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第18話 あなたの言葉を、僕の声で

挿絵(By みてみん)

 朝になっても、煙の匂いは消えていなかった。


 大きな木の根元で目を覚ました恒一は、身体を起こす前に息を吸った。


 湿った土と、夜露を含んだ葉。


 その奥に、昨日と同じ焦げた匂いが僅かに混ざっている。


 風向きは変わっていた。


 それでも届くということは、火は一度きりではない。


 誰かが、いまも使っている。


 恒一は背を預けていた根から、ゆっくり身体を離した。


 左肩には鈍い痛みが残っている。


 右脚も、膝を伸ばしたところで一度震えた。


 昨日より悪くはない。


 良くなったと言い切れるほどでもなかった。


 黒いパーカーの裾へ、冷たい指が触れる。


 あかりが、恒一のすぐ右側に浮かんでいた。


 長い髪には朝の光が透けている。


 薄い右腕は胸元へ寄せたまま、左手だけで裾を掴んでいた。


 目が合うと、あかりは恒一の左肩を見る。


 次に右脚。


 最後に、疑うような目で恒一の顔へ戻った。


「歩けます」


 あかりは首を傾げた。


「無理はしません」


 言葉の意味は届かない。


 ゆっくり進む。


 痛みが強くなれば止まる。


 二つの意図を、契約へ分けて送る。


 あかりはすぐには頷かなかった。


 それでも、裾を掴んでいた指の力は少しだけ緩んだ。


 視界の端には、灰色のRECが浮かんでいる。


 異世界へ来て、十一日目の朝だった。


     ◇


 昨夜残した水を二口飲み、恒一は荷物をまとめた。


 葉の器。


 石片と、乾いた樹皮。


 蔓と、裂いた布。


 残っている乾いた肉は、手のひらより小さい。


 赤い実は、昨日食べたものが最後だった。


 煙の先に人がいたとしても、食べ物を分けてもらえるとは限らない。


 交換に使えるものも持っていなかった。


 恒一は杖を右手に持ち、昨夜戻ってきた方向へ進んだ。


 切られた枝のある細い隙間へ戻る。


 積み石には触れない。


 昨日見つけた靴跡も踏まず、その横を通った。


 朝の光の下で見ると、落ち葉のあいだに同じ形の窪みがもう二つ残っていた。


 一つは昨日のものより小さい。


 歩幅も短かった。


 同じ方向を、少なくとも二人が通っている。


「二人、でしょうか」


 恒一は大小の跡を順に指した。


 あかりも地面へ近づき、二つを見比べる。


 その表情に、思い出した様子はない。


 ただ、恒一が一人ではない可能性を考えていることは伝わったらしい。


 あかりは自分と恒一を順に指した。


 次に、二つの足跡を指す。


「そうですね。向こうも二人かもしれません」


 誰が残した跡かは分からない。


 古さも同じとは限らない。


 それでも昨日より、煙の主へ輪郭が増えた。


 恒一は足跡が向かう斜面へ進んだ。


     ◇


 道は、進むほど道らしくなった。


 足元の草が途切れ、落ち葉の下から固い土が出てくる。


 腰の高さに伸びた枝は短く払われ、斜面の急な場所には平たい石が埋め込まれていた。


 獣が作った通り道ではない。


 恒一は足音を立てないことより、周囲の音を聞き逃さないことを優先した。


 杖を置く位置を確かめ、一歩ずつ進む。


 あかりは半歩先へ出ては、すぐ手の届く距離へ戻った。


 五メートルの境界へ近づくことはない。


 霊核の亀裂も、薄い右腕も、朝から変化していなかった。


 木々のあいだから、黒いものが見えた。


 恒一はその場で止まる。


 昨夜の影とは違う。


 地面から丸く盛り上がった、土の塊だった。


 人の背丈より少し低い。


 表面は黒く焼け、片側に石で囲まれた小さな口がある。


 頂上近くの穴から、細い煙が上がっていた。


 周囲には、同じ長さに切り揃えられた木が積まれている。


 黒い欠片が地面へ散り、踏まれた土へ煤が染み込んでいた。


「炭焼き窯、でしょうか」


 地球で実物を扱ったことはない。


 形から考えられる用途を口にしただけだった。


 けれど、自然にできたものではない。


 火を管理し、木を切り、同じ長さへ揃え、ここまで運んだ者がいる。


 煙の主は、もう想像だけの存在ではなかった。


 窯の先に、低い柵が見える。


 その内側には、背丈の違う緑の葉が列を作っていた。


 小さな畑だった。


 さらに奥には、石を積んだ壁と、木の屋根を持つ小屋がある。


 屋根の端からも薄い煙が上がっていた。


 扉の横には薪が積まれ、軒下には籠と布が干してある。


 恒一は息を吐くことを忘れていた。


 会社でも、自宅でもない。


 日本のどこかですらない。


 それでも、畑の列も、積まれた薪も、屋根から上がる煙も知っている。


 誰かが今日を越えるために整えた形だった。


挿絵(By みてみん)


