第11話 現地嫁ではありません
恒一は、膝の前へ置いた魚罠へ手をかけた。
濡れた枝の隙間から、細い尾が一度だけ跳ねる。
白い少女も同じものを見つけ、籠の上から身体を傾けた。
「まず、昨日仕掛けた罠の結果から報告します」
入口を塞いでいた葉を外す。
中にいたのは、一匹だった。
恒一の掌に収まるほどの魚が、濡れた葉の上で身をくねらせる。
背は深い青。腹へ近づくほど銀白色へ変わり、細かな鱗が焚き火の光を反していた。
地球で知っている川魚に似ている。
ただし、背鰭は二つに分かれ、尾の付け根には青い線が一本走っていた。
似ているだけで、同じものではない。
「一匹だけですが、入っていました」
その言葉と同時に、地球側のコメント欄が動いた。
『魚だ』
『罠成功』
『一匹でも大成果』
『ちゃんと生きてる』
『幽霊ちゃんも嬉しそう』
『夫婦共同作業の成果』
『現地嫁の内助の功』
白い文字は重なったが、恒一の視界にはまだ一つも現れない。
見えているのは、赤い点。
昨日より増えた同時視聴者数。
そして、五十九分を切った残り時間だけだった。
「これで、魚を捕る方法が一つできた――とは、まだ言えません」
恒一は喜ぶより先に、籠の状態を映した。
入口は昨日より少し内側へ歪んでいる。
底へ入れた石は二つとも残っていた。岸へ結んだ蔓も切れていない。ただ、水を吸って緩んだ結び目が一つあり、餌にした肉はほとんどなくなっていた。
「餌だけ外から食べられたのか、この魚が食べたのかは分かりません。入口も少し曲がっています」
折れた枝はない。
周囲に大きな足跡もなかった。
「一匹で判断せず、次に仕掛けるなら結び方と入口を直します。使った餌と手間を考えると、毎日これだけでは足りません」
恒一は魚を葉ごと持ち上げた。
白い少女の顔も、それを追って上がる。
「食べられるかどうかも、これから確認します」
罠が機能したことと、捕れたものが安全であることは別だった。
◇
恒一が罠を回収したのは、LIVEを始める十分ほど前だった。
その日の水場は、前日と変わらないように見えた。
狭くなった流れの底で、枝の籠が半分ほど水へ沈んでいる。
岸へ回した蔓も残っていた。
恒一はすぐ近づかず、杖の先で草を分けながら周囲を一周した。
新しい獣の足跡はない。
水を飲んだ形跡も、罠を引きずろうとした跡も見つからない。
その少し前。
白い少女は、一人で罠の前へ浮かんでいた。
細い魚が二匹、籠の外から餌の残る葉をつついている。
入口へ入ろうとはしない。
枝の隙間から届くところだけをつつき、少しでも籠が揺れると離れていく。
少女は魚を見た。
次に、罠の入口を見る。
昨日の恒一が、魚の影と籠を何度も見比べていたことを覚えていた。
罠の仕組みを理解しているわけではない。
恒一が口にした説明も、まだ一つの言葉としては分からない。
それでも、彼がこの籠へ魚を入れようとしていることだけは、動きを見れば分かった。
少女は水面へ指先を入れた。
指の周囲から、小さな輪が広がる。
一匹の後ろへ細い流れを作ると、魚は横へ逃げた。
罠の入口から遠ざかり、石の陰へ消える。
少女は首を傾げた。
もう一匹が餌へ戻ってくるのを待ち、今度はさらに弱く水を押す。
魚は前へ進んだ。
けれど入口の手前で身を翻し、籠の外側を回って逃げていく。
少女は、逃げた魚と自分の指を交互に見た。
水から手を上げ、しばらく動かない。
やがて、別の小さな影が浅瀬から近づいた。
餌の匂いを探るように、罠の前で止まる。
少女はすぐに水を動かさなかった。
魚が入口の正面へ来るまで待つ。
指先を、ほんの少しだけ曲げる。
魚の背後で、水が押した。
驚いた魚が前へ走る。
