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第9話 そこにいるかもしれない

 その夜、恒一はなかなか眠れなかった。


 甲殻の獣の肉を食べてから、腹の奥に熱が残っている。


 痛みでも、吐き気でもない。久しぶりの食べ物を、身体が受け止めようとしているような熱だった。


 それでも、ここは地球ではない。


 恒一は舌と喉、呼吸に変化がないことを確かめた。


 火は石の囲いから外へ出ていない。太い枝を足すのはやめ、赤く残った部分へ灰を薄くかぶせた。


 朝まで熱が残れば十分だ。


 水を手元へ置き、杖を抱えるようにして仮小屋へ横になる。


 目を閉じると、まぶたの裏に橙色の揺れが残った。


 五日前まで眠る前に見ていたのは、スマートフォンの光だった。いまは火だ。


 やがて呼吸が深くなる。


 白い少女は、焚き火の向こう側から仮小屋へ移った。


 恒一の額へ手を伸ばす。


 細い指先から流れた水が、汗の残る皮膚へ薄く広がった。


 水は布を巻いた左腕、右の脇腹、葉と蔓で覆った右の脛へ順番に触れた。


 いつもならすぐ少女の指先へ戻る水が、その夜は皮膚の上へ長く残った。


 この世界の水と実で四日をつなぎ、五日目には獣の肉を食べた。傷へは、少女の水が何度も触れている。


 何か一つではなく、小さな積み重ねが生んだ変化だった。


 その境目を、恒一も少女も知らない。


 眠りの浅いところで、恒一は額に冷たいものを感じた。


 水滴でも濡れた布でもない。誰かの手のひらを当てられているような、形のある冷たさだった。


 うっすら目を開く。


挿絵(By みてみん)