「家です」


 声が僅かに掠れた。


 あかりが恒一の横顔を見る。


「本当に、人が住んでいます」


 嬉しさを押さえようとしても、契約を通して隠せなかった。


 あかりの胸からも、驚きが返ってくる。


 ただし、その奥には恒一より濃い警戒があった。


 彼女は小屋ではなく、扉の脇に吊られた細い木片を見ている。


 表面に、波を三本重ねたような印が刻まれていた。


 あかりの左手が、無意識に胸元へ上がる。


 遠い記憶が一瞬だけ触れた。


 石の縁へ置かれた器。


 水面へ指を浸す人の手。


 聞き取れないほど遠い、誰かの声。


 像はすぐ消えた。


「知っているものですか」


 あかりは答えられない。


 自分でも分からないという戸惑いだけが届いた。


 恒一は小屋へ近づかなかった。


 木々の陰から、窯と畑と扉を順に見る。


 人影はない。


 話し声もしなかった。


 ただ、窯から上がる煙は途切れていない。


 畑の土には、今朝ついたような靴跡が残っている。


 ここで待てば、誰かは戻る。


 隠れて見張り続ければ、相手からは不審者にしか見えない。


 恒一は空を見上げた。


 太陽はすでに大きく傾いている。


 斜面と負傷した脚に時間を取られ、朝から半日近く進んでいた。


 NEXT LIVEは、残り二十分を切っている。


「姿を隠したまま、暗くなるのは避けます」


 あかりへ、明るいうちに声をかける意図を送る。


 あかりは小屋を見た。


 次に恒一の裂けた服と、杖を見る。


 不安が強くなる。


「これを持ったまま近づきません」


 恒一は杖を地面へ横たえた。


 石片の入った荷物も、木の根元へ置く。


 葉の器だけを残し、両手が見えるよう袖を上げた。


 左腕を上げたところで肩が痛む。


 胸より少し下で止める。


「あかりは、僕のそばにいてください」


 言わなくても、五メートル以上は離れられない。


 それでも意図を送ると、あかりは恒一の左側へ戻った。


 薄い右腕を胸へ寄せ、左手で袖を掴む。


 二人はそのまま、LIVEの開始を待った。


     ◇


 灰色のRECが消えた。


 赤い点が灯る。


 ――LIVE。


 ――残り時間 59:59。


 身体へまとわりついていた重さが薄くなる。


 左肩の痛みは消えない。


 それでも、上げた腕を保てる程度には弱くなった。


 同時視聴者数が、ゼロから増えていく。


 恒一はいつものように頭を下げた。


「こんばんは。ポチです」


 隣へ目を向ける。


「あかりも一緒にいます」


 あかりも赤い点のある方向へ、小さく頭を下げた。


「昨日見つけた煙を、朝から追ってきました」


