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第16話 追っていたものは、もういない

挿絵(By みてみん)

 あかりの笑みが消えないうちに、恒一は火を起こした。


 視界の端には、灰色のRECが浮かんでいる。


 LIVEは終わった。


 同時視聴者数もコメントも、もう見えない。


 身体へ戻った重さだけが、一時間前までとはっきり違っていた。


 左肩を動かすたびに痛みが走る。


 朝から使い続けた右脚も、膝を曲げるだけで細かく震えた。


 恒一は倒れた木と岩のあいだへ乾いた草を置き、その上へ細く裂いた樹皮を重ねた。


 石片を打ち合わせる。


 一度目の火花は消えた。


 二度目も、草の先を黒くしただけだった。


 三度目に残った赤い点へ、息を細く吹き込む。


 小さな炎が上がった。


 隣で見ていたあかりの表情が明るくなる。


 左手に持っていた細い枝を、すぐ恒一へ差し出した。


「ありがとうございます」


 枝を受け取り、炎の上へ置く。


 あかりの胸から、小さな達成感が返ってきた。


 その感情は、配信中より弱くなっていない。


 胸元の霊核も、薄い右腕も、赤い点が消える前の輪郭を保っている。


 精霊格というものが僅かに上がった変化は、一時的な補正ではなかった。


 だからといって、傷が治ったわけでもない。


 あかりが右手でもう一本の枝を取ろうとすると、恒一は先に拾い上げた。


「そちらは使わないでください」


 右腕を指し、休ませてほしいという意図を送る。


 あかりは自分の右手を見る。


 次に、恒一が持った枝を見る。


 僅かに唇を尖らせたあと、左手で別の小枝を拾った。


 使える方の手まで休ませるつもりはないらしい。


 恒一は止めなかった。


 互いに手を伸ばせる範囲から出ず、火に使えるものだけを集める。


 五メートルの制限があるため、一人ずつ別の方向へ探しには行けない。


 それでも、二人で動けば必要な量は集まった。


     ◇


 岩の亀裂から集めた水は、葉の器の半分ほどだった。


 恒一は器を炎へ直接かけなかった。


 熾火から少し離れた場所へ置き、葉が乾きすぎないよう位置を変えながら温める。


 器の縁に小さな泡がつき、やがて水面から細い湯気が上がった。


 沸騰したと断言できるほどではない。


 何もしないよりはいい。


 葉を焦がして器ごと失わないところで火から離し、別の大きな葉をかぶせた。


 冷めるまでのあいだに、岩陰の周囲をもう一度確かめる。


 大きな足跡はない。


 獣の毛や糞も見当たらない。


 斜面の上から吹く風は弱く、火の煙は木々のあいだへ細く流れていた。


 岩の亀裂では、いまも水が落ちている。


 一滴。


 しばらく待って、また一滴。


 量は少ない。


 夜のうちに器が満ちることはないだろう。


 それでも、明日の朝まで同じ調子で落ちれば、空のまま歩き出さずに済む。


 恒一は冷めた水へ口をつけた。


 一口だけ飲み、器を下ろす。


 匂いに違和感はない。


 舌の痺れも、喉の痛みも起きなかった。


 すぐに残りを飲まず、身体に変化が出ないか待つ。


 あかりは、その一連の動きを器のすぐそばから見守っていた。


 恒一が口を離すと、自分の胸へ手を当てる。


 次に、恒一の胸を指した。


 大丈夫かと確かめているらしい。


「いまのところは、大丈夫です」


 頷き、落ち着いているという感情を返す。


 あかりの肩から、僅かに力が抜けた。


 空はすでに暗くなり始めていた。


 木々の上へ白い月が昇り、その少し離れたところに淡い青の月が見える。


 昨夜、あかりという名前を決めたときと同じ二つの月だった。


 月明かりを受けた長い髪は、昨日より輪郭が濃い。


 右腕だけは、いまも光をほとんどそのまま通している。


 恒一がそこへ目を向けると、あかりは右手を背へ隠した。


「何も言っていませんよ」


 あかりは目を逸らす。


 契約を通して、小さな不満が届いた。


挿絵(By みてみん)


