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第10話 見えていないのは、本人だけ

挿絵(By みてみん)

 赤い点が消えたあとも、三つのコメントが配信画面に残っていた。


『それって』


『幽霊ちゃん聞いたか』


『ポチのすぐ隣』


 どれも、恒一へ届くことはなかった。


 十五分前に送られた言葉が、彼の視界へ現れるまでには時間がかかる。


 けれど、残り時間がゼロになれば、その先はない。


 白い文字が途切れ、森を映していた画面が暗くなる。


 配信の終わりを見届けた者のうち、すぐにページを閉じた者は半分もいなかった。


『終わった』


『今日も生存確認完了』


『罠の結果は明日か』


『最後、ポチの左にいたよな』


『ずっといた』


『歩いて帰るときも左』


『というか、さっきの返事は何だったんだ』


 配信は終わっている。


 恒一の姿も、白い少女の姿も、もう見えない。


 それでもコメント欄だけは動き続けた。


 最初に異世界の森が映った夜から、今日で六日目になる。


 白い少女を、誰かが初めて『幽霊ちゃん』と呼んだのは二日目だった。


 身体が透けている。


 地面へ足をつけずに移動する。


 少女の声は一度も聞こえず、恒一からも見えていない。


 だから、とりあえず幽霊。


 本人の名前も、種族も、あの森で何と呼ばれている存在なのかも分からない。


 正式な呼び名ではない。


 長い説明を毎回書かなくて済むようについた、仮の呼び名だった。


 その仮の呼び名へ、配信が終わってから新しい疑問が投げ込まれた。


『なあ』


『幽霊ちゃん、もう幽霊というより嫁では?』


挿絵(By みてみん)


