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第7話 食べるために森へ

挿絵(By みてみん)

 この世界で迎える四度目の朝。


 恒一は目を覚ましても、すぐには身体を起こさなかった。


 仮小屋の低い屋根を見上げたまま、口の中を確かめる。


 舌の痺れはない。


 喉も腫れていない。


 腹の奥には相変わらず空腹が居座っているが、昨日までになかった痛みや吐き気は感じなかった。


 昨日、一粒だけ食べた赤い実。


 夜を越えても、目立った異常は出ていない。


「……大丈夫そうだな」


 灰色のRECへ向けて、朝一番の報告を残す。


「異世界生活、四日目です。昨日食べた赤い実による異常は、今のところありません」


 上体を起こす。


 立ち眩みは、昨日の朝より軽かった。


 空腹に慣れたわけではない。


 昨日の一粒が、わずかでも身体へ入ったからか。


 配信レベルが上がったときに知らされた、チャンネル登録者補正が身体を支えているからか。


 今の恒一には区別できなかった。


 葉の包みを開く。


 残っている赤い実は六粒。


 皮に目立った変色はなく、腐った匂いもしない。


 一粒を水で洗い、昨日と同じように少しずつ噛んだ。


 酸味。


 そのあとに残る、わずかな甘さ。


 身体が味を覚えていた。


 もっと食べろと、空腹が急に強くなる。


 恒一は一粒を食べ終えると、葉を閉じた。


「これで一時間待ちます」


 一時間後。


 腹痛も、吐き気もない。


 二粒目を食べた。


 さらに時間を空け、昼前に三粒目。


 残り三粒は、探索中に動けなくなったときのために取っておく。


 三粒の実で、腹が満たされたとは言えない。


 それでも、水だけで動いていた昨日までとは違う。


 身体の中心にあった空洞が、ほんの少しだけ狭くなっていた。


     ◇


 LIVEまでの時間を、恒一は準備へ使った。


 最初に直したのは、足だった。


 左足側の樹皮は、歩くたびに亀裂が広がっている。


 新しい樹皮を重ね、乾いた葉を内側へ挟み、蔓を足首だけでなく踵にも回した。


 地球にいた頃の靴とは比べるまでもない。


 それでも、昨日よりずれにくくはなった。


 次に、杖。


 四つの目を持つ獣に折られた枝は、地面を探るには使えても、相手との距離を保つには短すぎる。


 仮小屋の近くで、自分の背丈に近い長さの落ち枝を見つけた。


 枝分かれが少なく、片手でしっかり握れる太さがある。


 表面は乾き、手で押した程度では撓まなかった。


 横へ残った細い枝をすべて足で踏んで折り、節と尖った部分を石へ擦りつける。


 両端のささくれも削り落とした。


 出来上がったのは、少し太く、長い一本の木の棒だった。


 前の枝より重い。


 その代わり、簡単には折れそうになかった。


 先は尖らせない。


 槍を作る道具も、それを扱う技術もない。


 だが、腕より先へ相手を近づけないための長さはある。


 恒一は両手で持ち、正面へ突き出した。


 右足を半歩引く。


 杖の先を動かさないまま、前へ一歩。


 後ろへ一歩。


 動きはぎこちなかった。


 どちらの足を先に動かせばいいのかさえ、考えなければ決まらない。


「練習しただけで強くなるなら、苦労しないよな」


 それでも、何も試さず森へ出るよりはいい。


 左腕の傷へ強く力を入れると、まだ痛みが走る。


 杖は右手を前にし、左手は支えるだけにする。


 次は持ち物。


 拳より少し小さい石を三つ。


 帰路の目印に使う白い石を十個。


 残った赤い実を包んだ葉。


 肩から下げる葉の器には、水を入れた。


 白い石はスウェットの左ポケット。


 投げる石は右。


 赤い実は潰れないよう、幅の広い葉へ包み直して腰の蔓へ挟む。


 両手は空ける。


 走ることになれば、水は捨てる。


 食料も、石も。


 最後まで持つのは杖だけ。


「目的は、毎日確保できる食べ物を見つけること」


 一つずつ、RECへ残す。


「戦うことじゃない。川の上流側だけを見ます。残り二十分で引き返す。危険を感じた場合は、その時点で探索を終えます」


 声に出すのは、記録のためだけではない。


 何かを見つけたとき、欲を出さないためだった。


 魚を見つけても、追いすぎない。


 食べられそうなものが対岸にあっても、川を渡らない。


 獣の痕跡があれば、調べるより先に離れる。


 決めたことを、危険な場所で変えない。


 白い少女は、少し離れた場所から恒一の準備を見守っていた。


 新しい杖を振れば、地面近くまで伸びた髪の先がわずかに揺れる。


 石を左右のポケットへ分ければ、少女もその手元を目で追う。


 恒一が誰もいない場所へ向けて何度も予定を口にしても、もう不思議そうにはしなかった。


 決まった頃合いに始まる、恒一の何か。


 今日は、その前に外へ出る支度をしている。


 言葉の意味は分からなくても、いつもと違う長い杖や腰の荷物から、それだけは感じ取ったのかもしれない。


 少女は一度、川へ続く方向を見た。