細い身体が、内側へ向いた枝の間を抜けた。
餌のある奥まで進み、すぐに戻ろうと向きを変える。
けれど、狭く尖った入口を内側から見つけられない。
魚は籠の中を一周し、再び餌へ寄った。
白い少女は罠へ顔を近づけた。
青白い瞳が細くなり、口元が小さく緩む。
少女が自由に魚を操ったわけではない。
三度試し、偶然に近い形で一匹が入っただけだった。
それでも、恒一が昨日作ったものの中へ、彼が求めていたものがいる。
少女は水から手を上げ、恒一が来る一本道を振り返った。
そのときだった。
流れの表面へ、細かな波が走った。
風が吹いたのではない。
上流から下流へ流れる水の上を、それとは違う向きの揺れが一度だけ通り過ぎた。
石の陰にいた魚が、一斉に下流へ逃げる。
白い少女の笑みが消えた。
顔を上げ、水場の上流を見る。
木々に遮られ、その先は見えない。
揺れも、それきり戻らなかった。
しばらくして、白い石の道から恒一の足音が聞こえた。
少女は上流を気にしたまま、罠の横へ戻った。
恒一が籠を引き上げる。
中で跳ねた魚を見て、彼の目がわずかに見開かれた。
「……本当に入ったのか」
驚きの混じった声に、少女は魚から恒一へ視線を移す。
恒一は罠から魚を出さず、濡らした葉を上へ重ねて、急いで仮小屋へ戻った。
自分が手伝ったと伝える言葉を、彼女はまだ持っていなかった。
恒一も、罠へ魚が入るまでを映していた灰色のRECを、自分では見ることができない。
地球側からも、配信と配信の間に記録された映像は開けなかった。
罠を作った恒一。
形を直す方法を送った視聴者。
最後の一歩だけ、水を押した少女。
三者で捕った一匹だと知る者は、その場にはいなかった。
◇
魚が罠へ入るまでを知らないまま、恒一は濡れた籠を仮小屋の脇へ寄せた。
魚を載せた葉を、火の近くへ移す。
水を入れた葉の器を二つ用意してある。
一つは飲むためのもの。
もう一つは、魚と道具を洗うためのものだった。
「外見から確認します」
魚を素手で強く掴まず、二股に分かれた細い枝で葉の上へ押さえる。
背鰭と腹鰭には、目立つ棘がない。
口の中にも牙らしいものは見当たらない。
体表を軽く押しても、毒液のようなものは出なかった。
鱗の一枚を枝の先で起こす。
半透明で薄い。下の皮膚は淡い白色だった。
「見た目だけなら、明らかに危険な部分は見つかりません」
安全だとは言わない。
恒一は、乾いた樹皮を持ち手へ巻いた石片を取り上げた。
甲殻の獣を切ったときのものではない。
罠を引き上げる前、水場の石を幾つか割り、片側が薄くなったものを一つだけ選んでいた。
刃物と呼べる切れ味はない。それでも、小さな魚の腹を開く程度には使えそうだった。
左腕の傷へ魚の水が触れないよう、布をさらに一枚重ねる。
魚を枝で押さえ、右手だけで石片を引いた。
一度では切れない。
二度、三度と同じ場所をなぞり、腹へ浅い切れ目を入れる。
内側から出たのは、薄い桃色の肉と、灰青色の小さな内臓だった。
異常に鮮やかな色はない。
肉や内臓の周りに、動く糸状のものも見当たらなかった。
鼻を近づけすぎない位置で匂いを確かめる。
強い刺激臭もなかった。
「内臓は食べません。仮小屋の近くにも残しません」
細い枝の先で内臓を葉へ移し、包んで離れた場所へ置く。
LIVEが終わってから、水場とも寝床とも違う下流側へ埋めるつもりだった。
腹の中を調理用の水で洗う。
口から尾へ細い生木を通し、火のそばへ立てた。
「中心まで熱を通します。最初に食べるのは、今回も少量だけです」
白い少女は、火へ向けられた魚の前へ移動した。
熱を感じている様子はない。
けれど炎へ触れようとはせず、恒一が魚を返すたびに反対側へ回り込む。