 数秒、コメントが止まった。


『は?』


『急に何を言い出した』


『嫁は言いすぎ』


『守護霊だろ』


『守護霊は魚罠を一緒に作るのか』


『守護霊の業務範囲なんて知らん』


『水を使ってるし精霊じゃないか?』


『幽霊か精霊かは今どうでもいい』


『種族不明、名前不明、嫁判定だけ早すぎる』


『本人たちの了承なく嫁にするな』


 否定する文字の方が多い。


 けれど、誰もその一言を完全には笑い飛ばせなかった。


 六日分の映像を見てきた者ほど、思い当たる場面が多かったからだ。


 転移前の『ポチの小屋』は、十年以上続いたゲーム配信のチャンネルだった。


 画面に映るのはゲームだけ。


 恒一は顔を出さず、犬小屋のアイコンと声だけで配信を続けていた。


 常連は二十人から三十人ほど。


 参加型の対戦へ入り、終われば少し雑談し、翌日の仕事を理由に配信を閉じる。


 配信へ現実の人間の姿を映すことも、私生活を見せることもなかった。


 そのチャンネルへ初めて現れた、恒一以外の人の姿。


 それが、名前も声も分からない白い少女だった。


『十年以上ゲームしかしてなかった男の初コラボ相手が幽霊』


『コラボではない』


『ポチ本人に参加してる自覚がない』


『幽霊ちゃんも喋ってない』


『無言コラボ六日目』


『言い方を変えても嫁にはならないぞ』


『でも毎日いる』


 冗談を言っているのは、転移してから来た者だけではなかった。


 むしろ、以前の恒一を知る常連ほど、この状況をどう受け取ればいいのか分からない。


 毎晩聞いていた声の主が、いまは水と食料を探し、傷を負いながら知らない森を歩いている。


 笑いに変えられる部分があれば、そこへ飛びつきたくなる。


 白い少女は、その数少ない部分だった。


     ◇


 配信終了から数分後。


 処理を終えたアーカイブが、チャンネルの一覧へ追加された。


 最初の夜から時刻を記録していた一人が、すぐに映像を開く。


 その手元には、六日分の短い記録が残っていた。


 恒一が何をしたか。


 白い少女がどこにいたか。


 どのコメントが、十五分後のどの場面へ届いたか。


 分からないことを、分かったことへ混ぜない。


 恒一が配信中に何度も求めた書き方が、いつの間にか視聴者側にも定着していた。


 記録を遡る。


 二日目。


 恒一が赤い実を持ち上げると、少女は実と彼の顔を見比べて、一度だけ頷いた。


 青白い房を見せると、今度は何度も首を横へ振った。


 恒一には、その違いが見えていなかった。


 四日目。


 少女は、傷を負った恒一のそばから離れなかった。


 甲殻の獣を前にしたときも、逃げるより先に彼を見ていた。


 五日目。


 火を起こすためにほぐした樹皮へ手を伸ばし、残っていた水分を小さな滴にして抜き取った。


 火がつけば驚いて下がり、恒一が甲殻の獣の脚を焼くあいだは、焚き火の向こうへ座っていた。


 恒一が「いただきます」と口にすると、少し遅れて同じように唇を動かした。


 そして六日目。


 跳ね上がろうとした枝へ手を重ねた。


 水場では左膝の横へ座り、帰り道では恒一の歩幅へ合わせた。


 初めは、危険なものと安全なものを見分けているだけに見えた。


 次は、火を起こす手伝いをした。


 今日は、道具を一緒に作った。


 少女の行動は、日を追うごとに恒一の生活へ入り込んでいる。


『赤い実の選別』


『火起こし補助』


『料理を見守る』


『いただきますも一緒』


『今日は共同作業』


『帰りは並んで歩く』


『並べるとだいぶ駄目だな』


『何が駄目なんだ』


『嫁疑惑を否定しにくい』


『だから守護霊だって』


『守護霊でも距離が近い』


『現地サバイバル支援員』


『それが一番怒られなさそう』


 冗談が重なる。


 その途中で、時刻を記録していた一人が短い文章を送った。


『でも、なぜポチを助けているかは不明』


 流れの速かったコメント欄が、わずかに遅くなった。


 それは、六日前から何一つ変わっていない事実だった。


 少女は恒一を助けているように見える。


 少なくとも、これまで映った範囲ではそうだった。


 危険そうな食べ物へ、はっきり首を振った。


 火起こしを手伝った。


 罠作りを手伝った。


 けれど、理由は分からない。


 恒一と少女が、異世界へ来る前から知り合いだったのか。


 森で初めて出会ったのか。


 少女が誰にでも同じことをするのか。


