第8話 本日の配信は、調理枠です
四日目のLIVEが終わると同時に、恒一の身体へ重さが落ちた。
大木の根へ背中を預けたまま、しばらく動けなかった。
肩。
腕。
右の脇腹。
鉤に掠められた右の脛。
戦いと帰路で使った場所が、遅れて痛みを訴えている。
仮小屋の外には、葉に包まれた甲殻の獣がある。
近くの太い根へ蔓で結び、周囲には枯れ枝を撒いた。
そこまで終えられたのは、LIVE中の補正が残っていたからだ。
いまの恒一には、結び目を確かめに立つ余力さえほとんどなかった。
手元には、二粒の赤い実。
今日、確実に口へ入れられるものは、それだけだった。
恒一は一粒を水で洗い、時間をかけて食べた。
酸味のあとに、かすかな甘さが残る。
空腹は、胃へ何かが入ったことで余計にはっきりした。
もう一粒へ手を伸ばしかける。
だが、指先が触れる前に止めた。
明日の朝まで、何も見つからない可能性がある。
最後の一粒は、葉へ包み直して枕元へ置いた。
外の獲物は、そのまま朝まで置くしかない。
火もない。
刃物もない。
夜の森へ運び直す体力もない。
恒一は灰色のRECへ向けて、掠れた声を残した。
「獲物は、仮小屋から離した場所へ置いてあります。今夜は確認のためでも、外へ出ません」
最初の夜に倒した黒い獣は、朝になる前に何かへ持ち去られた。
同じことが起きるかもしれない。
それでも、暗闇の中で獲物を守ろうとする方が危険だった。
「なくなっていたら、諦めます」
口にすると、腹の奥が強く縮んだ。
恒一は杖を抱えるようにして、仮小屋の内側へ横になった。
◇
夜の途中で、枯れ枝が一度だけ鳴った。
乾いたものを踏み折る、短い音。
恒一は目を開けた。
杖を握る。
起き上がりはしない。
息を潜め、次の音を待った。
一分。
二分。
葉の擦れる音はしても、枯れ枝は鳴らない。
獲物が持ち去られているのかもしれない。
何かが、仮小屋のすぐ外で待っているのかもしれない。
確かめなければ、どちらかは分からない。
分からないから、出ない。
恒一は杖を握ったまま、もう一度目を閉じた。
大木の反対側では、白い少女が甲殻の獣のそばに浮かんでいた。
葉の包みへ近づいていた小さな影は、少女の足元から走った水に触れ、森の奥へ逃げている。
少女は追わなかった。
硬い甲羅へ両手を重ねる。
周囲の葉についた水滴が、細い糸となって指先へ集まった。
水は甲羅の表面へ薄く広がる。
温まれば離れ、夜気へ触れて冷えると、また戻る。
少女は、その流れを何度も繰り返した。
仮小屋の中で恒一の呼吸が深くなっても、白い姿は獲物のそばを離れなかった。
◇
この世界で迎える五度目の朝。
恒一は仮小屋の入口から、周囲を先に見た。
動くものはいない。
昨夜鳴った枯れ枝は、一本だけ位置が変わっている。
その向こう。
太い根へ回した蔓は残っていた。
葉に包んだ甲殻の獣も、なくなっていない。
「……残ってる」
安堵より先に、警戒が出た。
杖を前へ出し、離れた位置から葉の包みを押す。
反応はない。
鉤にも触れる。
六本の脚にも、動きはなかった。
周囲を見回してから、ようやく一歩近づく。
腐った匂いはしない。
幅の広い葉を少しだけ開き、甲羅へ指先で触れた。
「冷たい……?」
朝の空気よりも、はっきり冷たい。
甲羅だけではない。
包んでいた葉も濡れ、ひんやりしている。
夜に雨は降っていない。
近くの地面にも、同じ量の水はなかった。
左腕の布。
葉の器へ戻っていた水。
昨日の右脚。
そして、朝まで冷えたままの獲物。
同じ方向を示す事実が、また一つ増えた。
恒一は何もいない場所を見回さない。
礼も言わなかった。
ただ、甲羅から指を離し、開いた葉を元へ戻す。
「匂いに大きな変化はありません。表面も冷えています」
灰色のRECへ、確認できたことだけを残す。
「ただし、傷んでいない証明にはなりません。食べられるかどうかとも別です」
