第14話 離れられない距離
肌寒さに、恒一は目を覚ました。
夜明け前の風が、岩陰の入口から入り込んでいる。
頬を撫で、首元からパーカーの内側へ潜り込む。
身体を縮めようとして、右腕が何かに触れていることに気づいた。
視線を落とす。
胸元に、長い白い髪が広がっていた。
あかりが、恒一の右脇へ身体を寄せて眠っている。
額を肩口へ預け、左手でパーカーの裾を掴んでいた。
地面から僅かに浮いた身体は半分ほど恒一へもたれ、水で編まれた衣の裾と髪の先が、彼の右袖から脇腹へ重なっている。
両目は閉じられていた。
呼吸は聞こえない。
それでも契約を通して届く静かな気配から、いまの彼女が休んでいることだけは分かった。
昨夜、名前を受け入れたあとも、あかりはそこから離れなかった。
小さく笑った顔までは覚えている。
そのあと、いつ眠りへ落ちたのかは覚えていない。
右腕は、いつの間にかあかりの背へ回っていた。
腕の中の姿が、朝になっても消えずにいる。
見えている。
それだけのことを、恒一はしばらく確かめた。
右袖を動かすと、布が肌へ冷たく張りついた。
濡れている。
水を浴びたほどではない。
あかりの髪と衣が触れていたところだけ、夜露が移ったように薄く湿っていた。
肌寒さの半分ほどは、夜明け前の風ではなく、こちらが原因らしい。
このままでは身体が冷える。
火を起こして、少しでも服を乾かしたかった。
ただ、そのためにはまず、寄り添って眠るあかりを起こさずに身体を動かさなければならない。
身体を起こそうとすると、全身へ鈍い痛みが走った。
左肩。
右脚。
前日の朝から歩き続けた両脚と、契約のときに身体の中心から抜けていった熱。
どれか一つなら耐えられる。
すべてが重なり、身体を岩へ押し戻そうとしていた。
小さく息を漏らした瞬間、あかりの目が開いた。
袖を掴んでいた指へ力が入る。
青白い瞳が、恒一の顔から左肩、胸元へ動いた。
契約を通して、強い心配が流れ込んでくる。
「おはようございます」
恒一は、できるだけ普段どおりの声を出した。
「あかり」
名前を呼ぶ。
あかりはすぐに顔を上げた。
言葉の意味は伝わっていない。
それでも、その三つの音が自分を指していることだけは、もう迷わなかった。
自分の胸へ左手を置く。
唇が、声にならない音を一つずつなぞった。
あ。
か。
り。
それから恒一を指す。
今度は、二つの音を口元で作った。
ポチ。
「はい。ポチです」
恒一が頷くと、あかりの表情が僅かに緩んだ。
二人のあいだで通じるものが、昨夜より二つ増えている。
それぞれを呼ぶための音だけだった。
それでも、何もなかった昨日までとは違った。
◇
異世界生活、九日目。
視界の端には、灰色のRECが残っている。
NEXT LIVEが示す数字は、まだ十時間以上あった。
恒一は岩陰の外へ目を向けた。
空は明るくなり始めている。
尾根の反対側から薄い朝日が差し込み、白い岩の角だけを照らしていた。
下の森は、まだ深い影の中にある。
地面の揺れはない。
木が折れる音も、夜のあいだには聞こえなかった。
追ってきた何かが去ったのか。
白い石の道に沿って進み続けたのか。
確認する方法はない。
分かっているのは、この岩陰に水がないことだけだった。
恒一は舌で乾いた唇を湿らせた。
昨夜、口にしたのは赤い実が一つ。
葉の器は空のまま、荷物の脇へ置かれている。
赤い実には水分がある。
残っているものだけでも、すぐに倒れることはない。
ただし、ここで待っていれば、食料より先に水が尽きる。
昨夜の小さな火は、とっくに消えていた。
火床へ手をかざしても、灰に熱は残っていない。
