第19話 あの森よりは、遅かった
目を覚ましたとき、最初に聞こえたのは木が擦れる音だった。
一定の間隔で、重いものが地面を引く。
獣の足音ではない。
恒一は乾いた草の上で目を開け、入口の外を見た。
炭焼きの老人が、低い荷車を作業小屋の前へ引き出している。
二本の長い柄に、小さな木の車輪が二つ。
荷台には炭の入った袋が積まれ、その横へ縄と空の籠が括りつけられていた。
側面には、昨日見た短い弓。
反対側には、恒一の背丈ほどある太い槍が一本、革紐で固定されている。
老人は今日の支度をしていた。
村へ向かうための支度だろう。
恒一は身体を起こした。
左肩の奥に、鈍い痛みが残っている。
右脚は曲げ伸ばしできた。
立ち上がろうと力を入れたところで、膝が一度だけ揺れる。
昨日の夜より悪くはない。
治ったわけでもなかった。
視界の端には、灰色のRECが浮かんでいる。
赤い点はない。
LIVEが終わったときに戻ってきた身体の重さも、そのままだった。
異世界へ来て、十二日目の朝だった。
黒い袖が、後ろから引かれた。
振り返ると、あかりがすぐ隣に浮かんでいる。
長い髪は、板の隙間から入る朝日に透けていた。
薄い右腕は胸元へ寄せたまま。
左手だけで恒一の袖を掴み、起き上がった左肩を見ている。
「昨日よりは動きます」
あかりの目が細くなる。
「無理はしません」
同じ言葉を昨日も使った。
言葉そのものは届いていなくても、信用されていないことは表情で分かった。
恒一は、ゆっくり歩くことと、痛めば止まることを契約へ送る。
あかりはすぐには頷かなかった。
それでも、袖を掴む指の力は僅かに緩んだ。
◇
老女が持ってきた朝食は、昨夜と同じ硬い黒パンと、温め直した薄い汁だった。
恒一が木の皿を返すと、老女は皿より先に左肩を指した。
次に右脚。
最後に、斜面の向こうへ指を伸ばす。
歩けるのかと聞いているらしい。
恒一は頷き、覚えたばかりの音を口にした。
村。
老女の発音を思い出しながら、二度に分けて声にする。
一度目は僅かに首を傾げられた。
二度目には、頷きが返ってくる。
老女は自分と老人を指し、次に恒一を指した。
三本の指を並べ、板の上を歩かせる。
その動きに合わせ、同じ短い音を二度口にした。
意味は、おそらく行く。
恒一は老女の口元を見て、その音だけを真似た。
昨日と同じ約束だった。
「ポチ。村。行く」
自分を指す。
斜面の向こうを指す。
最後に二本の指を並べ、老女がしたように歩かせる。
頭を下げると、あかりも隣で頭を下げた。
現地の者へ、通じない日本語の文章を重ねても意味はない。
いま共有できる音だけを一つずつ置き、足りない部分は指と身体で補う。
それが、いまの恒一にできる会話だった。
老女の目には見えていない。
けれど、恒一の周囲を満たす空気が僅かに冷えた。
老女はその変化を感じたように、胸へ手を当てる。
何かを守るもの。
水辺にあるもの。
昨日あかりが拾った古い意味が、薄く契約へ重なった。
老女はあかりのいる場所へ向けて一度だけ頭を下げ、それから荷車へ戻った。
恒一は残っていた荷物をまとめた。
葉の器。
石片。
乾いた樹皮。
蔓と、裂いた布。
森で生きるために一つずつ拾ったものは、人の暮らしのそばへ来ると急に頼りなく見えた。
それでも捨てる理由はない。
杖を右手に持ち、荷物を背へ回す。
老人は荷車の二本の柄のあいだへ入り、肩へ太い革帯を掛けた。
老女が後ろへ回る。
恒一も荷台の端へ手を添えようとした。
老人が短く声を上げ、首を横へ振る。
左肩を指している。
恒一は左肩を指し、覚えている音を一つだけ返した。
「傷」
それから頷き、手を離す。
少なくとも平らな場所では、老人一人で引ける重さなのだろう。
恒一は二人の後ろについた。
あかりは右肩の近くに浮かぶ。
炭焼き窯の煙が、少しずつ木々の向こうへ隠れていった。
◇
村へ続く道は、昨日まで恒一が歩いたどの場所より整っていた。
