父さん……」
アルムは胸の奥から込み上げる温かい感情とともに、深く声をかけた。
現世での過労死寸前の自分を、仕事をしながら毎日病院へ通い、不器用に見守り続けてくれたのはこの父親だった。
「すまないな、アルム……。部長なんて威張った肩書きをもらってはいるが、実際は窓際で何もできない閑職だ。情けない父親のせいで、お前にまで会社で無理をさせてこんな目にあわせてしまって……。胃が痛くて、庇ってやることもできなくて……」
巌は力なくうなだれ、自分の不甲斐なさに目元を濡らした。
アルムはゆっくりと歩み寄り、父の細くなった肩を力強く、そして優しく抱きしめた。
「謝らないでよ、父さん。感謝しているのは僕の方だよ。僕を今日まで育ててくれて、倒れた僕をずっと心配して支えてくれて……本当にありがとう」
「アルム……?」
「これからは、僕が父さんを支える番だ。長年の苦労を、今ここで終わりにしよう」
(『ナノバイタルオブジェクト』――父親へ限定展開)
アルムの手のひらから溢れ出た温かな光の波動が、巌の身体へと直接浸透していく。
「ん……!? なんだ、急に胸のあたりが温かい……!?」
巌の胃を苛んでいた激しい刺すような痛みが、一瞬にして綺麗さっぱり消え去った。
それだけではない。長年のストレスと不摂生で荒れ果てていた内臓組織が急速に修復され、血流が全身へと勢いよく巡り始める。
さらにアルムは、DW-QCSの遺伝子プロトコルを用いて、父の頭頂部の毛根細胞へアプローチした。眠っていた細胞が一斉に目覚め、超高速で細胞分裂を開始する。
「え……!? な、なんだ!? 頭がムズムズ、熱くなって……!?」
「父さん、洗面台の鏡を見てごらん」
パニックになりかける父を促し、アルムは洗面台へと案内した。
鏡の前に立った巌は、自分の姿を目にして絶句した。
そこに映っていたのは、疲れ果て、自信を失った冴えない中年男ではない。
胃の痛みが消えて肌には若々しいツヤが戻り、背筋がすっと伸び――そして何より、寂しかった頭頂部に、黒々と健康的で力強い髪の毛が勢いよく蘇っていたのだ!
「な、ななな……なんだこれはぁっ!? 夢か!? 胃が全く痛くないどころか、髪が……私の髪が元通り以上に……!?」
頭を何度も撫で回しながら呆然とする父親に向かって、アルムは頼もしく、最高に爽やかな笑みを向けた。
「未来の知恵で、少し『修正』させてもらったんだ。父さん、もう閑職で耐え忍ぶ必要もないし、あのブラック企業で無理に働く必要もないよ。僕たちの手で、あの会社ごと……ううん、この世界を『与え合う世界』に変えていこう」
巌は涙をポロポロとこぼしながら、蘇った力強い手で我が子の手をしっかりと握り返した。
「アルム……お前、本当に私の息子か……? だが、ありがとう……! なんだか、長年の重荷がすーっと降りた気がするよ……!」
病室を包む、温かな親子の絆。
未来の240億人を導いた伝説のエンジニアと、若々しさと活力を取り戻した父・巌。
最強の親子の「世界健全化計画」が、ここから本格的に始動する――!
(第3話へ続く)