岩陰へ吹き込んでいた枝も、昨夜ほとんど使っている。
身体を温め、湿った服を乾かせるだけの火を起こすには、周囲から乾いたものを集めなければならない。
恒一は杖を手に取り、ゆっくり立ち上がった。
あかりもすぐに浮き上がる。
「近くを見てきます」
岩陰を指す。
次に、地面へ落ちている枝を拾う動きを見せた。
「休んでいてください」
あかりの胸に残る光は、昨夜より安定して見える。
それでも、閉じた亀裂の内側では不規則な明滅が続いていた。
仮修復された右腕も、朝の光を透かすほど薄い。
休んでほしいという意図を、契約を通して送る。
あかりは納得していないように恒一を見た。
それでも岩陰の外へは出ず、左手を胸元へ戻した。
恒一は入口から二歩離れた。
足元に落ちていた枝を一本拾う。
三歩。
白い岩の隙間に、乾いた草が挟まっている。
杖の先で引き寄せる。
もう少し先に、折れた低木の枝が見えた。
太さもある。
火を保つには、あれが必要だった。
恒一は岩を回り込んだ。
七歩目を踏み出した瞬間、胸の奥を細い糸で引かれた。
「――っ」
心臓の痛みではない。
契約のときに重なった、もう一つの鼓動が急に遠くなった。
恒一は振り返った。
岩陰の前で、あかりがこちらへ手を伸ばしている。
右腕の輪郭が消えていた。
肩から先が細かな雫へ変わり、長い髪の先と衣の裾までが、風とは違う向きへ引き伸ばされている。
胸元の光に閉じたはずの亀裂が浮かび、明滅が急速に弱くなった。
あかりは恒一へ近づこうとした。
足元が水へほどけ、前へ進むより先に身体が傾く。
恒一は拾った枝を放した。
七歩を、一息で戻る。
倒れかけたあかりの左手を掴んだ。
冷たい指が、縋るように握り返してくる。
二人の胸をつなぐ細い光が強く脈打った。
宙へ散りかけた雫があかりの肩へ戻る。
右腕はすぐには戻らない。
それでも、胸元の明滅は恒一の鼓動と同じ間隔へ戻った。
《契約精霊の霊核が安定範囲を離れました》
青白い文字が、二人のあいだへ現れた。
《現在の霊核安定範囲:契約者を中心に半径五メートル》
恒一は表示を読み終え、握っている手へ目を落とした。
五メートル。
あかりが、この岩陰から離れられないわけではない。
表示にある中心は、契約者――恒一だった。
彼女は、恒一から離れられない。
「……契約の影響ですか」
あかりは文字を見ていない。
恒一の声を聞き、不安そうに顔を上げる。
彼の胸へ生まれた後悔だけが、言葉より先に伝わっていた。
契約しなければ、あかりは消えていた。
選択を間違えたとは思わない。
それでも、あのとき選んだのは恒一だけだった。
あかりへ条件を説明することも、望みを確かめることもできなかった。
命をつないだ代わりに、彼女を自分のそばへ縛った。
「助けたつもりでいました」
恒一は手を離さないまま言った。
「でも、僕から離れられなくなったんですね」
文章は届かない。
申し訳ないという感情だけが、契約を通して流れていく。
あかりの瞳が見開かれた。
すぐに首を横へ振る。
一度では足りないように、もう一度、強く振った。
左手で恒一の手を引く。
その手のひらを、自分の胸元へ重ねた。
触れた先で、傷ついた霊核が弱く脈打っている。
次に、あかりは右腕を動かそうとした。
まだ形が戻っていないことに気づき、代わりに左手を恒一の胸へ移す。
二つの鼓動を、一つずつ確かめる。
あかりから返ってきたものは、複雑な説明ではなかった。
嫌ではない。
離れたいのではない。
ここにいる。
恒一と一緒にいる。
その意志だけが、昨日よりもはっきり胸へ届いた。
「……そうですか」
どこまで正しく受け取れたかは分からない。