荷車の車輪が二本の窪みを作り、そのあいだだけ草が短い。
斜面の急な場所には丸太が埋め込まれ、雨水を逃がす細い溝も掘られている。
それでも平らではない。
登りへ差しかかるたび、老人の背が小さく丸まった。
車輪が石へ乗り上げる。
荷車が止まる。
老女が後ろから押そうとしたところで、恒一も右手を荷台へ当てた。
左肩へ響かないよう、身体の右側だけで押す。
車輪は思っていたより簡単に石を越えた。
老人が振り返る。
「傷。ポチ。行く」
左肩を指し、次に自分を指す。
最後に、村へ続く道へ二本の指を歩かせた。
大丈夫という音は知らない。
それでも、傷があっても進めるという意図は届いたらしい。
老人は荷車と恒一の右腕を交互に見たあと、何も言わず前へ向き直った。
炭の袋が見た目より軽かったのかもしれない。
車輪がうまく石へ乗っただけかもしれない。
恒一はそう考え、杖を突いて歩き出した。
道が三つに分かれる場所で、老夫婦が足を止めた。
一つは、村があるらしい斜面の下へ続いている。
もう一つは、切り株の並ぶ緩い登り。
最後の一つは、道と呼べる形をほとんど失い、倒した木と積み石で塞がれていた。
塞がれた先には、木々の濃い影がある。
その入口に、人の腰ほどの石が立っていた。
表面へ刻まれているのは、三本の波。
昨日、小屋の扉で見たものに似ている。
ただし、その上から深い一本線が斜めに刻まれ、波を断ち切っていた。
老人が石へ手を当てる。
老女も同じように胸へ手を置き、短い言葉を口にした。
祈りに近い響きだった。
あかりの左手が、恒一の袖を強く掴む。
胸元の霊核が、一度だけ不安定に明滅した。
この先ではない。
近づきたくない。
言葉にならない拒絶が届く。
「行きません」
恒一は塞がれた道から一歩離れた。
老女が恒一の顔を見る。
次に、恒一たちが昨日現れた方角を指した。
塞がれた道とは完全には重ならない。
それでも、森の奥という意味では同じ方向だった。
老女が何かを尋ねる。
あかりにも、現在の言葉は分からない。
拾えたのは、遠いという古い音に似た一部だけだった。
恒一は自分の靴を指す。
二本の指を何度も歩かせる。
最後に、あかりから借りた古い音を口にした。
「遠い」
老女の表情が止まる。
老人も、塞がれた道から恒一へ顔を向けた。
二人が現在の言葉で短く話す。
老人は否定するように首を振った。
老女は恒一の裂けた服と、布を巻いた左肩を見る。
それ以上は尋ねなかった。
荷車は、村へ続く下り道へ向けられた。
恒一も後ろにつく。
塞がれた道が木々の向こうへ消えるまで、あかりは一度も振り返らなかった。
◇
鳥の声が止んだのは、それから一時間も経たない頃だった。
最初に気づいたのは老人だった。
荷車を引く足が止まる。
右手が肩の革帯ではなく、荷台の側面へ伸びた。
短い弓が外される。
老女も何も聞かず、荷車の後ろへ身体を寄せた。
恒一は杖を地面へつけたまま、周囲の音を探した。
風が葉を揺らす。
荷車の軸が、停止してから一度だけ軋む。
その奥。
進行方向の左斜面から、土を削る低い音がした。
一度。
二度。
何かが前脚で地面を掻いている。
老人が矢をつがえた。
弦を引く腕は、昨日と同じように震えていない。
けれど顔からは血の気が引いていた。
低木が、内側から大きく揺れた。
枝を折って現れたものを、恒一は最初、猪だと思った。
頭が低い。
胴が太い。
鼻先から二本の牙が上へ湾曲している。
ただし、大きさが違った。
四本の脚で立った肩が、恒一の胸近くまである。
荷車より長い胴を、黒褐色の剛毛が覆っていた。
額と両肩には、灰色の岩を貼りつけたような硬い隆起が重なっている。
左右の牙は、老人が持つ短い弓より長い。
鼻から吐かれた息が、白く土を這った。
老人が何かを叫ぶ。
老女へ向けた言葉だった。
逃げろ。
下がれ。
あかりが拾えたのは、その二つに近い意味だけだった。
