↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/28

第12話 見えない手を取る

挿絵(By みてみん)

 赤い点が消えてからも、葉の器の水は揺れていた。


 小さな輪が幾つも重なり、器の縁へ当たって消える。


 恒一は杖を握ったまま、火のそばから動かなかった。


 配信は終わっている。


 同時視聴者数も、十五分前に送られたコメントも、もう見えない。


 残っているのは灰色のRECと、次の配信までを数えるNEXT LIVEだけだった。


「……まだ、そちらを見ているんでしょうか」


 水場のある方向へ問いかける。


 返事はない。


 いつもなら左腕の外側にある冷たさも、今は仮小屋の入口近くへ離れていた。


 白い少女は、木々に遮られた上流を見ている。


 長い髪の先は、水の中にいるようにゆっくり揺れていた。


 恒一には、その姿も表情も見えない。


 けれど、先ほどまで隣にあった冷たさが遠ざかったことだけは分かった。


 水面の輪は、しばらくして消えた。


 森の音が戻る。


 鳥の声。


 葉の擦れる音。


 遠くを流れる水。


 何かが近づく足音はない。


 恒一はすぐに水場へ向かわなかった。


 魚の内臓と頭を葉へ包み、仮小屋から数十歩だけ離れた下流側へ埋める。暗くなる前に戻れる範囲から出ず、土を杖で掘り返し、上へ石を載せた。


 火へ戻ってからも、一時間は魚を口にしなかった。


 舌の痺れも、喉の違和感も、腹痛もない。


 残していた身をもう一度火へかけ、中心まで温め直す。


 少量ずつ食べ終えた頃には、森はほとんど暗くなっていた。


 初めて捕れた魚だった。


 罠を直せば、次も捕れるかもしれない。


 水場と火と仮小屋がある。


 昨日までなら、その事実を一つずつ、生き延びるための前進として数えていた。


 その夜、恒一は同じ場所へ住み続ける方法を考えなかった。


 火へ太い枝を足す。


 水を手元へ置く。


 杖と石片を、眠ったままでも右手で取れる位置へ置く。


 それから、持っていくものと、置いていくものを頭の中で分け始めた。


     ◇


 二度目の揺れは、月が高くなる前に来た。


 最初より長かった。


 仮小屋の葉は動かない。


 大木の枝も揺れていない。


 それでも地面へ置いた水だけが、器の片側へ寄った。


 水場のある側だった。


 地面は、そちらへ傾いていない。


 白い少女が入口から離れる。


 その前に一度だけ、胸の奥にある淡い光へ手を当てた。


 何を恐れているのか、少女自身にも分からない。


 ただ、その光だけが逃げろと訴えるように、細かく震えていた。


 水場へ向かったのではない。


 恒一と上流の間へ立つように、仮小屋の前へ出た。


 恒一は見えない位置を、冷たさの変化で追った。


「近くに、何かいるんですか」


 少女は振り返る。


 言葉の意味は分からない。


 けれど、自分へ向けられた声だとは気づいた。


 恒一と森の奥を交互に見たあと、少女は白い石が続く道の反対側へ移った。


 数歩進み、戻ってくる。


 もう一度、同じ方向へ進む。


 恒一のそばへ戻り、また離れる。


 何度目かで、恒一もその動きに気づいた。


 冷たさが、同じ方向へ行っては戻っている。


「……あちらへ行け、ということですか」


 少女は、言葉には答えない。