 恒一だけを選んでいるのか。


 何かを返してもらうためなのか。


 そもそも、本当に人間の味方なのか。


 画面から読み取れることだけでは、どれにも答えを出せなかった。


『親切な現地人かもしれない』


『人ではないだろ』


『見た目で決めるな』


『ポチの持ってる何かが目的の可能性もある』


『配信に反応してる説は?』


『赤い点はポチにしか見えてないはず』


『それも推測』


『少なくとも今まで害はない』


『今まで、はな』


 最後の一言へ、反論はつかなかった。


 少女がいなければ危険だった場面がある。


 同時に、少女が何者か分からないという危険も残っている。


 嫁という軽い二文字で片づければ、その両方を見落とす。


 それでも、その呼び名を最初に書いた者は撤回しなかった。


『正体不明なのは分かってる』


『でも今日のあれ、どう見ても一緒に罠作ってただろ』


 誰かが、配信の終了した黒い画面へ新しい疑問を残した。


『LIVEが終わったあと、幽霊ちゃんはどうしてるんだ』


『分からない』


『RECの映像は公開されてない』


『夜もポチの近くにいるんじゃないか』


『想像で埋めるな』


『毎回LIVEにいるなら、完全に離れてはいないと思う』


『それも、次のLIVEまでずっといる証拠にはならない』


『添い寝までしてたらどうする』


『嫁判定を進めるために見えない時間を使うな』


 視聴者が見られるのは、赤い点が灯っている一時間だけだった。


 その前後に恒一が何をしているかは、次のLIVEで本人が話した範囲しか分からない。


 白い少女が暗くなった森でどこへ行くのかも、誰も知らない。


 いまこの瞬間、恒一の左隣へ一人分の空間が残されていることも。


 その空間の中央へ、少女が座り直したことも。


 地球側の画面には映っていなかった。


 夜の森だけに残された出来事だった。


     ◇


 六日目のアーカイブが、残り五十五分へ戻される。


 恒一の右手が蔓を引く。


 左手が枝を押さえる。


 最後の一本を差し込もうとした瞬間、反対側の枝が浮いた。


 白い少女が、そこへ手を重ねる。


 透き通った指の下で、水が薄い膜となって枝へ広がった。


 恒一の右手、そのすぐ横。


 彼は数秒遅れて、何もないはずの右側へ顔を向ける。


 視線の先には、少女の顔があった。


 けれど二人の目は合わない。


 恒一の目は、少女を通り抜け、地面へ置いた蔓と枝を見ている。


 少女は自分を見たのだと思ったのか、一度だけ瞬きをする。


 恒一は何も言わず、枝が動かないうちに蔓を結んだ。


 映像の下へ、記録が書き込まれる。


『残り五十四分台。少女が右手横の枝を押さえる。直後、ポチが右を見る』


 そこから十五分進める。


 水場へ向かう途中で、当時のコメントが恒一へ届く。


『幽霊ちゃん、右手の横を押さえてる』


『ポチ、いま右見た?』


『偶然かもしれない』


 恒一の足が止まる。


 右手を開き、指先を見つめる。


「見えたわけではありません」


 その言葉を聞くために、何度も映像を戻す者がいた。


『見えたわけではない』


『つまり何かは分かった?』


『見えてないことだけ答えた』


『右を見た理由は言ってない』


『枝が勝手に止まったからじゃないか』


『それだけなら手じゃなく枝を見るはず』


『少女の手があった場所を見てる』


『断定はできない』


 さらに映像を進める。


 水場。


 恒一が岸へ膝をつく。


 白い少女は、彼の左膝のすぐ横へ座るように浮かんでいた。


 恒一が左を見る。


 濡れた石と水面しか見えていないはずなのに、しばらく視線を外さない。


「……またか」


 小さな声まで、アーカイブには残っていた。


 十五分後。


『幽霊ちゃん、今度は左にいる』


『ポチの左膝の横』


『ポチ、またそっち見たよな』


 恒一は、もう少女が離れた左側を見る。


「……そうですか」


 それだけ答える。


 配信をその場で見ていたときは、少女の動きと恒一の反応の間に十五分のずれがあった。


 右を見た理由が分からないまま、水場へ移った。


 左を見た理由を考えているうちに、最初のコメントが届いた。


 けれどアーカイブなら、止められる。


 戻せる。


 時刻を並べられる。


 右手の横。


 左膝の横。


 二度とも、少女がいた場所へ恒一は顔を向けていた。


挿絵(By みてみん)


