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第13話 二つの月と、ひとつの名前

挿絵(By みてみん)

 契約が始まる。


 恒一の視界を満たしていた青白い文字が、細かな光へ変わった。


 光は、つないだ手の隙間へ集まっていく。


 見えない少女の指が、恒一の手の中でほどけた。


「待ってください」


 離れていく手を追い、さらに強く包む。


 冷たさは消えなかった。


 代わりに、細い糸のような光が恒一の手のひらへ入り込んだ。


 左腕を通る。


 肩を越える。


 胸の奥へ届いた瞬間、心臓が一度だけ大きく打った。


 痛みではない。


 けれど、自分の内側へもう一つの鼓動が重なったような感覚に、恒一は息を詰めた。


《精霊契約を受理しました》


《対象の霊核を契約者の生命へ接続します》


 胸から熱が抜けていく。


 夏の夜に冷たい水へ入ったときのように、皮膚ではなく身体の中心から体温を奪われた。


 恒一の両腕が震える。


 それでも、手は離さなかった。


 青白い光が強くなる。


 濡れた岩も、千切れた草も、倒れた木の根も光の中へ沈んだ。


 その白さの奥で、恒一は知らない景色を見た。


 石造りの家々。


 屋根を越えていく濁った水。


 水の底で傾く鐘楼。


 揺れている鐘から、音は聞こえない。


 青白い大きな光が、沈みゆく町を包もうとしていた。


 その光へ、水の向こうから巨大な影が重なる。


 影が口のようなものを開いた。


 光が引き裂かれる。


 散った欠片の一つへ、小さな手が伸びた。


 そこで景色は途切れた。


 恒一は濡れた岩場へ戻っていた。


 何を見たのか、考える時間はなかった。


 握っている冷たい手の先で、青白い光が弱く明滅している。


 周囲へ飛び散っていた水滴が、一つずつ宙へ浮いた。


 来た道の奥へ引かれかける。


 その動きを遮るように、恒一の胸と少女をつなぐ細い光が強く輝いた。


 水滴は向きを変えた。


 細い流れとなって、見えない身体へ戻っていく。


《霊核の崩壊を停止しました》


《損傷部の仮修復を開始します》


 恒一の手の中で、空間が色を持った。


 最初に見えたのは、五本の細い指だった。


 白く透けた手のひら。


 水の膜に包まれたような手首。


 そこから青白い輪郭が腕を伝い、肩へ広がっていく。


 胸元には、淡い光があった。


 大きな亀裂が走り、今にも砕けそうに揺れている。


 光の糸が亀裂を縫うたび、恒一の胸からまた一つ熱が抜けた。


 割れていた光が、ゆっくりと閉じる。


 失われた右肩から先へ水が集まり、腕の形を作り直した。


 指先まで戻っても、右腕だけは他の部分より薄い。


 その身体を包んでいるのは、布ではなかった。


 水を細く編み上げたような衣が、胸元から足先へ流れている。


 透き通った裾の縁では、雫が落ちきらず、また上へ戻った。


 腰よりも長い髪は、ほとんど白に近い。


 その一本一本へ淡い青が混ざり、水の中にいるように揺れていた。


 最後に、伏せられていた瞼が色を持つ。


 少女が、ゆっくり目を開いた。


 青白い瞳が、恒一を映した。


 ――残り時間 11:18。


 二人の視線が、初めて正確に重なった。


「……いた」


 それ以上の言葉が、すぐには出なかった。