『幽霊ちゃん、完全に焼き上がり待ち』
『魚食べるのかな』
『食べるというよりポチを見てる』
『いや魚も見てる』
『現地嫁、調理監督へ』
その呼び方は、まだ恒一へ届いていなかった。
◇
――残り時間 45:00。
LIVE開始直後に送られたコメントが、恒一の視界へ現れた。
『今日も生きてた』
『初見です』
『切り抜きから来ました』
『幽霊ちゃんもいる』
『ポチの左』
『嫁を見に来ました』
『新規はまずポチの生存確認をしろ』
『生存確認してから嫁を見た』
魚を回していた恒一の手が止まった。
最初の数行を読み、同時視聴者数へ目を向ける。
四十人。
昨日のLIVE開始時より、十人以上増えていた。
「初めて来た方もいるんですね。ありがとうございます」
火へ向けていた魚の位置を少し上げる。
「ただ、この配信ではコメントが十五分遅れて届きます。いま見えているのは、配信を始めた直後に送られたものです」
危険を見つけたときも、すぐには届かない。
助言を送るなら短く、理由も添えてほしい。
これまで何度も伝えたことを、新しく来た者へ向けて簡単に説明する。
その途中で、恒一の視線が一行へ戻った。
「それから……現地嫁ではありません」
白い少女が、火の向こうから顔を上げた。
「いや、そんな。僕には見えてもいないのに、嫁というのは無理があるでしょう」
恒一は自分の左側を見た。
そこには、昨日から意識するようになった微かな冷たさがある。
少女は彼の視線を追うように、左隣へ戻っていた。
「名前も知りません。声も聞こえませんし、こちらの言葉が通じているかも分かりません」
存在しないとは言わなかった。
本当にいるか分からないとも言わなかった。
見えない。
声が聞こえない。
言葉が通じているか分からない。
恒一が否定するために並べたのは、そこにいるかもしれない相手との間に残された距離だった。
白い少女には、その意味が分からない。
ただ、恒一が自分のいる方向へ顔を向け、聞き慣れない音を何度も口にしたことは分かった。
少女は左隣から少し浮き上がる。
恒一の肩より高い位置まで来ると、その横顔を覗き込んだ。
視線は目元から口元へ移る。
発せられる音と唇の動きを結びつけるように、じっと見つめる。
恒一が魚へ顔を戻しても、少女は離れなかった。
長い白銀の髪を横へ流し、彼の左頬のすぐ近くに浮かび続ける。
地球側の画面には、その様子がすべて映っていた。
『本人が横で聞いてるぞ』
『否定を始めたら顔を覗き込んだ』
『ずっと口元を見てる』
『意味を分かってるわけではなさそう』
『言葉を覚えようとしてる?』
『意味は分からなくても距離だけは嫁』
『現地嫁(暫定)』
『画面がポチの主張を否定してる』
『呼称は幽霊ちゃんのままだからな』
恒一は、十五分後に自分へ返ってくる反応を知らない。
魚の表面から水分が飛び、皮が少しずつ縮んでいく。
片側へ薄い焦げ目がついたところで向きを変える。
その間も、左頬の近くに冷たさが残っていた。
「……今日は、近い気がするな」
誰へ向けるでもなく呟く。
少女は、その短い音にも注意を向けた。
◇
――残り時間 30:00。
十五分前の反応が届き始めた。
『本人が横で聞いてるぞ』
『否定を始めてから、ずっと顔を見てる』
『ポチ、画面が発言を否定してる』
『意味は分かってなさそうなのに距離だけは嫁』
『言葉を覚えようとしてる?』
恒一は最後の一行まで読み、魚を支える枝を持ったまま動きを止めた。
「……ずっと、ですか?」
左頬の近くには、いまも冷たさがある。
火から来る熱とはっきり分かれるほど、狭い範囲だけ空気が冷えていた。
恒一はゆっくり左を向いた。
