第17話 誰かが、ここを通った
尾根の先は、朝日を受けても乾いたままだった。
白い岩の隙間から細い草が伸び、その向こうには背の低い木が続いている。
振り返れば、昨夜のものが通った跡が森を分断していた。
押し倒された木々。
水を抜かれ、色を失った地面。
その道は低地へ下りながら、少しずつ木々の奥へ消えている。
恒一は二度目には振り返らなかった。
右肩へ荷物を掛け直し、杖で足元を確かめる。
左肩の痛みは、昨夜より僅かに薄い。
ただ、腕を胸より高く上げようとすると、鈍い痛みが奥へ残った。
右脚も歩き始めは重い。
休めたから治ったのではない。
動ける範囲まで戻っただけだった。
あかりは恒一の左隣に浮かんでいる。
薄い右腕は胸元へ寄せ、左手だけで黒いパーカーの袖を掴んでいた。
朝から一度も、五メートルの境界を確かめようとはしていない。
「ゆっくり進みます」
恒一は尾根の先を指した。
遠くへ行く。
昨夜のものから離れる。
二人で歩く。
単純な意図を送ると、あかりは小さく頷いた。
その胸元では、傷ついた霊核が恒一の鼓動と同じ間隔で明滅している。
存在相が変わったあとも、見た目に大きな違いはない。
人間の身体になったわけでも、傷が塞がったわけでもなかった。
ただ、あかりの内側から伝わる意志は、昨夜と変わらずそこにある。
ここにいる。
一緒に行く。
それだけは、言葉がなくても迷わなかった。
◇
乾いた尾根は、午前のうちに緩やかに低くなった。
岩のあいだへ土が増え、背の低かった木々も、少しずつ高さを取り戻していく。
葉の色も違っていた。
昨夜のものが通った斜面では、朝露まで奪われていた。
こちら側の葉には、小さな雫が残っている。
恒一は一枚へ指を触れた。
濡れた感触がある。
それだけで、喉が水を思い出した。
出発前に集めた水は、葉の器の底を覆う程度しかない。
まだ一口しか飲んでいなかった。
赤い実も残り少ない。
乾いた肉はあるが、水が見つかるまで多くは食べられない。
恒一は葉の器へ手を伸ばさず、濡れた指を服の裾で拭いた。
あかりが足を止める。
青白い瞳は、尾根の右側へ下る斜面を見ていた。
長い髪の先が、風とは違う動きで僅かに浮く。
昨夜のように引かれてはいない。
細かな雫へほどける様子もなかった。
あかりは左手を斜面へ向ける。
その指先に光は集めない。
水を動かそうともしていなかった。
ただ、そこに何かがあると伝えている。
「水気がありますか」
空の部分が多い葉の器を見せる。
あかりはすぐには頷かなかった。
確かな流れを見つけたわけではないらしい。
湿った空気。
乾いた尾根より多い水分。
その程度の感覚が届く。
同時に、薄い恐怖も混ざっていた。
水を探せば、また昨夜のものへ気づかれるかもしれない。
恒一はあかりの左手を取った。
「力は使わなくて大丈夫です」
水を集めない。
光を出さない。
歩いて探す。
意図を分けて送る。
あかりは恒一の顔を見たあと、自分の右腕へ視線を落とした。
それから、もう一度斜面を見る。
左手の指が、恒一の指を握り返した。
「下りられる場所を探しましょう」
恒一はすぐ斜面へ入らなかった。
尾根の上を進み、傾きの緩い場所を探す。
十数歩進んだところで、目の高さに伸びていた枝を避けた。
その先端が、不自然に短い。
恒一は通り過ぎかけて、足を戻した。
枝の先は折れていなかった。
斜めに平らな面ができている。
表面は乾き、薄く色が変わっていた。
今日ついたものではない。
それでも、風や獣が折った跡には見えなかった。
「……切られていますね」
恒一は指で触れず、顔を近づけて見る。
一度で切れたのか、何度か刃を当てたのかまでは分からない。
分かるのは、断面が細く潰れずに残っていることだけだった。
