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第20話 二人分の教本

挿絵(By みてみん)

 セレスは、あかりから目を逸らさなかった。


 緑の瞳が、透けた右腕から胸元の霊核へ移る。


 亀裂の一本一本を数えるような視線だった。


 あかりの左手が、恒一の袖をさらに強く掴む。


 契約を通して流れ込んできたのは、驚きと警戒。


 それから、ごく僅かな期待だった。


 村へ入ってから、何人もの視線が二人のあいだを通り抜けた。


 あかりが目の前にいても、誰も足を止めなかった。


 けれどセレスだけは違う。


 恒一ではなく、あかりを見ている。


 気配を感じているだけなら、傷の位置まで視線を動かす理由はない。


 セレスが一歩近づいた。


 恒一も反射的に半歩前へ出る。


 左肩へ痛みが走った。


 それでも、あかりとセレスのあいだへ身体を入れようとする。


 セレスの右手が上がった。


 剣にも、腰の短剣にも触れていない。


 掌をこちらへ向け、そこで止まれと示していた。


 恒一が足を止めると、セレスはもう一度あかりを見た。


 そして、短い音を口にした。


 聞いたことのない言葉だった。


 ただ、老女が祈りの中で使った古い音と、どこか響きが似ている。


 あかりが小さく息を呑んだ。


 袖を掴む指から力が抜ける。


 警戒の奥へ、驚きとは違う感情が混ざった。


 知っているものに触れたときのような、小さな反応だった。


「分かるんですか」


 恒一が声をかける。


 日本語の意味がそのまま届くわけではない。


 それでも、問いかけられていることは声色と契約を通して伝わったらしい。


 あかりは迷ったあと、僅かに首を縦へ動かした。


 完全に理解しているようには見えなかった。


 セレスが同じ音を、今度はゆっくり繰り返す。


 あかりの唇が動いた。


 水面を小さく叩くような、柔らかな音が返る。


 恒一の知る日本語ではない。


 森であかりから受け取った古い音とも、少し違って聞こえた。


 意味は分からない。


 ただ、拒絶する響きではなかった。


 セレスの尖った耳が僅かに動く。


 緑の瞳が細められた。


 姿だけではない。


 あかりの声も聞こえている。


挿絵(By みてみん)