老女は動かなかった。
逃げても間に合わないことを知っている。
老人の背後へ手を伸ばし、服を一度だけ掴む。
そして胸へ両手を重ねた。
老女の唇から、昨日とは違う古い音がこぼれる。
水へ。
流れへ。
落ちた命を、迷わせないでほしい。
途切れた意味が、あかりを介して恒一へ届いた。
助けを呼ぶ祈りではなかった。
死んだあと、帰る場所を失わないための祈りだった。
恒一は杖を地面へ置いた。
老人が振り向き、鋭い声を上げる。
来るなと言われたのだろう。
恒一は荷車の側面へ手を伸ばした。
革紐で留められた太い槍。
老人が止めるより先に紐を外し、右手で引き抜く。
見た目より重い。
穂先は黒ずんだ金属で、刃の幅は恒一の指を三本並べたほどある。
獣を追い払うためではなく、刺し止めるための道具だった。
左手を添えると、肩の奥が痛んだ。
すぐ右手を中心に持ち直す。
あかりが恒一の前へ回った。
青白い瞳が大きく揺れている。
薄い右腕を伸ばそうとして、胸元の傷が明滅した。
「大丈夫とは言いません」
恒一は猪に似た魔物から目を離さなかった。
「ですが、二人を置いては行けません」
守る。
一緒に村へ行く。
短い意図だけを契約へ送る。
あかりから、強い恐怖が返ってきた。
それでも彼女は恒一を止めるため、五メートルの外へ出ることはできない。
左手で黒い袖を一度強く掴み、それから老人と老女の間へ浮かんだ。
少しでも二人を覆おうとするように。
魔物が頭を下げた。
前脚が土を削る。
老人の矢が放たれた。
額の灰色の隆起へ当たり、乾いた音を立てて弾かれる。
傷にもなっていない。
魔物の小さな目が、老人へ向いた。
突進が始まる。
◇
最初の一歩で土が跳ねた。
二歩目で、巨体が速度に乗る。
左右の牙が上下に揺れ、低くした額がまっすぐ老人へ向かう。
恒一には、その動きが見えていた。
森で最初に襲ってきた、四つ目の黒い獣。
あれは直前まで体重を感じさせず、踏み切った次の瞬間には三メートルの川を越えていた。
目で追ってから動いたのでは間に合わなかった。
いま向かってくる巨体は違う。
前脚が沈む。
肩が下がる。
次に踏む場所まで、土の崩れ方で分かる。
大きい。
重い。
けれど――。
「あの森よりは、遅い」
老人には、日本語の意味は届かない。
恒一は老人の前へ出た。
左脚を軸にして、身体を半歩だけ外へずらす。
本来なら遅れるはずの右脚も、考えた位置へついてきた。
魔物の牙が、黒いパーカーの脇を通る。
風圧が布を叩いた。
恒一は槍を両手で持ち、通り過ぎる頭の下へ穂先を向けた。
狙ったのは、灰色の隆起が途切れる顎の付け根だった。
正面から止めるつもりはない。
頭の向きを逸らし、老人から離せればいい。
右腕を押し出す。
穂先が剛毛を割った。
硬いものへ当たる衝撃を覚悟した。
けれど槍は止まらなかった。
金属の刃が皮を抜け、その奥へ沈む。
恒一の右拳が、魔物の顎下へ触れるほど深く。
巨体が横へ傾いた。
前脚が空を掻く。
恒一は槍を離し、右脚を引いた。
魔物は勢いを残したまま道の端へ滑る。
牙が地面を抉り、肩から土へ倒れた。
荷車が大きく揺れる。
炭の袋が一つ、荷台から落ちた。
魔物の脚が二度地面を打つ。
低い呼吸が、途中で途切れた。
森に、風の音が戻る。
恒一はその場で動けなかった。
槍を握っていた右手が痺れている。
遅れて左肩の痛みが強くなった。
右膝から力が抜け、土へつく。
あかりがすぐ目の前へ来た。
左手が恒一の頬へ触れる。
怪我。
痛み。
生きているか。
いくつもの感情が一度に流れ込む。
「新しい傷は、ないと思います」
自分の胸と腹へ手を当てる。
牙は触れていない。
転んでもいない。
左肩と右脚が、急な動きへ抗議しているだけだった。
「急所に入っただけです」
あかりは首を横へ振った。
何を否定されたのかは分からない。
老人が、ゆっくり近づいてきた。