あかりも隣から覗き込む。
切れた枝。
その先へ続く斜面。
恒一が交互に指すと、あかりは首を傾げた。
「これだけでは、まだ分かりません」
人が切った。
そう決めるには、跡が一つしかなかった。
この世界には角を持つ獣も、見たことのない甲殻の生き物もいる。
枝を鋭く切れる身体を持つものがいても、おかしくはない。
恒一は位置だけを覚え、先へ進んだ。
七歩先に、もう一本あった。
今度は腰の高さだった。
細い枝が二本、進行方向を塞がない長さで切られている。
さらにその先では、蔓が一つだけ根元近くで断たれていた。
どれも新しくはない。
切り口の色は違う。
それでも、同じ方向へ抜ける隙間が残っている。
道と呼べるほど広くはない。
地面が踏み固められているわけでもなかった。
けれど、何かが通りやすいように、邪魔なものだけが取り除かれている。
恒一は杖を握り直した。
「誰かが、ここを通った可能性があります」
あかりには、誰かという言葉までは届かない。
恒一とあかり以外の存在。
枝を切り、先へ進んだもの。
輪郭の曖昧な意図を送る。
あかりの瞳が僅かに大きくなった。
恐怖ではなかった。
驚きと、その奥に小さな戸惑いがある。
あかりは切られた枝へ左手を近づけた。
触れる直前で止め、斜面の先を見る。
何かを思い出した様子はない。
それでも、昨夜のものを見たときのように怯えることもなかった。
◇
細い隙間を辿ると、斜面の途中で木々が途切れた。
地面から切り株が一つ出ている。
恒一の膝より少し低い。
幹は途中で折れたのではなく、横から削られていた。
断面は完全に平らではない。
片側から深く食い込み、反対側からも何度か削った跡がある。
中心近くで割れた部分には、雨水が溜まっていた。
切り株の脇には、同じ木から落ちたものらしい細い枝が重ねられている。
自然に倒れたなら、ここまで一箇所へ集まらない。
恒一は周囲を見回した。
木々のあいだに動くものはいない。
声も、金属音も聞こえなかった。
煙の匂いもない。
視界の端では、灰色のRECが変わらず浮かんでいる。
NEXT LIVEは、まだ三時間以上先を示していた。
「人、とは限りませんね」
切り株の断面を見る。
「ただ、道具を使う何かはいます」
地球の人間と同じ姿かは分からない。
言葉が通じる保証もない。
友好的である理由は、もっとなかった。
それでも恒一は、切り株から目を離せなかった。
異世界へ来て十日目。
初めて見つけた、自分以外の誰かが残した跡だった。
喜ぶより先に、胸の奥が強く縮む。
会社の蛍光灯。
帰宅途中の足音。
隣の部屋から聞こえていた生活音。
こちらへ来る前は、気にも留めていなかったものばかりが浮かんだ。
誰かが木を切った。
それだけの事実が、ひどく遠かった人の暮らしを連れてくる。
あかりの左手が、黒い袖を引いた。
恒一は自分が立ち止まったままだったことに気づく。
「大丈夫です」
癖のように答えてから、言い直した。
「……少し、嬉しかっただけです」
嬉しいという感情を送る。
あかりは切り株と恒一を見比べた。
理解しきれないまま、袖を掴んでいた指の力を僅かに緩める。
その反応に、恒一は小さく息を吐いた。
「近づくかどうかは、もう少し痕跡を見てから決めます」
嬉しいことと、安全であることは別だった。
◇
切り株から先は、斜面の土が柔らかくなっていた。
落ち葉の下へ杖を入れると、先端が指一本分ほど沈む。
苔の色も濃い。
あかりは水の力を使わず、ときどき足を止めて右側を示した。
恒一はその方向へまっすぐ下りない。
切られた枝が残る隙間と、足場の傾きを比べながら進む。
やがて、水の音が聞こえた。
大きな流れではない。
石のあいだを細く抜ける音だった。