 少女の姿は、画面の向こうから何度も教えられていた。


 白い少女。


 長い髪。


 水のような衣。


 恒一の左側にいて、傷を冷やし、火を起こす手伝いをし、言葉を覚えようと口元を見ていた人。


 想像していた形と、目の前にある姿はよく似ている。


 それでも、知っていたとは思えなかった。


 青白い瞳が動く。


 恒一の顔。


 裂けた服。


 左肩。


 黒い角が通り過ぎた胸元。


 一つずつ確かめたあと、少女の表情から力が抜けた。


 その瞬間、恒一の胸へ、自分のものではない感情が流れ込んだ。


 温かくはない。


 言葉にもなっていない。


 ただ、胸を締めつけていたものがほどけるような、深い安堵だった。


 少女自身が助かったことへの安堵ではない。


 恒一の身体に角が刺さっていない。


 恒一が生きている。


 そのことだけを確かめ、少女は安心していた。


「……僕の心配をしているんですか」


 少女は答えない。


 声に反応して目を上げたものの、言葉の意味を理解した様子はなかった。


 左手を持ち上げ、恒一の胸へ触れる。


 触れた指は冷たい。


 けれど、もう空気の温度ではなかった。


 指の形も、手のひらの重さもある。


 恒一は少女の左手へ、自分の手を重ねた。


「大丈夫です」


 伝わる保証はない。


 それでも、助かったという思いを込めて、ゆっくり頷いた。


 少女の瞳がわずかに揺れる。


 言葉ではなく、恒一が伝えようとした意図だけが、細い光を通って向こうへ届いた。


 同じように、少女から小さな安堵が返ってくる。


 会話ではない。


 名前も、理由も、過去も分からない。


 ただ、互いが何を心配し、何を拒み、どちらを望んでいるのか。


 その輪郭だけが、胸の奥へ触れた。


《精霊契約が成立しました》


《契約精霊との意思伝達経路を形成しました》


 似た形式の表示を見たのは、これまで配信レベルが上がったときだけだった。


 配信可能時間が延びたときも、コメントの遅れが短くなったときも、表示は配信レベルの上昇を告げていた。


 異世界と地球をつなぐ配信にだけ備わったものだと、恒一は思っていた。


 けれど、いま同じ文字が、精霊との契約と生命の接続を告げている。


 ――配信以外にも、こういう仕組みがあるのか。


 自分に備わっているものなのか。


 それとも、この世界に元から存在するものなのか。


 疑問が続きかけたところで、少女の胸に残る亀裂が不安定に明滅した。


 恒一は、考える順番を切り替えた。


 仕組みが何であれ、いま確かめるべきなのは少女が助かったかどうかだった。


 地球側のコメント欄は、契約が始まった瞬間から流れ続けていた。


『見えた』


『ポチが幽霊ちゃんを見てる』


『目が合った』


『右腕が戻ってる』


『生きてる』


『よかった』


『八日目でやっと初対面か』


 いま送られた文字が恒一へ届く頃には、配信は終わっている。


 彼の視界へ現れているのは、水の壁が砕けた直後のコメントだけだった。


『右の足元』


『もっと下』


『幽霊ちゃんが動かない』


『胸の光が消えそう』


 恒一は遅れて届いた文字と、目の前の少女を交互に見た。


「皆さんには、ずっとこの人が見えていたんですね」


 少女は自分へ向けられた声を聞き、少し首を傾けた。


 その表情まで、今は見える。


挿絵(By みてみん)


