第15話 幽霊ちゃん改め、あかりです
――LIVE。
――残り時間 59:59。
身体を包んでいた重さが、一枚だけ薄くなる。
左肩の痛みは消えない。
乾いた喉も、そのままだった。
それでも、岩の上へついていた右手に力が戻り、浅くなっていた呼吸が少し深くなる。
LIVE中だけ働く補正だった。
恒一の袖を掴んでいたあかりが、驚いたように顔を上げた。
契約を通して、恒一の内側で何かが強くなったことを感じたらしい。
青白い瞳が、胸元から右腕、顔へと動く。
「大丈夫です」
恒一は、いつもより力の入る右手を一度開いて見せた。
「配信が始まると、少しだけ身体が動きやすくなります」
説明の意味は届かない。
痛みが増えたわけではないという意図だけを送る。
あかりは完全には納得していない様子だったが、袖を掴む力を僅かに緩めた。
視界の端では、同時視聴者数がゼロから増えている。
十二人。
二十九人。
四十七人。
通知を受け取った者が重なり、すぐに五十人を越えた。
数字は、そこで止まらない。
昨日、配信が終わる直前に契約を見届けた者。
白い少女が助かったのか確かめに来た者。
その話を聞き、初めて『ポチの小屋』を開いた者。
六十人を越えたところで、増える速さがようやく緩やかになった。
「こんばんは。ポチです」
恒一は赤い点へ向け、いつもの挨拶をした。
「異世界生活、九日目。今日も生きています」
一度、隣を見る。
あかりは、何もない空間へ話しかける恒一と、彼が見ている先を交互に見ていた。
「それから、今日は一人ではありません」
地球側では、挨拶を待っていたコメントが一斉に流れ始めた。
『生きてた』
『二人ともいる』
『幽霊ちゃん助かったんだな』
『右腕はまだ薄い』
『ポチにも見えてる』
『袖を掴んでる』
『契約後初配信』
いま送られた文字が、恒一へ届くのは十五分後だった。
彼に見えているのは、赤い点と残り時間、増えていく同時視聴者数だけだ。
それでも、画面の向こうに人が集まっていることは分かる。
恒一はあかりへ手のひらを向けた。
「昨日まで、皆さんが幽霊ちゃんと呼んでいた方です」
自分の呼び方が出たことに気づかず、あかりは恒一の手を見ている。
「昨日、契約というものが成立しました。それから――」
言葉を切る。
呼ぶ前から、あかりの視線は恒一へ戻っていた。
「この人のことは、あかり、と呼ぶことになりました」
あかりの青白い瞳が、僅かに開く。
自分の胸へ左手を置いた。
唇が、覚えた三つの音をゆっくりなぞる。
あ。
か。
り。
「皆さんにも、あかりとして覚えていただければと思います」
地球側のコメント欄が、白い文字で埋まった。
『あかりちゃん!』
『名前ついたんだ』
『あかりちゃんよろしく』
『幽霊ちゃん改め、あかりちゃん』
『月明かりのあかり?』
『いい名前だ』
『あかりちゃん、生きててよかった』
『右腕はまだ治ってないな』
『無理しないでくれ』
違う場所にいる何十人もの人間が、同じ顔へ同じ名前を結びつけた。
白い少女。
水を操り、恒一のそばにいた、名前の分からない存在。
その曖昧だった認識が、「あかり」という一人へ収束していく。
地球側の配信ページで、視聴者が編集できるタグの一つも書き換えられた。
#幽霊と見る異世界配信
その文字が消え、代わりに新しい文字が残る。
#あかりと見る異世界配信
誰が最初に変えたのかは分からない。
けれど、元へ戻そうとする者はいなかった。
変化は、画面の中でも起きていた。
あかりの胸元で、傷ついた霊核が一度だけ強く明滅した。
長い髪の先から落ちかけていた雫が、空中で止まる。