仮小屋へ戻り、最後の赤い実を食べた。
今日の目的は、もう決まっている。
「今日は、新しい場所を探しません」
恒一は外の獲物を見た。
「昨日持ち帰ったものを、食べられる状態にします」
◇
最初に選んだのは、大木から十歩ほど離れた場所だった。
頭上に低い枝が少なく、地面の傾きも小さい。
恒一は落ち葉を杖で退け、土が見える範囲を広げた。
火が外へ走らないよう、周囲の枯れ枝も拾う。
そこへ、乾いた地面に出ていた石を運んだ。
川の中にある石は使わない。
水を含んだ石を熱すれば、割れるかもしれない。
確かな知識ではなかったが、危険を増やしてまで試す理由もない。
大きめの石を、正面だけ空けて三方へ並べる。
その上へ、少し小さな石を重ねた。
囲いの隙間には、水を混ぜると形を保つ土を押し込んでいく。
土だけで壁を作るわけではない。
形を支えるのは石。
土は、石の間から熱が逃げにくくするためのものだった。
乾く途中でひびが入っても、石まで崩れなければ使える。
正面は開けたままにする。
そこから細い枝を入れ、空気を通す。
完成したものは、窯と呼べるほど立派ではなかった。
三方を石と土で囲った、小さな火の置き場所。
それでも、裸の地面で燃やすよりは熱を集められる。
火のそばには、水を入れた葉の器を二つ置いた。
一つは飲むため。
もう一つは、火が落ち葉へ移ったときに使うため。
次に、燃やすものを分ける。
指でちぎれるほど細い樹皮。
枯れ草。
爪楊枝ほどの枝。
指ほどの枝。
さらに太い枝。
火がついてから探しに行かなくて済むよう、太さごとに地面へ並べた。
表面が湿っている枝は避ける。
倒木の下や、太い枝の内側から、乾いた部分だけを集めた。
森を歩いたのは、これまで何度も通った水場までの道だけだった。
赤い実の低木にも立ち寄る。
熟しているものを四粒採り、葉へ包んだ。
残っている実は、まだ色が薄い。
全部は採らない。
明日以降に熟すものまで失えば、一度の食事と引き換えに次の保険がなくなる。
白い少女は、材料を集める恒一のあとをついて回った。
石を運べば、その石を覗き込む。
土へ水を混ぜれば、指先を近づける。
恒一が樹皮を細かく裂き始めると、少女も隣へ座るように低く浮かび、その手元を見つめた。
何を作ろうとしているのかは、分かっていない。
それでも、昨日のように森へ出ていかないことには安心しているようだった。
◇
火を起こす道具は、記憶を頼りに作った。
緩く曲がった枝の両端へ蔓を結ぶ。
弓に似た形になった枝へ、真っ直ぐな木の棒を一度だけ巻きつける。
棒の下には、平らに削った乾いた木片。
木片の端へ浅い窪みを作り、そこから外側へ細い切れ目を入れた。
弓形の枝を前後へ動かせば、巻きついた棒が右へ左へ回る。
その摩擦で木を熱し、削れた黒い粉へ火を作る。
理屈は知っていた。
地球で、動画を見たこともある。
実際にやったことは、一度もない。
「知っているのと、できるのは別だよな」
一度目。
蔓が棒の表面を滑った。
二度目。
棒の先が窪みから外れ、地面へ転がった。
三度目。
薄い煙が上がった。
恒一は動きを速めた。
左腕の傷が引きつる。
肩へ力が入り、弓形の枝の動きが乱れた。
煙は、それ以上増えなかった。
木片に残ったのは、焦げた跡と少量の黒い粉だけだった。
赤く光るものはない。
指を近づければ温かい。
だが、樹皮へ火を移せるほどではなかった。
四度目を始めようとして、恒一は止まった。
右手の指が震えている。
左腕だけではない。
昨日の戦いで使った肩と脇腹も、同じ動きを繰り返すたびに痛んだ。
ここで動けなくなれば、LIVEが始まっても調理まで進めない。
「配信まで休みます」
道具をその場へ置く。
細かく裂いた樹皮は、日が当たる石の上へ広げた。
火を囲う石と土も、そのまま空気へ晒す。
甲殻の獣は、まだ日陰にある。
恒一は赤い実を一粒だけ食べ、水を飲んだ。
残り三粒。