自分に都合よく解釈している可能性もある。
それでも、あかりが自分から握った手まで疑うことはできなかった。
「ありがとうございます」
恒一が力を抜くと、あかりの不安も少しだけ薄れた。
表示はしばらく残り、朝の光へ溶けるように消えた。
現在の霊核安定範囲。
恒一は、その一語を覚えておくことにした。
ずっと五メートルとは書かれていない。
何をすれば広がるのか。
霊核が回復すれば変わるのか。
いまは分からない。
分からないまま、境界をもう一度試すつもりもなかった。
◇
火を起こすための枝は、二人で集めた。
恒一が岩陰から離れるときは、あかりも隣へついてくる。
あかりが細い枝へ興味を示して立ち止まれば、恒一も足を止める。
五メートルという距離を、目で正確に測ることはできない。
だから、互いに手を伸ばせば届きそうな範囲から出ないようにした。
あかりは左手で小枝を一本持ち上げた。
右手でも別の枝を拾おうとする。
指先が触れた瞬間、仮修復された輪郭がまた薄くなった。
恒一が視線を向ける。
あかりは右腕を素早く背中へ隠した。
そのまま、何もなかったような顔で左手の枝を差し出してくる。
「見えていましたよ」
咎める意図は送らず、無理をしないでほしいと伝える。
あかりは目を逸らした。
少しだけ不満そうだった。
それでも右手を使うのは諦め、左手で運べる細い枝だけを拾った。
恒一が二本。
あかりが一本。
岩陰へ戻り、火床のそばへ重ねる。
また一緒に外へ出る。
一人なら数分で終わる作業に、その倍以上の時間がかかった。
それでも、恒一は急がなかった。
冷えた灰を脇へ寄せ、火床の中央へ乾いた草を置く。
その上へ、細く裂いた樹皮を重ねた。
あかりが火床の前へ浮かび、じっと見つめた。
契約前、湿った樹皮から水を抜き、火起こしを助けていたとコメントで教えられた。
いまも手を伸ばしかける。
恒一は首を横へ振った。
「今日は、見ていてください」
火へ手を出さなくてよいという意図を送る。
あかりは左手を膝の上へ戻した。
恒一が石片で火花を散らすたび、視線だけがその先を追う。
何度目かの火花が乾いた草へ残った。
息を細く吹き込む。
赤い点が広がり、細い炎へ変わった。
あかりの顔が明るくなる。
自分が手伝った枝を指し、次に火を指した。
「はい。あかりが拾った枝です」
恒一がその一本を炎へ置く。
小さな達成感が、契約を通して返ってきた。
言葉がなくても、こういうことは伝わるらしい。
恒一は残っていた乾いた肉を少しだけ火へかざした。
そのままでは喉の渇きが強くなる。
赤い実を一つ割り、肉と交互に時間をかけて噛んだ。
酸味のある果汁が口へ広がる。
身体が求めている量には足りない。
空になった葉の器へ、無意識に目が向いた。
あかりも、その視線を追った。
器を見る。
恒一の唇を見る。
もう一度、器を見る。
あかりの表情が変わった。
何かを思いついたように左手を持ち上げる。
「あかり?」
白い指先の周囲へ、細かな光が集まった。
最初に変わったのは、火床の脇に転がる石だった。
朝日が届かない裏側だけが、ゆっくりと色を濃くする。
乾いているように見えた表面へ、針の先ほどの雫が浮いた。
雫は岩を伝って落ちず、あかりの指先へ引かれて宙へ上がる。
次は、岩壁の窪みから。
その次は、空気の中から。
目には見えなかった水気が、一滴ずつ輪郭を得ていく。
水滴は葉の器へ落ちず、あかりの手の上で一つにつながった。
透き通った球が、時間をかけて少しずつ大きくなる。
恒一は、あかりの左手と長い髪を見比べた。
薄くなっていない。
身体を形作る水が失われているわけでもない。
あかりは、何もないところから水を生み出しているのではなかった。