白い少女は逃げなかった。
横顔を追っていた顔が、今度は正面から恒一と向き合う。
二人の距離は、手を伸ばす必要もないほど近い。
けれど、恒一の目には大木の根と、その向こうの木々しか映らない。
視線も、少女の青白い瞳より少し下を通り過ぎていた。
「今も、そこにいるんでしょうか」
少女は首を傾げた。
問いかけの意味は分からない。
それでも、自分だけへ向けられた声だと気づき、恒一の口元を見つめる。
地球側から答えが送られた。
『いる』
『真正面』
『近い近い』
『もう少し上』
『十五分後には位置変わってるだろ』
『いま伝えられないのが惜しい』
その答えは、まだ届かない。
恒一は何も見えない場所へ顔を向けたまま、少し考えた。
「僕には、やはり見えません」
諦めたような声ではなかった。
見えないという事実を、もう一度確かめるための言葉だった。
「話しても、意味はまだ伝わらないと思います」
少女の目が、動く唇を追う。
「それでも、これまで何度も助けてもらっていると聞きました」
赤い実を選んだとき。
火を起こす樹皮を乾かしたとき。
罠の枝が外れないよう押さえたとき。
恒一が知っているのは、十五分遅れて届いた短い報告だけだった。
夜ごと傷へ水を運んでいることも、先ほど魚を罠へ誘ったことも知らない。
「僕が気づいていないところでも、何かしてくれているのかもしれません」
白い少女が、ゆっくり瞬きをする。
「本当にあなたがしてくれたのなら――ありがとうございます」
恒一は、見えない相手へ小さく頭を下げた。
少女は慌てたように身体を少し引き、下がった顔を覗き込む。
恒一が顔を上げると、また二人は正面から向き合った。
少女に、感謝という言葉の意味は分からない。
昨日まで繰り返された挨拶と、いまの長い音を結びつけることもできない。
ただ、声が穏やかだった。
自分へ向けられていることだけは、分かった。
恒一は数秒待った。
返事は聞こえない。
何も見えない。
森と火の音だけが続く。
「……これで、まったく違う方向を向いていたら、かなり恥ずかしいですね」
自分で口にしてから、恒一の息がわずかに漏れた。
「異世界で魚を焼きながら、見えない相手へ、嫁ではないと説明することになるとは思いませんでした」
口元が緩む。
大きな笑いではない。
六日間、痛みや空腹を隠すために固くなっていた顔から、力が少し抜けただけだった。
それでも、白い少女はその変化を見逃さなかった。
恒一の言葉を理解したからではない。
なぜ彼が笑ったのかも分からない。
ただ、ずっと見つめていた目元が和らぎ、口の端が上がった。
その顔を見ているうちに、少女の口元もつられるように緩んだ。
先に小さく口角が上がる。
それから、自分でも止められなかったように目を細め、白い少女も笑ってしまった。
声にはならない。
けれど地球側には、二人が同じときに笑ったことが見えていた。
『合ってる』
『ちゃんと真正面』
『ポチが笑った』
『幽霊ちゃんも笑った』
『つられた?』
『意味を理解した反応じゃないな。ポチの顔を見て笑った』
『七日目にして初めて二人で笑ったぞ』
『現地嫁説の否定中に何を見せられてるんだ』
『主張、棄却』
『現地嫁(暫定)から現地嫁(有力)へ』
『呼称を増やすな』
白い文字が流れるほど、同時視聴者数も少しずつ増えていった。
異世界で生き延びる男を見るために来た者。
白い少女の正体を確かめるために来た者。
切り抜きで見た二人が、今日も隣にいるかを確かめるために来た者。
理由は違っても、その瞬間だけは、同じ画面を見ていた。
◇
恒一は魚へ顔を戻した。
「笑っている場合でもないですね」