 恒一は身体の向きを変え、木々の向こうを映す。


 黒い窯。


 切り揃えられた薪。


 小さな畑。


 石と木で作られた小屋。


「人が使っている場所で、間違いないと思います」


 地球側では、画面へ現れた初めての人工物に文字が重なった。


『家だ』


『本当に家ある』


『炭焼いてる?』


『畑もある』


『人はどこ』


『ポチ武器置いたのか』


『気をつけろ』


 いま送られた文字が届くのは十五分後だった。


 恒一は赤い点へ向かって続ける。


「まだ住人の姿は見ていません。暗くなる前に、ここから声をかけます」


 杖を置いた木の位置を確かめる。


 走れば戻れる距離ではある。


 相手が弓を持っていれば、意味はない。


 その可能性まで考えてから、恒一は一歩だけ木陰の外へ出た。


「こんにちは」


 普段より大きな声が、窯と小屋のあいだへ届く。


 返事はない。


 あかりの左手が、袖を掴む力を強めた。


「誰か、いますか」


 二度目の声を出した直後、背後で枝が鳴った。


     ◇


 恒一は振り返らなかった。


 先に、両手を胸の前まで上げた。


 あかりだけが身体を反転させ、恒一の背後を見る。


 驚きと恐怖が、契約を通して一度に届いた。


 低い声が響く。


 短い言葉だった。


 日本語ではない。


 音の切れ目すら、恒一には分からなかった。


 ただ、従うべき意味だけは状況から判断できる。


「止まっています」


 日本語で答え、ゆっくり顔だけを横へ向ける。


 十歩ほど後ろに、男が立っていた。


 白髪交じりの髪。


 日に焼け、深い皺の刻まれた顔。


 背は恒一より低い。


 厚い布と革を重ねた服を着て、短い弓を構えている。


 矢の先は、恒一の胸へ向いていた。


 老人だった。


 その事実に安心する理由はない。


 弦は十分に引かれ、腕も震えていなかった。


 老人がもう一度、違う言葉を発する。


 恒一は理解できない。


 自分の胸を指したくても、手を動かすことで矢が放たれる可能性がある。


「言葉が分かりません」


 老人の眉間に皺が寄る。


 通じていないことだけは、互いに分かった。


 あかりが恒一の左側から老人を見ている。


 彼女の姿は、弓を構える視線の正面にあった。


 それでも老人の目は、あかりへ一度も止まらない。


 矢の先も揺れなかった。


 見えていない。


 契約前の恒一と同じだった。


 小屋の扉が開く。


 別の声がした。


 老人より高く、少し掠れた声だった。


 灰色の髪を後ろで束ねた老女が、扉の内側から現れる。


 両手には何も持っていない。


挿絵(By みてみん)