 セレスは続けて、先ほどより長い言葉を口にした。


 あかりの表情が曇る。


 困惑が恒一へ流れ込んできた。


 セレスの言葉を追おうとして、途中で見失ったような感覚。


 あかりは返事をせず、首を横へ振った。


 二人のあいだで会話が成立しているわけではないらしい。


 セレスは古い音を知っている。


 あかりも、その一部へ反応できる。


 それでも、長い時間の隔たりを越えて話せるほど近くはない。


 教室の中で、小さな声が上がった。


 子どもたちが一斉にセレスを見ている。


 何もない場所へ話しかけているようにしか見えないのだろう。


 セレスは子どもたちへ振り返った。


 正面の板に並んでいた角張った文字を指す。


 次に、机の上の板と筆記具を指した。


 子どもたちは慌てて手を動かし始める。


 それでも何人かは、恒一の横にある空間を何度も盗み見ていた。


 もちろん、彼らの視線はあかりを捉えない。


 恒一が見ている先に何があるのか、不思議に思っているだけだった。


 セレスは教室の後ろに置かれた小さな机を指した。


 椅子は二脚ある。


 恒一が自分を指すと、セレスは頷いた。


 次にあかりを指す。


 もう一度、二脚の椅子を示した。


「あかりさんの席もあるようです」


 恒一が椅子を指す。


 あかりへ届いたのは言葉そのものではなく、一緒にあちらへ移るという意図だけだった。


 彼女は恒一を見上げ、静かに頷く。


 身体を椅子へ預けることはできない。


 それでも座る真似をして、恒一の隣へ収まった。


 二人が並ぶと、あかりから戸惑いと小さな喜びが流れ込んでくる。


 自分にも席が用意されたことは理解できたらしい。


 セレスはその様子を確認してから、二人の正面へ立った。


     ◇


 最初に机へ置かれたのは、木の椀だった。


 中には水が入っている。


 セレスが椀を指し、短い音を口にした。


 水。


 その音は知っていた。


 老夫婦の小屋でも、森の泉でも聞いている。


 ただし、話す者によって少しずつ発音が違った。


 恒一は覚えている音を返す。


「水」


 セレスの眉が僅かに動いた。


 間違いではないらしい。


 だが、正しくもない。


 セレスがもう一度、ゆっくり発音する。


 最初の音は短く。


 後ろの音は、恒一が思っていたより低い。


 恒一も繰り返した。


 一度目よりは近づいた。


 セレスが小さく頷く。


 次に、硬いパンが置かれた。


 食べるという音は知っている。


 しかし、パンそのものを指す言葉は分からない。


 セレスがパンを指して、一つの音を口にする。


 次にパンを口元へ運ぶ仕草をし、別の音を口にした。


 物の名前と、食べるという動作。


 二つは別の言葉だった。


 恒一は後の方だけを繰り返す。


 セレスはパンをもう一度指した。


 恒一が首を横へ振ると、彼女は同じ音を二度繰り返した。


 覚えろということらしい。


 恒一も発音を真似る。


 セレスは訂正しなかった。


 机の上へ、さらに物が増えていく。


 小さな木片。


 火を灯していない燭台。


 布。


 短い縄。


 子ども用らしい木彫りの家。


 セレスは一つずつ指し、名前を口にした。


 恒一が知っていたのは、水と火と家に近い音だけだった。


 縄は森で何度も見た。


 布も使っている。


 それでも、名前を聞いたことがなければ答えられない。


 物を知っていることと、その言葉を知っていることは別だった。


 セレスは物の名前を確かめ終えると、椀を手に取った。


 恒一へ差し出す。


 短い言葉。


 受け取れ、という意味だろう。


 恒一が右手で椀を受け取る。


 セレスは頷いた。


 今度は掌を上へ向け、先ほどと違う言葉を口にした。


 恒一は椀を返した。


 また頷く。


 受け取る。


 渡す。


 仕草があれば分かる。


 セレスは椀を机へ戻した。


 何の動作もせず、先ほどの言葉だけを口にする。


 恒一は動けなかった。


 受け取るのか。


 渡すのか。


 何を。


 誰が。


 短い音だけでは判断できない。


 セレスが水の椀を指し、自分の胸へ手を当てた。


 もう一度同じ言葉を口にする。


 恒一は椀を取り、彼女へ渡した。


 正解らしい。


 次はパンと恒一を指し、別の言葉を重ねる。