 ただ、恒一が顔を向けた先へ移り、そこで止まった。


 水場とは反対。


 上流から遠ざかる方向だった。


 恒一はすぐには立たなかった。


 暗い森を、傷の残る身体で歩く危険は大きい。


 道の先に何があるかも分からない。


 けれど、ここに留まることが安全だという根拠も、もうなかった。


「明るくなったら、移動します」


 恒一は白い石の道へ向けて言った。


「いま出れば、足元も退路も確認できません。夜が明けるまでは、ここで備えます」


 少女が理解した様子はない。


 それでも、恒一が荷物を一か所へ集め始めると、道の先から彼のそばへ戻った。


 その直後、森の奥で羽音が重なった。


 一羽や二羽ではない。


 暗い梢から鳥が一斉に飛び立ち、仮小屋の上を越えていく。


 向かう先は、水場と反対だった。


 遅れて、低い草むらが幾つも揺れる。


 親指ほどの角を持つ小さな獣が二匹、白い石の間を駆け抜けた。


 恒一の火を恐れて立ち止まることもない。


 その後ろを、青い背の細長い生き物が追う。


 互いを襲わない。


 同じ方向へ逃げていた。


 恒一は、集めた荷物の結び目を強く締めた。


 朝まで待つという判断は変えない。


 ただし、眠ることは諦めた。


     ◇


 八日目の朝、森から鳥の声が消えていた。


 風はある。


 葉も揺れている。


 それでも、いつも夜明けと同時に聞こえていた鳴き声が一つもない。


 仮小屋の周囲には、夜のうちについた足跡が残っていた。


 大きさも形も違う。


 どれも水場の方から来て、反対側へ続いている。


 恒一は、上流の様子を確かめに行かなかった。


 水を補充したい。


 魚罠をもう一度使えるか見たい。


 揺れの原因を自分の目で確かめたい。


 どれも、戻る理由にはならなかった。


 見えない少女は、夜のあいだ一度も水場へ戻ろうとしなかった。


 何より、森に棲む生き物が同じ方向へ逃げている。


 それだけで十分だった。


 恒一は、携帯できる葉の器へ残った水を移した。


 食べられると確認できた赤い実。


 乾かしておいた甲殻の獣の肉。


 石片。


 余った布と蔓。


 火を移せるよう、乾いた樹皮を葉へ包む。


 すべてを一つにまとめると、肩から下げられる重さを少し超えた。


 魚罠は持っていけない。


 何日もかけて集めた枝も、葉を重ねた屋根も、石で囲った火床も置いていく。


 恒一は魚罠へ触れ、歪んだ入口を一度だけ見た。


 昨日、初めて一匹が入った。


 次は結び方を直すつもりだった。


「……次は、別の場所で作ります」


 誰へ向けるでもなく口にする。


 作り方まで、この場所へ置いていく必要はない。


 恒一は火へ水をかけ、残った炭へ土をかぶせた。


 手の甲を近づけ、熱が残っていないことを確かめる。


 仮小屋の入口から、六日間使った寝床を見る。


 最初の夜にはなかった屋根。


 火。


 食料を置く場所。


 水場までの道。


 昨日までは、ここで暮らすために足りないものを数えていた。


 今日は、持って出られるものだけを数えた。


 恒一は荷物を右肩へ掛け、杖を持った。


「行きます」


 左側へ声をかける。


 微かな冷たさが、すぐに腕の外側へ寄った。


 少女は恒一の横へ並ぶ。


 二人は、水場と反対の道へ入った。


 恒一が仮小屋を振り返ったのは、一度だけだった。


挿絵(By みてみん)