「初めまして、になるんでしょうか」


 言い終わる前に、少女の顔が強張った。


 白い石が続く道へ振り返る。


 胸の光が、恒一の鼓動より速く明滅した。


 次に流れ込んできた感情は、安堵とはまるで違った。


 冷たいものが、背中から胸を突き抜ける。


 恐怖。


 ここから離れなければならない。


 白い石の先へ行ってはいけない。


 水のある低い場所へ近づいてはいけない。


 文章ではない。


 それでも、その三つだけは間違えようがなかった。


 地面の奥で、低い揺れが返ってきた。


 先ほどより遠い。


 止まったわけではない。


 白い石の並びに沿って、ゆっくり近づいている。


 少女が右腕を上げた。


 仮修復された指先が震えながら、木の根が絡む斜面の上を示す。


 恒一はそちらを見る。


 岩が多く、草は少ない。


 水気もない。


「あちらですね」


 少女は言葉に頷かなかった。


 恒一が示された方へ身体を向けた瞬間、胸へ肯定に近い安堵が届いた。


 それで十分だった。


     ◇


 ――残り時間 10:02。


 恒一は少女の手を離した。


 今度は、冷たさも姿も消えない。


 少女は自分の左手を見つめ、指を一度開いてから握った。


 触れられたことを確かめているようだった。


「ここを離れます」


 恒一は斜面を下り、太い根の陰へ置いていた荷物を拾った。


 葉の器は空になっている。


 集めていた水は、少女が作った壁と一緒にほとんど失われた。


 食料と石片を包んだ荷は残っている。


 斜面へ落ちた杖も拾う。


 左肩へ荷物を掛けようとして、痛みに動きが止まった。


 右肩へ持ち替える。


 少女がすぐそばまで来た。


 恒一の左肩へ触れようとして、途中で手を止める。


 触れれば痛むと思ったらしい。


 その心配が、契約を通して直接伝わった。


「痛みはあります。ただ、歩けます」


 恒一は杖を地面へつき、斜面へ向かう。


「いまは、あなたの方が重傷です」


 言葉は通じない。


 それでも、無理をするなという意図は届いた。


 少女は右腕を胸元へ引き寄せた。


 悔しそうに目を伏せる。


 恒一は斜面を上がり始めた。


 少女も地面から僅かに浮き、その横へ続こうとする。


 一歩目で、長い髪と衣の裾だけが後ろへ残った。


 二歩目を踏み出す前に、足元を形作っていた水が雫へほどける。


 少女の身体が傾いた。


 恒一は杖を放し、倒れかけた身体を受け止めた。


 右腕を少女の背へ回したまま片膝をつき、落とした杖を左手で拾う。


 杖を荷物の結び目へ差し込み、垂れていた蔓を一巻きして固定した。


 荷を右肩から背へ回すあいだにも、少女の足元は雫へほどけていく。


 自分で浮き直そうとした身体が、また傾いた。


 恒一は左腕を膝の裏へ差し入れた。


 考えてから選んだ動きではなかった。


 そのまま細い身体を、胸元へ抱き上げていた。


 左肩へ鋭い痛みが走る。


 歯を食いしばって持ち直すと、腕の中の重さが想像よりも遥かに軽いことに気づいた。


 人ひとりを抱えているとは思えない。


 軽いから運べる、と安堵するより先に、その軽さの方が怖くなった。


 胸元の光は閉じきっていない。


 右腕も、抱き上げた拍子に輪郭が薄くなっていた。


「このまま運びます」


 少女から反応はない。


 両腕を空けて少女を抱え直し、白い石の道を外れた。


 木の根を一つ越えたところで、恒一は腕の中が妙に静かなことに気づいた。


 少女は青白い瞳を大きく開いている。


 触れられていること。


 抱き上げられていること。


 その二つを一度に受け止めきれず、次に何をすればよいのかまで抜け落ちたようだった。


 抱き上げられた姿勢のまま、両手を胸元へ浮かせ、どこへ置けばよいのか分からないように固まっていた。


挿絵(By みてみん)