水で編まれた衣の糸が淡い光を帯び、薄かった輪郭が僅かに濃くなった。
仮修復された右腕へも水が集まる。
失われていたものが戻ったわけではない。
肩から指先まで、左腕より遥かに薄いままだった。
ただ、風に触れるだけでほどけかけていた指の形が、今は崩れずに残っている。
恒一は息を止めた。
あかり自身も、自分に起きた変化を理解していなかった。
右手を見るより先に、何もないはずの周囲へ顔を向ける。
一つ。
また一つ。
遠い場所から、自分を指す気配が届く。
音として聞こえているわけではない。
姿の見えない誰かが、自分を一人の存在として見つけ、同じ三つの音で呼んでいる。
その感覚が、一度に幾つも重なった。
あかりの瞳が大きく開く。
恒一の胸へ、驚きと戸惑いが細かな波になって流れ込んだ。
次の瞬間、あかりは恒一の背へ半分だけ隠れていた。
左手が、先ほどと同じ袖を強く掴む。
「あかり?」
呼ばれると、すぐに顔を上げる。
名前へ迷わず反応できている。
恒一は、あかりの胸元と右腕を順番に見た。
「苦しいですか」
痛みや苦しさを案じる意図を送る。
あかりは慌てて首を横へ振った。
自分の周囲を見回す。
何もいない空間を指し、次に、何度も自分の胸へ触れた。
多い。
遠い。
見られている。
呼ばれている。
言葉にはならない感覚が、契約を通して届いた。
恒一の視界へ、青白い文字が現れる。
《契約精霊に対する外部認知を確認しました》
《呼称「あかり」を基点に、存在認識が収束します》
《精霊格に微細な上昇を確認しました》
恒一は、最後の一行を読み返した。
精霊格。
初めて見る言葉だった。
魔力と同じように、この世界では意味のあるものなのだろう。
けれど、何をすれば上がるのか。
上がれば何が変わるのか。
表示だけでは分からない。
外部認知という言葉と、変化が起きたタイミングだけは一致していた。
「……皆さんに紹介したからですか」
赤い点へ問いかける。
答えが届くまでには十五分かかる。
恒一はあかりの右腕へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
確かめるためだけに、傷ついた場所へ触れる必要はない。
「痛くないなら、そのままでいてください」
休んでいてほしいという意図を送る。
あかりは恒一の背後へ半分隠れたまま、小さく頷いた。
地球側には、恒一の肩越しから青白い瞳だけを覗かせている姿が映っていた。
『今、隠れた』
『急にどうした』
『あかりちゃん緊張してる?』
『袖は離さない』
『ポチの後ろから見てる』
『隠れきれてない』
恒一がその反応を知る頃には、あかりは別の場所にいるかもしれない。
それでも今は、画面の中に同じ二人が並んでいた。
◇
恒一は、配信開始までに分かったことを順番に説明した。
「まず、契約してから、僕にもあかりの姿が見えるようになりました」
あかりは背後から出て、また恒一の左隣へ戻っている。
「触れることもできます。ただ、言葉はまだ通じていません」
自分とあかりの胸を順に指す。
「感情や、進みたい方向のような単純なものは、契約を通して伝わります」
あかりも恒一の動きを真似し、自分の胸へ左手を当てた。
「もう一つ、あかりは現在、僕から五メートルほどしか離れられません」
恒一の袖を掴んでいた指が僅かに動く。
「表示では『現在の霊核安定範囲』となっていました。ずっとこの距離なのか、傷が治れば変わるのかは分かりません」
右腕を見る。
先ほどより形は安定している。
それでも、朝に枝を持とうとして透けた傷は残ったままだった。
「右腕も、まだ治ってはいません。昨日の契約で仮に形を戻しただけです」
隠すべき情報かもしれない。