 仮小屋の入口から消えかけた火が見える。そのほかには、何もない。


 恒一は額へ自分の手を当てた。


 少し湿っている。


「……夢か」


 小さく呟き、もう一度目を閉じる。


 白い少女は引っ込めかけた手を止め、自分の指先を見た。


 それから恒一の顔を見つめ、今度は触れずに枕元へ座った。


     ◇


 この世界で迎える六度目の朝。


 恒一は目を開けると、すぐには起き上がらなかった。


 舌と喉、呼吸を確かめる。腹痛も吐き気もなく、皮膚にも変化はない。


「夜の間に、目立った異常はありませんでした」


 灰色のRECへ報告してから、身体を起こす。


 左腕の布を少し緩める。傷は消えていないが、周囲の赤みは昨日より引いている。


 右の脛も、歩くたびに走っていた鋭い痛みが鈍いものへ変わっていた。


 休息か、手当てか、自分には見えない何かの影響か。理由は決めず、昨日より動かしやすいという事実だけを残した。


 石の囲いへ向かい、灰を細い枝で退ける。


 奥に、小さな赤い点が残っていた。


 乾いた樹皮を近づけて息を送り、細い枝を重ねる。煙の奥から、小さな炎が戻った。


 昨日のように一から木を擦らずに済んだ。


 恒一は昨日焼いた脚から、昨夜より少し多い肉を取った。


 匂いと色を確かめ、もう一度火のそばで十分に温める。


 赤い実も一粒、水で洗った。


 残り二粒。


 温めた肉と赤い実と水。器も皿も、味付けもない。


 それでも、初めて朝食らしいものに見えた。


「……いただきます」


 焚き火の向こうで、白い少女の唇も同じ形に動く。


 恒一には見えない。


 肉を一口ずつ噛み、間に水を飲む。最後に赤い実の酸味が口へ広がった。


 満腹にはならないが、食べ終えてすぐ空腹に身体を引かれる感覚は薄れていた。


 食後に傷を洗い、水を補充し、火へ入れる枝を拾う。仮小屋の葉を戻し、燻している肉を確かめる。


 一つずつ終えるうちに、恒一は妙なことへ気づいた。


 昨日までは、目を開けた瞬間から次に死なないためのことだけを考えていた。


 今朝は違う。


 決まった順番で火を育て、水を飲み、食べ、傷と小屋を確かめている。


 暮らしている、と呼べるほどではない。それでも、ただ生き残った朝とは少し違った。


     ◇


 甲殻の獣の肉が、あと何日保つかは分からない。


 夜の間に冷えていても、保存方法として当てにはできない。同じものを食べ続ける影響も分からなかった。


 恒一は、以前見つけた水場を思い出した。


 浅いところを走る、小さな魚の影。


 手ですくおうとしても逃げ、追えば水を濁らせて体力を失う。


「今日は、魚を捕るための道具を作ります」


 RECへ目的を残す。


「捕れるかどうかは、まだ分かりません」


 使うのは、細く曲がる枝と蔓だった。


 枝は一本ずつ曲げて確かめる。乾きすぎれば割れ、太すぎれば籠の形にならない。


 使えそうな枝を選び、円を作るように端を重ねる。


 その輪へ数本の枝を渡し、蔓を上下へくぐらせて留めた。


 目指すのは細長い籠だ。入口には、先へ行くほど狭くなる形の枝を内側へ向ける。


 魚が入ったあと、同じ場所から出にくくするためだった。


 動画で見た記憶はあっても、実際に編んだ経験はない。


 蔓を締めれば輪が歪み、緩めれば枝が外れる。片方を押さえると、別の場所が跳ね上がった。


「手が、もう一本ほしいな」


 独り言を漏らしたとき、左肩の近くだけがひやりとした。


 風は正面から吹いている。


 肩へ手を当てる。服は濡れていない。


 振り返っても、大木の根と積み上げた葉しか見えなかった。


 白い少女は、恒一の左肩越しに籠を覗き込んでいた。


 恒一が振り返るより少し早く、少女は背後へ回った。冷たさも消える。


「……風か」


 恒一は作業へ戻った。


 その言葉を、自分で信じきれないまま。


     ◇


 昼を過ぎても、籠は完成しなかった。


 外側はどうにか形になったが、入口の細い枝が安定せず、水へ入れれば外れそうだった。


 恒一は無理に仕上げず、使える枝と蔓を余分に集めた。


 甲殻の脚の殻に残っていた、食べにくい肉も少しだけ葉へ包む。


 罠へ入れる餌にするためだ。食べ物を捨てる余裕はないが、指先ほどの肉で魚が捕れるなら試す価値はある。


 NEXT LIVEの数字が一時間を切る頃、恒一は水を飲み、仮小屋の入口へ座った。


 右手の指には疲れがあり、左腕も朝より重い。LIVE中の補正だけを当てにして動き続けるつもりはなかった。


 籠を膝の前へ置き、どこを直すか頭の中で順番を決める。


 地球側へ見せ、十五分後に届く助言から理由のあるものを選ぶ。それから水場へ運ぶ。


 今日は、遅れて届く言葉を使う時間がある。


 ――00:00:03。


 ――00:00:02。


 ――00:00:01。


 灰色のRECが消えた。


 視界の右上へ、赤い点が灯る。


 ――LIVE。


 ――残り時間 59:59。


 同時視聴者数はゼロから増え、昨日の最後に見た二十七人を越えて、二十九人で止まった。


「こんばんは。ポチです」


 恒一は、作りかけの籠を持ち上げた。


「異世界生活、六日目。今日も生きています」


 地球側では、白い文字が流れ始めた。


『生存確認』


『今日は工作配信か』


『幽霊ちゃんも籠を見てる』


 その文字は、まだ恒一へ届かない。


「昨日食べたものについて、夜の間に目立った異常はありませんでした。今朝は量を少し増やしています」


 籠の外側と、入口を順番に映す。


「水場にいた魚を捕るための罠です。細い枝を籠にして、入口だけ内側へ狭くするつもりです」


「作った経験のある方は、直す場所を短く送ってください。理由もお願いします」


 地球側から答えが返った。


『入口の枝が長すぎる。魚が通る前に塞がる』


『本体と入口を別に作って最後につなぐ方が直しやすい』


『流されないよう岸にも結べ』


『餌は奥へ固定しないと入口から取られる』


 恒一は、自分の手順で作業を始めた。


     ◇


 残り五十五分。


 入口の枝を外側の籠から外し、小さな輪へ並べ直す。


 右手で蔓を引き、左手で枝を押さえる。


 最後の一本を差し込もうとすると、反対側が浮いた。


 膝で押さえようと身体を傾ける。


 その前に、右手のすぐ横が冷たくなった。


 朝、左肩に感じたものと同じだ。風ではなく、指三本分ほどの狭い範囲だけが冷えている。


 白い少女が、跳ね上がろうとする枝へ手を重ねていた。


 透き通った指の下で、水が薄い膜となって枝を包む。


 恒一には見えない。ただ、浮いていた枝がわずかに動きにくくなった。


挿絵(By みてみん)