 先ほどまで届いていた恐怖も、逃げる方向を示す意図も途切れている。


 代わりに、意味を結べない細かな驚きだけが、契約を通して途切れ途切れに伝わってきた。


「苦しいですか」


 恒一が足を止めかける。


 問いの意味は分からなくても、案じられていることは届いたらしい。


 少女は一拍遅れて、慌てたように首を横へ振った。


 長い髪が恒一の腕を滑り、水の光を散らす。


 拒絶も痛みも伝わってこない。


「では、落ちないように掴まっていてください」


 恒一は歩き出した。


 少女の左手が迷いながら下りてくる。


 指先が黒いパーカーの胸元へ触れ、布をそっと摘まんだ。


 右手は仮修復されたまま、まだ胸の前で固まっている。


 恒一は、それを身体を動かすと痛むからだと思った。


 地球側のコメント欄では、まったく別の理解が進んでいた。


『抱えた』


『お姫様抱っこだ』


『幽霊ちゃん固まった』


『目が泳いでる』


『ポチ本人は運んでるだけだと思ってる』


『それどころじゃないけど尊い』


『白い石の方から揺れが来てる』


『低い方へ行くな』


 いま送られた反応が恒一へ届くことはない。


 彼の視界へ流れているのは、獣が走り去った直後の文字だった。


『六脚のやつは逃げてる』


『追わなくていい』


『幽霊ちゃんが倒れたまま』


『奥の振動が白い石沿いに変わった』


 獣はもう見えない。


 倒れていた少女も、いまは腕の中にいる。


 恒一は斜面を上がりながら答えた。


「契約というものが、成立しました」


 荒い呼吸の合間に、腕の中の少女へ目を落とす。


「この人は、生きています」


 少女は自分を見られていることに気づき、また身体を固くした。


「僕にも、姿が見えるようになりました」


 現在の地球側では、同じ事実をすでに見ている。


 それでもコメント欄は、報告を聞いてもう一度速くなった。


『知ってる』


『ずっと待ってた』


『ポチの方から見つけた』


『今度こそ離すな』


『物理的にも離してない』


『それは十五分後に言ってくれ』


 恒一には届かなかった。


 二人は木の根を越え、乾いた斜面を上がる。


 LIVEの補正が残っていても、契約で失ったものまでは戻らない。


 恒一の呼吸はすぐに荒くなった。


 胸の奥へ二つの鼓動がある。


 一つは自分のもの。


 もう一つは、腕の中で弱く明滅する少女の光だった。


 歩調を上げすぎると、その光が乱れる。


 止まれば、背後の揺れが近づく。


 恒一はどちらも数えながら進んだ。


     ◇


 ――残り時間 06:43。


 斜面の途中で、細い水音がした。


 水場は見えない。


 恒一の靴が踏んだ湿った土から、僅かな水が浮き上がっていた。


 一筋の流れになり、斜面を下っていく。


 重力に従っているように見える。


 けれど、その先は白い石が続く道だった。


 腕の中で、少女の身体が強張った。


 衣の端に残っていた一滴が、細く引き伸ばされた。


 道の方へ奪われかける。


 少女の胸と恒一をつなぐ光が、皮膚の下で一度だけ強く脈打った。


 伸びた雫が切れ、少女の衣へ戻る。