恒一はすぐ近づかず、木の陰から周囲を見る。
獣はいない。
対岸にも動く影はなかった。
少し上流へ視線を移すと、岩の隙間から湧いた水が、細い溝を作って斜面を下っている。
白い泡や、不自然な色は見えない。
近くに死骸もなかった。
昨夜のものが通った跡からは、尾根を一つ隔てている。
恒一は流れのそばへ膝をついた。
水へ触れる。
冷たい。
匂いに違和感はなかった。
あかりは隣へ浮かび、流れへ左手を伸ばしかける。
指先が水面へ近づいたところで止まった。
胸の奥から、昨夜の恐怖が僅かに届く。
「動かさなくて大丈夫です」
恒一は葉の器を取り出した。
「今日は、僕が集めます」
器を流れへ直接沈めない。
大きな葉を一枚洗い、水が伝うよう折って、落ちる先へ器を置く。
細い流れでも、岩の雫を待つより遥かに速い。
器の底が見えなくなり、半分を越える。
恒一は満ちる前に離した。
葉を重ね、蔓で口を縛る。
すぐには飲まない。
少し離れた岩陰で火を起こし、できるだけ熱を通す必要があった。
あかりは器の横へ左手を添えた。
持ち上げる力はない。
それでも、こぼれないよう見張るつもりらしい。
「ありがとうございます」
恒一が礼を言うと、小さな満足が返ってきた。
流れのすぐそばには、平たい石が三つ並んでいた。
水を汲む足場にも見える。
ただ、自然に並んだのか、誰かが置いたのかは判断できない。
恒一は踏まずに横を通った。
いまは、水を確保できたことだけで十分だった。
◇
火は、流れから少し上がった岩陰で起こした。
煙が増えないよう、乾いた細枝だけを使う。
温めた水を一口飲み、時間を置く。
舌の痺れも、喉の痛みも起きなかった。
恒一は残っていた赤い実を半分に割り、乾いた肉を少しだけ火へかざした。
果汁と交互に、時間をかけて噛む。
腹が満ちる量ではない。
それでも、朝より脚へ力が戻った。
あかりは火の向こうから、恒一が食べ終えるまで見ていた。
視線が何度も左肩へ移る。
「歩けます」
恒一が右脚を軽く曲げて見せると、あかりは首を横へ振った。
そこではないらしい。
左肩へ巻いた布を指す。
次に、空の上へ両手を重ねるような仕草をした。
「休め、ということですか」
あかりは一度だけ頷いた。
言葉が通じるようになったわけではない。
十日近く互いの動きを見てきたことで、分かる仕草が少しずつ増えているだけだった。
恒一は火を消したあとも、岩へ背を預けた。
「では、配信が近づくまで休みます」
NEXT LIVEは二時間を切っている。
夕方の一時間は、身体が少し動きやすくなる。
その時間を使えば、痕跡の続きを確かめられる。
ただし、暗くなる前には足を止める。
誰かがいるとしても、夜に近づくつもりはなかった。
恒一は目を閉じなかった。
耳だけで流れと森の音を確かめる。
あかりは右脇へ座るように浮かび、左手でパーカーの裾を掴んでいた。
流れる水は、昨夜のように逆らわない。
上から下へ、ただ静かに流れていた。
◇
NEXT LIVEが残り五分を示したところで、恒一は立ち上がった。
火へ土をかぶせる。
手の甲を近づけ、熱が残っていないことを確かめる。
葉の器には、温めて冷ました水が入っている。
今夜を越えるには十分ではない。
それでも、空ではなかった。
流れの位置も分かった。
恒一は切られた枝の続く方向へ身体を向けた。
あかりが左隣へ浮かぶ。
「これから配信が始まります」
赤い点が現れるはずの場所を指す。
遠くにいる人たち。
昨日、あかりの名前を呼んだ人たち。
その意図を受け取ると、あかりは自分の胸元へ左手を当てた。
唇が三つの音を作る。
あ。
か。
り。
「はい。今日も一緒です」
残り十秒。
恒一は杖を右手へ持つ。
あかりは黒い袖を掴んだ。