仮小屋の入口へ座り、NEXT LIVEの数字が減るまで身体を休めた。
◇
木々の影が、昨日と同じ方向へ伸び始める。
恒一は準備したものを、もう一度確かめた。
火を起こす道具。
太さごとに分けた枝。
乾かした樹皮。
石と土で作った囲い。
水。
赤い実。
薄く割れ、片側だけが鋭くなった石片。
石片の握る部分には、乾いた樹皮を重ねて巻いてある。
刃物と呼べるものではない。
甲殻の獣の関節にある、柔らかい部分を切るための使い捨ての道具だった。
獲物は、まだ幅の広い葉に包んである。
LIVEが始まるまでは開かない。
地球側へ見せ、意見が届くまで待つ。
コメントは十五分遅れる。
それでも、火を起こす作業ならやり直せる。
獲物を切る前なら、届いた注意に従って手を止められる。
昨日の戦いとは違う。
失敗した瞬間に、命を奪われる作業ではない。
遅れて届く知識を使う余地がある。
――00:00:03。
――00:00:02。
――00:00:01。
灰色のRECが消えた。
視界の右上へ、赤い点が灯る。
――LIVE。
――残り時間 59:59。
同時視聴者数は、ゼロから始まった。
七人。
十二人。
十八人。
昨日の最後に見た二十人へ届き、さらに二十二人になる。
身体を包んでいた重さが薄くなる。
左腕の痛みは消えない。
それでも、震えていた右手へ力が戻った。
「こんばんは。ポチです」
恒一は赤い点へ向けて、いつもの挨拶をした。
「異世界生活、五日目。今日も生きています」
地球側のコメント欄が動き始める。
『生存確認』
『右脚は大丈夫か』
『小屋の前に石積んでる?』
『今日は探索じゃないのか』
『後ろの葉包み、昨日のやつだよな』
『幽霊ちゃんもいる』
文字はまだ、恒一の視界へ届かない。
恒一は石と土で作った囲いを映し、次に火を起こす道具を見せた。
「今日は森へ行きません」
一度、外へ置いた葉の包みを見る。
「昨日、僕を襲った生き物を持ち帰りました。今日は、これを食べ物へ変えます」
地球側のコメントが、一瞬だけ止まった。
『料理枠?』
『待って、昨日の敵が今日の食材?』
『食べる気なのか』
『本日の配信、異世界サバイバル料理』
『先人も最初に蟹を見たとき同じこと考えたんだろうな』
同時視聴者数が、二十三人へ変わった。
「このあと、死んだ生き物を切り分けます。苦手な方は、画面を閉じてください」
数字が一人減った。
二十二人。
恒一は引き止めない。
「食べられると決まったわけではありません。見た目が地球の蟹や海老に似ているだけです」
準備した石片を持ち上げる。
「火を起こして、胴は開かず、後ろの脚を一本だけ外します。殻がついたまま十分に熱を通して、最初はほんの少しだけ口にする予定です」
言葉を区切る。
「火起こしを実際にしたことがある方は、手順の間違いを短く教えてください。理由もあると助かります」
続けて、葉の包みへ視線を移す。
「この生き物の扱いについても、止めた方がいい理由があれば送ってください。推測の場合は、推測だと分かるようにお願いします」
地球側から、すぐに文字が返る。
『まず傷を覆え。体液が入ったら危ない』
『胴を開けないのは賛成』
『後ろ脚一本だけにしろ』
『加熱しても消えない毒はある』
『幽霊ちゃんの頷きは手掛かりであって保証じゃない』
『火を起こす木片の切れ目、もう少し広げた方が粉が集まる』
『押さえる手を脚へ固定。腕だけで支えると棒がぶれる』
『火を移す樹皮を先に全部ほぐしておけ』
どれも、いまの恒一には見えない。
届くのは十五分後。
それまでは、自分で試すしかなかった。
◇
恒一は平らな木片を左足で押さえた。
真っ直ぐな棒の上を左手で支え、弓形の枝を右手で前後へ動かす。
左腕の傷が痛む。
動かす幅を小さくし、速度を保とうとした。
蔓が緩む。
棒の回転が止まった。
「一度目。蔓が滑りました」
残り時間は、五十六分。