どこで誰がこの配信を見ているのか、恒一には確かめられない。
しかし、画面の向こうにいる者たちは、負傷したあかりを最初から見ていた。
いまさら無傷だと装うこともできなかった。
「あかりは、水を何もないところから作るのではなく、周囲にある水分を集めて動かしているようです」
空になった葉の器を持ち上げる。
「今朝、この辺りの岩や空気に残っていた水を一口分だけ集めてもらいました」
あかりへ目を向ける。
「身体や命を削って作った水ではありません。ただ、いまは霊核が傷ついているため、形を保つときに僕から僅かな魔力が流れました」
魔力という言葉を、自分で口にしても現実味はなかった。
「僕に魔力があることも、今日初めて知りました。量も、使い方も分かりません」
分からないことを、分かったようには言わない。
契約が成立した。
互いの姿と意図が届くようになった。
それ以外は、まだ起きた事実を並べられるだけだった。
「水は、まだ見つかっていません」
恒一は尾根の先へ目を向けた。
「今日は、このまま安全に下りられる場所と、水を探します」
その目的を、あかりへも送る。
あかりは空の葉の器を指す。
次に、自分と恒一、尾根の先を順番に指した。
「はい。二人で探します」
恒一が答えると、あかりは小さく頷いた。
現在の地球側では、その一連の動きへ別の意味を見つけた者がいた。
『もう意思疎通できてる』
『契約して一晩で距離縮まりすぎ』
『五メートル以上離れられないのか』
『それ契約というより』
『精霊契約って実質婚姻では』
『婚姻まで早かったな』
『現地嫁(暫定)から現地嫁(契約済)へ』
『もう役所行け』
『異世界に役所ないだろ』
『なら市役所が来い』
『市役所に無茶を言うな』
『でも二人とも助かってよかった』
その流れの中で、配信ページのタグがもう一つ、そっと増えた。
#異世界婚姻RTA
誰が追加したのかは分からない。
誰も消そうとはしなかった。
本人が否定できるより十五分早く、不名誉なタグだけが配信へ定着した。
◇
――残り時間 45:00。
配信開始直後のコメントが、恒一の視界へ現れた。
『生きてた』
『二人ともいる』
『幽霊ちゃん助かったんだな』
『ポチにも見えてる』
『袖を掴んでる』
『右腕はまだ薄い』
恒一は最初の一行から、ゆっくり目で追った。
「はい。二人とも生きています」
自分の左肩へ触れる。
「僕は左肩と右脚を痛めていますが、歩けます。あかりの右腕と胸の傷は、先ほど説明したとおりです」
十五分前に向けた説明と、いま届く問いがすれ違う。
それでも、同じ事実を二度伝える意味はあった。
「心配してくださって、ありがとうございます」
あかりは自分へ向けられた気持ちを感じたのか、コメントの見えない空間を見上げた。
恒一が赤い点を見ていることだけを頼りに、同じ方向へ顔を向ける。
少し遅れて、名前を紹介した瞬間のコメントが届き始めた。
――残り時間 43:21。
『あかりちゃん!』
『名前ついたんだ』
『あかりちゃんよろしく』
『幽霊ちゃん改め、あかりちゃん』
『月明かりのあかり?』
『いい名前だ』
『生きててよかった』
恒一の視線が、何度も繰り返される三文字で止まった。
「はい。月明かりの下にいる姿を見て、あかりと呼ぶことにしました」
本当の名を思い出すまでのものだという説明は、今は省いた。
本人が受け入れた名前を、仮のものとして紹介したくなかった。
「皆さんも、そう呼んでくださったんですね」
あかりにはコメントが見えない。
それでも、自分の名前が何度も口にされたことは分かった。
恒一を見上げる。
次に、自分の胸へ触れた。