灰色のRECが消える。
赤い点が灯った。
――LIVE。
――残り時間 59:59。
身体を包んでいた重さが薄くなる。
左肩の痛みは残っている。
それでも、右脚へ力を乗せたときの震えが小さくなった。
同時視聴者数が、ゼロから増えていく。
恒一は赤い点へ頭を下げた。
「こんばんは。ポチです」
隣へ目を向ける。
「あかりも一緒にいます」
名前を呼ばれ、あかりが赤い点のある方向を見る。
少し遅れて、恒一と同じように頭を下げた。
地球側では、二人の姿を確かめた者たちが一斉に文字を送っていた。
『生きてる』
『二人ともいる』
『あかりちゃん今日もよろしく』
『ポチ肩まだ痛そうだな』
『水は見つかった?』
『昨日の続きどうなった』
その文字は、まだ恒一には届かない。
「先に、昨夜のことを報告します」
恒一は倒木の続く斜面が見えないことを確認してから、声を落とした。
「配信終了後、この辺りの水が一方向へ引かれました。そのあと、森の木々より大きな何かが、尾根の下まで来ています」
あかりの左手が、袖を掴む力を強める。
恒一は右手を重ねた。
「あかりを探していた可能性があります。水ではなく、胸にある精霊の核を狙っていたように見えました」
確定しているとは言わない。
見たものと、契約を通して届いた断片だけを伝える。
「近くまで来たとき、《契約精霊の存在相に変化を確認しました》という表示が出ました。その直後から、あかりの身体だけは水と一緒に引かれなくなっています」
あかりの胸元を見る。
霊核の亀裂は残っている。
右腕も薄いままだ。
「なぜ通り過ぎたのかは、まだ分かりません。傷と、僕から五メートルの安定範囲も変わっていません」
恒一は自分の胸へ手を当てた。
「僕も、左肩と右脚に痛みはありますが、歩けています」
地球側のコメントが速くなる。
『何それ怖い』
『森よりでかいのが来たの?』
『REC見せてくれ』
『RECはこっちから見られない』
『あかりちゃん無事でよかった』
『ポチも無事ではないけど生きててよかった』
『そこから離れた方がいい』
恒一は、まだその反応を知らない。
「今朝から、昨夜のものが進んだ方向とは反対へ移動しています」
切られた枝が残る隙間を指す。
「途中で、刃物のようなもので切られた枝と、削られた切り株を見つけました」
近くにある二本の枝を順に映す。
「人間とは限りません。ただ、道具を使う存在が近くにいる可能性があります」
あかりは枝より、赤い点のある場所を気にしていた。
昨日とは違い、すぐ恒一の背へ隠れない。
それでも袖から手は離さなかった。
「暗くなる前まで、痕跡の続きを確かめます。急いで近づくつもりはありません」
恒一は杖を前へ出した。
「では、移動します」
◇
――残り時間 45:00。
歩き始めて十五分。
配信開始直後に送られた文字が、恒一の視界へ現れた。
『生きてる』
『二人ともいる』
『あかりちゃん今日もよろしく』
『ポチ肩まだ痛そうだな』
『水は見つかった?』
『昨日の続きどうなった』
恒一は歩みを緩めた。
「はい。二人とも生きています」
葉の器を少し持ち上げる。
「水も見つかりました。小さな流れですが、昨夜のものが通った場所とは尾根を隔てています。加熱してから飲み、いまのところ異常はありません」
十五分前には話していなかった昨夜のことを、すでに説明し終えている。
コメントと現在がすれ違う感覚にも、少しずつ慣れてきた。
「肩はまだ痛みます。無理に速度は上げません」
あかりがその言葉へ反応する。
左肩を指し、恒一へ疑うような目を向けた。
「上げません」
同じ言葉を、今度はあかりへ向けて言う。
地球側では、現在の二人を見た者たちが別の文字を送っていた。
『あかりちゃんに監視されてる』