 腰まで届く厚い上着の上へ、色の褪せた布を巻いていた。


 老女は弓を構える老人へ何かを言った。


 老人が短く返す。


 会話の内容は一つも分からない。


 老女の視線が恒一へ向く。


 裂けた黒いパーカー。


 布を巻いた左肩。


 汚れた靴。


 木の根元へ置かれた杖と荷物。


 一つずつ確かめるように動く。


 その途中で、視線があかりを通り抜けた。


 あかりは老女を見たまま動かない。


 青白い瞳が、僅かに揺れた。


 左手が自分の胸へ触れる。


 唇が三つの音を作った。


 あ。


 か。


 り。


 声にはならない。


 老女は何もない場所を見ることもなく、恒一へ近づいた。


 あかりの名乗りは届かなかった。


 恒一は横へ目を向ける。


「僕には見えています」


 言葉は老夫婦へ通じない。


 それでも、あかりには何を伝えようとしたか届いた。


 驚きの奥にあった寂しさが、少しだけ薄くなる。


 老人の声が鋭くなった。


 恒一が何もない場所へ話しかけたように見えたのだろう。


 弦を引く腕へ、もう一度力が入る。


 恒一はすぐ顔を正面へ戻し、両手を開いて見せた。


「敵ではありません」


 日本語は届かない。


 あかりの胸から、焦りが流れ込む。


 老人が発した最初の言葉を、彼女は完全には理解していなかった。


 けれど、音の一部に覚えがある。


 止まれ。


 来るな。


 それに近い意味が、切れた像となって届いていた。


 あかりは老女の顔を見る。


 扉の横に吊られた、波の印を見る。


 そして、何かを探るように目を閉じた。


     ◇


 老女が五歩まで近づいたところで、足を止めた。


 鼻からゆっくり息を吸う。


 恒一の周囲と、その外側を比べるように顔を動かした。


 窯から流れてきた煙は、木々のあいだに薄く滞っている。


 煤と湿った灰の匂いが、喉へ僅かに触れていた。


 けれど、恒一の周囲だけは違った。


 煙が消えているわけではない。


 風向きも変わっていない。


 それでも淀んだ匂いが薄く、朝の水辺に立ったときのように呼吸がしやすい。


 昨夜までは、恒一も気づいていなかった。


 あかりが隣へ来てから、あまりにも自然に続いていたためだった。


 老女が一歩下がる。


 もう一度、前へ出る。


 今度は恒一ではなく、その周囲の空気へ手を差し入れるように掌を動かした。


 老人へ振り返り、低い声で何かを告げる。


 その中の一音に、あかりが反応した。


 守るもの。


 覆うもの。


 水辺で人が口にしていた、古い呼び方。


 完全な意味ではない。


 重なった感覚だけが、契約を通して恒一へ届く。


 老女は、恒一自身を知ったわけではない。


 ただ、この男の周りだけ空気が澄んでいることを感じている。


 何かに守られた者ではないかと、老人へ伝えているように見えた。


 弓の先が、僅かに下がった。


 胸から腹へ移っただけで、まだ向けられている。


 老女は自分の胸へ手を当てた。


 次に、掌を下へ向ける。


 静かにしろという仕草にも、待てという仕草にも見えた。


 あかりが目を開く。


 唇がゆっくり動いた。


 声はない。


 その代わり、恒一の胸の内側へ、知らない音が一つずつ落ちてきた。


 これまで届いていた感情や像とは違う。


 舌を置く場所。


 息を切る間。


 唇を閉じる強さ。


 あかりが覚えている発音そのものだった。


 同時に、短い意味が重なる。


 害はない。


 水を乞う。


 一夜の庇を乞う。


 恒一は一度では声にできなかった。


 あかりを見る。


 もう一度、唇が同じ形を作る。


 届いた音を、恒一は順番に追った。


「――我ら、害なす者にあらず。水と、一夜の庇を乞う」


 恒一の口から出たのは、日本語ではなかった。


 意味を理解して訳したのでもない。


 あかりが形にした古い音を、間違えないよう真似ただけだった。


 発音の途中で二度詰まり、最後の音は自分でも違うと分かった。


 それでも、老女の目が大きく開いた。


挿絵(By みてみん)