 同時に、恒一の胸へ激しい恐怖が流れ込んだ。


 暗い水。


 引き裂かれる光。


 逃げても追ってくる大きな影。


 それは記憶と呼べるほど明確ではない。


 少女自身にも、何を恐れているのか分かっていない。


 ただ、身体の中心にある光だけが、その力を知っていた。


 恒一は足元の湿った場所を避けた。


「水のない方へ行きます」


 腕の中の少女へ向けて言い、乾いた岩の多い右側へ進路を変える。


 胸へ届く恐怖が、ほんの少し薄れた。


 背後で、何かが木を折った。


 六脚の獣が立てた音より低い。


 距離も、姿も分からない。


 恒一は振り返らなかった。


 足を置く岩を選び、右脚で身体を押し上げる。


 背へ固定した杖が枝に触れないよう、上体を低くする。


 足元が滑りかけるたび、少女の左手がパーカーを掴む力を強めた。


 ――残り時間 03:11。


 木々の高さが低くなった。


 斜面の先に、白い岩が重なる尾根が見える。


 地面は固く、足跡もつきにくい。


 水の流れた痕跡はない。


 恒一は最後の力を使い、尾根まで上がった。


 振り返る。


 下に見える木々は何度か揺れた。


 揺れは白い石の道に沿って横へ進み、二人が上がった斜面までは来ていない。


 腕の中の少女は、黒いパーカーを掴んだまま木々の奥を見つめていた。


 恐怖は消えていない。


 それでも、いますぐ走れという切迫した感覚は弱くなっている。


「少しだけ、離れられたようです」


 恒一は岩へ片膝をついた。


 腕の中の少女を、平らな岩の上へそっと下ろす。


 少女の輪郭は揺れたものの、今度は崩れなかった。


 左手だけが、しばらく恒一のパーカーを掴んだまま残った。


 少女はそのことに気づくと、指を一本ずつ離して胸元へ引き戻した。


 残り一分を切る。


 赤い点へ目を向けた。


「いまは、言葉は通じていません」


 少女が声に気づき、隣へ顔を向ける。


「ただ、契約してから、感情や方向のようなものは伝わります」


 残り三十秒。


「詳しいことは、次の配信で報告します」


 恒一は一度、下の森を見た。


「今夜休める場所を探します。水も失いました。まだ安全ではありません」


 残り十秒。


 少女を見る。


 見返してくる瞳がある。


「それでも、二人とも生きています」


 残り時間がゼロになる。


「今日も、ありがとうございました」


 赤い点が消えた。


『生きててよかった』


『明日も二人で来てくれ』


『幽霊ちゃんを頼む』


『ポチも休め』


 届かなかった文字が、暗くなった配信画面へ残る。


 LIVEの表示が灰色のRECへ変わった。


 その瞬間、LIVEの補正が切れた。


     ◇


 岩へついていた右手から、力が抜けた。


 視界の端が暗くなり、片膝をついた身体が前へ傾いた。


 少女が両手を伸ばした。


 恒一の肩を支えようとする。


 仮修復された右腕は途中で透けたが、左手は服を掴んだ。


 重さを受け止められるほどの力はない。


 それでも、その手があったことで、恒一は顔から岩へ倒れずに済んだ。


挿絵(By みてみん)