皮の一部が膨らみ、腹の切れ目から湯気が出ている。
火へ近すぎた側だけが焦げないよう、枝の角度を変える。
少女も正面から離れ、再び魚の隣へ移った。
先ほどまでの笑みは消えていない。
恒一が枝を回すと、少女の顔も一緒に反対側へ動いた。
そのたびに地球側へ短いコメントが増える。
『まだ嬉しそう』
『魚よりポチ見てる時間の方が長い』
『幽霊ちゃん目当てで来たけどポチも見るわ』
『逆だろ』
『二人とも見ろ』
残り二十二分。
恒一は魚を火から外した。
すぐには触れない。
新しい葉へ載せ、表面の熱が下がるまで待つ。
腹の切れ目を枝で少し広げると、内側の肉は白く変わっていた。
半透明な部分は残っていない。
背骨の近くからも湯気が上がる。
石片の先で肉を押すと、細い繊維に沿って崩れた。
「中心まで熱は通っています」
異臭はない。
透明な汁も出ていない。
それでも、見た目が安全に見えることと、安全であることは別だ。
恒一は爪の先ほどの肉だけを取り、新しい葉へ置いた。
「最初は、これだけにします」
白い少女が魚と恒一を交互に見た。
肉へ手を伸ばすことはない。
ただ、恒一が口へ運ぼうとしたところで、小さく頷いた。
地球側には見えていても、その反応が恒一へ届くのは十五分後だった。
恒一は少女の判断を知らないまま、肉を舌の先へ載せた。
すぐには飲み込まない。
舌の痺れや、強い苦味がないことを確かめる。
味は淡い。
塩もないため、香ばしく焼けた匂いのあとに、わずかな甘みだけが残った。
地球で食べた川魚より、癖が少ない。
恒一は時間をかけて噛み、飲み込んだ。
「味は……普通です」
一度、言葉を止める。
「普通というのが、いまはかなりありがたいですね」
すぐに二口目は食べない。
残った魚へ葉をかぶせ、水を飲む。
喉と呼吸を確かめながら、少なくとも十五分は様子を見ることにした。
「罠が使える可能性は確認できました。ただ、一匹捕れただけです。餌も必要ですし、水場へ行く危険もあります」
罠の歪んだ入口へ目を向ける。
「次は入口を別に作り直します。今日と同じ場所へ仕掛けるかは、周囲を確認してから決めます」
食料を得る方法が一つ増えた。
それは、この森が安全になったという意味ではなかった。
◇
――残り時間 15:00。
恒一が少女へ顔を向けた頃のコメントが届く。
『いる』
『真正面』
『近い近い』
『もう少し上』
『十五分後には位置変わってるだろ』
恒一は、いま少女が魚のそばへ移っていることを知らない。
それでも自分の向いていた方向が合っていたと知り、左側の空間へもう一度目を向けた。
「方向は、合っていたんですね」
少女は少し離れた場所から、その声に反応する。
恒一へ戻ろうとしたところで、次のコメントが表示された。
――残り時間 13:00。
『ポチが笑った』
『幽霊ちゃんも笑った』
『つられた?』
『意味じゃなくて、ポチの顔を見て笑ったと思う』
『現地嫁説の否定材料、なくなりました』
『むしろ増えた』
恒一はしばらく黙った。
笑ったという自覚はある。
自分につられて、見えない少女も笑った。
それを想像しようとしても、思い浮かぶ顔がない。
白い髪。
水のような衣。
小柄な少女。
視聴者から聞いた断片しか分からない。
「……つられて、ですか」
恒一の声が、先ほどより少しだけ柔らかくなった。
「言葉が分からなくても、表情なら伝わることがあるのかもしれませんね」
断定はしない。
それでも、何も届かないとは言わなかった。
白い少女は恒一の左側へ戻り、また横顔を見上げた。
先ほどと同じ笑みを探すように。
恒一は冷たさが近づいたことに気づき、今度はそちらを確かめるように視線だけを動かした。