岩陰と朝の空気に残っていた、僅かな水を集めている。
親指ほどに育った水球が、不意に形を崩した。
あかりの胸元で、閉じかけた亀裂が淡く明滅する。
水が足りないのではない。
傷ついた霊核では、集めた水を保ち続けることが難しいらしい。
恒一は落ちかけた水球へ手を伸ばした。
あかりの左手へ、自分の手を重ねる。
胸の奥で、もう一つの鼓動が小さく脈打った。
何かが、恒一の胸から左腕を通って流れていく。
契約のときのように熱を奪われる感覚ではない。
呼吸も、脚の力も変わらない。
ただ、それまで存在すら知らなかった細い流れが、あかりへ触れた瞬間だけ動いた。
歪んでいた水球が、静かに丸い形へ戻る。
《契約精霊への魔力供給経路を確認しました》
《精霊魔法補助:微量》
恒一は一行目を読み返した。
魔力。
そんなものが、自分の中にあるとは考えたこともなかった。
配信中に身体能力が補正されることは知っている。
しかし、いまは配信中ではない。
配信レベルが上がったとき以外にも現れる表示。
契約。
そして、自分でも知らなかった力。
この世界へ来てから、恒一の身には、まだ認識できていない変化が起きている。
疑問は次々に浮かんだ。
けれど、いま確かめるべきなのは自分のことではない。
「苦しくありませんか」
恒一はあかりの胸元を指した。
あかりは水球を浮かべたまま、何度も首を横へ振る。
驚いているのは、むしろ彼女の方だった。
重ねられた手と恒一の胸を交互に見ている。
何が意外だったのかまでは伝わらない。
その代わり、あかりが送ってきた感覚は単純だった。
周囲に散らばる、小さな雫。
それを少しずつ借り、一つに集める。
自分の身体を削ったのではない。
恒一の命を使ったのでもない。
最後の形を支えた、名前の分からない力だけが、契約を通してほんの僅かに流れた。
「……この辺りにあった水を、集めたんですね」
言葉ではなく、理解したという感情を返す。
あかりの表情が明るくなった。
左手を傾けると、水球が細い流れになって葉の器へ落ちる。
底を覆い、もう少しだけ水位が上がったところで、最後の一滴が途切れた。
岩陰の空気は、先ほどより乾いて感じられた。
水気の少ないこの場所では、集められる量にも限りがある。
それでも、一口分にはなっていた。
あかりは葉の器を両手で持とうとした。
薄い右手が器をすり抜け、慌てて左手だけで持ち直す。
こぼれそうになった水面が大きく揺れた。
あかりは一瞬固まり、何も起きなかったような顔で恒一へ差し出した。
飲んでほしい。
水が必要だ。
その意図だけは、はっきり届いた。
「ありがとうございます」
恒一は器を受け取った。
ここにあった水を集めただけなら、断る理由はない。
「いただきます」
器の端へ口をつける。
冷たい水が、乾いた喉を通った。
量は少ない。
それでも、身体が求めていた一口だった。
器を空にすると、あかりの胸から小さな達成感が届く。
恒一は感謝だけを、言葉より強く送り返した。
そのあとで、葉の器と尾根の先を順番に指した。
「水は、一緒に探しましょう」
自分と、あかり。
空の器。
進む先。
探す。
意図を単純な形へ分けて伝える。
あかりはしばらく考えた。
やがて、空の器へ左手を添えた。
恒一と同じ方向を見る。
胸へ返ってきたのは、弱い肯定だった。
◇
日が尾根の上まで昇る前に、二人は岩陰を離れた。
火へ土をかぶせる。
灰の上へ手をかざし、熱が残っていないことを確かめる。
食料と石片、布と蔓、乾いた樹皮、空の葉の器をまとめる。
荷物は、昨日より軽くなっていた。
水がない分だけだった。
軽さを喜ぶことはできない。