     ◇


 木々の影が長くなり始めた頃。


 NEXT LIVEの数字が、一分を切った。


 森はまだ歩ける明るさを残している。


 だが、一時間後には日が沈んでいるはずだった。


 残り二十分で引き返すという約束は、同時視聴者補正が切れる前に戻るためだけではない。


 帰路に残る光を使い切らないためでもあった。


 恒一は仮小屋の入口へ座る。


 足元。


 蔓は緩んでいない。


 水。


 葉の器からは少しずつ漏れているが、往復する間は持つはずだ。


 石。


 杖。


 帰り道。


 一つずつ確認する。


 すぐには出発しない。


 最初の十五分は、ここで返事を待つ。


 昨日の配信が終わったあと、自分で決めたことだった。


 ――00:00:03。


 ――00:00:02。


 ――00:00:01。


 灰色のRECが消えた。


 視界の右上へ、赤い点が灯る。


 ――LIVE。


 ――残り時間 59:59。


 同時視聴者数は、ゼロから始まった。


 四人。


 九人。


 十二人。


 昨日の最後に見た十三人へ届き、少し遅れて十四人になる。


 身体の重さが、薄い膜を一枚脱いだように軽くなった。


 杖を握る右手に力が入る。


 空腹は消えない。


 だが、歩き出すための余裕は生まれた。


「こんばんは。ポチです」


 恒一は赤い点へ向けて挨拶した。


「異世界生活、四日目。今日も生きています」


 地球側の配信ページでは、待っていたコメントが一斉に流れ始めた。


『始まった』


『ポチ生存確認』


『待って、残り五十九分?』


『一時間になってる!?』


『昨日まで三十分だったよな』


『配信時間伸びた!』


『聞こえてる』


『今日こそコメント届くのか』


『幽霊ちゃんもいる』


 恒一の視界では、音声メーターの下にある空白だけが動かなかった。


 分かっていた。


 開始直後に送られた言葉が届くのは、十五分後だ。


「昨日食べた赤い実は、夜を越えても異常がありませんでした。今朝から時間を空けて三粒食べています。そちらも、今のところ問題ありません」


 残りの三粒を包んだ葉を映す。


「今日は予定どおり、川の上流側を調べます」


 新しい杖。


 水。


 左右のポケットへ分けた石。


 足元の簡易靴。


 準備したものを順に見せる。


「残り二十分で引き返します。危険を感じた場合は、その時点で探索を終えます」


 地球側からは、すぐに意見が返った。


『目印を増やせ』


『水場まで五分なら往復分を先に引け』


『苔と濡れた石に気をつけろ』


『戦うためじゃなく、食べるために行くんだぞ』


『白い子もついていく気だ』


 文字は送られている。


 ただ、まだ森へ届いていない。


 恒一は残り時間を確かめた。


 ――56:48。


「今日のLIVE可能時間は、一時間です。昨日までの三十分から、倍に増えています」


「コメント受信遅延は、昨日まで三十分でした。今日から十五分へ短くなったと表示されています」


 地球側では、二つの変化へ驚きと期待が重なっていた。


『把握した』


『遅延も半分!?』


『時間は倍で、遅延は半分』


『十五分なら返事が間に合う』


『やっと会話できるかもしれない』


 もちろん、その驚きも期待も、恒一へ届くのは十五分後だった。


 一度、何もない欄を見る。


「僕の声が聞こえているなら、短く『聞こえてる』と送ってください」


 第一話の夜から、何度も口にしてきた問い。


「開始直後から送ってくれていれば、残り四十五分になった頃に届くはずです」


 地球側のコメント欄が、同じ言葉で埋まった。


『聞こえてる』


『聞こえてる』


『最初から聞こえてる』


『ずっと聞こえてた』


『ポチ、こっちは答えてる』


 恒一には、まだ見えない。


 返事がない時間は、昨日までと同じだった。


 けれど、意味は違う。


 沈黙ではない。


 いまも言葉が、十五分の隔たりを進んでいる。


 恒一は仮小屋の入口へ座ったまま、水を一口飲んだ。


 残り五十二分。


 残り五十分。


 十四という数字は、一人増えて十五になった。


 赤い点も消えない。


 白い少女は、恒一の正面に浮かんでいた。


 いつもなら赤い点へ話しかけながら動き始める恒一が、今日は入口から離れない。


 少女は何度か川の方向を見たあと、彼と同じようにその場で待った。


 残り四十六分。


 恒一の視線が、何度も空白へ向かう。


 あと一分。


 分かっていても、呼吸が浅くなった。


 ――残り時間 45:05。


 ――45:04。


 ――45:03。


 ――45:02。


 ――45:01。


 音声メーターの下へ、初めて文字が現れた。


『始まった』


 恒一は動かなかった。


 文字が消える前に、次の一行が重なる。


『ポチ生存確認』


『待って、残り五十九分?』


『一時間になってる!?』


『聞こえてる』


『今日こそコメント届くのか』


『聞こえてるよ、ポチ』


挿絵(By みてみん)