     ◇


 白い石は、森の奥へ途切れながら続いていた。


 道と呼べるほど整ってはいない。


 地面から頭を出した石を目印にしなければ、獣の通り道と区別できない場所もある。


 恒一は急がなかった。


 十数分歩き、息を整える。


 左腕と右脚の状態を確かめる。


 水を一口だけ飲み、また進む。


 NEXT LIVEが示す数字は、まだ九時間以上残っていた。


 補正が使える時刻まで待つために、危険な場所へ留まるつもりはない。


 動けるうちに距離を取る。


 ただし、疲れて足元の判断が鈍る前に止まる。


 配信がなくても、その基準は変えなかった。


 白い少女は、恒一より少し前を進んだ。


 普段なら気になるものを見つけるたび、草や石のそばで立ち止まる。


 今日は止まらない。


 何度も後ろを振り返り、恒一との距離が開けば戻ってくる。


 言葉を覚えようと、口元を覗き込むこともなかった。


 少女が急いでいる。


 姿が見えなくても、そのことだけは冷たさの移動から伝わった。


 昼を過ぎた頃、三度目の揺れが来た。


 今度は、恒一にも地面が動いたとはっきり分かった。


 木の幹へ手をつき、身体を支える。


 頭上から細い枝が落ちた。


 遠くで、何かが連続して折れる。


 一度。


 二度。


 三度。


 木が倒れる音に似ていた。


 ただし、一方向から順番に近づいてくる。


 恒一は音の間隔を数えようとした。


 途中でやめた。


 揺れが収まると同時に、白い石の脇から小さな獣が飛び出したからだ。


 朝に見たものとは違う。


 灰色の毛に覆われ、後ろ脚だけが長い。


 獣は恒一を見ても進路を変えず、杖のすぐ横を抜けていった。


 片方の耳が裂けている。


 背には、恒一の手の幅より太い擦り傷が走っていた。


 恒一は追わない。


 傷を確かめにも行かない。


 荷物の位置を直し、さらに先へ進んだ。


     ◇


 NEXT LIVEが一時間を切った頃、白い石は低い岩場へ出た。


 片側は、木の根が絡んだ斜面。


 反対側は、背の低い草が広がる窪地だった。


 森の中より見通しはいい。


 水場はない。


 寝床にできる場所も見つからない。


 それでも、近くに獣が隠れていないことは確かめやすかった。


 恒一は太い根のそばへ荷物を下ろし、残った時間を休息へ使った。


 乾いた肉を少量だけ食べる。


 水を飲む。


 左腕の布を巻き直す。


 傷は塞がりかけている。


 右脛も歩けないほどではない。


 それでも、朝からの移動で脚は重くなっていた。


 白い少女は休まなかった。


 岩場の端へ行き、来た道を見る。


 恒一のそばへ戻る。


 また道を見る。


 NEXT LIVEがゼロへ近づくほど、その間隔は短くなった。


 ――00:00:03。


 恒一は荷物を背負い直した。


 休むためではなく、移動を続けるために配信を使う。


 灰色のRECが消える。


 赤い点が灯った。


 ――LIVE。


 ――残り時間 59:59。


 身体を包んでいた疲労が、一枚薄くなる。


 右脚へ力が戻る。


 呼吸が深くなった。


 同時視聴者数は、ゼロから増えていく。


 十一人。


 二十八人。


 四十人。


 通知から来た者が重なり、五十人を越えた。


「こんばんは。ポチです」


 恒一は赤い点へ向け、いつもの挨拶をした。


「異世界生活、八日目。今日も生きています」


 地球側では、彼の背後を見た者からコメントを送っていた。


『小屋じゃない』


『移動してる?』


『荷物まとめてる』


『幽霊ちゃんもいる』


『顔が昨日と全然違う』


『ずっと後ろを見てる』


『現地嫁をいじってる場合じゃなさそう』


 白い少女は、恒一の左ではなく後ろにいた。


 来た道へ身体を向け、動かない。


「今日は、仮小屋からの配信ではありません」


 恒一は歩き始めた。


「昨夜から弱い揺れが続いています。複数の生き物が、水場の方から同じ方向へ逃げました」