弓を下ろし、倒れた魔物の目と口元を確かめる。
次に、顎下から突き出た槍の柄を見る。
老人は柄を両手で掴んだ。
足を踏ん張り、一度引く。
槍は動かなかった。
もう一度引く。
魔物の頭が僅かに動いただけだった。
恒一は右脚へ力が戻るのを待ち、立ち上がった。
魔物の顎下を指す。
次に槍の柄へ両手を沿わせ、深く入ったことを示してから頭を下げた。
老人の横へ立ち、柄を受け取る。
右足で魔物の顎を押さえる。
肩へ負担をかけないよう、腰を落として引いた。
一度では抜けない。
角度を変え、二度目に力を込める。
湿った音とともに、穂先が抜けた。
恒一は反動で一歩下がる。
それでも槍を落とさなかった。
老人は、槍ではなく恒一の右腕を見ていた。
老女も祈りの姿勢を解かないまま、恒一を見ている。
二人とも声を出さない。
魔物の勢いで、深く入ったのだと思う。
そう説明したくなったが、恒一は口にしなかった。
単語へ分けられない言葉は、いまの二人には届かない。
仮に届いたとしても、納得してもらえたかは分からなかった。
恒一自身は、それ以外の理由を持っていない。
LINKが成立してから、一度も外れたことのないものを、比較することはできない。
異世界へ来る前の自分なら、どこまで動けたのか。
十二日間を生き延びた自分と、何が違うのか。
確かめるための元の身体は、もう残っていなかった。
老女が立ち上がる。
恒一ではなく、そのすぐ左へ目を向けた。
あかりの姿は見えていない。
それでも澄んだ空気のある場所へ、胸に当てた手を向ける。
昨日と同じ、守るものを示す古い音を口にした。
そして深く頭を下げる。
あかりが驚いたように恒一を見る。
恒一は頷いた。
「あなたが守ったことになっています」
実際、間違いではない。
あかりの言葉がなければ、老女の祈りの意味には気づかなかった。
二人を置いて逃げるか、迷っていたかもしれない。
あかりは薄い右腕を胸へ寄せたまま、老女へ頭を下げた。
◇
倒した魔物を、その場へ置いていく理由はなかった。
ただし、運ぶ方法が問題だった。
恒一が村を意味する音を口にし、荷車と魔物を順に指すと、老夫婦は顔を見合わせた。
老人が魔物を指す。
次に恒一だけを指し、両手を大きく広げた。
獲物は恒一のものだと言っているように見えた。
恒一は首を横へ振る。
老人と老女を指す。
まだ見たことのない村の方角へ手を向ける。
最後に、口へ食べ物を運ぶ仕草をした。
老女が魔物を指して繰り返していた音を思い出す。
獣の名なのか、魔物全般を指すのかは分からない。
食べるという音は、昨夜と今朝、皿を差し出されたときに聞いていた。
「魔物。村。食べる」
文法はない。
発音も怪しい。
それでも、三つの音と仕草を重ねた意図は通じた。
老女が何かを言い、もう一度恒一だけを指す。
恒一は三人を順に指した。
あかりのいる場所も忘れずに指す。
そして村の方角へ、大きな円を描いた。
老女はしばらく恒一を見たあと、胸へ手を当てて頷いた。
三人で、荷車の炭袋を端へ寄せた。
魔物の身体は、倒れているだけで小さな岩のようだった。
老人が太い枝を二本用意し、梃子にする。
恒一は右側から前脚を持ち上げた。
重い。
腰と右脚へ一度に力がかかる。
持ち上げ続けることはできない。
それでも、老人が枝を差し込むまで地面から浮かせることはできた。
老女が縄を回す。
枝を転がし、荷台へ板を渡し、少しずつ身体を引き上げる。
一度、前脚が板から落ちた。
恒一が反射的に抱え直す。
老人の動きが止まる。
恒一は落ちた脚を荷台へ戻し、縄を引いた。
持ち上げたというより、落ちる方向を変えただけだ。
恒一は心の中で、そう自分へ言い聞かせた。
老夫婦は何も返さない。
荷車へ魔物を載せ終えると、炭袋よりはるかに大きな身体が荷台を埋めた。
車輪が土へ深く沈んでいる。
老人が肩へ革帯を掛けようとした。
恒一はその手を止め、自分を指した。
次に荷車の柄を握る。