 老人も弓を下げきらないまま、老女を見る。


 老女は、恒一が発した言葉の最初をゆっくり繰り返した。


 音は似ている。


 ただし、あかりのものより短く崩れていた。


 次に、扉の横の波印へ触れる。


 水を掬うように両手を重ね、額の前へ上げた。


 あかりの記憶にあった仕草と同じだった。


 老女は古い言葉を話せるわけではない。


 水場の祈りとして残った音を、覚えていた。


 若い者なら意味を失っていたかもしれない言葉が、この老女には届いていた。


 老人が何かを尋ねる。


 老女は恒一を見たまま、短く頷いた。


 弓の先が地面へ向いた。


 矢はつがえたままだった。


 それでも、恒一の胸から外れた。


 止めていた息が、ようやく吐けた。


     ◇


 ――残り時間 44:51。


 配信開始直後に送られたコメントが、恒一の視界へ現れ始めた。


『家だ』


『本当に家ある』


『炭焼いてる?』


『畑もある』


『人はどこ』


『ポチ武器置いたのか』


『気をつけろ』


 その後を追うように、老人が背後へ現れた直後の文字も届く。


『後ろ!』


『人いる』


『弓持ってる』


『動くなポチ』


『あかりちゃんが先に気づいた』


『日本語通じてない』


 最初の文字が送られた時点では、まだ老夫婦は姿を見せていなかった。


 その数十秒後に起きた危険も、いまになって続けて届いている。


 いまは老人が弓を下げ、老女が恒一の正面にいる。


 恒一はコメントへ答える余裕がなかった。


 老女が小屋を指す。


 次に、口元へ手を運ぶ。


 飲む仕草だった。


「水、ですか」


 葉の器を指すと、老女は何度か頷いた。


 老人へ声をかける。


 老人は警戒を解かないまま、小屋の脇へ回った。


 石で囲まれた場所から、木の桶を持って戻ってくる。


 その中には澄んだ水が入っていた。


 老女が木の椀で一杯を掬う。


 自分で僅かに口をつけてから、地面へ置いた。


 恒一との距離は三歩ほどある。


 手渡しにはしない。


 飲めという仕草だけをして、一歩下がった。


「ありがとうございます」


 恒一は両手を上げたまま頭を下げた。


 老人を見る。


 弓は下を向いている。


 恒一はゆっくりしゃがみ、椀を取った。


 匂いを確かめる。


 老女が先に飲んでいる。


 それでも一口だけに留め、身体の変化を待った。


 冷たい水が、乾いていた喉を通る。


 痛みも、痺れも起きない。


 残りを二口に分けて飲んだ。


 あかりがすぐそばから、恒一の顔を覗き込んでいる。


 老女の視線は、やはりその身体を素通りした。


 椀も一つしか置かれていない。


 あかりが飲食を必要としないことを知っているはずはない。


 老夫婦から見れば、ここにいるのは恒一一人だけだった。


 老女が何かを尋ねる。


 恒一には分からない。


 老女は周囲を指し、もう一度、同じ言葉を口にした。


 一人なのかと聞いているように見えた。


 恒一は自分を指す。


「ポチ」


 この世界で本名をどこまで明かすべきか、まだ判断できなかった。


 配信で十年以上使ってきた名を選ぶ。


「ポ、チ」


 ゆっくり繰り返す。


 老女も、確かめるように同じ二音を返した。


 僅かに発音は違う。


 それでも、自分を指す音として届いた。


 恒一は次に、左隣へ手を向けた。


 あかりが驚いたように顔を上げる。


「あかり」


 老女は、何もない空間へ向けられた手を見る。


 老人の指が、下ろした弓へもう一度かかった。


 恒一は手を動かさず、あかりを見る。


「一人ではありません」


 日本語は通じない。


 けれど、あかりには届く。


 彼女は左手を自分の胸へ当てた。


 もう一度、声のない唇で名を作る。


 老夫婦は見ていない。


 それでも、恒一は同じ名を繰り返した。


「あかりです」


 老女の視線が、恒一の手の先から周囲の澄んだ空気へ動く。


 先ほど口にした、守るものを示すらしい言葉を呟いた。


 完全に理解したわけではない。


 あかりを人の姿として認識したわけでもなかった。


 ただ、恒一が何もない場所へ名を与え、その場所から澄んだ気配が広がっている。


 老女はそれを、目に見えない加護の名だと受け取ったようだった。


 胸へ手を当て、あかりのいる場所へ一度だけ頭を下げる。


 あかりの瞳が大きく開いた。


 姿は見えていない。


 名の意味も違っている。