 読むために用意していた言葉が、何も出てこなかった。


 空白だった場所を、白い文字が流れていく。


 第一話の夜。


 目を覚ました森で、自分がどこにいるのか尋ねた。


 獣に襲われたあと、何が映っていたのか尋ねた。


 食べられるものを知らないかと尋ねた。


 返事はなかったのではない。


 見る前に、配信が終わっていただけだった。


「……届いた」


 声が掠れた。


『聞こえてる』


『最初から聞こえてる』


『ずっと答えてた』


『一人で喋ってたんじゃないぞ』


 恒一は口元へ手を当てた。


 笑ったのか、息を詰まらせたのか、自分でも分からなかった。


 目の奥が熱くなる。


「初めて……読めました」


 流れる文字へ、深く頭を下げる。


「ありがとうございます。ずっと、答えてくれていたんですね」


 地球側では、その声が遅れることなく届いた。


『読めた!』


『返事した』


『やっと会話になった』


『泣くな、こっちも泣く』


『お前の声は最初から届いてた』


 その反応が恒一へ戻るのは、さらに十五分後だった。


 問いかけて、答えを受け取るまでに十五分。


 その答えへ返し、さらに反応を読むまで、もう十五分。


 声が一往復したことを互いに確かめるには、三十分かかる。


 完全な会話には遠い。


 それでも、声は初めて往復を始めた。


 流れる文字の中へ、違う内容が混じる。


『ポチの右に白い女の子がいる』


『ずっと近くにいる』


『こっちでは幽霊ちゃんって呼ばれてる』


『赤い実へ頷いてた』


『傷の布が濡れるのも、たぶんその子』


 右を向こうとする反射を、首が動く前に止めた。


 外から見れば、何も読まなかったように姿勢は変わっていない。


 目線も、コメント欄から大きく外さない。


 白い髪の少女。


 ずっと近くにいる。


 赤い実へ頷いた。


 夜ごと不自然に濡れていた、左腕の布。


 いくつかの情報が、一度に繋がりかける。


 だが、この文字が書かれたのは十五分前だ。


 今も右側にいるとは限らない。


 それ以上に、自分からは見えない存在が、すぐそばにいる。


 相手が自分を助けているように見えたとしても、正体は分からない。


 存在を把握したと悟らせて、どう反応するかも分からなかった。


 見えていないふりを続けた方がいい。


 少なくとも、情報が増えるまでは。


 白い少女は、今は恒一の左側にいた。


 恒一が右を向かなかったことにも、自分の存在を知られたことにも気づかない。


 初めて流れ始めた文字を追う恒一の顔を、不思議そうに覗き込んでいる。


「いま僕が読んでいるのは、配信開始直後に送られたコメントです」


 少女のことには触れず、配信全体へ向けて告げる。


「僕の声は、そちらへすぐ届いているようですね。でも、皆さんの返事が僕へ届くのは十五分後です」


 危険を知らせる言葉が見えたときには、その危険がもう目の前にいるかもしれない。


「移動中は、すべてのコメントを追えません。危険なもの、食べられそうなもの、僕が見落としたものは、見つけた時点の残り時間と場所を添えてください」


 コメントは警報ではない。


 十五分前の自分を、あとから振り返る記録として使う。


「最初の返事は受け取れました。予定どおり、これから川の上流へ向かいます」


 残り時間は、四十二分を少し切っている。


 恒一は立ち上がった。