『これ、位置を当ててるよな』


『偶然が二回』


『帰り道も左側を気にしてる』


『三回目もある』


『見えてないのに分かり始めた?』


『音は出てない』


『枝が動いたとか、水が揺れたとかは?』


『帰り道にはそれもない』


『気配?』


『幽霊だから寒いとか』


『急に雑な考察するな』


『でもポチ側から反応が返ったのは今日が初めてだ』


 最後の指摘には、誰もすぐ返さなかった。


 これまでは、少女から恒一へ向けた行動ばかりだった。


 少女が近づく。


 少女が見つめる。


 少女が頷き、首を振り、手を伸ばす。


 恒一は、そのすべてに気づかない。


 地球側だけが二人を同時に見ていた。


 今日初めて、恒一の側から少女のいる場所へ反応が返った。


 声は届いていない。


 姿も見えていない。


 それでも、完全な一方通行ではなくなった。


 映像は、配信終了前の場面へ進む。


『幽霊ちゃん、左側を歩いてる』


『ポチの歩幅に合わせてる』


『ポチ、今日は右と左が分かった?』


 恒一が、左側へ目を向ける。


 白い少女は、すぐそこにいた。


「見えてはいません」


 少女が、恒一の口元を見上げる。


「ただ……何もないと決めるのも、まだ早いと思っています」


 言葉の意味をどこまで理解したのかは分からない。


 それでも少女は、ほんの少しだけ恒一との距離を詰めた。


 その瞬間で映像が止められる。


『六日かけて、やっとここまで来た』


『何が?』


『幽霊ちゃんがポチの隣まで』


『最初から勝手に近づいてたぞ』


『違う。ポチの側が、そこにいるかもしれないと思うところまで』


     ◇


 最初の切り抜きは、配信終了から一時間もしないうちに作られた。


 長さは一分にも満たない。


 六日分のすべてを説明するものではなかった。


 赤い実へ頷く少女。


 ほぐした樹皮から水を抜く少女。


 焚き火の向こうで「いただきます」を真似る少女。


 籠の枝を押さえ、右側から左側へ移り、恒一の隣を歩く少女。


 最後に、恒一の言葉が入る。


「見えてはいません」


「ただ……何もないと決めるのも、まだ早いと思っています」


 題名は、映像の内容をそのまま並べたものだった。


 ――【異世界LIVE】本人には見えない少女、六日かけて隣まで来る。


挿絵(By みてみん)