 白い石を一つ越える。


「水場へは戻っていません。魚罠も、小屋も置いてきました」


 言葉を切り、足元を確かめる。


「あの場所へ戻る予定はありません」


 昨日、一匹の魚を捕った。


 火を絶やさず、雨を避けられる場所も作った。


 そこで続けられる生活が、ようやく形になり始めていた。


「魚が捕れても、火があっても、土地そのものが危険なら残れません」


 恒一は後ろを見なかった。


「今日の目的は、あの場所からできるだけ距離を取ることです」


 地球側のコメント欄が速くなる。


『判断が早い』


『昨夜何があった』


『魚回の翌日に拠点放棄』


『スローライフ終了のお知らせ』


『最初からサバイバルだろ』


『幽霊ちゃんが後ろを警戒してる』


『来た道の草、揺れてないか』


 その警告は、まだ恒一へ届かない。


     ◇


 ――残り時間 45:00。


 配信開始直後のコメントが、恒一の視界へ現れた。


『小屋じゃない』


『移動してる?』


『幽霊ちゃんもいる』


『ずっと後ろを見てる』


『現地嫁をいじってる場合じゃなさそう』


「いますか」


 恒一は歩調を落とさず、左側へ声を向けた。


 返事はない。


 けれど、腕の外側へ微かな冷たさが一度だけ触れる。


 少女は道の後ろから戻り、恒一の横へ来ていた。


「昨夜から、何度も進む方向を示してくれました」


 恒一は白い石の先を見る。


「意味を正しく読み取れている保証はありません。ただ、少なくとも水場へ戻るようには見えなかった」


 少女は自分へ向けられた声に気づき、恒一の横顔を見る。


 昨日のように笑うことはない。


 すぐに来た道へ視線を戻した。


「今回は、そちらを信じます」


 白い少女には、その言葉の意味が分からない。


 それでも恒一が立ち止まらず、自分が示した方向へ進んでいることは分かった。


 少女は少しだけ彼のそばへ寄り、また後ろへ顔を向けた。


 残り四十一分。


 地面が揺れた。


 岩場の小石が、同時に低い方へ転がる。


 恒一は足を止め、太い杖を地面へついた。


 補正で身体は動く。


 揺れる地面まで止められるわけではない。


 遠くで、木が折れた。


 今度は一つではない。


 重いものが枝を押し分け、一直線に進んでいる。


 白い少女が恒一の前へ出た。


 地球側には見えている。


『幽霊ちゃんが前に出た』


『来た道の奥』


『何か走ってる』


『ポチ、右の斜面へ』


『早く動け』


 恒一へ届くのは十五分後だった。


 それでも彼は、コメントを待たなかった。


 揺れが収まる前に、荷物を肩から外す。


 水と食料を太い根の陰へ置き、石を二つ右ポケットへ入れた。


 杖を両手で持つ。


 逃げ道を確かめる。


 右は根の絡んだ斜面。


 数歩なら上がれる。


 左の窪地は草が深く、足元が見えない。


 前へ進めば岩場が狭くなる。


 後ろから来るものを見てからでは遅い。


 恒一は右の斜面へ二歩上がった。


 ――残り時間 34:00。


 その直後、木々の間から獣が飛び出した。


 猪より大きい。


 低く伸びた頭の左右から、黒い角が前へ曲がっている。


 前脚は二本。


 胴の下には、さらに四本の脚があった。


 六本すべてが泥と水に濡れている。


 灰褐色の毛は身体へ張りつき、口から白い泡を垂らしていた。


 恒一を狙って来たのではない。


 獣は何度も後ろを見ていた。


 白目の目立つ目で、木々の奥ばかりを確かめている。


 背から脇腹へ、四本の深い傷が走っていた。


 一本の幅だけで、恒一の掌より広い。


 何に傷つけられたのかは分からない。


 ただ、その大きな獣が、傷を負ったまま逃げている。


「……あれも、逃げているのか」


 六脚の獣は、恒一に気づいた。


 止まらない。


 止まれない。


 狭い岩場で前脚を滑らせ、黒い角を持ち上げた。


 逃げる先にいる恒一を、そのまま押し退けようとしていた。


挿絵(By みてみん)