 食べろ、だろうか。


 パンを渡せ、だろうか。


 恒一が迷ったままパンを持ち上げると、セレスが首を横へ振った。


 自分の口元を指す。


 恒一はパンを一口だけ齧った。


 今度は頷いた。


 知っている単語が並んでいても、文としては理解できない。


 助詞も、語順も分からない。


 誰が何をするのかさえ、仕草がなければ曖昧だった。


 セレスは教室の入口を指した。


 村を意味する音。


 眠るという音。


 それから、まだ知らない音を二つ続けた。


 恒一に聞き取れたのは、村と眠るだけだった。


「村で眠る……?」


 日本語で呟く。


 セレスは何も返さない。


 質問だったのか。


 命令だったのか。


 昨日のことを尋ねたのか。


 今日の寝場所を確認したのか。


 まったく分からなかった。


 恒一が首を横へ振ると、セレスはそこで言葉を切った。


 机の上の水を指す。


 恒一を指す。


 指を一本立てた。


 次に先ほどの長い言葉を口にし、両手を広げる。


 一つの音なら分かる。


 長くなれば分からない。


 そう確かめているように見えた。


 恒一は頷いた。


 セレスも一度だけ頷き返す。


 冷たい表情は変わらない。


 それでも、最初に向けられた警戒とは少し違っていた。


 理解できない者へ同じ説明を繰り返すのではなく、どこまでなら届くかを測っている。


 その視線は、教室の子どもたちへ向けるものと同じだった。


 恒一は三十二歳だった。


 教壇に立つ女性から、言葉を一つずつ確かめられている。


 恥ずかしくないとは言えない。


 けれど、分かったふりをして寝場所や食事を失うよりはるかに良かった。


     ◇


 セレスの視線が、あかりへ移った。


 水の入った椀を指す。


 先ほどと同じ、現在の村で使われている音を口にした。


 あかりは椀を見る。


 少し考えたあと、別の音を返した。


 意味は恒一にも分かる。


 水を指されて答えたのだから、水を示す音なのだろう。


 ただし、セレスが使ったものとは大きく違っていた。


 セレスが机の上へ置いた板へ、二組の文字を書く。


 一方は短く、もう一方は少し長い。


 どちらが現在の言葉で、どちらがあかりの使った音なのかは分からない。


 ただ、形はまったく同じではなかった。


 セレスが火を示す。


 あかりの唇が動く。


 水のときよりも、答えが出るまでに時間がかかった。


 小さな音が返る。


 セレスはすぐには反応しなかった。


 あかりの発音を自分でも一度繰り返し、何かを尋ねる。


 あかりの表情へ困惑が浮かぶ。


 恒一にも、強い迷いが流れ込んできた。


 言葉の意味は分からない。


 ただ、あかりがセレスの問いを理解できなかったことだけは伝わる。


 セレスは火をもう一度指した。


 あかりも火を見る。


 先ほどと同じ音を、今度は少しはっきり発した。


 それでもセレスは小さく首を傾げた。


 二人が同じものを指していることは分かっている。


 けれど、使っている音がどれほど近いものなのかまでは、恒一には判断できなかった。


 セレスは木彫りの家を指す。


 あかりは答えなかった。


 パンも、布も、縄も同じだった。


 見れば何に使うものかは分かるらしい。


 それでも、名前を求められると不安と戸惑いが返ってくる。


 あかりが知らないのか。


 忘れているのか。


 それとも、彼女がいた時代には別の物だったのか。


 恒一には分からない。


 代わりにセレスが胸へ手を当て、老女が祈りに使ったものと似た古い音を口にした。


 あかりがすぐに顔を上げる。


 先ほどまでの迷いが消えた。


 確信に近い感情が契約を通して流れ込んでくる。


 あかりは胸へ左手を寄せ、古い音を返した。


 セレスの目が僅かに見開かれる。


 日々の暮らしで使う物の名には答えられない。


 けれど、祈りに近い古い言葉には強く反応する。


 それだけは恒一にも分かった。


 セレスは、あかりが音を返すたび板へ文字を増やしていく。


 現代の言葉。


 あかりが使った古い音。


 同じ意味らしいもの。


 まったく繋がらないもの。


 彼女の表情は変わらない。


 しかし、筆記具を動かす速度だけが少しずつ上がっていた。


挿絵(By みてみん)