恒一は荷を右肩へ掛け、杖を持った。
あかりは左隣へ浮かぶ。
手を伸ばさなくても届く距離だった。
尾根は二つの方向へ続いている。
一方は、昨日上がってきた斜面の上を横切り、白い石の道と同じ方向へ延びていた。
もう一方は、岩の多い高い場所を通り、森の奥へ曲がっている。
低い場所へ下れば、木々の色は濃い。
水がある可能性は高い。
同時に、昨日の揺れも、水のある方から来ていた。
恒一は一つ目の方向を指した。
あかりの胸から、不安が返ってくる。
次に、乾いた尾根を指す。
恐怖は消えない。
それでも、最初の方向よりは弱かった。
「こちらですね」
恒一は乾いた尾根へ身体を向けた。
水を探さなければならない。
だからといって、最初に見つけた低地へ下りることはできない。
まず、白い石の道と、追ってきたものから距離を取る。
尾根を進み、別の斜面を探す。
水へ近づくのは、そのあとだった。
あかりが、恒一より半歩前へ出た。
すぐに振り返る。
これまで姿が見えなかったときも、彼女は何度も同じことをしていたらしい。
恒一が遅れれば戻り、歩調を合わせる。
いまは、その動きまで見ることができる。
「行きましょう」
あかりは言葉ではなく、進もうとする恒一の意図へ頷いた。
二人で尾根を歩き始めた。
◇
並んで歩くぶんには、五メートルは狭すぎる距離ではなかった。
あかりは恒一の左前を進む。
岩の向こうを確かめ、危険がなければ振り返る。
恒一が追いつくまで、その場で待つ。
それだけなら、霊核が揺らぐことはない。
問題になるのは、何かを見つけたときだった。
尾根の端で光る小さな石。
風に揺れる、先端だけ青い草。
岩の隙間から顔を出した、羽のある虫。
あかりは気になるものを見つけるたび、そちらへ寄ろうとする。
二歩進み、恒一を振り返る。
距離を思い出したように戻ってくる。
何度目かには、恒一の方から足を止めた。
「見てきていいですよ」
あかりが気にしていた青い草を指す。
自分も一緒に近づく。
あかりは草の前へ屈み込み、細い葉を左手で揺らした。
先端の青は花ではない。
葉そのものが、空の色を吸ったように透けている。
食べられるかは分からない。
水分もほとんどなさそうだった。
恒一にとっては、それで終わるものだった。
あかりは違った。
角度を変えて何度も覗き込み、葉へ光が通るたび目を細める。
その小さな興味が、契約を通して恒一へ流れ込んでくる。
昨日まで、彼女の感情を知る方法はなかった。
視聴者から、好奇心旺盛だとは教えられていた。
いまは、気になるものを見つけた瞬間まで直接分かる。
「持っていくことはできませんよ」
恒一が歩く方向を示すと、あかりは名残惜しそうに草から手を離した。
その反応に、恒一は僅かに口元を緩めた。
あかりが振り返る。
笑われた理由が分からず、首を傾けた。
「何でもありません」
否定ではなく、穏やかな気持ちだけを返す。
あかりはまだ不思議そうにしながら、恒一の左側へ戻った。
五メートルの範囲は、彼女の行動を確かに狭めている。
けれど、恒一まで同じ方向へ動けば、行ける場所は変わる。
一人がもう一人を引くのではない。
二人で中心を動かせばいい。
そう考えると、胸の奥に残っていた後悔が少しだけ形を変えた。
◇
昼を過ぎる頃には、尾根の幅が狭くなった。
右側は緩い斜面。
左側は木々の密集した低地へ落ちている。
白い石の道は、もう見えない。
地面の揺れも戻ってこなかった。
代わりに、喉の渇きが強くなっている。
恒一は何度か立ち止まり、赤い実を半分ずつ口にした。
乾いた肉は残してある。
水が見つかるまでは、余計に喉が渇くものを食べられない。