 一度、仮小屋を振り返る。


 低い屋根。


 大木の根。


 入口の外へ撒いた枯れ枝。


 戻る場所を目へ焼きつける。


「では、行ってきます」


 地球側には、すぐに声が届いた。


『いってらっしゃい』


『絶対戻れよ』


『残り四十二分、出発』


『幽霊ちゃんもついていった』


『今日は一人じゃないぞ』


 その返事が届くのは十五分後。


 恒一は、白い石の道へ足を踏み出した。


     ◇


 仮小屋から川までは、五分ほど。


 何度も往復した道でも、LIVE中に歩くのは初めてだった。


 恒一は急がない。


 杖で落ち葉の下を確かめ、一歩ずつ進む。


 目印の白い石が見えたら、次の石がどこにあるかを先に探す。


 背後を振り返り、戻る方向からも同じ石が見えることを確認する。


「残り四十分。仮小屋から三つ目の目印です」


 重要な場所と時刻を、自分から声に出す。


 十五分後に届くコメントが、どの場面へのものか分かるようにするためだった。


 赤い実の低木を通る。


 橙色の鳥は、今日は来ていない。


 実はまだ残っている。


 恒一は採らなかった。


「残り三十九分。赤い実の低木。昨日置いた石も残っています」


 白い少女が低木の前で一度止まる。


 恒一が実を取らずに通り過ぎると、小さく首を傾げてから、その後ろを追った。


 零れた水滴が恒一の肩から落ちる。


 地面へ届く前に、少女の指先がわずかに動いた。


 水滴は細い糸のように宙を戻り、葉の器へ吸い込まれていく。


 恒一は気づかない。


 昨日より漏れが少ないのは、蔓の巻き方を変えたからだと思っていた。


 川の音が近づく。


 残り三十七分。


 恒一は木の陰から岸辺を見た。


 すぐには下りない。


 対岸。


 上流。


 下流。


 最後に、頭上の枝。


 動くものは見当たらない。


 四つの目を持つ獣が引きずられていった跡は、さらに薄くなっている。


 新しい大きな足跡もない。


「川へ着きました。残り三十七分です」


 岸へ下り、水を一口飲む。


 葉の器へも足した。


 ここから先は、まだ一度も歩いていない。


 恒一は川を右手側に置き、同じ岸のまま上流へ進んだ。


 白い石を一つ、岸辺の目立つ根へ置く。


 新しい道の最初の目印。


     ◇


 上流へ進むにつれ、川幅は少しずつ狭くなった。


 流れの中央に、丸い石が増えていく。


 水面から突き出た石には、濃い緑色の苔が張りついている。


 岸辺も平らではない。


 太い根を越えるたびに川へ近づき、次の瞬間には斜面へ押し戻される。


 恒一は歩きやすい場所だけを選ばなかった。


 通った場所が帰りにも使えるか。


 振り返ったとき、目印が見えるか。


 その二つを確かめながら進む。


 残り三十四分。


 倒れた木が、川の半分ほどまで伸びていた。


 根元で流れが堰き止められ、その手前だけ水深が増している。


 水は澄んでいた。


 川底の白い石まで見える。


 その石の影で、細い光が動いた。


 恒一は足を止める。


 もう一度。


 銀色の身体。


 透けるような青い鰭。


 手のひらより少し長いものが一匹。


 二匹。


 倒木の影から、さらに三匹が現れた。


「魚……」


 声を落とし、岸へしゃがむ。


 近づきすぎると、銀色の影は一斉に深い場所へ沈んだ。