老人は強く首を横へ振った。
左肩と右脚を交互に指す。
荷車を指すたび、出発前から老人が繰り返していた音を思い出す。
「ポチ。荷車。行く」
自分を指し、荷車の柄を握り、ゆっくり一歩だけ進んでみせる。
恒一は平らなところで一度だけ荷車を動かしてみた。
木の車輪が低く軋む。
最初の一歩は重い。
二歩目からは、回転がついてきた。
右脚へ痛みはある。
左肩も、革帯を掛ければ悪化する。
恒一は帯を使わず、右手を中心に二本の柄を押した。
進めない重さではなかった。
道はここから緩い下りになっている。
車輪があるから動かせる。
そう考えるには、十分な理由があった。
老人は恒一の横へ立ち、片方の柄を持った。
老女は後ろから荷台を支える。
三人で荷車を動かした。
あかりは、恒一の左肩を気にしながらすぐ横を進む。
五メートルの境界へ近づくことは一度もなかった。
◇
森が終わる前に、匂いが変わった。
湿った葉と土の奥へ、複数の煙が混じる。
炭焼き窯の細い煙とは違う。
煮炊きの匂い。
乾いた草を燃やす匂い。
家畜に似た、生き物の匂い。
木々の間隔が広がる。
斜面の先へ、畑が見えた。
昨日見た小さな畑ではない。
低い石垣で区切られた土地が何枚も重なり、背丈の違う作物が列を作っている。
その向こうには、尖った丸太を並べた柵があった。
人の背丈を越える防壁。
中央の門は開いている。
内側から、石と木で作られた屋根がいくつも見えた。
何軒もの家。
地面に描かれたものではない。
本当に、人が暮らす場所だった。
恒一は荷車を押す手へ力を込めた。
胸の奥から上がってきたものを、息と一緒に吐く。
「着きました」
あかりが、門の向こうを見つめている。
期待より、緊張の方が強く届いた。
老夫婦には見えなかった。
次に会う者にも見えるとは限らない。
「僕には見えています」
昨日と同じ言葉を、あかりへ送る。
彼女の左手が、恒一の袖へ触れた。
門の近くにいた二人が、こちらへ気づいた。
弓を背負った男と、長い鉈を腰へ下げた女だった。
最初は老夫婦へ手を上げる。
次に荷車を見る。
二人の動きが止まった。
声が上がる。
門の内側から、さらに人が出てくる。
老人が早口で何かを説明した。
老女も言葉を重ね、恒一を指す。
集まった者たちの視線が、一度に恒一へ向いた。
そのどれもが、すぐ左にいるあかりを通り抜ける。
見えていない。
村へ着いても、それは変わらなかった。
鉈を下げた女が、荷車の魔物へ近づく。
額の隆起。
長い牙。
顎下の傷。
一つずつ確かめ、老人へ鋭い言葉を投げる。
老人が首を横へ振る。
自分ではない。
そう示すように恒一を指した。
周囲から短い声がいくつも上がった。
信じていないことだけは分かる。
老人は荷車の側面から槍を外した。
黒ずんだ穂先を見せる。
次に魔物の顎下を指し、槍を突き出す動作を一度だけした。
弓を背負った男が、自分を指した。
鉈を下げた女と、後ろに立つもう一人の男も順に指す。
三人。
それから荷車の魔物を指し、最後に恒一一人だけを指した。
何を尋ねたのか、言葉では分からない。
けれど、三人と一人を比べていることは分かった。
老人は、恒一だけを指したまま頷いた。
弓を背負った男の口が、僅かに開いた。
恒一へ向けられる視線が変わった。
警戒が消えたわけではない。
ただ、裂けた服を着て杖を持つだけの遭難者を見るものではなくなった。
弓を背負った男が、恒一の右腕を見る。
左肩の布を見る。
右脚へ体重をかけすぎない立ち方を見る。
最後に、もう一度魔物の傷へ目を戻した。
老女が周囲へ何かを告げる。
その中に、昨日聞いた古い音に似た響きがあった。
守るもの。
水辺の加護。
あかりが僅かに反応する。
老女は恒一の周囲へ手を広げた。
村人の一人が、確かめるように近づく。
淀んだ森の匂いが、恒一の周囲だけ薄い。
その違いに気づいた者が、隣の者へ低く何かを言った。