 あかりの右腕へ視線が向く。


 薄く透け、輪郭の一部が水へほどけている。


 セレスが短い問いを口にした。


 あかりの身体が強張る。


 胸元の霊核を指されると、不安が一度に流れ込んできた。


 何を尋ねられているのか。


 答えてよいのか。


 そもそも、どう答えればよいのか。


 文章として届いたわけではない。


 それでも、行き場を失った感情の揺れは分かった。


「大丈夫です」


 恒一はあかりへ向けて、ゆっくり言った。


 日本語は通じない。


 それでも、落ち着いてほしいという意図は届く。


 あかりの緊張が僅かに緩んだ。


 傷。


 契約。


 森。


 地面の下を通った何か。


 あかりの水を奪った存在。


 説明したいことはいくつもある。


 そのどれも、恒一が覚えた僅かな単語では形にならない。


 あかりから届くものも、恐れや痛み、離れたくないという強い意図までだった。


 過去や理由を文章として受け取ることはできない。


 セレスも、それ以上は尋ねなかった。


 ただ、あかりの霊核を一度見つめてから、板を裏返した。


     ◇


 新しい面へ、角張った文字が書かれる。


 セレスがその文字を指し、自分の胸へ手を当てた。


「セレス」


 名前だった。


 恒一は文字を見る。


 いくつかの線が組み合わさっている。


 先ほどまで書かれていたものと同じ種類の文字らしい。


 しかし、一つとして読めない。


 セレスは自分を指す。


 文字を指す。


 もう一度、名前を口にする。


「セレス」


 恒一が返すと、彼女は頷いた。


 次に水の椀を指し、その横へ別の文字を書く。


 発音も繰り返す。


 恒一には水という意味は分かる。


 それでも、文字と音を対応させることはできなかった。


 どこまでが一つの文字なのか。


 一つの印が一音を表すのか、一つの意味を表すのか。


 見ただけでは何も分からない。


 セレスが筆記具を恒一へ差し出した。


 恒一は右手で受け取る。


 左肩を庇う動きを見たセレスが、板を恒一の右側へずらした。


 書けということらしい。


 何を書けばいいのか迷ったあと、恒一は板へ三文字を書いた。


『ポチ』


 セレスの視線が、文字へ落ちる。


 恒一は自分の胸へ手を当てた。


「ポチ」


 老女も横から同じ名を口にする。


 セレスは恒一が書いた文字を指し、ポチ、と繰り返した。


 そして、自分が先ほど書いた文字列を指す。


「セレス」


 恒一はその下へ、日本語で書いた。


『セレス』


 セレスの眉が僅かに上がる。


 恒一は彼女を指す。


 自分が書いた文字を指す。


「セレス」


 今度は、セレスが恒一の文字を長く見つめた。


 読めないのはお互いに同じだった。


 恒一はこの村の文字を知らない。


 セレスも、日本語の文字を知らない。


 けれど、恒一が文字そのものを知らないわけではない。


 知らない体系の文字を使っている。


 それは伝わったらしい。


 セレスが筆記具を指した。


 もう一度書くよう手を動かす。


 恒一は少し場所を空け、同じ文字を書いた。


『ポチ』


 一度目とほとんど同じ形。


 セレスは二つを見比べる。


 適当に線を引いたのではないと確かめている。


 恒一はその下へ、もう一つ名前を書いた。


『あかり』


 そして、隣にいる少女を指す。


「あかり」


 セレスが顔を上げた。


 あかりを指す。


「あかり」


 恒一は頷いた。


 あかりも、左手を胸へ添えて頭を下げる。


 その唇から、三つの音が零れた。


「あ……かり」


 自分の名だけは、恒一と同じ音を返せる。


 セレスはその音を聞き、板を自分の側へ戻した。


 自分の文字で、新しい文字列を書く。


 あかりを指す。


 文字を指す。


 ゆっくりと名前を口にした。


「あかり」


 あかりが目を見開く。


 驚きが恒一へ流れ込む。


 その後へ続いた感情は、すぐには形を掴めなかった。


 喜び。


 戸惑い。


 確かめるような温かさ。


 村へ入ってから、誰も彼女へ声をかけなかった。


 老夫婦にも見えなかった。


 村人の視線は身体を通り抜けた。


 けれど今、セレスはあかりを指し、彼女のための文字を書いた。


 読めるかどうかは関係なかった。


 その文字が自分を示していることは、指差しと名前だけで伝わる。


 あかりが板へ近づく。


 左手の指先を、文字の上へ重ねるように浮かせた。


「あなたの名前です」


 恒一が文字とあかりを交互に指す。


 言葉の意味は届かない。


 それでも、恒一が同じことを伝えようとしているのは分かったらしい。


 あかりが強く頷く。


 胸の奥へ、温かなものが流れ込んできた。


 セレスはあかりの表情を見ていた。


 何も言わない。


 ただ、書いた文字を消さなかった。


挿絵(By みてみん)