 しばらく動かずにいると、一匹だけが石の陰から戻ってくる。


「残り三十四分。倒木の手前に、魚が少なくとも五匹います」


 地球側のコメント欄が沸いた。


『魚だ』


『食料源きた』


『青いヒレがある』


『手づかみは無理そう』


『罠か釣りが必要だな』


『水の中へ入るなよ』


 恒一へ届くのは、十五分後。


 それでも、魚がいるという事実だけは、自分の目で確認できた。


 枝で水を掻き回すことはしない。


 捕まえる方法もないまま追えば、魚を散らし、自分が濡れるだけだ。


 川の中に何がいるかも分からない。


「今日は場所の確認だけにします」


 白い石を二つ、岸の根元へ並べる。


 一つでは帰路の目印と区別がつかない。


 二つ並んだ場所を、魚のいる淵の印にする。


「毎日ここにいるとは限りません。捕まえる道具も、焼くための火もない。食べ物を見つけることと、食べられる状態にすることは別ですね」


 最初の成果。


 それだけで引き返してもよかった。


 残り時間は、まだ三十分以上ある。


 予定どおりなら、あと十数分は上流を確かめられる。


 恒一が立ち上がったところで、コメントの流れが変わった。


 残り三十分。


 十五分前。


 初めて文字が届き、恒一が「読めました」と返した頃の反応が現れ始める。


『読めた!』


『返事した』


『ちゃんと会話になってる』


『泣くな、こっちも泣く』


『お前の声は最初から届いてた』


 恒一は、安全な根元へ立ったまま文字を見つめた。


 自分の返事を聞いた者たちが、もう一度返している。


 最初のコメントが送られてから、ここまで三十分。


「これで、一往復ですね」


 今度は少しだけ笑えた。


「時間はかかります。でも、会話になっています」


 地球側には、その声もすぐに届く。


 恒一の視界には、十五分前の反応が流れ続ける。


『十五分で合ってる』


『今送ったものを、ポチが読むのは十五分後』


『声はすぐ聞こえる』


『危険の警告には間に合わない』


『今の返事への反応は、残り三十分頃に届く』


「はい。その理解で合っています」


 届いた確認へ答える。


「いま魚のいる場所にいます。ここから、もう少しだけ上流を見ます」


 立ち止まりすぎない。


 周囲をもう一度確かめ、倒木から先へ進んだ。


 魚のいる淵を背にして一分ほど。


 岸は狭くなっていた。


 右側は川。


 左側には、湿った斜面と太い根。


 川沿いに進める幅は、人一人が通れる程度しかない。


 土の上には、平行に走る細い筋が何本も残っていた。


 水が引いた跡にも見える。


 細い枝を引きずった跡にも見える。


 恒一はしゃがまず、杖の先で筋の一つをなぞった。


「新しい跡かどうかは分かりません」


 追わない。


 筋の先は、川下側の崩れた岸へ続いている。


 恒一はその場所から離れ、乾いた砂利の上へ白い石を置いた。


 そのとき。


 白い少女が止まった。


 恒一より先に、川下へ顔を向ける。


 青白い瞳が、崩れた岸の暗がりを見つめた。


 水を編んだような衣の裾が、流れとは逆の方向へ揺れる。


 地球側の視聴者が、一斉に気づいた。


『残り二十九分、幽霊ちゃんが止まった』


『ポチ、後ろ』


『崩れた岸のところ』


『土が動いた』


『川下側』


挿絵(By みてみん)