「あかり」
恒一が呼ぶと、胸へ小さな喜びが返ってくる。
「皆さんが、あなたをそう呼んでいます」
遠くにいる多くの人。
同じ三つの音で、自分を見つけた人たち。
文章ではなく、単純な像にして送る。
あかりの表情へ、驚きと、それより少し大きな戸惑いが浮かんだ。
袖を掴んでいた左手が、また僅かに強くなる。
それでも今度は恒一の背へ隠れなかった。
赤い点があるはずの場所へ向き直り、小さく頭を下げる。
地球側のコメント欄が再び速くなった。
『お辞儀した』
『伝わった?』
『あかりちゃんよろしく』
『こっち見えてないのに挨拶してくれた』
『だめだ、これは見守る』
『幽霊ちゃん呼び卒業します』
その文字も、今の二人には届かない。
代わりに恒一の視界へ現れたのは、あかりの輪郭が変わった直後の反応だった。
『今、光った』
『胸の亀裂、少し落ち着いた?』
『右手の形が崩れなくなった』
『さっきより輪郭が濃い』
『名前を紹介した直後だよな』
『何か起きた?』
恒一は、視界の端に残っていた青白い表示を思い返した。
外部認知。
呼称を基点にした存在認識の収束。
精霊格の上昇。
視聴者も、あかりに何かが起きたことまでは気づいている。
しかし、画面から分かるのは、名前を紹介した直後に霊核と輪郭が変わったことだけだった。
外部認知という理由まで示されたのは、恒一の視界だけだ。
「仕組みは、まだ分かりません」
恒一は断定を避けた。
「ただ、皆さんがあかりという名前を、目の前にいるこの人へ結びつけたことが、影響した可能性はあります」
配信は、自分の身体を強くするだけではない。
画面の向こうから誰かに見てもらうことが、精霊の存在にまで影響する。
同時視聴者数によるLIVE中の補正とは、形が違う。
少なくとも、表示はそれを精霊格と呼んだ。
「上がったのは、ごく僅かです。右腕が治ったわけでも、五メートルの範囲が広がったわけでもありません」
あかりの右手は、朝より崩れにくくなっている。
しかし、何かを持てるほど戻ったかは分からない。
「無理に試すつもりもありません」
恒一がそう言うと、あかりは自分の右手を背へ隠した。
朝、枝を持とうとしたことまで見透かされたと思ったらしい。
「今の話ではありません」
苦笑に近い息が漏れる。
あかりは右手を隠したまま、僅かに目を逸らした。
◇
――残り時間 41:02。
契約を説明した頃のコメントが届いた。
『それで契約って何したの』
『精霊契約って実質婚姻では』
『婚姻まで早かったな』
『現地嫁(暫定)から現地嫁(契約済)へ』
『もう役所行け』
『異世界に役所ないだろ』
『なら市役所が来い』
『市役所に無茶を言うな』
恒一は、最後まで読んだ。
読み間違えていないか確かめるように、一つ前の行へ視線を戻した。
「……精霊契約です。婚姻ではありません」
一拍置く。
あかりが、自分に関係する話だと感じ取ったのか、恒一の顔を見上げた。
「それから、市役所の方に来ていただいても、こちらには戸籍も婚姻届もないので、手続きは難しいと思います」
恒一は、真面目に答えた。
あかりには、何を否定されたのか分からない。
ただ、恒一から困惑が流れてきたため、袖を掴んだまま首を傾ける。
地球側では、真面目な返答よりも、袖を掴んだまま首を傾げるあかりの姿へ反応が集まった。
『真面目に答えてる』
『市役所を呼ぶな』
『あかりちゃん首傾げてる』
『まだ袖掴んでる』
『五メートルよりずっと近いぞ』
『婚姻かはともかく仲良くなったな』
恒一へ届くのは、さらに十五分後だった。
その間にも、不名誉なタグは配信ページへ残り続けていた。
◇