     ◇


 やがて、子どもたちの手が止まった。


 教室の前から、揃った声が上がる。


 同じ短い音を繰り返し、セレスへ頭を下げた。


 授業が終わったらしい。


 椅子が引かれる。


 子どもたちが板や筆記具を片づけ、入口へ集まっていく。


 恒一の近くを通るときだけ、歩みが遅くなる。


 裂けた黒い服。


 左肩の布。


 村へ運ばれた巨大な魔物を一人で倒したという男。


 気になる理由はいくつもある。


 一人の少年が、あかりのすぐ前で足を止めた。


 何かを感じたわけではない。


 恒一が見ている方向を確かめようとしただけだった。


 少年の視線は、あかりの胸元を通り抜ける。


 あかりが僅かに身を引いた。


 少年は首を傾げたあと、他の子どもたちを追って教室を出ていく。


 見えているのは、やはりセレスだけだった。


 老女も、セレスと短く言葉を交わす。


 恒一を指し、小屋の方角を指す。


 最後にあかりのいる場所へ視線を向けようとして、僅かに位置を外した。


 老女は二人へ頭を下げ、教室を出ていった。


 セレスは子どもたちが使っていた棚へ向かう。


 そこから一冊の薄い本を取り出した。


 粗い紙を糸で綴じ、薄い木の板で挟んだものだった。


 表紙には文字と、葉のような簡単な絵が描かれている。


 セレスが本を開く。


 最初のページには、大きな絵が一つ。


 水の入った椀だった。


 その横へ、先ほど板に書かれたものと同じ文字が並んでいる。


 次のページには火。


 その次には家。


 パン。


 木。


 人。


 どれも絵が大きく、文字は少ない。


 セレスは水の絵を指した。


 文字を指す。


 発音する。


 次に火。


 家。


 恒一にも、この本が何のためのものか分かった。


 絵と文字を結びつける。


 文字と音を結びつける。


 言葉を知らない子どもが、最初に使う本だった。


 教室の机を見る。


 何冊か、同じ表紙の本が残っている。


 先ほどまで座っていた子どもの中には、五つか六つほどにしか見えない子もいた。


 三十二歳になって、幼い子どもと同じ本を渡される。


 日本にいた頃なら、笑い話にしたかもしれない。


 配信の題材にして、わざと大げさに落ち込んでみせたかもしれない。


 いまは笑う気になれなかった。


 この本にある言葉を覚えなければ、仕事の内容も、食事を受け取る条件も分からない。


 あかりの傷について尋ねることもできない。


 村の外に何があるのか。


 森で何が起きているのか。


 地面の下を通ったものが何なのか。


 知るためには、ここから始めるしかなかった。


 セレスは本と一緒に、黒く塗られた小さな板を机へ置いた。


 白い石のような筆記具も添える。


 本の文字を指す。


 板を指す。


 書き写す動きを見せた。


 恒一が右手で筆記具を持つ。


 水の絵の横にある、一番大きな文字を真似る。


 最初の線。


 次の線。


 角度が違う。


 長さも揃わない。


 書き終えたものは、本の文字に似てはいる。


 しかし、同じものには見えなかった。


 セレスが恒一の板へ手を伸ばす。


 間違った線の横へ、正しい形をゆっくり書いた。


 筆順までは分からない。


 ただ、どこから線を引き、どこで止めるのかは見える。


 恒一はもう一度書いた。


 一度目よりは近い。


 セレスが頷く。


 次に、あかりを指した。


 本を指す。


 板を指す。


 あかりが自分の胸へ左手を当てる。


 驚きと戸惑いが届く。


 セレスは指を二本立てた。


 一本を恒一へ向ける。


 もう一本を、あかりへ向ける。


 そして、本を二人のあいだへ置いた。


「二人で使え、ということみたいです」


 恒一も本と二人を順に指した。


 あかりは動きを目で追う。


 意味を理解した瞬間、胸へ明るい感情が流れ込んできた。


 あかりが何度も頷く。


挿絵(By みてみん)


 セレスは教室の正面へ戻ると、板へ太陽らしい円を描いた。


 低い位置。


 高い位置。


 もう一度、低い位置。


 一日。


 次に、入口を指す。


 恒一とあかりを指す。


 机の上の本を指した。


 明日、また来い。


 そういう意味だろう。


 恒一は自分を指し、あかりを指した。


 それから入口と本を順に指す。


「ポチ。あかり。来る」


 知っている音を繋げただけだった。


 文法はない。


 発音も正しくない。


 セレスは恒一をしばらく見たあと、短く頷いた。


 通じた。


 正確ではなくても、二人がここへ戻る意志は伝わった。


 恒一は本と板を右腕で抱えた。


 左肩へ負担をかけないよう、身体へ寄せる。


 あかりが、その上から本を覗き込んだ。


 最初のページに描かれた水の椀を見る。


 その横の文字を見る。


 そして、セレスが使った音を小さく真似た。


 本の絵を指しているから、何を練習しているかは恒一にも分かる。


 発音は恒一よりもセレスに近かった。


「覚えるのが早いですね」


 褒める意図とともに声をかける。


 あかりから、少し弾むような感情が返ってきた。


 けれど、次の火の文字ではすぐに不安が混じる。


 あかりが口にした音は、先ほどと僅かに違っていた。


 自信がないらしい。


「僕も分かりません。一緒に覚えましょう」


 恒一は自分とあかりを指した。


 次に本を指し、文字を書く仕草をする。


 あかりが恒一を見る。


 言葉のすべてが届いたわけではない。


 それでも、一人でやらせるつもりではないことは伝わった。


 あかりは強く頷いた。


 二人で教室の入口へ向かう。


 恒一が振り返ると、セレスはまだ同じ場所に立っていた。


 緑の瞳は、本ではなくあかりの胸元へ向いている。


 霊核に残った亀裂。


 薄くなった右腕。


 恒一とあかりのあいだにある、目には見えない繋がり。


 それらを確かめるような視線だった。


 問いかけられても、いまは答えられない。


 恒一自身も、あかりから過去や理由を聞き出すことはできない。


 届くのは感情と、単純な方向。


 消えたくない。


 離れたくない。


 隣で生きたい。


 それほど強い願いだけだった。


 けれど、明日もここへ来る。


 今日より一つでも多く言葉を覚える。


 そうすれば、いつかは尋ねられるかもしれない。


 あかりに何が起きたのか。


 治す方法があるのか。


 セレスが何を知っているのか。


 恒一は本を抱え直し、頭を下げた。


 セレスも僅かに顎を引く。


 教本は一冊。


 学ぶ者は、二人だった。

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