波紋のように、視線が恒一へ集まっていく。
◇
白い髭を短く整えた男が現れると、周囲の声が少し小さくなった。
服装は他の村人と大きく変わらない。
ただ、皆が道を空けた。
村の代表に近い者なのだろう。
男は老夫婦から話を聞いた。
途中で何度も魔物を見て、恒一を見る。
老女が森の方角を指したときだけ、男の表情が変わった。
門の外。
さらに、その先にある木々。
塞がれていた道と同じ方角だった。
男が低い声で一つの言葉を口にする。
周囲の何人かが胸へ印を描いた。
老人は首を横へ振り、恒一の靴を指す。
老女は遠いという意味の古い音を使った。
男の目が、恒一の裂けた服と古い血の跡へ落ちる。
何を話しているのか、恒一には分からない。
あかりにも、拾える言葉はなかった。
ただ、自分たちが来た方角を口にするたび、村人の顔から疑いより別のものが増えていく。
恐れだった。
恒一は背後の森を振り返った。
十日以上歩いてきた場所。
四つ目の獣がいた。
六本脚の巨体が傷ついて逃げてきた。
水が奪われ、地面の下を天災のような何かが通った。
危険な森だということは知っている。
村人が何を恐れているのかまでは分からなかった。
白い髭の男が、荷車の魔物を指す。
次に、村の内側へ手を向けた。
恒一を見る。
問いかけるように掌を上へ向ける。
恒一は村を指した。
集まった人々へ大きく円を描く。
そして、口へ食べ物を運ぶ仕草をした。
獲物は村で使ってほしい。
意図が届くよう、同じ動きをもう一度繰り返す。
白い髭の男は、老女を見る。
老女が頷いた。
男は恒一の前まで来ると、胸へ右手を当てた。
短い言葉を口にし、頭を下げる。
恒一も同じように頭を下げた。
門の前を塞いでいた者たちが、左右へ分かれた。
荷車が村の中へ入る。
恒一とあかりも、その後へ続いた。
門を越えた瞬間、背後で何かが閉じたわけではない。
それでも恒一は、森の中にいた十二日間と、いま立っている場所のあいだへ境が引かれたように感じた。
◇
魔物の身体は、村の中央にある石敷きの場所へ運ばれた。
人が集まり、太い縄が掛けられる。
大人が六人がかりで荷台から下ろす様子を見て、恒一は初めて少しだけ違和感を覚えた。
三人で載せたときは、枝と板を使った。
下ろす方が難しいのかもしれない。
魔物が死後に身体を硬くした可能性もある。
理由はいくつも考えられた。
自分の力がおかしいという考えだけは、最後まで浮かばなかった。
白い髭の男は、恒一を別の場所へ案内した。
村の外周に近い、小さな小屋だった。
石を一段積んだ上へ木の壁を立て、屋根には厚い草が葺かれている。
扉はある。
中には古い寝台と、灰の残った小さな炉。
壁際へ、空の棚が一つ。
誰かが暮らしている形跡はなかった。
男は小屋を指し、次に恒一を指した。
両手を重ね、頬へ当てる。
眠る場所。
恒一が自分を指し、小屋を指し返すと、男は頷いた。
ただし、そのまま立ち去らない。
近くの薪置き場を指す。
共同井戸らしい石囲いを指す。
外周の柵にある、縄で仮留めされた箇所を指す。
最後に、もう一度恒一を指した。
それから小屋と、自分の口を順に示す。
「仕事をする代わりに、寝場所と食事をもらえる」
日本語で確かめる。
あかりも仕草を見て、同じ意味を受け取ったらしい。
明るい感情が返ってくる。
白い髭の男は、薪置き場と柵を指すたび、同じ音を繰り返していた。
仕事。
おそらく、それに近い意味だ。
恒一は薪置き場、井戸、柵を順に指した。
自分の胸へ手を当て、深く頭を下げる。
「ポチ。仕事」
白い髭の男は頷いた。
指を三本立てたあと、太陽が昇って沈む動きを繰り返す。
三日なのか。
しばらくという意味なのか。
正確には分からない。
永住を認められたわけではないことだけは理解できた。
それで十分だった。
昨夜までは、扉のない作業小屋を一晩借りただけだった。
いまは、自分たちが戻れる場所として一つの小屋を示されている。