 恒一は僅かに息を漏らし、火へ枝を一本足した。


 安全だとは言えない。


 水も食料も足りていない。


 追ってきたものが、どこまで離れたのかも分からない。


 それでも、火と水があり、隣には名前を呼べる一人がいた。


 九日目の夜を越える準備は、少しずつ整い始めていた。


 岩の亀裂から落ちかけていた雫が、止まった。


     ◇


 一滴は、岩から離れなかった。


 丸く膨らんだまま、亀裂の縁で細かく震えている。


 風はない。


 葉も、火の煙も動いていなかった。


 恒一は雫を見たまま立ち上がった。


 次の瞬間、水滴が岩の表面を横へ滑った。


 下へは落ちない。


 二人が今日歩いてきた斜面の奥へ、重力とは違う力で引かれていく。


 苔のあいだへ消えたあとも、新しい雫は落ちなかった。


「……あかり」


 返事はなかった。


 あかりは、水の消えた方向を見つめている。


 青白い瞳が大きく開き、左手は胸元の霊核を押さえていた。


 契約を通して流れ込んできた恐怖で、恒一の呼吸まで浅くなる。


 白い石の道。


 水が引かれていった低地。


 木々を押し倒しながら近づいてきた、姿の見えない何か。


 昨日感じたものと同じ恐怖だった。


 恒一は葉の器へ目を向けた。


 中に残っていた水が、片側へ寄っている。


 地面は傾いていない。


 水面だけが、斜面の下へ引かれていた。


「追ってきたんですか」


 あかりは言葉の意味を理解しない。


 それでも恒一が示した方向を見て、身体を強張らせた。


 答えとしては十分だった。


 恒一は器へ葉を二枚重ね、蔓で縛った。


 火へ水はかけない。


 燃えている枝を一本ずつ離し、土をかぶせる。


 最後に手の甲を近づけ、熱が外へ漏れないことを確かめた。


 周囲が暗くなる。


 二つの月から届く光だけが、白い岩の角を照らしていた。


「ここから、もう少し上へ移動します」


 恒一は荷物を右肩へ掛けた。


 葉の器を胸元へ抱える。


 杖を右手で持ち、乾いた尾根の方向を示した。


 あかりはすぐに頷かなかった。


 水の消えた斜面と、恒一を交互に見る。


 ここから離れろという恐怖。


 けれど、どちらへ逃げればよいのか分からない戸惑い。


 二つが混ざって届く。


「低い場所へは行きません」


 乾いた岩。


 高い場所。


 二人で移動する。


 意図を一つずつ送り直す。


 あかりは恒一の袖を掴んだ。


 肯定は弱い。


 それでも、足は同じ方向へ動いた。


     ◇


 LIVEの補正がない身体で、暗い斜面を上り直す。


 昼に下った距離は長くない。


 それでも、右脚へ乗せた力が何度も抜けた。


 左肩へ痛みが響かないよう、右側だけで重さを受ける。


 一歩ごとに杖で足元を確かめる。


 あかりは半歩前へ出て、岩の向こうを見る。


 すぐに戻り、恒一の袖へ触れる。


 五メートルの境界へ近づくことはなかった。


 斜面を二十歩ほど上がったところに、二つの白い岩が重なっていた。


 人一人と、あかりが身体を寄せれば入れる隙間がある。


 岩の下は乾いている。


 外からは、低い草と岩の影に隠れる位置だった。


 恒一は中へ入り、荷物を下ろした。


 葉の器を奥へ置く。


 火は起こさない。


 乾いた肉も食べなかった。


 音も匂いも増やさない。


 あかりは入口近くに浮かび、下の斜面を見ている。


 長い髪の先が、風もないのに同じ方向へ引かれていた。


 水で編まれた衣の裾から、一滴だけ離れる。


 雫は地面へ落ちず、斜面の下へ飛んだ。


 あかりの身体が震える。


 恒一はすぐ左手を伸ばし、冷たい指を握った。


 離れかけた雫が、それ以上は増えない。


「前にも、こうなったんですね」


 濡れた土から水が浮き、白い石の道へ流れた。


 あかりの衣まで引かれかけた。


 昨日、腕の中で伝わってきた恐怖を思い出す。


 暗い水。


 引き裂かれる青白い光。


 水の向こうで口を開く、巨大な影。


 恒一の胸へ、同じ断片が流れ込んだ。


 ただし、今度は一つだけ像が増えていた。


 沈む町を覆おうとしていた大きな光。


 影は水そのものを求めていたのではない。


 光の中心へ食らいついている。