 最初に見たのは、配信を最後まで見ていた者たちだった。


『まとめると近いな』


『最後の顔ずるいだろ』


『この切り抜きだけだと何も知らない人が勘違いする』


『何を』


『普通に二人で暮らしてると思う』


 その予想は外れなかった。


 切り抜きから初めて『ポチの小屋』へ来た者には、前提がなかった。


 十年以上続いていた小さなゲーム配信。


 配信者が眠ったあと、突然、見知らぬ森が映り始めたこと。


 恒一には、白い少女もリアルタイムのコメントも見えていなかったこと。


 危険な獣に襲われ、食べ物も火もない状態から六日間を生き延びたこと。


 一分に満たない映像から分かるのは、それよりずっと単純なことだった。


 一人の男が、森で道具を作っている。


 白い少女が、その手元を手伝っている。


 男が右を見れば、右にいる。


 左を見れば、左にいる。


 二人は並んで水場から帰ってくる。


 会話だけがない。


『これ、どういう設定?』


『女の子と異世界生活してる配信?』


『男の方が無愛想すぎない?』


『女の子ずっと手伝ってるのに礼も言わないのか』


『違う。ポチには見えてない』


『見えてないって台詞が設定じゃなくて本当に?』


『最初から見れば分かる』


『声も聞こえてない』


『なのに右と左は当ててるじゃん』


『今日から何か感じ始めたっぽい』


『見えてないのにこの連携なの?』


『切り抜きだけなら異世界同棲六日目』


『事情を知らなければイチャラブ配信一歩手前』


『事情を知ってても一歩手前では?』


『だから嫁疑惑が出てる』


『もう呼び名があるのかよ』


『そもそも、この配信は本物なの?』


 新しく来た者から、当然の疑問も出た。


『異世界って書いてあるけど、作った映像じゃない証拠は?』


『証拠はない』


『ないのかよ』


『本物だと断定できる材料は、こっちにもない』


『じゃあ何でそんな真剣に見てるんだ』


『最初の配信を途中から見てたから』


 転移した夜。


 恒一は、いつものように視聴者参加型のゲームを終えた。


 雑談をして、眠気に負け、配信を切らないまま机へ伏せた。


 そこから先を、最初の常連たちは見ていた。


 ゲーム画面が消え、カメラを使っていなかったはずの配信へ、知らない森が映った。


 恒一自身も、目を覚ましてから状況を理解できていなかった。


 水を探し、獣に追われ、誰にも届かないと思いながら声を残した。


 長年ゲームだけを映してきた小さなチャンネルが、ある夜いきなり別のものへ変わった。


 それを見たことは、本物だと証明するものではない。


 長く見ていた配信者が嘘をつかない人間だという印象も、証拠にはならない。


 だから、最初から見ている者たちも「本物だ」と押しつけることはしなかった。


『作り物だと思うなら、それでもいい』


『過去のアーカイブは最初から残ってる』


『判断するなら見てからにしてくれ』


『少なくとも、ポチが少女を見えていない動きは六日間変わってない』


『コメントが十五分遅れて届くのも毎回同じ』


『作り物なら罠の結果も台本どおりだろ』


『本物なら、捕れてなかったら普通に食料不足』


『急に重くするな』


『元から重いんだよ』


 信じるかどうかとは別に、次の配信で確かめられることはある。


 切り抜きから来た者は、完全には納得しないまま、チャンネルの一覧へ戻った。


 そして一番古いアーカイブを開いた。


 幽霊ちゃん。


 守護霊。


 水の精霊。


 現地サバイバル支援員。


 そして、現地嫁。


 どれも視聴者が勝手につけた呼び名だった。


 少女は一度も名乗っていない。


 恒一も、彼女へ呼びかけたことはない。


 それでも短い切り抜きを見た者たちは、少女が次に何をするのか確かめるため、元のアーカイブへ移った。


 一人は二日目まで遡った。


 一人は甲殻の獣との戦いを見た。


 一人は火起こしの途中で、少女が樹皮から水を抜く場面を見つけた。


 大きな広がりではない。


 数分で何万人も集まるようなことは起きなかった。


 ただ、これまで『ポチの小屋』を知らなかった者が、一人ずつ過去の映像を開いていった。


 そして、最初の一分だけでは分からなかったことへ気づく。


 恒一の暮らす森は、背景ではない。


 彼が右の脇腹を押さえるのも、脚を引きずるのも、空腹で手が震えるのも、演出だと笑えるものではなかった。


 白い少女も、ただ隣へ立つためにいるのではない。


 恒一が気づかないところで彼の手元を見つめ、危険へ先に反応し、できることだけをしている。


『切り抜きから来た』


『最初、恋愛ものの宣伝かと思った』


『違っただろ』


『だいぶ違った』


『ポチ、普通に死にかけてるじゃん』


『だからみんな生存確認から入る』


『幽霊ちゃんがいるだけで安心する理由が分かった』


     ◇


 アーカイブのコメント欄では、嫁疑惑とは別の話も続いていた。


『あの子を安全だと決めるのは早い』


『同意』


『目的が分からない』


『ポチを助けて信用させてる可能性もゼロではない』


『六日かけてやることか?』


『向こうの時間感覚なんて分からない』


『人間と同じ考え方をするとも限らない』


 軽い言葉で始まった話は、何度もそこへ戻った。


 正体が分からない。


 目的も分からない。


 少女が恒一へ向けているものが、親切なのか、興味なのか、それ以外なのかも分からない。


 少なくとも、少女は恒一よりこの世界を知っている。


 食べ物の違いが分かる。


 水を思うように動かせる。


 地面へ足をつけず、獣がいる森を一人で移動できる。


 もし敵へ回れば、恒一に対抗する方法があるとは思えなかった。


『警戒は必要』


『でも、ポチ本人には見えてない』