あかりが中へ入る。
恒一から三歩も離れていない。
古い寝台を見て、炉を見て、空の棚を見る。
長い髪が、差し込む光の中で水のように揺れた。
「狭いですが、森よりはずっと良いですね」
あかりが振り返る。
少し考えたあと、強く頷いた。
その表情を見て、恒一もようやく息を吐いた。
仮の住まいだった。
名前も知らない村の、端にある小さな小屋。
それでも異世界へ来て初めて、明日も戻ってきていいと言われた場所だった。
◇
言葉の問題は、住む場所を得ても残っていた。
白い髭の男が何かを説明しても、恒一には一つも分からない。
あかりが拾えるのも、昔と音の近い僅かな単語だけだった。
男は途中で説明を諦めた。
地面へ枝で一つの形を描く。
家でも太陽でもない。
角張った線を組み合わせた、文字らしい印だった。
その印を指し、恒一を見る。
恒一が首を横へ振ると、男は村の中央より少し奥を指した。
老女へ声をかける。
老女は頷き、恒一へついてくるよう手を動かした。
「文字を教えられる人がいるんでしょうか」
あかりへ問いかける。
彼女にも分からない。
ただ、地面へ残された角張った印を興味深そうに見つめていた。
老女の後を歩く。
村の中には、二十軒を越える家があった。
薪を割る音。
鍋から上がる湯気。
泣く子どもの声と、それを宥める声。
どれも意味は分からない。
それでも、十一日間聞くことのできなかった人の暮らしだった。
すれ違う者は恒一を見る。
見慣れない黒い服。
布を巻いた肩。
村へ運ばれた魔物を一人で倒したという、信じ難い話。
視線が集まる理由はいくつもある。
その誰も、恒一のすぐ右を浮かぶあかりには気づかない。
あかりは最初、村人と目が合うたび足を止めかけた。
視線が自分を通り抜けると、恒一のそばへ戻る。
五メートルの制限がなくても、離れようとはしなかったかもしれない。
老女が、一軒の細長い建物の前で止まった。
入口には扉が開いている。
中から、何人もの子どもの声が聞こえた。
同じ短い音を、揃って繰り返している。
老女が入口の柱を二度叩いた。
子どもたちの声が止まる。
室内の正面に、一人の女性が立っていた。
長い金色の髪。
その一部を細く編み、背中へ流している。
深い緑の外套は椅子の背へ掛けられ、身体には同じ色を基調にした革と金属の防具を着けていた。
腰には短剣。
壁際には、村人が使っていたものよりはるかに長い弓と矢筒が立てかけられている。
旅の途中で、たまたま教壇へ立っているような姿だった。
女性が老女へ顔を向ける。
髪のあいだから、細長く尖った耳が見えた。
恒一は一度だけ瞬きをした。
見間違えようがない。
エルフだった。
老女が女性へ何かを説明する。
魔物を突く仕草。
森の方角。
恒一の裂けた服。
最後に、地面へ文字を書く仕草をした。
女性の表情から、子どもたちへ向けていた柔らかさが消えていく。
緑の瞳が恒一へ向いた。
人間の大人へ向けるものとしては、あまりにも冷たい視線だった。
老女が女性を指す。
「セレス」
名前だけは、はっきり聞き取れた。
次に恒一を指す。
「ポチ」
女性――セレスの眉が僅かに動く。
恒一は自分の胸へ手を当てた。
「ポチ」
名前だけを返し、頭を下げる。
顔を上げたとき、セレスの視線は恒一から外れていた。
恒一の右隣。
何もないと、村の全員が通り過ぎた場所。
そこに浮かぶ、あかりの顔で止まっている。
あかりの左手が、恒一の袖を強く掴んだ。
驚きが契約を通して流れ込む。
セレスの緑の瞳が、あかりの薄い右腕を見る。
胸元で亀裂の残る霊核を見る。
最後に、恒一とあかりを繋ぐ見えない距離を確かめるように、二人のあいだへ動いた。
見えている。
気配を感じているだけではない。
セレスは、あかりの傷まで見ていた。
この世界へ来て十二日目。
初めて、ポチ以外の誰かの視線が、あかりの姿を正確に捉えた。