 左手をつき、荒い呼吸を繰り返す。


 LIVE中に薄くなっていた疲労が、一度に戻ってくる。


 朝から歩き続けた脚。


 六脚の獣に打たれた左肩。


 契約へ渡した熱。


 すべてが別々の重さになって身体へ乗った。


 少女が恒一の前へ回る。


 青白い瞳を大きく開き、頬へ触れた。


 冷たい指が震えている。


 契約を通して、強い心配が流れ込んだ。


「大丈夫です」


 言葉は分からなくても、安心させようとする意図は伝わる。


 少女は首を横へ振った。


 恒一の言葉を否定したのではない。


 無理に立つことを拒んでいる。


 右手で恒一の胸を押し、左手で近くの岩陰を示した。


 休め。


 そこへ行け。


 はっきりした文章ではなくても、今度は迷わなかった。


「分かりました」


 恒一はその場で呼吸が整うのを待った。


 少女も急かさない。


 頬へ置いた手だけは離さなかった。


 先ほどまで、自分が同じように少女の手を握っていた。


 今度は、彼女が恒一の冷たくなった顔へ触れている。


 どちらか一方だけが、助ける側ではなかった。


     ◇


 空が暗くなり始めていた。


 どれほど休んでいたのか、恒一には分からない。


 立ち上がれる程度まで呼吸が戻った頃には、木々の向こうへ夕暮れの色が沈みかけていた。


 尾根の反対側へ十数歩進んだ場所に、岩が張り出した浅い窪みがあった。


 雨を完全に防げる深さはない。


 背中を風から守り、一晩身体を横たえることはできる。


 周囲に大きな足跡はない。


 獣の臭いも残っていない。


 恒一は荷の結び目から杖を抜き、それを支えにして立ち上がった。


 少女もすぐ隣へ浮かぶ。


 恒一を支えようと左手を伸ばし、先ほどと同じようにパーカーの袖を掴んだ。


 力を貸せるほど、少女の身体は戻っていない。


 それでも恒一は、その手を振りほどかなかった。


 二人で歩調を合わせ、十数歩をゆっくり進んだ。


 恒一は荷物を岩壁のそばへ下ろした。


「今日は、ここで休みます」


 少女は窪みの中を見回したあと、恒一のそばへ浮いたまま留まった。


 もう先へ進めという感情は届かない。


 窪みの奥には、風で吹き込まれた乾いた枝が幾つか溜まっていた。


 遠くまで探しに行く体力は残っていない。


 恒一は窪みの中と、入口から二、三歩で届く範囲に落ちていたものだけを集めた。


 少女は何かを手伝おうとするように後を追ったが、右手を伸ばすたび輪郭が薄くなる。


「大丈夫です。座っていてください」


 休んでほしいという意図を送ると、少女は納得していない表情のまま右腕を胸元へ戻した。


 それでも今度は無理に動かず、恒一の手元をじっと見ていた。


 乾かしておいた樹皮をほぐし、小さな火を起こす。


 炎が安定すると、恒一は荷物の中身を確かめた。


 食料と石片はある。


 空になった葉の器も破れてはいない。


 失ったのは、水だった。


 喉の渇きはある。


 それでも、今夜は赤い実の果汁で最低限を凌げる。


 明日、追ってくるものとの距離を確かめながら、新しい水場を探さなければならない。


 恒一は赤い実を一つだけ口にした。


 僅かな酸味と水分が、乾いた喉を通っていく。


 少女は、その一口が終わるまで青白い瞳で見守っていた。


 それから恒一のすぐ隣へ座る。


 地面には触れず、火の光の少し外側へ身体を浮かせた。


 手を伸ばせば届く距離だった。


     ◇


 夜が来た。


 森の音は、仮小屋にいた頃より遠い。


 風が尾根の木々を揺らす音。


 小さな火が枝を焼く音。


 遠くで一度だけ聞こえた獣の声。


 地面の揺れは、尾根へ上がってから届いていない。


 完全に安全だとは言えない。


 それでも、今夜すぐに立ち上がって逃げる必要はなさそうだった。


 恒一は岩壁へ背を預けた。


 少女は隣で、彼の顔を見ている。


 姿が見えなかった頃も、同じように見られていたらしい。


 昨日、コメントで横顔を覗き込まれていると教えられた。


 今は、青白い瞳が自分の口元へ動くのも分かる。


「言葉を覚えようとしていたんですね」


 少女が首を傾ける。


 音としては聞こえていても、文の意味は伝わっていない。


 契約で開いたものは、言葉を訳す道ではなかった。


 恒一は右手の人差し指で、自分の胸を指した。


「ポチ」


 少女は指先を見る。


 もう一度、胸を指す。


「ポチ」


 この音が自分を指すものだという意図を、ゆっくり送る。


 少女の瞳が僅かに開いた。


 恒一の胸へ手を伸ばす。


 指先で触れ、確かめるように口を動かした。


 声にはならない。


 それでも唇は、先ほど聞いた二つの音をなぞっていた。