『無理しないって言ったぞ』
『言質取った』
『ポチよりあかりちゃんの方が信用できる』
恒一へ届くのは、さらに十五分後だった。
切られた枝は、途切れながら斜面を横へ進んでいる。
すべての木に跡があるわけではない。
何も見つからない区間の方が長かった。
恒一は一つ見失うたび、前へ出ず、左右を見て次の隙間を探す。
LIVEの補正で身体が動いても、判断まで急ぐ必要はない。
斜面が少し平らになった場所で、あかりが袖を引いた。
左手で地面を指している。
落ち葉のあいだから、灰色の石が三つ出ていた。
一番下は、恒一の両手ほどの平たい石。
その上へ小さな石が二つ積まれている。
周囲にも石はある。
ただ、この三つだけは面の広い側を下にして重なっていた。
上の石は細長く、切られた枝の続く方向を向いている。
「積まれたものに見えます」
恒一は触れず、横から形を映した。
「道を示すものか、場所の目印かは分かりません」
地球側でも、画面に映った石を見て短い反応が流れる。
『石積んである』
『自然にこうなる?』
『誰か置いたっぽい』
『崩すなよ』
『人いるんじゃないか』
恒一には、まだ見えない。
あかりは細長い石が示す方向を見た。
左手で自分と恒一を指し、その先を指す。
「進みたいですか」
期待に似た感情が返ってくる。
あかり自身が、石の意味を知っているわけではない。
恒一が誰かの痕跡を見つけて喜んだことを、覚えているだけだった。
「もう少しだけです」
恒一は空を見上げる。
太陽は木々の上にある。
すぐ暗くなる高さではない。
それでも、初めて見る相手と夜に出会うつもりはなかった。
石を避け、示された方向へ進む。
◇
――残り時間 29:18。
細い流れを、もう一度横切る場所へ出た。
水幅は靴一足分ほどしかない。
恒一は杖で底を確かめ、石を選んで渡る。
あかりは水面の上を滑るように続いた。
対岸へ着いたところで、恒一は足を止めた。
湿った土に、浅い窪みがある。
獣の蹄ではない。
指や爪の形もなかった。
踵にあたる部分が丸く、前側が少し広い。
自分の靴跡と形が似ている。
大きさは、恒一のスニーカーより僅かに小さかった。
模様までは残っていない。
一つ目の先に、半分だけ崩れた窪みがある。
さらに先は、落ち葉の上へ続いて消えていた。
「靴の跡、でしょうか」
恒一は自分の足を横へ置いた。
踏み重ねないよう、距離を空けて比べる。
「少なくとも、六脚の獣とは違います」
人間と同じ二本の脚で歩くもの。
靴を作り、履くもの。
そこまで考えて、息を止める。
切られた枝。
削られた切り株。
積まれた石。
そして、靴に似た跡。
一つだけなら、別の理由を考えられた。
四つが同じ方向へ続いている。
「近くに、生活している人がいるかもしれません」
人という言葉を口にしても、まだ姿は見えない。
返事もない。
それでも、十日間で初めて、その可能性を声にできた。
地球側のコメントが一気に増える。
『足跡だ』
『靴っぽい』
『ポチ以外の足跡初めてじゃない?』
『近いぞ』
『周り見て』
『罠かもしれないから気をつけて』
『声かけるのはまだ早い』
あかりは窪みへ近づき、左手をかざした。
水の光は出ない。
残っている湿り気を確かめるように、指先を僅かに動かす。
けれど、あかりはすぐ首を傾げた。
窪みの底も周囲の土も、同じように湿っている。
いつついたものかまでは、分からなかった。
「すぐ近くにいるとは限りませんね」
期待が先へ走りかけるのを、自分で止める。
古い道。
使われなくなった目印。
何日も前の足跡。
誰かがいたことと、いまもいることは別だった。
恒一は周囲の音を確かめた。
聞こえるのは水と鳥の声だけだった。
◇