 そこには、あかりの胸にあるものより遥かに大きな、青白い核があった。


 影がそれを砕く。


 散った光の一つが、水の底へ落ちる。


 小さな手が伸びる。


 像はそこで途切れた。


 あかりにも、その先は分からない。


 記憶なのか、傷ついた霊核に残った感覚なのかも判断できなかった。


 それでも、何を求めているのかだけは伝わった。


「水ではなく、精霊の核を……」


 恒一は声を途中で止めた。


 あかりの胸元を見る。


 閉じきらない亀裂の内側で、霊核が細かく明滅している。


 水の壁が砕けたとき、飛び散った雫は森の奥へ吸い寄せられた。


 その直後、遠くの破壊音が止まった。


 そして揺れは、二人が進んだ白い石の道へ向きを変えた。


 あれは偶然、同じ道を通っていたのではない。


 あかりの一部を見つけ、追ってきた。


 今日、この斜面で水を集めたことで、新しい痕跡を残したのかもしれない。


 恒一は握っていた手へ力を込めた。


「今度は使わないでください」


 あかりは恒一を見る。


「水は、失ってもまた探せます」


 葉の器を指す。


 次に、あかりを指した。


「あなたを失ったら、同じではありません」


 すべての言葉は届かない。


 水を守らなくていい。


 自分の身体を使わないでほしい。


 消えてほしくない。


 その三つだけを、できるだけ強く送る。


 あかりの瞳が揺れた。


 左手が、恒一の指を握り返す。


 地面の奥で、低い振動が始まった。


     ◇


 最初に聞こえたのは、木の枝が擦れる音だった。


 風の音ではない。


 斜面の下から、一斉に葉が裏返っていく。


 草の先に残っていた夜露が宙へ浮かんだ。


 一滴ずつ細い筋を作り、木々のあいだを同じ方向へ飛んでいく。


 次に、太い木が折れた。


 一つ。


 少し間を置いて、もう一つ。


 昨日より遠くはない。


 折れる場所が、はっきりと近づいている。


 恒一は岩の隙間で身体を低くした。


 杖を手元へ置く。


 戦うためではない。


 揺れで岩が崩れたとき、身体を支えるためだった。


 あかりを自分の右側へ寄せる。


 左肩を庇いながら、右腕を細い背へ回した。


 あかりは抵抗しなかった。


 けれど、下から音が届くたび、身体を小さく震わせる。


 岩の奥へ置いた葉の器が倒れた。


 平らな場所へ置いていた。


 地面が揺れたのではない。


 縛っていた葉の隙間から、水だけが細い糸となって抜け出している。


 器を横倒しにし、岩の上を逆向きへ流れていく。


 あかりが左手を伸ばした。


 恒一は、その手首を掴んだ。


「駄目です」


 水の糸は、二人の前を通り過ぎた。


 岩の縁まで進むと、落ちるのではなく斜面の下へ吸い込まれる。


 半日かけて見つけた水が、一滴残らず消えた。


 あかりの胸から、強い悔しさが届く。


「構いません」


 恒一は手を離さなかった。


「水より、あかりの方が大事です」


 名前へ反応し、あかりが顔を上げる。


 文章は分からなくても、比べられた二つと、どちらを選ばれたかは届いたらしい。


 驚きが、恐怖の中へ混ざる。


 あかりは水の消えた場所を見た。


 伸ばしていた左手を、ゆっくり胸元へ戻した。


 最後の水滴が斜面の下へ消えた瞬間、森の音がなくなった。


 虫の声も、葉の擦れる音もない。


 代わりに、水が流れるような音が近づいてくる。


 川はない。


 地面と木々から奪われた水が、何かの周囲へ集まっている。


 白い月の光が、斜面の下で一度だけ遮られた。


 木々のあいだを、黒いものが横切る。


 全身は見えない。


 太い幹が、その輪郭を隠している。


 それでも、森の中に収まる大きさではなかった。


 濡れた岩のような面が、木々より高い場所を通る。


 その表面に、縦長の淡い亀裂が一つだけ開いた。


 目なのか。


 口なのか。


 恒一には分からない。


 亀裂が開くたび、周囲の雫が暗がりへ消えていく。


 地面が持ち上がる。


 次の瞬間、斜面全体が大きく揺れた。


 恒一は杖を地面へ突き、右腕であかりを抱き寄せた。


 頭上から小石が落ちる。


 一つが右肩へ当たった。


 痛みはある。


 声は出さなかった。


 黒い影が、尾根の真下で止まった。


挿絵(By みてみん)