     ◇


 最初の一撃は、斜面へ上がった分だけ外れた。


 黒い角が、恒一のスウェットの裾を掠める。


 布が裂けた。


 獣の肩が杖へ当たり、両腕へ重い衝撃が走る。


 恒一は押し返さない。


 杖を斜めへ滑らせ、獣の力を下へ逃がす。


 六脚の獣はそのまま前へ抜け、岩へ角をぶつけた。


 硬い音が響く。


 普通なら、それで進み続けたはずだった。


 だが、前方の道は倒れた幹で半分塞がれている。


 獣は前の二本を幹へかけ、残る四本で地面を掻いた。


 身体が通らない。


 後ろからは、また低い振動が近づいている。


 獣が悲鳴を上げた。


 太い胴を無理に捻り、恒一のいる斜面へ顔を戻す。


 逃げ道を塞いでいるのが何かを見分ける余裕もない。


 黒い角が、横から薙ぐように迫った。


 恒一は根を蹴った。


 LIVEが始まる前なら、重くなった右脚はそこまで上がらなかった。


 補正で戻った力が、身体を根の上へ押し上げる。


 角の先が靴底の下を通った。


 恒一は体勢を崩し、斜面へ左肩から落ちた。


 土が口へ入る。


 杖は手放さなかった。


 獣が向きを変える音を聞きながら、右手をポケットへ入れる。


 石を一つ掴む。


 目を狙わない。


 獣の左前方、倒れた幹の向こうへ投げた。


 石が岩へ当たり、高い音を立てる。


 六脚の獣の顔が、そちらへ動いた。


 ほんの一瞬。


 恒一は立ち上がり、斜面をさらに二歩上がった。


 逃げ切れる距離ではない。


 ただ、角の正面からは外れた。


 獣は倒れた幹へ身体をぶつけた。


 一度。


 二度。


 乾いた木が軋み、根元からずれる。


 道が開きかける。


 そのとき、森の奥で、それよりはるかに太いものが折れた。


 六脚の獣の動きが止まった。


 耳が後ろへ伏せられる。


 傷ついた身体が震えた。


 恒一ではない。


 倒れた幹でもない。


 獣が恐れているものは、まだ木々の向こうにいる。


『あの大きさが怯えてる』


『ポチを食う気じゃない』


『逃げ道にいるから退かそうとしてる』


『背中の傷、何につけられた』


『後ろから来るものの方がまずい』


 地球側では分かっていても、恒一へは届かない。


 六脚の獣が、もう一度幹へ突進した。


 幹が折れる。


 ――残り時間 27:00。


 その反動で黒い角が斜面側へ跳ね上がった。


 恒一は避けようとした。


 右足を置いた土が崩れる。


 身体が半歩、下へ滑った。


 角の先が、胸の高さへ来る。


 杖を入れても間に合わない。


 逃げる場所もなかった。


 白い少女は、その瞬間まで恒一と獣の間にいた。


 何度も彼へ手を伸ばしていた。


 声は届かない。


 姿も見えない。


 だから少女は、伸ばした手を恒一ではなく、水へ向けた。


 太い根の陰へ置かれた葉の器から、水が一度に浮き上がる。


 草の露が集まる。


 泥へ染み込んでいた水まで、細い糸となって地面から離れた。


 少女の指先へ集まり、薄い壁へ広がる。


 そのうちの一筋が、突然、来た道の奥へ引かれた。


 少女が向けた力とは、逆の方向だった。


 白い少女の目が見開かれる。


 胸の奥の光が、怯えるように縮んだ。


 それでも少女は手を引かない。


 奪われかけた水を引き戻し、恒一の前へ広げた。


 それだけでは、獣の重さを止められない。


 白い少女は水の前へ立った。


 透けていた身体の輪郭が濃くなる。


 長い髪が水の壁へ溶け、衣の裾が地面まで広がった。


 普段は地面へつかなかった足が、初めて岩の上へ触れる。


 少女は、自分の身体ごと水へ重ねた。


 黒い角が壁へ突き刺さった。


 水が弾ける。


 獣の頭が、わずかに横へ逸れた。


 角の先は恒一の胸を外れ、左肩の脇を通り過ぎる。


 代わりに、白い少女の胸元を貫いた。


 血は出なかった。


 青白い身体へ亀裂が走る。


 右肩から腕が飛沫へ変わり、水の壁と一緒に砕けた。


挿絵(By みてみん)