「ここに留まる理由はありません。移動を再開します」
残り時間が四十分を切る前に、恒一は荷物を右肩へ掛けた。
杖を持ち、空の葉の器が落ちないよう蔓の結び目へ差し込む。
あかりは恒一の左隣へ浮かんだ。
手を伸ばせば届く距離だった。
精霊格が僅かに上がっても、五メートルという安定範囲は変わらない。
恒一は境界を試さず、並んだまま歩き始めた。
尾根の先は、少しずつ低くなっている。
左側には木々の密集した斜面。
右側は白い岩と乾いた草が続いていた。
水がありそうなのは、木々のある方だった。
昨日追ってきたものも、水のある低地にいた。
恒一は斜面へすぐ下りず、尾根の上から進める場所を探した。
「水が必要ですが、森の底へまっすぐ戻るつもりはありません」
足元の岩を一つ越える。
「まず尾根を進み、昨日とは別の斜面を探します」
あかりは恒一の半歩前へ出た。
岩の向こうを確かめる。
危険がなければ振り返り、恒一が追いつくまで待つ。
昨日までRECにだけ残っていた動きを、いまはLIVE中の視聴者と恒一が同時に見ている。
『あかりちゃんが先を見てる』
『先に様子見てる?』
『ポチが来るまで待ってる』
『ポチもすぐ気づけてる』
『あまり離れるなよ』
恒一へ届く前に、二人はその場所を通り過ぎていく。
それでも、あかりが警戒する方向は、以前より早く分かった。
立ち止まる理由も、戻ってくる距離も見える。
コメントを待たなければ分からなかった一人が、今はすぐ隣にいる。
十五分という遅れが消えたわけではない。
けれど、二人のあいだにあった遅れだけは、契約によって大きく短くなっていた。
◇
――残り時間 31:40。
尾根を進むにつれ、風の温度が僅かに変わった。
肌へ触れる空気が、先ほどまでより冷たい。
恒一は足を止め、風上へ顔を向けた。
水の匂いが分かるほどではない。
それでも、乾いた岩だけが続いていた場所とは違う。
あかりも同時に立ち止まっていた。
青白い瞳が、尾根の左下へ向いている。
長い髪の先が、風とは違う方向へ細く引かれた。
あかりは左手を斜面へ向ける。
指先の周りに、ごく小さな光が集まった。
水滴にはならない。
代わりに、木々のあいだから一筋の淡い光が返ってきた。
朝、周囲の水気を集めたときと似ている。
「水がありますか」
空の葉の器を見せ、斜面を指す。
あかりはすぐには頷かなかった。
確かな水場を見つけたわけではないらしい。
湿った空気。
乾いた尾根より多い水気。
その程度の感覚が、契約を通して届く。
「少なくとも、こちらよりは多いんですね」
恒一は斜面の足元を確かめた。
木の根が露出している。
下草はあるが、昨日通った森の底ほど深くはない。
大きな獣の足跡も見当たらなかった。
急に下るのではなく、尾根と斜面の境目を斜めに進めそうだった。
「行ってみましょう」
恒一が左へ一歩動くと、あかりの胸から小さな肯定が返ってくる。
二人は並んだまま、木々のある斜面へ入った。
水分は、すぐには見つからなかった。
最初に増えたのは苔だった。
岩の影だけに、暗い緑色が薄く残っている。
次に、地面を掘る小さな虫が見えた。
乾いた尾根では閉じていた羽を広げ、湿った土の上を低く飛んでいる。
恒一は苔へ直接触れず、杖の先で土を軽く押した。
表面は乾いている。
その下だけが、僅かに色を濃くした。
「水が近い可能性はあります」
赤い点へ報告する。
「ただ、まだ音は聞こえません。飲める水かどうかも分かりません」
あかりは地面へ近づき、左手を苔の上へかざした。
光が、先ほどより少しだけ強くなる。
そのまま斜面の奥へ顔を向けた。
行きたいという意図が届く。
「分かりました。僕も一緒に行きます」