「……?」


 右へ目を向ける。


 そこには余った蔓と枝しかない。冷たさは数秒で消えた。


 恒一は何も言わず、その間に蔓を結んだ。


 地球側には、少女の行動が映っている。


『幽霊ちゃん、右手の横を押さえてる』


『ポチ、いま右見た?』


『偶然かもしれない』


 少女は結び終えた入口を覗き込み、小さく頷いた。


     ◇


 ――残り時間 45:00。


 最初のコメントが届く。


『生存確認』


『今日は工作配信か』


 恒一は蔓を編む手を止めずに答える。


「いまのところ、腹痛や吐き気はありません。ただ、量が増えた場合や、あとから出る異常までは分かりません」


 罠への助言も続いた。


『入口の枝が長すぎる。魚が通る前に塞がる』


『本体と入口を別に作って最後につなぐ方が直しやすい』


『流されないよう岸にも結べ』


『餌は奥へ固定しないと入口から取られる』


 恒一は理由の分かるものを選び、作り直した入口の先を短くして、拳より小さな隙間を残した。


 籠の奥には細い蔓を渡し、葉へ包んだ肉を結べる場所を作る。


 外側には、岸の根へ結ぶ長い蔓を一本残した。


「重しは、水場で石を入れます。岸にも結びます」


 十五分前の助言へ、作業で返す。


 残り四十一分。


 入口を本体へ差し込み、周囲を蔓で留め終えた。


 持ち上げても外れない。少し歪み、隙間も均一ではないが、魚より大きな穴は見当たらなかった。


「水場へ持っていきます」


 籠と杖を持ち、既に通った道へ入った。


     ◇


 ――残り時間 40:00。


 道へ入ったところで、五十五分台に送られたコメントが届いた。


『幽霊ちゃん、右手の横を押さえてる』


『ポチ、いま右見た?』


『偶然かもしれない』


 恒一の足が止まった。


 残り五十五分。


 入口の枝が跳ね上がり、右手の横だけが冷たくなった。


 視線を向けた時刻と場所が合っている。


 恒一は右手を開き、指先を見る。


「見えたわけではありません」


 何を感じたかまでは言わない。自分でも、まだ説明できなかった。


 残り三十九分。


 恒一は水場へ着いた。


 白い少女は先に淵へ向かい、水へ片手を入れている。浅瀬の魚が散ると驚いて手を上げ、今度は動かさずに戻した。


 魚はいる。


 恒一は淵そのものではなく、浅い流れが淵へつながる手前を選んだ。両側を石と根に挟まれ、幅が狭くなった場所だ。


 岸へ膝をつくと、その左側だけ空気がひやりと下がった。


 左膝のすぐ横。手を伸ばせば届く距離だった。


 白い少女は、そこにいる。


挿絵(By みてみん)