蔓を張り直す。
二度目。
今度は棒が回った。
木の擦れる音が続く。
窪みの周囲が黒くなり、細い煙が立った。
恒一は焦って動きを速めた。
支えていた左手が揺れる。
棒の先が外れた。
「二度目。煙は出ました」
削れた黒い粉へ顔を近づける。
赤い点はない。
息を吹きかけると、粉が地面へ散った。
地球側では、同じ瞬間を見ていた者たちが一斉に止める。
『吹くの早い!』
『黒い粉を散らすな』
『まだ火になってない』
『落ち着け』
その警告も、十五分先の恒一へ向かっている。
三度目。
弓形の枝を動かす左腕が、途中で鈍った。
煙は出る。
止めると消える。
また動かす。
棒がぶれる。
木片の窪みだけが深くなり、黒い粉は切れ目の外へうまく集まらない。
「……難しいな」
額から落ちた汗が木片へ触れないよう、顔を横へ向けた。
残り五十分。
LIVE中の補正で腕は動く。
だが、力が増えても、棒を真っ直ぐ回す技術までは生まれない。
四度目。
煙が増えたところで蔓が外れた。
恒一は弓形の枝を置いた。
呼吸を整える。
「開始から十分。まだ火はついていません」
失敗を隠さず、RECへ残す。
「煙までは出ます。黒い粉を、火になるところまで熱くできていないようです」
石の上に広げていた樹皮へ手を伸ばす。
指で触れると、表面は乾いている。
だが、細かく裂いた内側には、わずかな湿り気が残っていた。
白い少女が、その横へ浮かぶ。
恒一が弓形の枝へ戻ったあと、樹皮へ両手を近づけた。
細い繊維の間から、小さな水滴が浮かび上がる。
一滴。
また一滴。
少女の指先へ集まった水は、丸い粒となって宙へ浮いた。
ほぐした樹皮から湿り気が消えていく。
地球側には、その様子がはっきり映っていた。
『幽霊ちゃん、樹皮から水を抜いてる』
『手伝ってる』
『さっきより乾いてるぞ』
『ポチは気づいてない』
恒一は知らない。
五度目の準備を始める。
残り時間は、四十六分を切った。
あと一分。
最初に送られた言葉が届く。
◇
――残り時間 45:00。
音声メーターの下へ、白い文字が現れた。
『生存確認』
『右脚は大丈夫か』
『小屋の前に石積んでる?』
『今日は探索じゃないのか』
十五分前。
LIVEが始まった直後のコメントだった。
恒一は手を止めず、文字を追う。
『料理枠?』
『待って、昨日の敵が今日の食材?』
『本日の配信、異世界サバイバル料理』
『先人も最初に蟹を見たとき同じこと考えたんだろうな』
恒一は、葉に包んだ甲殻の獣を見た。
濃い緑と黒の甲羅。
六本の脚。
内側へ曲がった二本の鉤。
地球の蟹や海老を知らなければ、食べ物の候補にはしなかっただろう。
その蟹や海老にも、最初に殻を割った誰かがいる。
「……その人も、空腹だったんでしょうね」
いまの自分なら、その理由だけは分かる。
コメントが続く。
『まず傷を覆え。体液が入ったら危ない』
『胴を開けないのは賛成』
『後ろ脚一本だけにしろ』
『加熱しても消えない毒はある』
『幽霊ちゃんの頷きは手掛かりであって保証じゃない』
最後の一行を読んでも、恒一は周囲を見回さなかった。
「食べられると決めつけない。予定どおり、胴は開きません」
左腕の傷を確認する。
布は巻かれたままで、傷口は外へ出ていない。
右脚の浅い傷も、裂けた裾の下で葉と蔓に覆われている。
「体液が傷へ触れないよう、左手では押さえません。使った水も飲み水へ戻しません」
火起こしへの助言が届く。
『木片の切れ目を、もう少し広げた方が黒い粉が集まる』
『押さえる手を脚へ固定。腕だけで支えると棒がぶれる』
『強く押しすぎると回らない』
『火を移す樹皮を先に全部ほぐしておけ』
『黒い粉が赤くなるまで散らすな』
『幽霊ちゃん、ほぐした樹皮から水を抜いてた』
十五分前の危険を止めるには遅い。
けれど、十五分前と同じ失敗をいまも繰り返しているなら、話は違う。
やり直せる作業には、遅れて届く言葉が間に合う。