恒一が追いつくまで、あかりは進まない。
一人なら先に確かめられる距離でも、今は二人で中心を動かす。
五メートルの制限を、互いに引き合う鎖にはしない。
あかりが見つけた方向へ、恒一も足を運ぶ。
◇
――残り時間 26:02。
恒一が婚姻を否定した直後のコメントが届いた。
『真面目に答えてる』
『市役所を呼ぶな』
『あかりちゃん首傾げてる』
『まだ袖掴んでる』
『五メートルよりずっと近いぞ』
『婚姻かはともかく仲良くなったな』
恒一は斜面を下りかけた姿勢のまま、しばらく黙った。
あかりが二歩先で振り返る。
五メートルには届かない。
それでも恒一が止まったことに気づき、すぐ一歩戻ってきた。
「……契約したことと、婚姻したことは別です」
もう一度だけ否定する。
「それに、袖を掴んでいるのは、五メートル以上離れると霊核が不安定になるからです」
言い終えたところで、あかりの左手が恒一の袖を掴んだ。
距離は、手を伸ばさなくても届くほど近い。
霊核が不安定になる場所ではなかった。
恒一は掴まれた袖を見た。
次に、何も知らないあかりの顔を見る。
あかりは先へ進もうという意図を送り、軽く袖を引いた。
「……その話は、ここまでにします」
恒一は歩き出した。
地球側のコメント欄では、その様子への反応がすでに流れていた。
『また袖掴んだ』
『タイミング良すぎる』
『五メートル関係なくない?』
『先に行こうって引いてる?』
『ポチ、呼ばれてるぞ』
配信タグの「#異世界婚姻RTA」は、まだ消えていなかった。
◇
木々の間へ入ってから、風はさらに弱くなった。
代わりに、湿った土の匂いがはっきりしてくる。
斜面の途中には、大きな岩が幾つも埋まっていた。
あかりは岩の前を通るたび、左手を向ける。
何も感じなければ進む。
水気があれば、少しだけ立ち止まる。
三つ目の岩の前で、動きが変わった。
地面へ近づき、岩の下へ手を伸ばす。
白い指先へ、小さな雫が一つ浮いた。
雫は空中へ上がり、あかりの手の上で止まる。
朝より速い。
周囲にある水分が多いからだった。
あかりは雫を見つめる。
次に、岩の反対側へ回り込もうとした。
恒一も同じ方向へ動く。
平らな岩の下に、細い窪みがあった。
落ち葉が重なり、その奥だけが黒く湿っている。
恒一は杖で落ち葉を一枚ずつ脇へ寄せた。
最後の葉を動かしたとき、小さな音が聞こえた。
水が落ちる音だった。
岩の亀裂から、一滴。
少し間を置いて、また一滴。
地面へ染み込む方が早く、流れにはなっていない。
それでも、水だった。
「ありました」
恒一は、乾いて張りついていた喉を意識した。
すぐに口はつけない。
水が出ている亀裂の上と周囲を確かめる。
獣の死骸はない。
強い臭いもない。
岩の表面へ不自然な色も浮いていなかった。
安全だと断定できる材料にはならない。
「量は少ないです。飲めるかどうかも、まだ分かりません」
赤い点へ向けて言う。
「集めてから火を通します」
恒一は荷物から葉の器を取り出した。
亀裂の下へ置いても、雫は器へ入る前に土へ落ちる。
細い葉を一枚折り、水の通り道を作ろうとする。
あかりが左手を伸ばした。
亀裂から落ちかけた雫が、地面へ触れる前に浮き上がる。
岩の内側に染みていた水も、表面へ細かな粒となって現れた。
乾いた尾根で一口分を集めたときより、遥かに多い。
粒はあかりの手の上で一つにつながり、透き通った球になる。
霊核の亀裂は明滅しなかった。
恒一の胸から魔力が流れる感覚もない。
周囲に十分な水があれば、あかりは自分の傷へ負担をかけずに動かせるらしい。
水球が葉の器へ細く落ちる。
底を覆う。