 それでも、今度は完全には素通りされなかった。


 あかりも左手を胸へ当て、老女へ深く頭を下げた。


     ◇


 言葉は、そこから急に通じるようにはならなかった。


 老人が何かを尋ねる。


 あかりは首を傾げる。


 同じ問いをゆっくり繰り返されても、拾えたのは一つの音だけだった。


 傷。


 昔と形が変わっていない言葉らしい。


 恒一は左肩の布を指した。


「傷です。ですが、歩けます」


 日本語の後半は届かない。


 あかりが古い音を探す。


 唇が短く動いた。


 恒一はその発音を真似る。


「傷。命には、届いていない」


 実際に口から出た言葉は、もっと短かった。


 老女は左肩へ目を向け、意味を考えるように同じ音を小さく返した。


 老人には分からなかったらしい。


 老女が現在の言葉で説明すると、ようやく肩から力が抜けた。


 次に恒一は、森の奥を指した。


 自分の背後。


 歩く仕草。


 両手を遠くへ伸ばす。


 遠くから来た。


 あかりも記憶を探したが、それを伝える古い文は出てこなかった。


 浮かんだのは、水場へ来た旅人が使っていた単語だけだった。


 道。


 遠い。


 恒一が二語を口にする。


 老女は片方だけを理解した。


 老人と短く言葉を交わし、二人で恒一の汚れた靴を見る。


 説明できたのは、遠くから歩いてきたことだけだった。


 どこから来たのか。


 なぜ森にいたのか。


 昨夜の巨大な影を見たのか。


 聞かれていたとしても、答えられない。


 こちらから尋ねたいことも、一つも文章にならなかった。


 会話というより、互いに拾える石を一つずつ置いているようだった。


 水。


 傷。


 遠い。


 害はない。


 それだけで、弓の矢はまだ外されなかった。


     ◇


 ――残り時間 29:43。


 老夫婦が現れてから、あかりの名を伝えるまでに届いていたコメントを、恒一はそこで初めて追った。


『婆さんあかりちゃん見えてない?』


『視線がずっとポチだけだ』


『爺さんも完全に素通りしてる』


『ポチが何もない場所に名前つけたと思われてない?』


『婆さん頭下げた』


『加護の名前だと思ったのか』


『それでもあかりちゃんには届いたな』


 恒一は視界に流れる文字を追いながら、老人へ余計な動きと見られないよう顔を正面へ保った。


「はい。二人には、あかりの姿が見えていません」


 あかりが隣にいることを確かめ、小さな声で答える。


「僕が何もない場所を見て話したので、かなり警戒されました」


 老夫婦が恒一の独り言へ警戒する。


 恒一は赤い点を指すことも、配信を説明することもできない。


「ただ、僕の周囲だけ空気が澄んでいることには、女性の方が気づいたようです。何らかの加護があると受け取られたのかもしれません」


 断定はしない。


 見えた仕草と、あかりから届いた古い言葉の断片だけを話す。


「その加護のようなものが、あかりだとは分かっていません。意識して使った力でもなく、右腕や霊核の傷が治ったわけでもありません」


「言葉についても、完全な通訳ではありません。あかりが知っている短い言葉を僕が真似したところ、女性の方に一部だけ意味が届きました」


 あかりが自分の名へ反応し、恒一を見る。


 地球側では、いまの二人を見ながら別のコメントが流れていた。


『家を何軒も描いてる』


『村じゃないか』


『向こうの斜面を指した』


『明日案内してくれる?』


『作業小屋貸してもらえた』


『家の中までは入れないか』


『十分親切だろ』


 その文字が届くのは、さらに十五分後だった。


 老女が地面へしゃがんだ。


 細い枝を拾い、煤の混じった土へ四角を一つ描く。


 いま目の前にある小屋を指した。


 次に、四角を三つ並べて描く。


 屋根を示す三角を、その上へ重ねた。


 何軒もの家。


 老女は斜面の向こうを指す。


 老人も同じ方向へ顔を向けた。


「村、ですか」


 恒一は三つの家を指し、周囲に人がいるよう両手を動かした。


 老女が頷く。


 現在の言葉で、一つの短い音を繰り返した。


 あかりには分からない。


 彼女が知っていた時代には、違う呼び方だったらしい。


 恒一は老女の口の動きを見て、その音を真似た。


 最初は首を横へ振られた。


 舌の位置を変え、もう一度口にする。


 今度は頷きが返ってきた。


 この世界へ来て初めて、恒一が自分で覚えた現代の言葉だった。


 意味は、おそらく村。