恒一は石片を使い、木片の端へ入れた切れ目を少し広げた。
散っていた黒い粉を捨て、下へ薄い樹皮を敷く。
棒を支える左手は、左膝の内側へ当てた。
腕だけで位置を保たず、膝と一緒に固定する。
最後に、火を移すための樹皮を確かめた。
先ほどまで残っていた湿り気がない。
細い繊維が、指へ軽くまとわりつく。
「乾いてる……」
朝から日へ当てていたからか。
風に晒したからか。
白い少女が水分を抜いたからか。
恒一は理由を口にしなかった。
樹皮を両手でほぐし、鳥の巣のような形へまとめる。
すぐ手を伸ばせる位置へ置いた。
「もう一度やります」
◇
弓形の枝が前後へ動く。
真っ直ぐな棒が、同じ場所で回り続ける。
左手は膝へ固定した。
先ほどより、先端がぶれない。
押しつけすぎない。
速さを急に変えない。
木の擦れる音が、一定に続く。
細い煙が立った。
恒一は止めない。
切れ目の下へ、黒い粉が少しずつ溜まる。
煙が太くなる。
左腕が痛む。
脇腹も、動くたびに引きつる。
それでも、同じ速さを崩さない。
黒い粉の中心に、ごく小さな赤い点が生まれた。
棒を外す。
今度は吹かない。
下へ敷いていた薄い樹皮ごと、黒い粉を持ち上げる。
ほぐした樹皮の中央へ、崩さないように置いた。
両手で包む。
ゆっくり息を吹き込む。
白い煙が、指の隙間から溢れた。
一度。
二度。
三度。
煙が顔へ戻り、目へ染みる。
咳を堪え、もう一度だけ長く息を送る。
樹皮の奥で、橙色の光が走った。
小さな炎が立つ。
「ついた」
声にした瞬間、炎が揺らいだ。
恒一は慌てて動かさない。
用意していた細い枝の下へ、燃え始めた樹皮を置く。
爪楊枝ほどの枝。
その次に、指より細い枝。
炎が一本へ移ったことを確かめてから、次を足す。
「火が、つきました」
残り時間は三十九分。
地球側のコメント欄は、すでに埋まっていた。
『ついた!』
『火だ!』
『細い枝から入れろ』
『一気に太いの入れるな』
『幽霊ちゃん、びっくりして下がった』
『ポチの小屋に火がついた』
恒一がその歓声を読めるのは、十五分後だった。
白い少女は、石の囲いから少し離れた場所に浮かんでいる。
赤い光が、透き通った髪の内側で揺れる。
恐れているのか、興味を持っているのか。
少女は一度遠ざかったあと、また少しだけ火へ近づいた。
◇
恒一は小さな炎を、石と土で作った囲いへ移した。
正面の開いた場所から、細い枝を足していく。
土に残っていた水分が温まり、小さな音を立てた。
表面へ細いひびが走る。
恒一は手を出さない。
形を支えているのは石だ。
ひびから土が少し落ちても、囲いは崩れなかった。
火が安定するまで、太い枝は入れない。
周囲の落ち葉へ燃え移っていないかも確かめる。
水を入れた葉の器は、手の届く場所にある。
残り三十七分。
炎は、枝を一本足した程度では消えなくなった。
恒一はそこで初めて、甲殻の獣の包みへ向かった。
結んでいた蔓を、杖の先で外す。
幅の広い葉を開く。
濃い緑と黒がまだらになった、平たい甲羅。
六本の脚。
前の二本にある、内側へ曲がった鉤。
昨日、自分の杖を挟み、右脚を裂いたものだった。
動かないと分かっていても、鉤の正面には立たない。
杖で押す。
反応はない。
周囲を見る。
ほかの生き物もいない。
「これから、後ろの脚を一本だけ外します」
水を入れた葉の器を、飲み水から離した。
地面には新しい幅広の葉を重ねる。
甲殻の獣を、その上へ杖で動かした。
左手は使わない。
右手にも、目立った傷がないことを確かめる。
前の鉤から最も離れた、後ろの脚を選んだ。
甲羅と脚の境目には、硬い殻に覆われていない薄い部分がある。
恒一はそこへ石片の鋭い側を当てた。
一度引く。
表面へ浅い線が入る。
二度。
三度。
石の縁は、金属の刃のようには進まない。
同じ場所を何度も擦る。
右手が滑らないよう、樹皮を巻いた部分を握り直した。