もう一度、岩から雫を集める。
時間はかかったが、器の半分近くまで水が溜まった。
あかりは左手を下ろし、恒一を見る。
胸へ届いたのは、朝よりも大きな達成感だった。
「ありがとうございます」
恒一は葉の器を両手で持ち上げた。
「あかりが見つけてくれました」
地球側では、その場面を見ていた者たちが一斉に文字を送る。
『水だ』
『あかりちゃん見つけた』
『水の精霊すごい』
『ちゃんと沸かしてから飲め』
『量は少ないけど大きい』
『初配信で大仕事』
『#あかりと見る異世界配信』
『タグがもう仕事してる』
その助言が届く前から、恒一は水へ口をつけなかった。
器へ葉をかぶせ、蔓で軽く留める。
火を起こせる場所と、夜を越せる岩陰を探す必要がある。
この一滴だけを頼りに留まることもできない。
それでも、朝から空だった器には、確かに水が入っていた。
◇
――残り時間 14:50。
二人が尾根の左下を見ていた頃のコメントが届く。
『あかりちゃんが左下を見てる』
『何か感じてる?』
『髪がそっちへ引かれてる』
『ポチ、あかりを見て』
『水の気配かもしれない』
恒一は、葉で蓋をした器へ視線を落とした。
「はい。水気の多い方向を見つけてくれていました」
十五分遅れの言葉が、すでに終わった判断を確認する。
これまでは、その遅れのために間に合わないことが何度もあった。
今は、あかり自身の意図が直接届いている。
「一緒に下りて、岩の隙間から染み出している水を見つけました」
あかりは自分の名前を聞き、すぐに恒一へ顔を向ける。
「まだ飲んでいません。火を通してから、少量ずつ試します」
コメントの続きを読む。
『二人で斜面に下りたのか』
『あかりだけじゃ遠くへ行けないもんな』
『ポチも一緒なら動けるのか』
『五メートルしか離れられないの、大変そうだな』
最後の一行で、恒一の視線が止まった。
契約で救った。
同時に、あかりを自分から離れられなくした。
朝から胸に残っていたことだった。
「不自由には、なっています」
恒一は、都合の悪い部分を隠さなかった。
「僕が選んだ契約で、あかりは一人では五メートルより先へ行けません」
あかりへ視線を向ける。
「ただ、二人なら動けます」
恒一が斜面の先を指すと、あかりも同じ方向を見る。
「いまは、それしか答えられません」
契約が正しかったと、本人の代わりに決めることはできない。
それでも、あかりが自分から握った手と、袖を引いて示した水の方向まで否定する必要はなかった。
あかりは恒一の顔を見つめていた。
申し訳なさが伝わったらしい。
左手で恒一の手首を掴む。
次に、葉の器を指した。
水。
二人で見つけたもの。
それから、斜面の先を指す。
進む。
自分も行く。
返ってきた意志は、朝と同じだった。
「……はい」
恒一は頷いた。
「行きましょう」
◇
残り時間が五分を切る頃、二人は水の染み出す岩から少し離れた場所を見つけた。
斜面に倒れた太い木と、地面から出た岩のあいだに、人一人が横になれる空間がある。
雨を完全に防げる場所ではない。
けれど、火を小さく起こし、水を温めるあいだ身体を休めることはできる。
周囲には乾いた枝も幾つか落ちていた。
大きな足跡や、獣が身体を擦った痕はない。
恒一は荷物を岩のそばへ下ろした。
葉の器を傾かない場所へ置く。
「今日は、ここで水を確保します」
残り時間を見る。
「配信が終わってから火を起こします。すぐに飲まず、できるだけ加熱します」
あかりは器のそばへ座り、表面を覆う葉がずれていないか覗き込んだ。
右手も添えようとする。
薄い指先が、葉の端へ触れた。
朝のように、すぐ透けて抜けることはなかった。