あかりは、恒一が実を口へ運ぶたび左手を空へ向けた。
白い指先に淡い光が集まる。
空気が僅かに揺らいだものの、朝のような雫にはならなかった。
日差しと風にさらされた尾根では、水気を集めるにも時間がかかるらしい。
あかりは左手を下ろし、悔しそうに乾いた岩を見た。
「あかり」
呼ぶと、すぐに顔が上がる。
恒一は空の葉の器を持ち上げた。
次に、尾根の先を指す。
「探しています」
朝と同じ意図を送る。
一緒に探す。
まだ終わっていない。
あかりだけが何とかする必要はない。
あかりの表情から、僅かに力が抜けた。
左手で自分を指す。
それから恒一と尾根の先を順に指した。
「はい。二人でです」
恒一が頷く。
言葉の意味は通じていない。
それでも、同じものを目指していることは伝わった。
二人はまた歩き出した。
太陽が傾き始める。
NEXT LIVEの数字は、一時間を切っていた。
LIVEの補正が始まれば、恒一はもう少し速く動ける。
ただし、あかりの霊核まで強くなる保証はない。
昨日も、LIVE中でありながら契約へ渡した熱は戻らなかった。
補正を頼りに無理をさせることはできない。
配信が始まる前に、一度休める場所が必要だった。
尾根が緩く曲がった先に、二枚の大きな岩が重なっていた。
下には人一人が座れる影がある。
雨を防ぐことはできない。
周囲を見渡しながら、身体を休めるには十分だった。
恒一は岩のそばへ荷物を下ろした。
あかりも隣へ座る。
昨日の夜と同じ、手を伸ばせば届く距離だった。
NEXT LIVEは、残り三分を示している。
恒一は左肩の布を巻き直した。
あかりが心配そうに覗き込む。
「歩けます」
痛みはある。
喉も渇いている。
それでも、配信開始と同時に倒れるほどではない。
恒一は荷物の中身を、もう一度確認した。
赤い実。
乾いた肉。
石片。
布と蔓。
空の葉の器。
昨日まで見えなかった一人が、いまは隣にいる。
姿が見える。
触れることができる。
名前を呼べば、顔を上げる。
ただし、五メートル以上離れることはできない。
水を生み出すのではなく、周囲にあるものを集める。
水気の乏しい場所では、集められる量も速さも大きく落ちる。
そして恒一の中には、本人さえ知らなかった魔力があるらしい。
契約が何を変えたのか、まだ分からないことの方が多い。
次の配信では、それを視聴者へ説明しなければならなかった。
恒一は赤い点が現れるはずの場所を見た。
「もうすぐ、配信が始まります」
あかりは視線を追った。
灰色のRECも、NEXT LIVEも見えていないらしい。
何もない空間を見たあと、恒一へ顔を戻す。
「昨日まで、皆さんはあなたを幽霊ちゃんと呼んでいました」
文章は届かない。
遠くにいる多くの人。
その人たちが、あかりを見ていたこと。
これから、自分と一緒にそこへ向き合うこと。
輪郭の曖昧な意図を送ると、あかりの胸から戸惑いが返ってきた。
恒一にも、これ以上うまく説明する方法はなかった。
「大丈夫です」
安心させるつもりで言う。
あかりの方は、安心しきれないまま恒一の袖を掴んだ。
昨日から、何度も掴んでいた場所だった。
今度は、戸惑いで固まったからではない。
離れないことを、自分から確かめるような手だった。
――00:00:10。
恒一は隣を見る。
「あかり」
名前を呼ばれ、あかりが顔を上げた。
「皆さんに、紹介させてください」
あかりは意味を理解できない。
それでも、自分へ向けられた穏やかな気持ちを受け取り、小さく頷いた。
――00:00:03。
灰色のRECが消える。
恒一の袖を掴んだまま、あかりはその隣にいた。
赤い点が灯った。