 胸の奥にあった淡い光が、大きく揺らぐ。


 少女の身体は形を保てず、岩場へ崩れ落ちた。


 飛び散った水の一部は、岩へ落ちなかった。


 細かな雫のまま一瞬だけ宙へ留まり、来た道の奥へ吸い寄せられていく。


 遠くで続いていた破壊音が、止んだ。


 次に返ってきた低い振動は、白い石が続く道に沿っていた。


『幽霊ちゃん!』


『庇った』


『身体を水の壁にした』


『右腕が消えてる』


『胸の光が割れた』


『水が後ろへ持っていかれた』


『奥の音、いま止まった?』


『ポチの右、足元』


『触ってくれ』


 警告も悲鳴も、恒一へ届かない。


 彼に見えたのは、何もない空間へ突然集まった水だけだった。


 水が壁になり、黒い角の向きを変えた。


 その直後、左側にあった冷たさが地面へ落ちた。


 恒一の身体へ、獣の肩が当たる。


 衝撃で斜面へ投げ出された。


 背中が根へぶつかり、息が止まる。


 補正がなければ、そのまま起き上がれなかった。


 恒一は喉を鳴らし、無理に空気を吸った。


 六脚の獣は倒れた幹を越えた。


 恒一へとどめを刺そうとはしない。


 泥と水を撒き散らしながら、白い石の先へ走り去る。


 六本の足音は遠ざかっても止まらなかった。


 逃げ続ける。


 さらに大きな何かから。


     ◇


 ――残り時間 23:41。


 恒一は、太い根へ背を預けたまま呼吸を整えた。


 左肩が痛む。


 口の中に土の味が残っている。


 杖は斜面の下へ落ちていた。


 六脚の獣の姿はない。


 来た道から、別の足音も聞こえない。


 恒一は自分の胸へ手を当てた。


 角は触れていない。


 布が裂けただけで、出血もない。


 助かった。


 何かが、角を逸らした。


「……いまのは」


 水が集まった場所を見る。


 濡れた岩と土しかない。


「あなた、ですか」


 いつもの左側へ手を伸ばす。


 冷たさはなかった。


 恒一は身体を起こし、斜面を下りる。


 足元の水へ手を入れる。


 ただ濡れているだけだった。


 少し離れた場所。


 根の下。


 落とした荷物の横。


 手を動かしても、何かに触れる感覚はない。


「どこに、いるんですか」


 問いかけても、返事は聞こえない。


 恒一は初めて、自分から冷たさを探した。


 左腕へ巻いた布が濡れた夜。


 水場から帰るあいだ、歩調に合わせて続いた冷たさ。


 昨日、横顔を覗き込んでいると教えられたとき、頬のすぐそばにあった冷たい空気。


 いつもは、向こうから触れていた。


 恒一が探そうとすれば、何も見えない。


 何も聞こえない。


 それでも、先ほどまでいた。


 いなければ、あの水は動かない。


 いなければ、自分の胸には黒い角が入っていた。


「僕を、庇ったんですか」


 白い少女は、恒一の右膝から少し離れた場所に倒れていた。


 残った左手を伸ばそうとしている。


 指先は岩へ届かない。


 透けた身体の端から、一滴ずつ水が落ちる。


 胸の奥の光は、呼吸の代わりのように弱く明滅していた。


 恒一の手は、そのすぐ上を何度も通り過ぎた。


 地球側では、答えが送られ続けている。


『右』


『もう少し下』


『膝の前』


『そこにいる』


『早く気づいて』


 届くまで、あと十五分。


     ◇


 ――残り時間 19:00。


 獣が木々の間から現れた頃のコメントが届いた。


『幽霊ちゃんが前に出た』


『来た道の奥』


『何か走ってる』


『ポチ、右の斜面へ』


『早く動け』


 もう、獣は去っている。


 恒一は短く息を吐いた。


「警告は間に合いませんでした。獣は通り過ぎました」


 声が震えそうになるのを抑える。


「僕は動けます。左肩を打ちましたが、大きな出血はありません」


 コメントの続きを読む。


『あの獣も逃げてる』


『背中の傷が大きすぎる』


『後ろから何か来てる』


 恒一は来た道へ目を向けた。


 木々の向こうは暗い。


 全身が見えるような何かはいない。


 それでも、地面の奥では低い揺れが続いている。


 先ほどまで森の広い範囲から伝わっていたものが、今は白い石の並びに沿っている。


 ここにも留まれない。


 分かっている。