 正確な発音かどうかも、名詞なのか別の形なのかも分からない。


 それでも一つ、老夫婦と同じ音を共有できた。


 老女は描いた家の横へ、丸を一つ置いた。


 それを指で上へ動かす。


 太陽。


 東から昇る動き。


 次に、自分と老人と恒一を順に指し、斜面の向こうへ二本の指を歩かせた。


「明日、一緒に村へ行く」


 恒一が日本語で確認すると、あかりが明るい感情を返した。


 彼女も仕草から同じ意味を受け取っている。


 恒一は自分とあかりを指す。


 老夫婦には、二人目が見えていない。


 それでも、二本の指を並べて歩かせた。


 老女は少し迷ったあと、澄んだ空気のある場所も含めるように掌を動かす。


 そして、もう一度頷いた。


     ◇


 老夫婦が貸したのは、暮らしている小屋の中ではなかった。


 炭焼き窯から少し離れたところにある、屋根付きの作業小屋だった。


 三方を粗い板で囲み、入口には扉がない。


 内側には薪と空の籠が置かれ、奥へ乾いた草が積まれている。


 風と夜露は避けられる。


 獣も、森の外からは入りにくい。


 素性の分からない男を、生活する小屋へ入れない。


 それでも外へ追い返さず、屋根と寝場所を与える。


 警戒と親切のどちらも、分かる距離だった。


 老人は入口の横を指した。


 恒一は木の根元へ置いていた杖と荷物を取りに戻る。


 あかりも離れずついてくる。


 杖は作業小屋の外へ横たえ、石片の入った荷物も入口近くへ置いた。


 自分から武器へ手を伸ばさない位置を選ぶ。


 老人はそれを見て、ようやく矢を弦から外した。


 弓自体は手放さない。


 老女は木の皿を一枚運んできた。


 硬い黒パンのようなもの。


 焼いた根菜。


 葉を刻んだ、薄い汁。


 量は多くない。


 一人分だった。


「いただいても、いいんですか」


 老女は皿を乾いた草の上へ置き、口元を指した。


 食べろという意味は分かる。


 恒一は深く頭を下げた。


 あかりが隣で同じように頭を下げる。


 その姿は老女に見えない。


 けれど頭を下げた瞬間、恒一の周りを満たす空気が僅かに冷えた。


 老女はそれを感じたように足を止める。


 波の印へ触れたときと同じ仕草で胸へ手を当て、静かに小屋へ戻っていった。


 恒一はすぐ食べ始めなかった。


 皿をあかりにも見える位置へ置く。


「これは、二人でもらったものです」


 あかりは食べられない。


 老夫婦も、あかりの分を用意したわけではない。


 それでも恒一が二人と言った意図は届いた。


 あかりは驚いたあと、小さく首を横へ振る。


 皿を恒一の方へ押すように左手を動かした。


「分かりました」


 黒パンを小さく割る。


 匂いを確かめ、まず一口だけ食べる。


 硬い。


 僅かな酸味があり、表面には炭の匂いが移っていた。


 それでも、十日間に食べたどの木の実より、人の食べ物だった。


 噛んでいるうちに、胸の奥が熱くなる。


 味が特別に良いからではない。


 誰かが粉をこね、火を使い、食べられる形へ作ったものだった。


 恒一は時間をかけて飲み込んだ。


 あかりは、その様子をすぐ横から見ていた。


 心配ではなく、安堵が届いてくる。


「ありがとうございます」


 老夫婦はもう近くにいない。


 礼を向けたのは、あかりだった。


「さっきの言葉も、あなたが教えてくれたんですね」


 あかりは恒一の口を見る。


 害はない。


 水を乞う。


 一夜の庇を乞う。


 恒一が古い言葉のときに受け取った意図を返す。


 あかりは頷いた。


「僕には、どの音がどの意味なのかも、正しい発音も分かりませんでした」


 自分の喉へ手を当てる。


 次に、あかりの唇を指す。


「でも、あなたの言葉を、僕の声で伝えることはできます」


 あかりの瞳が、ゆっくり大きくなる。


 文章のまま届いたわけではない。


 あかりが知っている音。


 恒一が声にする。


 老夫婦へ届く。


 三つを順に送り直す。


 あかりは自分の唇へ左手を触れた。


 次に、恒一の喉へ伸ばす。


 冷たい指先は、触れる直前で止まった。


 恒一は自分から少し顔を近づける。


 指が喉元へ触れた。


「少しずつ、覚えましょう」


 僕も、あなたの言葉を。


 あなたも、いまの人たちの言葉を。


 その意図を送る。


 あかりは小さく頷いた。


 胸元の傷ついた霊核が、恒一の鼓動と同じ間隔で淡く光った。


挿絵(By みてみん)