薄い部分が少しずつ裂ける。
透明に近い液体が、葉の上へわずかに滲んだ。
恒一は顔を近づけない。
強い匂いはない。
変色も見当たらなかった。
最後は脚を杖で支え、関節の向きへゆっくり曲げた。
硬い音が一度鳴る。
後ろ脚の一本が外れた。
石片の先も、小さく欠けている。
「石片は、もう長く使えそうにありません」
恒一は欠けた道具を、飲み水から離れた葉へ置いた。
外した脚だけを別の水で洗う。
胴体は開かない。
切れ目へ新しい葉を重ね、再び日陰へ寄せた。
白い少女は、外された脚の前へ移った。
匂いを確かめるように顔を近づける。
それから、昨日と同じように小さく頷いた。
地球側のコメントへ、すぐに記録が残る。
『残り三十四分、幽霊ちゃんが脚へ頷いた』
『昨日と同じ反応』
『切り口の液体は透明』
『異臭はなさそう』
『それでも安全確定じゃない』
その言葉が届く頃には、脚はもう火のそばに置かれている。
◇
恒一は石の囲いの中へ、乾いた枝を二本足した。
炎が落ち着き、枝の表面が赤く残るまで待つ。
外した脚は、殻をつけたままにした。
先端と根元を二つの石へ載せ、炎の真上ではなく、赤く熱を持った枝の横へ置く。
殻を器代わりにして、内側へゆっくり熱を通す。
少し経つと、殻の隙間から白い湯気が上がった。
透明な液体が熱せられ、小さく音を立てる。
恒一は先が二つに分かれた枝を使い、脚の向きを変えた。
素手では触らない。
焦げた匂いは、殻の表面からしている。
腐ったような匂いはない。
それでも、地球の蟹と同じだとは考えない。
「火を通しても、安全になるとは限りません」
赤い点へ向けて、自分にも言い聞かせる。
「いま確認できるのは、見た目と匂い、それから食べた直後の変化だけです」
残り時間は二十九分。
コメント欄には、火を起こす前の恒一へ向けた助言が流れている。
『吹くの早い!』
『黒い粉を散らすな』
『煙が出ても焦るな』
『左腕に無理させるな』
もう火はついている。
それでも、次に一から火を起こすときには使える言葉だった。
「黒い粉は、一度散らしました。次は、赤くなるまで動かさないようにします」
恒一は遅れて届いた失敗を、声にして記録へ残した。
残り二十四分。
流れる文字が、一斉に変わる。
『ついた!』
『火だ!』
『ポチ、火がついたぞ!』
『細い枝から育てろ』
『幽霊ちゃん、炎にびっくりしてる』
『ポチの小屋に明かりができた』
十五分前。
小さな炎が初めて立った瞬間の歓声だった。
恒一は、いまも燃えている火を見た。
「はい。つきました」
口元が、わずかに緩む。
「いまは、その火で脚を焼いています」
地球側では笑いと安堵が重なった。
『返事が十五分先へ進んでる』
『もう調理まで進んでるのか』
『料理番組として展開が早い』
『食材が怪物じゃなければな』
その軽口が恒一へ届く頃には、試食する時刻が近づいている。
危険への警告には遅すぎる。
作業の結果を一緒に喜ぶにも、十五分遅れる。
それでも、何も届かなかった三日間とは違う。
失敗を見ていた者がいる。
火がついた瞬間を見ていた者がいる。
遅れていても、同じ作業の続きを歩いている。
◇
残り二十分。
甲殻の脚を火から下ろした。
すぐには触らない。
新しい葉の上へ置き、湯気が弱くなるまで待つ。
殻の色は、火へ当てる前よりわずかに明るくなっている。
外側だけでは、内側まで熱が通ったか分からない。
恒一は平たい石を脚の先端へ当て、別の石で軽く叩いた。
一度では割れない。
二度目。
殻へ細い亀裂が入った。
割れた隙間から、白いものが見える。
石片の欠けていない部分を差し込み、殻を少しだけ広げた。
内側には、繊維の重なった白い肉が詰まっていた。
半透明な部分は残っていない。
中心からも湯気が上がっている。
匂いは、地球で知っている甲殻類に少し似ていた。
その記憶が、食べられるものだと思わせようとする。