 けれど、すぐには立ち去れなかった。


「白い少女は、どうなりましたか」


 問いかける。


 今送られる答えは、十五分後まで届かない。


 残り時間は十九分しかない。


 恒一は待たなかった。


 水の染みた地面へ膝をつき、もう一度手を伸ばす。


 濡れた土。


 石。


 千切れた草。


 何もない空間。


 右から左へ、少しずつ高さを変えて探る。


 指先へ、ごく弱い冷たさが触れた。


 追おうとすると消える。


 風かもしれない。


 濡れた土から上がる冷気かもしれない。


 それでも恒一は、その場所から手を引かなかった。


「いますよね」


 声を向ける。


「今度は、僕が探します」


 白い少女の指が、ほんの少しだけ動いた。


 触れるには、まだ遠かった。


     ◇


 ――残り時間 12:00。


 十五分前。


 水の壁が砕けた瞬間のコメントが、恒一の視界へ現れた。


『幽霊ちゃん!』


『庇った』


『身体を水の壁にした』


『右腕が消えてる』


『胸の光が割れた』


『水が後ろへ持っていかれた』


『壁が出た瞬間、奥の音が止まった』


『ポチの右、足元』


『触ってくれ』


 恒一の呼吸が止まった。


 画面の向こうにいる者たちは、十五分前の少女を見ている。


 そこから動いたかどうかは分からない。


 それでも、自分の右。


 足元。


 恒一は右膝をつき直した。


 地面すれすれまで手を下げる。


 濡れた岩の上を、指先でなぞる。


 一度目は何もない。


 二度目。


 小指へ、冷たいものが触れた。


 水滴ではない。


 細い一本の形がある。


 恒一は息を殺し、手のひらを返した。


 冷たさが逃げないよう、ゆっくり指を滑らせる。


 一本。


 二本。


 その先に、五本の指があった。


 何も見えない。


 けれど確かに、小さな手が岩の上にある。


 恒一は、その手を包んだ。


 初めて、白い少女へ触れた。


 冷たい。


 昨日まで感じていた空気の冷たさとは違う。


 指の細さも、手のひらの形も分かる。


 力はほとんど残っていない。


 それでも少女の指が、恒一の手を弱く握り返した。


「そこに、いたんですね」


 声が掠れた。


 恒一には、まだ少女の姿が見えない。


 どこを傷つけたのかも、どれほど身体が崩れているのかも分からない。


 視聴者の言葉だけが、その状態を伝えている。


「見えていなくても、分かります」


 冷たい指を離さない。


「あなたが、僕を助けてくれた」


 少女の胸の光が、また一つ弱くなる。


 地球側の画面で、その輪郭がさらに薄くなった。


『消えかけてる』


『ポチ、手は合ってる』


『離すな』


『何かできないのか』


 その文字は、まだ届かない。


 代わりに、恒一の視界の中央へ、見たことのない表示が現れた。


 赤でも、灰色でもない。


 水面へ月明かりを落としたような、青白い文字だった。


《契約可能な精霊との接触を確認しました》


 恒一は文字を読み、握っている手へ視線を落とした。


 見えない。


 それでも、そこにいる。


 次の一文が現れる。


《対象の霊核損傷を確認》


《生命活動の維持限界まで、残り僅かです》


 冷たい指から、さらに力が抜けた。


「待ってください」


 誰へ向けた言葉か、自分でも分からなかった。


 表示は止まらない。


《生命の共有を伴う精霊契約を開始しますか》


《YES/NO》


 何を共有するのか。


 契約すれば、自分に何が起きるのか。


 精霊という言葉が、本当に少女を指しているのか。


 確認すべきことはいくらでもあった。


 恒一は、一つも尋ねなかった。


 尋ねても返事は十五分後だ。


 少女には、その十五分が残っていない。


「する」


 迷わず、YESを選ぶ。


「何が起きるかは、助けてから考えます」


 冷たい手を、両手で包んだ。


「今度は、僕が助けます」


 少女の指が、もう一度だけ握り返す。


「だから――消えないでください」


 青白い文字が、光へ変わった。


挿絵(By みてみん)


 契約が始まる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。