第1話:未来からの還流
「おい、縦溝! いつまで病院のベッドでタダ飯食ってんだ。会社はな、お前のサボりを許すほど甘かねえんだよ!」
耳の奥で、耳鳴りのように不快な声が響いていた。
縦溝アルムはゆっくりと目を開ける。
視界に飛び込んできたのは、安っぽいビニール革のパイプ椅子と、そこに横付けに座って唾を飛ばしている男の顔だった。
薄くなった頭頂部、派手なブランドもののネクタイ、そして人を見下すことに慣れきった卑屈な目つき。かつてアルムが勤めていたブラックIT企業「ネクスト・ソリューションズ」の課長、猪俣だ。
(……猪俣……? なぜ、彼がここにいる……?)
アルムの脳内で、膨大な情報が一瞬にして、超高速で交差する。
記憶の整理に要したのは、時間にしてわずか0.0001秒だった。
アルムは確かに、死んだはずだった。
西暦2266年から2326年――。
カルダシェフ・スケールType 2.0を超越した未来社会。
太陽系の生命居住可能領域には、同じ軌道上に正三角形を描いて並ぶ三つの美しき惑星が存在し、実に240億人もの人類種が病も貧困も、そして「寿命」すら克服して楽しく穏やかに暮らしていた。
全エネルギーは完全なフリーとなり、他者から奪い合う必要など一切ない、与え合いと分かち合いの理想世界。
アルムはその世界のトップエンジニアとして、社会インフラの統率と、太陽系規模のエネルギーを制御する『ナノアークリアクター』、そして次元間波動演算システム『DW-QCS(ディメンジョン・ウェーブ クォンタムカリキュレーションシステム)』の管理運用を担い、80歳という(あの世界では)あまりにも若い年齢で病院のベッドの上で大往生を遂げたはずだった。
しかし、目覚めた今、彼の体は20歳。
過労と劣悪な労働環境で倒れ、リハビリもままならないまま入院していた、あの暗黒の時代――「2026年」の自分へと引き戻されていたのだ。
(そうか……。2026年。カルダシェフ・スケールType 0.7の、まだホモ・サピエンスが泥沼の奪い合いを繰り広げている原始世界か……!)
AI兵器が戦場で人の命を脅かし、エネルギー資源を巡って争い、一部の人間が他人を搾取する。良い未来へ進むか、それとも絶望のディストピアへと転落するか――まさに地球文明にとって最大の「分岐点」である瀬戸際の時代。
「聞いてんのかアルム! 医師がなんと言おうが関係ねえ。お前が抜けた穴のせいで現場は大炎上してんだよ。明日退院手続きをして会社に来い。車椅子だろうが何だろうが、キーボード叩く指さえ動けば働けるだろ!」
猪俣はパイプ椅子を蹴るようにして立ち上がり、アルムのベッド脇に詰め寄ってくる。
アルムは自分の細く、点滴の痕が痛々しく残る腕を見つめた。
過労で筋肉は落ち、近視で視界はぼやけ、内臓はストレスでボロボロだ。現世の「縦溝アルム」は、今まさにこの劣悪な環境と理不尽な圧力に押し潰されようとしていた。
(なるほど……精神だけでなく、未来で統合していた『あのシステム』もまた、僕の魂とともに現世へ還流したということか)
アルムの意識の深層――思考の根底に組み込まれていた量子演算プロトコルが、静かに、しかし圧倒的な輝きを放って起動のサインを上げる。
**『ナノアークリアクター――超局所展開』**
**『DW-QCS(ディメンジョンウェーブ ・クォンタムカリキュレーションシステム)――現世システムへ同期完了』**
アルムの全細胞へ向けて、未来の生体医療技術『ナノバイタルオブジェクト』が瞬時に駆け巡った。
「おい! 無視してんじゃねえぞ、この役立たずが!」
猪俣が苛立ちを露わにし、アルムの病着の胸ぐらを掴もうと手を伸ばした、その瞬間だった。
アルムの体内で、劇的な「進化」が巻き起こる。
ナノバイタルオブジェクトが衰弱していた全身の筋繊維を最適化し、一瞬で高密度な筋肉構造へと再構築していく。歪んでいた骨格が正され、ボロボロだった胃腸や内臓の機能低下が完璧に補正された。
視覚神経は超解像度で再設計され、ぼやけていた世界が息をのむほど鮮明に色づく。眼鏡など、もはや何の意味もなさない。
何より――『DW-QCS』との同期により、脳漿が透き通るように澄み渡り、知性と演算能力が次元を超えて跳ね上がった。
ひょろひょろだった肩幅はがっしりと肉付き、胸板は厚く膨らみ、病的だった顔つきからは影が消え去って、凛とした自信と底知れぬ胆力がみなぎっていく。
「な……な、んだ……!?」
手を伸ばしかけた猪俣が、思わず息を呑み、引きつった顔で半歩後ろ退さった。
目の前の男が、わずか一瞬で「別次元の存在」へと変貌したかのような強烈な威圧感を放ち始めたからだ。
アルムはベッドから静かに脚を下ろした。
点滴の針を躊躇なく抜き去り、ゆっくりと立ち上がる。背筋は隙なく真っ直ぐに伸び、猪俣を遥か上から見下ろす格好になった。
「猪俣課長」
アルムの声は、以前のおどおどしたトーンとはまるで違っていた。深く、静かで、部屋の空気そのものを振動させるような重厚な響きを持っていた。
「私の体調をご心配いただき、ありがとうございます。ですが、貴社の劣悪な労働環境と、不当な業務命令に従うつもりは、もうありません」
「な、何を言っていやがる! お前みたいな役立たずを雇ってやったのはウチだろうが! 会社を辞めたら路頭に迷うぞ!?」
猪俣は威勢を張ろうと怒鳴り散らすが、その声はかすかに震えていた。
アルムの瞳の奥に見える、圧倒的な知性と余裕。それはまるで、人類の歴史のすべてを俯瞰し終えた先人に見つめられているかのような恐怖を猪俣に与えていたのだ。
アルムはふっと柔らかく微笑んだ。
その笑顔には、争いを過去のものとした未来人の慈愛と、ほんの少しの悪戯心が混ざっていた。
「路頭に迷う? いいえ。これからの世界は『奪い合う』ものではなく、『与え合う』ものになるんです。……私がそう変えますから」
未来の記憶には、無限の出力を叩き出す『ナノアークリアクター』の構造式も、あらゆる次元の情報を瞬時に解析する『DW-QCS』の運用ノウハウも、すべて刻まれている。
紛争、貧困、搾取、そしてブラック企業。人類を苦しめる愚かな過ちの分岐点を、今この瞬間から正してみせる。
「まずは……あなたのその酷い肩凝りと、不摂生による肝機能の低下から治してあげましょうか。少しムズムズしますよ?」
「ひっ……!? な、なにを――」
怯える猪俣を前に、アルムは未来の知恵を宿した手をそっと差し伸ばした。
カルダシェフ・スケールType 0.7の「原始的で奪い合う現代」を、未来の技術と無限のエネルギーで塗り替える――。
縦溝アルムの現世再始動が、今ここから始まった。
(第2話へ続く)