『警戒しろって伝えても十五分後』


『そもそも少女がどこにいるか伝わるのも十五分後』


『こっちからできること、少なすぎるな』


 それも、六日前から変わっていない。


 視聴者は画面の向こうへ手を伸ばせない。


 危険を見つけても、届くのは十五分後だ。


 水を運べない。


 食べ物を渡せない。


 傷へ布を巻くこともできない。


 甲殻の獣が恒一へ飛びかかったときも、コメント欄へ文字を打ち込むことしかできなかった。


 少女の正体を疑うことはできる。


 少女の行動を記録することもできる。


 けれど、実際に恒一のすぐそばへ立てるのは、いまのところ白い少女だけだった。


『嫁とか言ってる場合じゃないだろ』


 真面目な一言が落ちる。


『分かってる』


 最初に嫁疑惑を書いた者が答えた。


『何者かも、何で助けるのかも分からない』


『安全だって決めたわけでもない』


『でも俺ら、見てるだけだから』


『あの子が枝を押さえたとき、ちょっと安心したんだよ』


 そこで文章が途切れた。


 少しして、もう一行が続く。


『ポチの近くに、手を伸ばせるやつがいるって分かったから』


 今度は、すぐに否定する文字が流れなかった。


 嫁と呼ぶことが正しいわけではない。


 少女にそのつもりがあるかも分からない。


 恒一に至っては、少女の姿さえ見えていない。


 それでも、画面を見ている者たちは、二人を別々の存在としてだけ見られなくなり始めていた。


 一人で生き延びようとする恒一。


 そのすぐそばで、彼に気づかれないまま手を貸す少女。


 届かない言葉を送り続ける視聴者。


 三つのうち、実際に同じ森にいるのは二人だけだ。


『呼び方はどうでもいい』


『今日もあの子がポチの隣にいた』


『今はそれでいい』


『よくない。明日も記録は続ける』


『それはそう』


『嫁疑惑も継続で』


『それは止めろ』


 重くなりかけた空気が、少しだけ戻る。


 誰かが、次の配信へ向けた短いまとめを残した。


『次回確認』


『魚罠の状態』


『ポチの傷と食後の異常』


『少女の位置へ反応するか』


『少女が罠へどう反応するか』


『呼称は幽霊ちゃんのまま』


『最後だけ必要か?』


『現地嫁は禁止?』


『本人の名前が分かるまで仮称を増やすな』


 結論が出ないまま、コメント欄は少しずつ静かになった。


     ◇


 『ポチの小屋』には、次回の待機枠がない。


 配信の開始時刻も表示されない。


 あるのは、過去六日分のアーカイブと、次のLIVEが始まったときに届く通知だけだった。


 切り抜きから来た者の何人かは、チャンネルを登録した。


 通知も受け取るようにした。


 すべての映像を本物だと信じたわけではない。


 異世界だと認めた者ばかりでもない。


 大がかりな作り物だと疑う者もいた。


 映像へ合成した少女だと考える者もいた。


 ただ、次を見れば判断できると思った。


 魚罠に何が入ったのか。


 恒一は七日目も生きているのか。


 白い少女は、次も彼の隣にいるのか。


 確かめたい理由は、それぞれ違う。


 それでも、次の通知を待つ者は昨日より増えた。


     ◇


 通知が届いたのは、それから一日近く経った頃だった。


 予告はない。


 待機画面もない。


 端末の上へ、短い一文だけが現れる。


 ――『ポチの小屋』がLIVEを開始しました。


 仕事の手を止める者がいた。


 食事の途中で画面を開く者がいた。


 昨日の切り抜きを見直していた者は、そのまま通知へ触れた。


 黒かった画面に、森の色が戻る。


 大木の根。


 葉を重ねた仮小屋。


 石で囲われた火。


 その前に、恒一が座っていた。


 顔色は昨日と大きく変わっていない。


 左腕には布が巻かれている。


 右脚も、動かせている。


 膝の前には、濡れた籠が置かれていた。


 昨日、水場へ沈めた魚罠だった。


 籠の入口は少し歪み、枝の隙間から水が落ちている。


 中身は、恒一の手と葉に隠れて見えない。


 白い少女は、その左隣にいた。


 籠の中を確かめようとするように身体を傾け、長い髪を揺らしている。


挿絵(By みてみん)


『生存確認』


『両方いる。よし』


『罠も残ってる』


『中身見えない』


『昨日の罠どうだった?』


『嫁を見に来ました』


『新規はまずポチの生存確認をしろ』


『生存確認してから嫁を見た』


『呼称増やすなって言われただろ』


 同時視聴者数が、ゼロから増えていく。


 九人。


 十七人。


 二十四人。


 昨日の開始時に集まっていた二十九人へ届く。


 そこで止まらない。


 三十一人。


 三十四人。


 恒一は増えていく数字を見つめ、わずかに目を見開いた。


 けれど、最初に口にする言葉は変わらなかった。


「こんばんは。ポチです」


 白い少女が籠から顔を上げ、恒一を見る。


「異世界生活、七日目。今日も生きています」


 地球側では、それだけで新しいコメントが重なった。


『今日も生きてた』


『初見です』


『切り抜きから来ました』


『幽霊ちゃんもいる』


『ポチの左』


 その言葉が恒一へ届くのは、十五分後だった。


 いまの彼に見えているのは、赤い点と、残り時間と、昨日より少し増えた数字だけだ。


 恒一の左隣にいても、白い少女の姿はまだ見えない。


 それでも彼女は、昨日、恒一が空けたのと同じ場所にいた。


 見えていないのは、まだ恒一だけだった。


 けれど、その隣にいる少女を見届けようとする人間は、昨日より確実に増えていた。


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