恒一はすぐに口へ運ばない。
割った殻を火のそばへ戻し、さらに時間を置いた。
「見える範囲では、中心まで白くなっています」
残り十九分。
コメントには、脚を外したときの映像への反応が届き始める。
『残り三十四分、幽霊ちゃんが脚へ頷いた』
『切り口の液体は透明』
『左手を使わなかったのはよかった』
『石片もう欠けてる』
『胴体はまだ開けるな』
『安全確定じゃない。最初はほんの少し』
自分で決めたことと、大きくは違わない。
多数の意見が同じだから正しい、とは限らない。
だが、理由のある注意が、自分の見落としを減らしてくれる。
「胴体は開けません。今日は、この脚だけにします」
恒一は火から殻を下ろした。
今度は、十分に冷めるまで待った。
白い肉を、欠けた石片の先で少しだけ押す。
透明な汁は出ない。
肉は簡単には崩れず、細い繊維に沿って裂けた。
恒一は爪の先ほどの量だけを、新しい葉へ取った。
大きく見積もっても、一口には足りない。
それ以上は取らなかった。
残り時間は、十六分二十秒。
「これから、少量だけ食べます」
水を手元へ置く。
「すぐに出る痺れ、喉の違和感、吐き気や腹痛がないかを確認します。何も起きなくても、安全だと決めるつもりはありません」
地球側のコメント欄が、止める言葉と見守る言葉で埋まった。
『無理するな』
『でも食わないと先がない』
『本当に少しだけにしろ』
『水を飲める位置へ』
『幽霊ちゃんも肉を見てる』
恒一には、まだ届かない。
白い少女は、焚き火の向こう側に座るように浮かんでいた。
恒一の指先と、白い肉を交互に見ている。
恒一は肉を持ち上げた。
「……いただきます」
少女が、その口元を見つめる。
少し遅れて、白い唇が同じ形に動いた。
音はない。
意味も、まだ知らない。
それでも、恒一が食べる前に口にした短い言葉を、そのまま真似た。
恒一は肉を口へ入れた。
すぐには噛まない。
舌先へ触れさせる。
刺激はない。
苦味もない。
ゆっくり歯を立てる。
少し硬い。
噛むと細い繊維がほどけ、淡い甘さが広がった。
塩も、調味料もない。
地球の蟹と同じ味ではない。
それでも、赤い実の酸味とは違う。
四日ぶりに口へ入った、肉の味だった。
恒一は時間をかけて噛み、飲み込んだ。
すぐに次へ手を伸ばさない。
舌。
唇。
喉。
呼吸。
一つずつ確かめる。
「いまのところ、強い刺激はありません」
残り時間は十五分を切った。
食べた瞬間に地球側から送られた言葉が届くのは、LIVEが終わる直前になる。
それまでは、自分の身体を観察する。
◇
残り十二分。
舌の痺れはない。
喉も腫れていない。
呼吸は変わらない。
残り九分。
皮膚の痒みはない。
腹の奥には痛みではなく、もっと食べたいという空腹だけがある。
白い肉は、割れた殻の中に残っている。
手を伸ばせば、すぐに食べられる。
恒一は伸ばさない。
赤い実のときにも、時間を空けた。
空腹だからこそ、一口を一食に変えてはいけない。
残り七分。
十五分前の調理へ向けたコメントが届いた。
『湯気が出ても中心まで熱いとは限らない』
『割って白くなってるか見ろ』
『半透明なら戻せ』
『殻を割ったあと、もう一度熱を入れた方がいい』
『匂いがおかしかったらやめろ』
恒一は、火のそばへ戻した殻を見た。
「中心まで白くなったことを確認して、殻を開いたあとにも加熱しました。異臭は感じませんでした」
十五分前の問いへ、いまの結果を返す。
「ただ、火を通せば何でも安全になるとは考えていません」
残り五分。
身体に目立った変化はない。
同時視聴者数は、二十七人になっていた。
警告のあとに一人減った数字は、火がつく頃から少しずつ増えている。
初めから見ていた者。
昨日の戦いを見た者。
途中から、見慣れない調理を確かめに来た者。
誰がどこから来たのか、恒一には分からない。
それでも、二十七という数字が、いまも身体を支えている。