     ◇


 恒一には、止まった理由が一つしか思い当たらなかった。


 あかりの胸元で、霊核が強く明滅したからだった。


 黒い影の亀裂が、二人のいる岩場へ向く。


 視線と呼べるものかは分からない。


 それでも、探している。


 斜面の水を奪い、昨日から追ってきた青白い光を確かめようとしている。


 あかりの長い髪が、下へ引かれた。


 水の衣が細い筋へほどける。


 薄い右腕の指先が雫に変わり、岩の外へ伸びた。


 二人の胸をつなぐ光が強く脈打つ。


 伸びた雫が途中で切れ、あかりの右手へ戻った。


 それでも、次の一滴がまた引かれる。


 あかりは恒一の腕の中で、黒い影を見つめていた。


 恐怖の奥から、別の意志が届く。


 自分が行けば、追ってくるものも下へ戻る。


 恒一は残れる。


 あかりは身体を起こした。


 岩の隙間から外へ出ようとする。


「待ってください」


 恒一は背へ回していた腕を強くした。


 あかりが首を横へ振る。


 左手で自分を指す。


 次に斜面の下を指した。


 恒一を指し、乾いた尾根の先を示す。


 自分だけが行く。


 恒一は反対へ逃げる。


 言葉がなくても、今度は間違えなかった。


「行かせません」


 あかりの胸から、焦りが流れ込む。


 黒い影が、もう一度動いた。


 太いものが地面へ触れ、岩場が下から突き上げられる。


 あかりは恒一の腕を外そうとした。


 左手に力はない。


 それでも、必死に指を動かしている。


「あかり」


 名前を呼ぶ。


 動きが、一瞬だけ止まった。


「あなたは、ここにいると言いました」


 その朝、五メートルより離れられないと知ったとき。


 あかりは恒一の手を自分の胸へ重ねた。


 嫌ではない。


 離れたいのではない。


 一緒にいる。


 文章ではなく、その意志を伝えてきた。


「少なくとも、僕はそう受け取りました」


 あかりの左手を取る。


 自分の胸へ重ねる。


「僕も、あなたを置いていくつもりはありません」


 言葉のすべては届かない。


 それでも、離さないという意志は届く。


 一人で行かせない。


 ここにいる。


 二人で生きる。


 あかりの胸へ、一つずつ流れ込んでいく。


 あかりは動かなくなった。


 黒い影へ向けていた顔を、ゆっくり恒一へ戻す。


 青白い瞳が揺れている。


 消えたくない。


 まだ、知らないものを見たい。


 名前を呼ばれたい。


 この人の隣にいたい。


 恐怖に押し込められていた願いが、初めて形を持って届いた。


 誰かを守るために、自分が消えることではない。


 水へ戻ることでもない。


 恒一と一緒に、生きたい。


 あかりは左手を恒一の胸から離した。


 今度は、自分の胸へ置く。


 傷ついた霊核の上で、指を握る。


 唇が、三つの音を作った。


 あ。


 か。


 り。


 名前を呼ぶ遠い気配が、もう一度あかりの輪郭へ重なった。


 昨日までは、名前のない水の精霊だった。


 恒一との契約で、一つの生命へつながった。


 二つの月の下で、あかりという名前を受け入れた。


 画面の向こうでは、多くの人間が同じ姿を見て、その名を呼んだ。


 最後に、あかり自身が選んだ。


 水へ還るのではなく、誰かの隣で生きることを。


 胸元の霊核が、恒一の心臓と同じ間隔で強く脈打った。


 青白い光が、二人のあいだへ広がる。


挿絵(By みてみん)