「はい。ポチです」


 恒一が頷くと、少女から小さな喜びが返ってきた。


 初めて一つの音を、同じものへ結びつけられた。


 恒一は、今度は少女を指した。


「あなたは」


 問いかけるように、手のひらを上へ向ける。


 名前。


 自分を指す音。


 恒一はその意図を、できるだけ単純な形へして送った。


 少女は自分の胸へ手を置いた。


 青白い光が、恒一の鼓動と同じ間隔で明滅している。


 目を閉じる。


 何かを探すように、長いあいだ動かなかった。


 契約を通して恒一へ届いたのは、音ではない。


 水の底のような暗さ。


 手を伸ばしても何にも触れない空白。


 その奥に、形を失った寂しさだけがあった。


 少女は目を開き、ゆっくり首を横へ振った。


 名前がないのか。


 忘れているのか。


 いまは、その違いさえ確かめられない。


「分からないんですね」


 恒一の言葉に、少女は答えない。


 ただ、自分の胸へ置いた手を握りしめた。


 恒一はすぐに次の音を押しつけなかった。


 本当の名前があるかもしれない。


 いま思い出せないだけかもしれない。


 それを別の名前で消してしまうことはしたくなかった。


「本当の名前があるなら、いつか思い出してください」


 文章は伝わらない。


 過去にあったものを奪わない。


 思い出すまで待つ。


 その気持ちだけを送る。


 少女の手から、少し力が抜けた。


 そのとき、尾根を覆っていた薄い雲が流れた。


 岩陰へ、白い光が差し込む。


 恒一は空を見上げた。


 この世界の夜空には、月が二つある。


 一つは、地球で見ていたものより少し大きな白い月。


 もう一つは、その半分ほどの淡い青の月だった。


 二つの月は少し離れて浮かび、重なった光を尾根へ落としている。


 恒一は何度か、その空を見ていた。


 異世界にいることを否定できなくなる景色の一つだった。


 今夜は、月そのものより先に、隣にいる少女へ目が止まった。


 白い月の光が、長い髪の表面を滑る。


 青い月の光は、その内側を通り抜けた。


 二つの光が重なり、ほとんど色のなかった髪へ淡い銀と青を与えていく。


 水で編まれた衣の細い糸が、月明かりを一つずつ拾った。


 袖から裾へ、雫が星のように光る。


 少女自身が強く輝いているわけではない。


 輪郭はまだ薄い。


 右腕も、ときどき月光の中へ溶ける。


 それでも、二つの月に照らされた姿は、暗い尾根でそこだけ柔らかな明かりを置いたように見えた。


 可憐で、静かで、目を離せないほど綺麗だった。


 少女が視線に気づく。


 青白い瞳で恒一を見返し、また首を傾けた。


 恒一の口から、一つの音がこぼれた。


「……あかり」


 少女の瞳が僅かに動く。


 自分へ向けられた音だと気づいた。


「あかり、というのはどうでしょう」


 恒一は少女を指す。


 次に、二つの月と、その光を受けた長い髪を示した。


「月明かりに照らされたあなたが、そう見えたので」


 説明の言葉は届かない。


 この音であなたを呼びたい。


 嫌なら拒んでいい。


 本当の名前を思い出すまでのもの。


 その意図を一つずつ、胸の奥へ送る。


 少女は恒一を見つめた。


 次に二つの月を見上げる。


 最後に、自分の胸へ手を置いた。


「あかり」


 恒一がもう一度呼ぶ。


 少女の唇が、ゆっくり動いた。


 あ。


 か。


 り。


 まだ声にはならない。


 それでも三つの音を口元でなぞり、自分の胸へ指先を当てる。


 恒一へ、問い返すような感覚が届いた。


 この音が、自分なのか。


「はい」


 恒一は頷いた。


「あかりです」


 肯定と、呼びかける気持ちを返す。


 少女はもう一度、自分の胸へ触れた。


 今度は、ゆっくり頷いた。


 名前を受け入れたからといって、霊核の傷が消えたわけではない。


 薄い右腕も、そのまま残っている。


 ただ、少女を指していた呼び方が一つ、名前へ変わった。


「あかり」


 三度目に呼ぶ。


 あかりは、その音が自分へ向けられていると迷わず顔を上げた。


 魚が捕れた日の夜、恒一につられて笑ったときとは違う。


 今度は、自分から目を細めた。


 小さく、柔らかく笑う。


挿絵(By みてみん)


 その喜びが、言葉より先に恒一の胸へ届いた。


 恒一も、張りつめていた息をようやく吐いた。


 二つの月の下で、見えないまま恒一を照らしていた白い少女に、呼びかけるための名前ができた。


 その夜から、彼女は――あかりになった。


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