残り二分。
恒一は、火のそばへ細い枝を一本足した。
LIVEが終わったあとも、少なくとも一時間は身体の変化を待つ。
その間に火が消えない量だけを残す。
水と赤い実も、座ったまま届く場所へ置いた。
同時視聴者補正が切れたあとに、動き回らなくて済むようにする。
――残り時間 01:20。
コメントの流れが変わった。
十五分前。
恒一が白い肉を口へ入れた瞬間の言葉が、届き始める。
『食べた!』
『本当に食べた』
『どうだ?』
『痺れてないか』
『喉は大丈夫か』
『幽霊ちゃんも、いただきますしてた』
『うまいのか?』
恒一は、最後の一行を見た。
味を確かめた瞬間から、口にしないようにしていた答えだった。
食べられると決めつける言葉にはしたくない。
けれど、感じたことまで隠す必要はない。
「……おいしいです」
小さく息を吐く。
「少し硬くて、淡い甘さがあります。いまのところ、痺れや喉の異常はありません」
残り四十秒。
「ただ、いまは一口で止めます。LIVEが終わってからも時間を置きます」
コメント欄には、まだ食べる直前の恒一へ送られた言葉も混じっている。
『本当に少しだけにしろ』
『焦るな』
『火を消すなよ』
『ポチ、初めての飯だ』
残り二十秒。
恒一は赤い点へ向けて頭を下げた。
「火を起こせました。食べられる可能性のあるものも、一口だけ確認できました」
残り十秒。
「まだ安全だとは言えません」
残り七秒。
「でも、昨日より一歩前です」
残り三秒。
「今日も、ありがとうございました」
残り時間がゼロになる。
赤い点が消えた。
同時視聴者数。
音声メーター。
流れ続けていたコメント。
すべてが視界から消え、灰色のRECへ戻る。
同時に、身体へ重さが落ちた。
「っ……」
恒一はその場へ座り込み、右手を地面についた。
左腕。
肩。
脇腹。
火起こしで使った場所が、一斉に痛み始める。
それでも、目の前の炎は消えなかった。
LIVEが終わっても、石の囲いの中で橙色の光が揺れている。
恒一は水を一口飲んだ。
割れた殻の中に残る白い肉へは、まだ手を伸ばさない。
◇
一時間。
恒一は火の前で待った。
舌の痺れ。
喉の腫れ。
息苦しさ。
吐き気。
腹痛。
自分で確かめられる変化を、何度も見直す。
目立った異常はなかった。
だから安全だとは言えない。
すぐに現れない毒もある。
量が増えれば出る異常もあるかもしれない。
それでも、最初の一口を飲み込んだ身体は、いまも動いている。
恒一は灰色のRECへ向けて報告した。
「試食から一時間。いまのところ、痺れ、呼吸の異常、吐き気、腹痛はありません」
殻の中から、最初より少しだけ大きな肉を取る。
「もう少しだけ食べます」
今度も、ゆっくり噛んだ。
淡い甘さ。
噛むたびにほどける繊維。
空腹へ流れ込んだ温かさが、腹の奥へ落ちていく。
一節分を、時間をかけて食べた。
満腹には遠い。
けれど、水と赤い実だけで過ごした四日間にはなかった重さが、確かに身体へ入った。
残った肉は殻へ戻し、火から離した位置で熱と煙へ当てる。
これで明日まで保つ保証はない。
胴体の方も、まだ食べられるとは決めていない。
石片は欠けた。
魚を捕まえる道具もない。
できていないことは、まだいくつも残っている。
それでも、今日は火がある。
白い少女は、焚き火の向こう側から恒一を見つめていた。
彼が二度目の肉を食べ終えると、安心したように青白い瞳を細める。
そのあと、日陰へ戻した甲殻の獣へ向かった。
細い指先から水が広がり、硬い甲羅をもう一度薄く包む。
恒一には、その姿は見えない。
ただ、火へ枝を一本足し、暗くなった森の中で揺れる光を見つめていた。
四日目に倒した怪物は、五日目の夜になって、ようやく食事へ変わった。
LIVEの赤い点は、もう消えている。
それでも、その夜の『ポチの小屋』から、光は消えなかった。