《契約精霊の存在相に変化を確認しました》


 恒一は表示を読み終えるより先に、あかりの身体を抱き寄せた。


 光はすぐに消えた。


 右腕の傷は残っている。


 胸元の亀裂も、五メートルの安定範囲も変わらない。


 人間の身体になったわけではなかった。


 ただ、あかりの長い髪を斜面の下へ引いていた力が、途切れた。


     ◇


 黒い影は、まだ尾根の下にいた。


 縦長の亀裂が、岩場へ向いたまま動かない。


 周囲の水滴は、いまも吸い寄せられている。


 苔は色を失い、湿っていた土の表面が乾いていく。


 岩の隙間に残っていた水まで、細い霧となって斜面を下った。


 その流れは、あかりの身体だけを通り過ぎた。


 水で編まれた衣は揺れない。


 髪の先から雫も離れない。


 傷ついた霊核は、恒一の鼓動へ重なったまま静かに明滅している。


 黒い影の亀裂が、岩場を探るように細く動く。


 昨日までなら、あかりの身体から離れた一滴にも反応した。


 いまも、傷ついた霊核そのものは消えていない。


 ただ、その明滅は一つだけでは完結せず、恒一の鼓動と同じ間隔で返っている。


 影の亀裂は、二人のいる岩場を何度もなぞった。


 やがて、ゆっくり閉じる。


 地面の奥から、探るような振動が何度も伝わった。


 一度。


 二度。


 三度。


 あかりは恒一の胸元へ顔を寄せたまま動かない。


 恒一も息を抑え、右腕を緩めなかった。


 四度目の振動は来なかった。


 影の一部が、木々の向こうへ沈む。


 太い幹が横へ倒れた。


 地面を押し潰す音が、尾根から離れていく。


 来た道を戻ったのではない。


 斜面を横切り、水の集まる低い方へ進んでいる。


 古い痕跡を追うように、白い石の道があった方向へ遠ざかっていく。


 木が折れる。


 少し間を置いて、また折れる。


 音の間隔が、少しずつ長くなった。


 森を揺らしていた低い振動も、やがて地面の奥へ消えた。


 恒一はすぐに身体を動かさなかった。


 去ったように見せ、戻ってくる可能性がある。


 あかりの恐怖も、まだ消えていない。


 二人は岩の隙間で身を寄せたまま、音のない森を見ていた。


     ◇


 どれほど時間が経ったのかは分からない。


 視界の端に時刻はない。


 灰色のRECと、次の配信までを数えるNEXT LIVEだけが残っている。


 数字が一時間減っても、森から大きな音は戻らなかった。


 虫の声が、一つだけ聞こえた。


 しばらくして、別の場所からも細い鳴き声が返る。


 風が木々を揺らす。


 いつもの夜の音が、少しずつ戻り始めていた。


 恒一は、ようやく右腕の力を緩めた。


「もう、いないようです」


 あかりはすぐに離れなかった。


 左手でパーカーの胸元を掴み、顔を伏せたまま動かない。


 契約を通して届く恐怖は、先ほどより薄い。


 代わりに、離れずに済んだ安堵が少しずつ大きくなっている。


 恒一は急かさなかった。


 背中へ回した右手を、そのまま置いておく。


 人間同士のように、体温を分け合うことはできない。


 あかりの身体は冷たい。


 それでも、二つの鼓動は同じ間隔で続いていた。


 恒一は先ほどの表示を思い返した。


 存在相。


 昨日、名前を紹介したときに表示された外部認知と精霊格。


 意味を正確に説明できる言葉は、一つもない。


 分かるのは、あかりに何かが起きたあと、追ってきたものが岩場の前で立ち止まり、そのまま去ったことだけだった。


「契約したからなのか」


 あかりの胸元を見る。


「名前を持ったからなのか」


 長い髪と、薄い右腕を見る。


「皆さんが、あかりとして覚えてくださったからなのか」


 答えはない。


「それとも、あなたがここにいたいと望んだからなのか」


 最後の言葉へ、あかりが顔を上げた。


 文章を理解したわけではない。


 ここにいる。


 一緒にいる。


 先ほど互いに送った意志へ反応したらしい。


 あかりは左手で自分の胸を指した。