――残り時間 23:40。
十五分前、切られた枝を見ながら送られた文字が届き始めた。
『枝の切り口、同じ方に続いてるな』
『道みたいになってる』
『誰か通った跡っぽい』
『周りも見て』
『古そうなら今もいるとは限らない』
恒一は歩みを止めずに答える。
「はい。切られた跡は、途切れながら同じ方向へ続いています」
恒一は後ろと左右をもう一度確かめた。
「新しい跡とは限りません。誰かがいま近くにいるとも、まだ決めていません」
あかりが恒一の横顔を見る。
その胸からも、まだ消えていない恐怖が届く。
「大きな力も、できるだけ使いません」
水精としての力が強く現れれば、再び見つかる可能性がある。
確かめるために試すことはできなかった。
恒一は足跡の方向へ三十歩ほど進んだ。
そこで、あかりが急に顔を上げる。
水ではない。
左手は胸元ではなく、鼻と口の近くへ上がっている。
恒一も息を吸った。
湿った土。
木の葉。
流れる水。
その中へ、僅かに焦げた匂いが混ざっている。
昨夜、自分たちが起こした火の跡ではない。
尾根を越え、流れを二度横切っている。
今日、休んだ岩陰の煙とも方向が違った。
もう一度風が吹く。
今度は、はっきり分かった。
「煙です」
恒一は声を抑えた。
木々のあいだから空を見る。
すぐには何も見えない。
少し右へ位置を変える。
遠い斜面の上に、細い灰色が一本だけ上がっていた。
雲ではない。
風に押され、木々の上で薄くほどけている。
山火事のように広がってもいなかった。
一定の場所から、途切れながら上がっている。
恒一は赤い点へ向け、指で位置を示した。
「見えるでしょうか」
画面の向こうでも、木々の上の灰色へ気づいた者が文字を送る。
『煙見える』
『ほんとに誰かいる』
『焚き火かな』
『家の煙かもしれない』
『今から行くのは危ない』
『もう夕方だぞ』
恒一には、まだ届かない。
あかりは煙と恒一を交互に見る。
先へ進みたいという気持ちが、先ほどより強くなっていた。
恒一も同じだった。
煙の下まで行けば、誰かに会えるかもしれない。
水の場所を尋ねられる。
食べ物を交換できるかもしれない。
この世界の名前も、昨夜のものが何なのかも分かる可能性がある。
けれど、言葉は通じない。
恒一は裂けた黒い服を着て、杖を持っている。
隣には、傷ついた水の精霊がいる。
相手から見て、どのような存在に映るかも分からなかった。
日が落ちる前の訪問が歓迎されるとも限らない。
「今日は、ここまでにします」
あかりの胸から、落胆が届く。
恒一は煙を指す。
次に、沈み始めた太陽を示す。
その場へ手を下ろし、両手を重ねた。
ここで休む。
朝になってから進む。
意図を送る。
あかりは煙を見たまま、すぐには頷かなかった。
「近づかないとは言っていません」
明るい空。
二人で煙の方向へ進む。
その像を送り直す。
あかりはようやく恒一へ顔を戻した。
小さく頷く。
「まず、今夜を安全に越えます」
◇
煙が見えた場所から、来た方向へ少し戻った。
細い痕跡のすぐそばでは休まない。
流れから水を取れる範囲で、枝を切った跡のない横道へ入る。
大きな木の根元に、背を預けられる窪みがあった。
上には葉が重なり、遠い斜面から直接見えにくい。
獣の足跡や糞もない。
恒一は今夜の場所をそこに決めた。
火は起こさない。
昼に温めた水と、残った食料だけで夜を越える。
煙の主へ自分たちの位置を知らせる必要はなかった。
――残り時間 14:57。
積み石を見つけた頃に送られたコメントが届く。
『石積んである』
『誰か置いたっぽい』
『崩すなよ』
『人いるんじゃないか』
「はい。触れずに通りました」
恒一は荷物を根元へ置く。