葉を押さえるほどの力は入らない。
それでも、五本の指は形を保ったままそこに残っている。
あかりは自分の右手を見つめた。
驚きが、契約を通して恒一へ届く。
「少し、安定したんですね」
恒一は触れずに、右腕の輪郭だけを確かめた。
「治ったわけではありません。今日は、もう使わないでください」
あかりは不満そうに恒一を見る。
それでも右手を胸元へ戻した。
精霊格が上がったことで、失った腕が再生したわけではない。
傷ついた身体が、自分の形を僅かに保ちやすくなっただけだった。
その僅かな違いが、今のあかりには大きかった。
――残り時間 02:00。
恒一は赤い点へ向き直った。
「今日分かったことを、最後にまとめます」
あかりも隣へ浮かぶ。
「契約によって、互いの姿と単純な意図が届くようになりました。あかりの現在の安定範囲は、僕から半径五メートルです」
右腕へ一度だけ目を向ける。
「皆さんがあかりとして認識したことで、精霊格というものが僅かに上がりました。右腕の傷は残っていますが、輪郭は少し安定しています」
空になっていない葉の器を持ち上げる。
「水も見つかりました。あかりが、水気の多い方向を見つけてくれたものです」
地球側では、配信の終わりを惜しむ文字が流れていた。
『あかりちゃん初配信お疲れ』
『水見つかってよかった』
『右腕はゆっくり治そう』
『二人とも休んでくれ』
『明日も生存確認させて』
『#あかりと見る異世界配信』
『#異世界婚姻RTA』
『最後のタグは消せ』
『消すな』
恒一には、どちらのタグも見えていない。
残り三十秒。
「昨日まで幽霊ちゃんと呼ばれていた人は、あかりです」
名前を呼ばれ、あかりが顔を上げる。
恒一は赤い点を指した。
遠くにいる人たち。
今日、名前を覚えてくれた人たち。
その意図を送る。
あかりは赤い点そのものを見ることはできない。
それでも恒一と同じ方向へ身体を向けた。
左手で自分の胸へ触れる。
唇が、三つの音を作った。
あ。
か。
り。
声にはならなかった。
けれど、画面の向こうにいる者には、何を伝えようとしたのか分かった。
『あかりちゃん』
『自分で名乗った』
『声は聞こえないけど分かった』
『あかりちゃん、また明日』
『ポチもまた明日』
――残り時間 00:10。
「今日も、ありがとうございました」
恒一は頭を下げる。
隣で、あかりも少し遅れて頭を下げた。
残り時間がゼロになる。
赤い点が消えた。
◇
LIVEの表示が、灰色のRECへ変わった。
同時視聴者数も、コメントも、恒一の視界からなくなる。
身体へ重さが戻った。
左肩の痛みが濃くなり、右脚へ一日の疲れが乗る。
恒一は岩へ右手をついた。
あかりの左手が、すぐにその腕へ添えられる。
配信が終わったことを、恒一の変化から察したらしい。
「大丈夫です。まず、火を起こします」
恒一は息を整えながら、あかりの胸元を見た。
霊核の明滅は、LIVE中と変わっていない。
薄い右腕も、先ほど葉へ触れたときの輪郭を保っている。
赤い点が消えても、元へは戻らなかった。
同時視聴者数による一時的な補正とは違う。
配信が終わっても、画面の向こうで結ばれた認識までは消えていない。
あかりは恒一の視線に気づき、自分の右手を持ち上げた。
指を一度だけ開く。
崩れないことを確かめると、今度は左手で自分の胸を指した。
唇が動く。
あかり。
「はい」
恒一は頷いた。
「あなたは、あかりです」
あかりは、昨日の夜より迷いなく笑った。
画面の向こうで何人がその名を覚えたのか、恒一には分からない。
けれど配信が切れたあとも、その名前は彼女の中に残っていた。