 次に、恒一を指す。


 二本の指を、触れさせる。


 離さない。


 それだけを伝えたあと、また恒一の袖を掴んだ。


「……はい」


 恒一は頷いた。


「今夜は、ここにいます」


 それ以上は確かめなかった。


 岩の外へ出るには暗すぎる。


 火を起こし直すこともできない。


 水は失った。


 喉の渇きは残っている。


 それでも、二人とも生きていた。


     ◇


 異世界生活、十日目。


 夜明けの光が岩の隙間へ入ったあとも、恒一はすぐには外へ出なかった。


 あかりと周囲の気配を確かめ、森から大きな音が返らないことを待つ。


 白い月が薄くなり、青い月が空の色へ溶ける。


 鳥の声が、斜面の上から一つ聞こえた。


 それを合図にしたわけではない。


 けれど恒一は、杖を持って岩の外へ出た。


 あかりも左隣へ続く。


 互いに手を伸ばせば届く距離を保ったまま歩く。


 二人の胸をつなぐ光の感覚は、昨日までと同じだった。


 五メートルの制限は、変わっていない。


 あかりの右手の輪郭も、昨日より戻ってはいない。


 存在相が変わっても、傷や契約の条件まで都合よく消えたわけではなかった。


 二人は手を伸ばせば届く距離へ戻り、斜面の下を見た。


 木々のあいだに、一本の道ができている。


 人が作ったものではない。


 太い木は根元から折れ、細い木は土ごと横へ押し流されていた。


 地面には、足跡と呼べないほど広い窪みが続いている。


 その周囲だけ、苔も土も色が薄い。


 水を抜かれた葉は縮れ、朝露さえ残っていなかった。


 六脚の獣の背にあった傷が、脳裏へ浮かぶ。


 あれほど大きな獣が、振り返りながら逃げていた理由。


 まともに遭遇して、生き延びられる相手ではない。


 昨日までの恒一たちは、追いつかれれば終わっていた。


 いまも、戦えるようになったわけではない。


 ただ、追われる理由の一つが変わった。


 恒一は岩の亀裂があった場所へ戻った。


 昨夜は乾ききっていた表面に、小さな雫が膨らんでいる。


 一滴が落ちる。


 少し待って、また一滴。


 あかりが左手を伸ばしかけた。


 恒一は首を横へ振る。


「今日は、そのまま集めます」


 細い葉を亀裂へ添え、水が葉の器へ落ちる道を作る。


 昨夜のような力は働かない。


 雫は重力に従い、ゆっくり器へ落ちた。


 溜まるまでには時間がかかる。


 恒一は待つあいだ、残った荷物をまとめた。


 赤い実は、あと僅か。


 乾いた肉もあるが、水なしで多くは食べられない。


 石片と布、蔓、乾いた樹皮。


 火を起こす道具は失っていない。


 葉の器も、倒れただけで破れてはいなかった。


 少量の水が溜まったところで、恒一は一口だけ飲んだ。


 残りへ葉をかぶせ、今度は蔓を二重に巻く。


 ここに留まって器が満ちるのを待つこともできる。


 恒一は選ばなかった。


 追ってきたものが遠ざかった保証はない。


 あかりが大きな力を使えば、再び水精の気配を残す可能性もある。


 一度やり過ごせたからといって、安全になったわけではなかった。


「出発します」


 荷物を右肩へ掛ける。


 杖を持つ。


 斜面の下ではなく、乾いた尾根の続く先へ身体を向けた。


 あかりは一度だけ、倒れた木々の道を見た。


 胸元の霊核へ左手を置く。


 恐怖は残っている。


 それでも、水の集まる低地へ引かれる感覚はなかった。


 恒一の横へ戻る。


 手を伸ばせば届く距離で、黒いパーカーの袖を掴んだ。


「行きましょう」


 あかりは名前を呼ばれなくても、今度は迷わず頷いた。


 二人は、尾根の先へ歩き始めた。


挿絵(By みてみん)


 追ってきたものが、あかりを見失ったのではない。


 それが探していた、誰にも名を結ばれず、水だけに属していた精霊は、もうどこにもいなかった。


 恒一の隣にいるのは――あかりだった。


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