     ◇


 ――残り時間 14:36。


 老女が地面へ家々を描いてから、作業小屋へ移るまでに送られたコメントが、少しずつ届いた。


『家を何軒も描いてる』


『村じゃないか』


『向こうの斜面を指した』


『明日案内してくれる?』


『作業小屋貸してもらえた』


『家の中までは入れないか』


『十分親切だろ』


 恒一は黒パンを持ったまま、文字を最後まで読んだ。


「はい。描かれたのは、何軒もの家だと思います」


 老女が土へ残した線を指す。


「明日の朝、二人と一緒に、近くの村へ向かうことになった――と思います」


 最後だけは、推測を外せなかった。


 あかりが明るい感情を返す。


 少なくとも、彼女も同じ意味に受け取っていた。


「いまは、生活している小屋とは別の作業小屋を貸してもらっています。水と食事も分けてもらいました」


 老人の弓は、小屋の入口へ立てかけられている。


 本人はすぐ手の届く場所で、炭の入った籠を動かしていた。


 地球側では、作業小屋に並んだ二人を見ながらコメントが流れる。


『見えなくても存在は感じるのか』


『あかりちゃん空気清浄機みたいになってる』


『言い方』


『水辺みたいな空気ってことか』


『婆さん頭下げてたな』


『あかりちゃんにも伝わってよかった』


『古い言葉だから婆さんだけ分かったとか?』


 この反応が恒一へ届くのは、LIVEが終わったあとになる。


「言葉については、完全な通訳ではありません」


 あかりが教えた発音を思い出す。


「あかりが知っていた短い言葉を、僕がそのまま真似しました。男性にはほとんど通じず、女性が水場の祈りのようなものとして覚えていたようです」


 なぜ、あかりがその言葉を知っているのか。


 どれほど昔のものなのか。


 恒一にも分からない。


「いま二人が使っている言葉は、あかりにも一部しか分かりません。水や傷のように、昔から大きく変わっていない音だけ拾えています」


     ◇


 ――残り時間 01:00。


 外では、老人が窯の口を確かめている。


 老女は畑から取った葉を籠へ入れ、小屋の扉を閉める準備を始めていた。


 日没まで、もう長くない。


 恒一は残った汁を飲み、木の皿を入口近くへ置いた。


「今日分かったことを、まとめます」


 赤い点へ向き直る。


「煙の場所には、炭焼きの窯と小さな畑、小屋がありました。住んでいるのは、年配の男女二人です」


 老人の弓へ一度だけ視線を向ける。


「最初は弓を向けられましたが、いまは作業小屋を一晩貸してもらっています。水と食事も分けてもらいました」


 作業小屋へ入った頃に送られた文字が、視界へ現れる。


『作業小屋まで貸してくれた』


『食べ物ももらえた』


『二人でもらったものって言った』


『あかりちゃん嬉しそう』


『あなたの言葉を僕の声で、か』


『明日は村まで行けそう』


 恒一は最後まで読み、隣のあかりへ目を向けた。


「はい。食事も、二人から受け取ったものだと思っています」


 あかりには食べる必要がない。


 それでも、ここまで辿り着けたのは一人の力ではなかった。


「あかりの言葉は、いま使われているものより古いようです。年配の方が、昔の祈りとして音を覚えていたため、偶然一部だけ通じたのだと思います」


 今回通じたからといって、次に会う者へも通じるとは限らない。


 むしろ、通じない可能性の方が高かった。


「明日、村へ行けば、また言葉の問題があります。今日は、通じた単語と発音を忘れないようにします」


 残り時間が減っていく。


「それでも――」


 恒一は一度言葉を切った。


 十日間、画面の向こうとしか会話ができなかった。


 あかりが隣に来ても、声を交わせるようになったわけではない。


 今日、初めて出会った老夫婦とも、理解できたのは僅かな言葉だけだった。


「この世界の人へ、初めて返事が届きました」


 残り十秒。


「今日も、ありがとうございました」


 恒一が頭を下げる。


 あかりも隣で頭を下げた。


 老夫婦には見えない、二人分の挨拶だった。


 残り時間がゼロになる。


 赤い点が消えた。


 LIVEの表示が、灰色のRECへ戻る。


 身体へ重さが戻り、左肩の痛みが濃くなった。


 右脚からも力が抜ける。


 恒一は乾いた草へ背を預けた。


 あかりの左手が、すぐ肩へ伸びる。


「大丈夫です」


 あかりは首を横へ振った。


 その反応だけは、言葉を借りなくても分かった。


 恒一は言い直す。


「休みます」


 身体を横にし、入口の外へ置いた杖を確かめる。


 窯の煙。


 薪を動かす音。


 小屋から漏れる灯り。


 森の中に、自分たち以外の生活音がある。


 あかりは恒一のすぐ隣へ座るように浮かんだ。


 薄い右腕を胸元へ寄せ、左手で黒い袖を掴む。


 恒一はその手へ自分の右手を重ねた。


「明日は、村です」


 朝の光。


 老夫婦と歩く。


 何軒もの家がある場所へ向かう。


 届いた像に、あかりが小さく頷いた。


 通じたのは、ほんの数個の言葉だけだった。


 それでも異世界へ来て十一日目。


 声を持たないあかりの言葉を、恒一の声が初めてこの世界の誰かへ運んだ。

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