地球側のコメント欄では、もう現地嫁という呼び方を止める者の方が少なかった。
『幽霊ちゃん(現地嫁)』
『括弧で定着させるな』
『本人の名前が分かるまでだから』
『名前が分かっても残るやつ』
『ポチが否定するほど補強される』
恒一へ届く頃には、LIVEは終わっている。
◇
残り時間が十分を切った。
魚を口にしてから、目立った異常はない。
舌の痺れも、喉の違和感もなかった。
恒一は残った魚を、今夜すべて食べるとは決めなかった。
もう少し時間を置き、異常がなければ量を増やす。
食べ終えた骨や頭も、仮小屋の近くへ放置しない。
「今日分かったのは、罠へ魚が入ることがある。それだけです」
赤い点へ向け、最後の報告をまとめる。
「食べられるかは、まだ確認中です。次のLIVEで、体調に変化がなかったか報告します」
白い少女は、恒一の横顔を見ていた。
その日、何度目になるか分からないほど長く。
少女がそこから目を離したのは、残り八分を切ったときだった。
笑みが消える。
顔が、森の奥へ向いた。
水場のある方向。
さらに、その上流。
恒一の左側から、冷たさが離れていく。
彼は言葉を止め、空いた場所へ目を向けた。
「……いなくなった?」
白い少女は数歩分だけ前へ出ていた。
地面へ足をつけないまま、木々の隙間を見つめている。
長い髪の先が、風もないのに水の中のように揺れた。
恒一のそばに置いた葉の器で、水面へ小さな輪が広がる。
一つ。
二つ。
器へ何かが落ちたわけではない。
次の輪は、水面の端から同時に生まれた。
地面の奥を、ごく低い振動が通り過ぎる。
先ほど、水場の表面を走ったものと同じ揺れだった。
今度は、水場から離れた仮小屋まで届いている。
恒一も、それには気づいた。
右手を地面へつき、動きを止める。
「……地震でしょうか」
揺れは、立っていれば分からないほど弱かった。
火の上の枝も、仮小屋の葉も動いていない。
それでも水だけは、しばらく細かな波を残していた。
地球側のコメント欄が変わる。
『幽霊ちゃんの顔が変わった』
『さっきまでポチを見てたのに』
『水場の方を見てる?』
『器の水が揺れてる』
『地震なら木も揺れないか』
『上流で何かあった?』
『ポチ、幽霊ちゃんが警戒してる』
警告は送られた。
届くのは十五分後だ。
残り時間は、もう七分もない。
恒一は杖を手元へ引き寄せ、森の音へ耳を澄ませた。
鳥の声。
葉の擦れる音。
遠くを流れる水。
近くに獣がいる気配はない。
「すぐに何かが来る様子はありません」
自分と、画面の向こう側へ向けて言う。
「ただ、今夜は火を絶やさないようにします。水場へ戻るのも、周囲を確認してからにします」
白い少女は振り返らなかった。
青白い瞳は、木々に遮られた上流の向こうへ向けられている。
その表情に、先ほどまでの好奇心はなかった。
恐れているのか。
何かを思い出しているのか。
地球側にも分からない。
恒一には、その表情を見ることさえできない。
残り一分。
「魚罠は、いったん仮小屋へ置きます」
残り三十秒。
「次に仕掛ける場所は、明日決めます」
残り十秒。
恒一は、白い少女がいるかもしれない左側と、赤い点を順番に見た。
「今日も、ありがとうございました」
残り時間がゼロになる。
赤い点が消えた。
『幽霊ちゃんがまだ上流を見てる』
『ポチ、今夜は気をつけて』
『さっきの揺れ――』
届かなかった文字だけが、暗くなった配信画面へ残る。
さっきまで恒一の横顔だけを追っていた少女は、もう一度も彼を見なかった。
風はない。
それでも、葉の器の水面には、小さな輪が幾つも広がっていた。
その震えの意味を知っていたのは、白い少女だけだった。