「その先で、靴に似た跡も一つ見つけています。古いようですが、切られた枝と同じ方向でした」
いま送られた驚きが届く頃には、LIVEは終わっている。
それでも、地球側の文字は一気に増えた。
『靴?』
『ついに人か』
『まだ分からん』
『煙もあるならかなり近い』
『夜に行くなよ』
『明るくなってからにしよう』
恒一は葉の器を傾け、一口だけ水を飲んだ。
あかりは根のそばへ浮かび、煙が見えた方向を何度も気にしている。
恒一も同じ方向を見た。
木々に遮られ、ここから煙は見えない。
焦げた匂いも、風が止まると分からなくなった。
それでも、先ほど見たものが消えるわけではない。
森のどこかで、誰かが火を使っている。
自分以外に。
画面の向こうの人々以外に。
この世界で暮らしている、誰かが。
◇
――残り時間 06:21。
煙を見つけた直後のコメントが、恒一へ届いた。
『煙見える』
『ほんとに誰かいる』
『焚き火かな』
『今から行くのは危ない』
『もう夕方だぞ』
恒一は頷いた。
「今日は近づきません」
赤い点へ、はっきり伝える。
「煙の方向は覚えました。切られた枝と足跡も、同じ方角へ続いています。明るくなってから、周囲を確認しながら進みます」
あかりは明日という言葉を理解しない。
それでも朝の光と、二人で歩く意図は先ほど送ってある。
左手で自分と恒一を順に指し、煙があった方向を示した。
「はい。二人で行きます」
地球側では、安堵と期待が混ざった文字が流れた。
『それがいい』
『今夜は休んで』
『人がいるなら食料もあるかも』
『言葉通じるかな』
『いきなり近づかない方がいい』
『まず姿見てからだな』
『あかりちゃんも一緒なら五メートル忘れるな』
最後の言葉は、残り時間が尽きる前に恒一へ届かない。
それでも、五メートルの距離を忘れることはなかった。
恒一は横へ手を伸ばす。
あかりの左手が、その指へ触れる。
手を伸ばせば届く距離。
明日、初めて見るかもしれない相手の前でも、変わらない距離だった。
――残り時間 01:00。
「今日分かったことを、まとめます」
恒一は赤い点へ向き直った。
「昨夜のものは、いまのところ追ってきていません。反対側の斜面で新しい水を確保しました」
葉の器を持ち上げる。
「刃物で切られたような枝と切り株、積み石、靴に似た跡を見つけています。その先には、細い煙が見えました」
期待だけで言葉を強くしない。
「人がいる可能性は高くなりましたが、まだ会ってはいません。明日、慎重に近づきます」
あかりも赤い点のある方向を見る。
「今日は、ここで休みます」
残り十秒。
「今日も、ありがとうございました」
恒一は頭を下げた。
あかりも、少し遅れて同じように頭を下げる。
残り時間がゼロになる。
赤い点が消えた。
LIVEの表示が、灰色のRECへ変わる。
同時視聴者数も、コメントも、恒一の視界からなくなった。
身体へ重さが戻る。
左肩の痛みが濃くなり、右脚から力が抜けた。
恒一は大きな木の根へ背を預ける。
あかりの左手が、すぐ右腕へ添えられた。
「大丈夫です」
いつもの言葉を口にする。
あかりは納得せず、恒一のすぐ隣へ身体を寄せた。
水で編まれた髪の先が、黒い袖へ重なる。
恒一は止めなかった。
木々の向こうでは、夕方の光が薄くなっている。
煙はもう見えない。
声も届かない。
それでも、切られた枝も、積まれた石も、土に残った靴跡も消えてはいなかった。
十日間、恒一が見つけられなかったもの。
誰かがここを通ったという証拠。
そして、今もどこかで火を使っているという証拠。
明日、その煙の下へ向かう。
恒一は葉の器へ手を置き、あかりと同じ方向を見た。
異世界で初めて人の暮らしへ近づいた夜は、まだ名前も顔も知らない誰かの煙から始まった。