 恒一は左を見た。水面と濡れた石、岸から垂れた葉しかない。


 それでも、冷たさは消えなかった。


「……またか」


 声を抑え、籠を岸へ置いた。


 籠の奥へ、裂け目を入れた葉に包んだ肉を結ぶ。底には乾いた石を二つ入れ、長く残した蔓を岸の太い根へ回した。


 罠をゆっくり沈める。空気が枝の隙間から抜け、籠が浅い底へ降りた。


 入口を流れへ少し斜めに向け、上から石を載せる。水の力で動かないことを確かめた。


 残り三十一分。


「設置しました」


 恒一は水面へ灰色のRECを向けた。


「今日すぐに入るとは限りません。明日の朝まで置いて、確認します」


 白い少女は罠の入口へ顔を近づけた。


 細い魚が一匹、すぐそばを横切る。


 少女は追いかけるように顔を動かし、やがて籠の向こう側へ回った。


 左側にあった冷たさも、ゆっくり離れていく。


 恒一は、その変化を感じていた。


 風向きは変わっていない。


     ◇


 ――残り時間 24:00。


 水場へ着いた直後の反応が届いた。


『幽霊ちゃん、今度は左にいる』


『ポチの左膝の横』


『ポチ、またそっち見たよな』


 残り三十九分前後。左膝の横だけが冷たくなった時刻だった。


 一度目は右。


 二度目は左。


 どちらも、自分が感じた場所と、十五分後に届いた少女の位置が一致している。


 疲労や傷、思い込みの可能性は残る。それでも、偶然だけでは片づけにくかった。


 コメントで知らされているだけではない。本当に、自分の近くにいるのかもしれない。


 恒一は左側へ目を向けた。少女はいま罠の向こう側にいて、左の冷たさはもう消えている。


 当然、姿は見えない。


 コメントが示すのは十五分前だ。そのずれを初めて惜しいと思った。


「……そうですか」


 返せたのは、それだけだった。


     ◇


 残り二十分。


 罠が流されていないことを最後に確かめ、恒一は水場を離れた。


 十五分遅れのコメントには、設置前の助言が届いていた。


『流れが強すぎる場所は避けろ』


『入口が底へ埋まってないか見ろ』


『餌が外から取れない位置へ』


「流れの弱い場所を選びました。岸へ結んで、石も入れています」


「入口は底へ押しつけず、少し浮いています。餌は籠の奥です」


 帰り道の右脛は、昨日より痛みが少なかった。


 籠を持っていない分、身体は軽い。それでも、補正が切れたあとを考えて急がない。


 白い少女は水場を何度か振り返り、やがて恒一の左側へ戻った。


 水場から離れるにつれ、恒一が感じる冷たさは薄くなった。


 消えたわけではない。歩調に合わせ、左腕の少し外側をついてくる。


 意識しなければ、風と区別できないほどだった。


 恒一はそちらを見なかった。何も見えないことを、何度も確かめたくなかった。


     ◇


 仮小屋へ戻ったとき、残り時間は九分を切っていた。


 恒一は火へ枝を足して水を飲み、今日作ったものと設置場所を報告した。


「細い枝と蔓で籠を作り、入口だけ内側へ狭くしました。甲殻の獣の肉を少量入れ、水場の狭い場所へ沈めています」


「魚が入る保証はありません。罠そのものが壊れる可能性もあります。明日の朝、周囲を確認してから回収します」


 残り五分。


 帰り道の映像への反応が届き始めた。


『幽霊ちゃん、左側を歩いてる』


『ポチの歩幅に合わせてる』


『ポチ、今日は右と左が分かった?』


 最後の一行で、恒一の視線が止まった。


 火のそばには、自分しかいないように見える。


 けれど、左側には、道を戻る間ずっと続いていた微かな冷たさがある。


「見えてはいません」


 嘘にならない部分だけを口にする。


「ただ……何もないと決めるのも、まだ早いと思っています」


 地球側のコメント欄が一斉に動いた。


『それって』


『幽霊ちゃん聞いたか』


『ポチのすぐ隣』


 その言葉が恒一へ届く前に、LIVEは終わる。


 残り一分。


「今日作った罠は、明日確認します」


 残り三十秒。


「魚が捕れていなくても、壊れ方や餌の減り方は記録します」


 残り十秒。


 恒一は赤い点へ頭を下げた。


「今日も、ありがとうございました」


 残り時間がゼロになる。


 赤い点が消えた。


 コメントも、同時視聴者数も、視界からなくなる。


 身体へ重さが戻った。


 恒一は大木の根へ背中を預け、ゆっくり息を吐いた。


 左側の冷たさは、消えなかった。


     ◇


 その夜、恒一は残った肉をもう一度火で温めた。


 朝より少ない量にする。


 赤い実二粒には手をつけなかった。


 白い肉を葉へ置き、いつものように大木の根へ身体を寄せかけた。


 恒一は途中で止まった。


 左側。


 肩から腕へかけて、微かな冷たさがある。


 水場で感じたものより弱い。


 それでも、昼の風とは違っていた。


 顔を向ける。


 そこには誰もいない。


 白い少女は、恒一の左隣に座るように浮かんでいた。


 火を見つめ、彼が食べ始めるのを待っている。


 恒一は何も言わなかった。


 まだ、そこにいるとは言い切れない。見えず、声も聞こえず、触れた確信もない。


 それでも、恒一は身体を少しだけ右へずらした。


 左側へ、一人が座れるだけの空間を残す。


 白い少女は目を見開き、自分の周囲を見てから恒一を見た。


 やがて、空けられた場所の中央へ座り直した。


挿絵(By みてみん)


 透き通った髪が、焚き火の光を受けて淡く揺れる。


 恒一は正面へ向き直った。


「……いただきます」


 白い少女も、同じ言葉をなぞるように唇を動かした。


 その姿は、まだ見えない。


 声も届かない。


 それでも恒一は、隣に残した空間を詰めようとはしなかった。


 この森へ来てから初めて。


 何も見えない場所を、空いているとは思えなかった。


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