 その警告は、恒一には届かない。


 彼の視界へ流れているのは、初めて返事を受け取った頃のコメントだった。


『ずっと聞こえてた』


『一人じゃないぞ』


『今日は一緒に歩ける』


 穏やかな十五分前の言葉。


 その下で、湿った土を擦る音がした。


 恒一が振り返る。


 崩れた岸の一部が、持ち上がっていた。


 土ではない。


 濃い緑と黒がまだらになった、硬い甲羅。


 土を落としながら、六本の脚が現れる。


 胴は大型の猫ほど。


 背は恒一の膝より低い。


 前の二本だけが太く、先端は鋏というより、内側へ曲がった鉤に近かった。


 平たい甲羅の下。


 小さな黒い目が二つ、恒一を捉える。


「……今度は、そっちか」


 甲殻の獣は、恒一と下流側の道の間にいた。


 魚の淵。


 川へ来た道。


 仮小屋。


 帰るには、あれの横を通らなければならない。


 恒一は杖を正面へ向けたまま、上流側へ一歩下がった。


 獣の脚が、砂利を掻く。


 横向きの身体が、恒一の動きへ合わせて滑った。


 速い。


 見た目の重さに反し、六本の脚はほとんど音を立てずに位置を変えた。


「戦うつもりはありません」


 通じるとは思っていない。


 声に出すことで、自分へ確認する。


 恒一は右ポケットから石を一つ取り出した。


 獣ではなく、その下流側。


 離れた川面へ投げる。


 石が水を叩いた。


 甲殻の獣の目だけが、音の方へ動く。


 身体は退かなかった。


 恒一へ向けた二本の鉤が、ゆっくり持ち上がる。


 威嚇なのか。


 攻撃の前触れなのか。


 判断する前に、獣が地面を蹴った。


     ◇


 正面ではない。


 横へ滑るように距離を詰めてくる。


 恒一は杖を両手で突き出した。


 鈍い先端が、右側の鉤の内側へ当たる。


 硬いもの同士がぶつかる音。


 衝撃が腕まで走った。


 左腕の傷が痛む。


 それでも、鉤は身体へ届かなかった。


 杖一本分。


 その距離がなければ、最初の一撃で脚を掴まれていた。


 甲殻の獣が杖を弾く。


 恒一は腕の力だけで押し返そうとせず、二歩下がった。


 頭の中で、間合いを測る。


 杖の先。


 鉤の先。


 獣が一度に滑れる距離。


 四つの目を持つ獣ほど大きくない。


 牙もない。


 だから安全だとは思わない。


 鉤に足首を挟まれ、転ばされた時点で終わる。


 恒一は杖を横へ振った。


 先端が甲羅へ当たる。


 鈍い音が返っただけだった。


 傷らしいものはつかない。


「上は無理か」


 獣がもう一度、横へ走る。


 恒一は下がった。


 右足の樹皮が、緑色の苔を踏んだ。


 足裏が滑る。


 腰が落ちた。


 視界が大きく傾く。


 鉤がスウェットの右裾を掠め、布を裂いた。


 遅れて、脛へ細い熱が走る。


「っ……!」


 地面へ左手をつきかけ、傷を思い出して肘で受ける。


 甲殻の獣は、そのまま通り過ぎない。


 六本の脚を細かく動かし、すぐに向きを変える。


 恒一は転がるようにして、苔のない砂利へ膝を移した。


 立ち上がる前に杖を正面へ出す。


 鉤が、その先を挟んだ。


 木が低く軋む。


 だが、折れない。


 獣の力で、杖ごと身体が引かれた。


 恒一は握り続けなかった。


 左手を離す。


 右手も一度緩める。


 杖を奪われまいと力比べをすれば、前へ引き倒される。


 獣が挟んだ杖を引いた瞬間、恒一は横へ回った。


 乾いた砂利を踏む。


 今度は滑らない。


 杖の後端を両手で押し下げる。


 鉤に挟まれた先端が滑り、甲羅の縁へ潜り込んだ。


 てこのように、片側がわずかに浮く。


 甲殻の獣の脚が激しく動いた。


 恒一の腕だけでは持ち上がらない。


 だが、獣自身が杖を挟み、横へ走ろうとしている。


 その力の向きを変える。


 恒一は杖を離さず、右足を太い根へ当てた。


「そっちへ……行け」


 獣が再び地面を蹴る。


 杖の先を支点に、甲羅が傾いた。


 六本の脚が片側だけ宙へ浮く。


 恒一は全身で杖を押した。


挿絵(By みてみん)


 重い。


 腕が震える。


 それでも、LIVEが始まる前の身体なら止まっていた位置を、もう一歩だけ押し込めた。


 甲羅が根へ当たる。


 獣の勢いが逃げ場を失う。


 次の瞬間、硬い身体が横へ返った。


 白く柔らかそうな腹が上を向く。


 六本の脚が空を掻いた。


 恒一は杖を引き抜き、大きく下がった。


 逃げ道が開いた。


 いま横を抜ければ、下流へ戻れる。


 そう思ったとき、甲殻の獣の脚が地面の根を捉えた。


 身体がゆっくり起き上がり始める。


 このまま背を向ければ、すぐに追いつかれる。


 足場の悪い道で、荷物を持った自分が逃げ切れる保証はない。


 恒一は右ポケットへ手を入れた。


 二つ目の石。


 拳ほどの重さを、右手で握る。


 甲羅の上へ落としても意味がない。


 柔らかい腹。


 頭があると思われる、二つの目の下。


 恒一は一歩近づいた。


 脚の一本が伸びる。


 届かない位置から、石を振り下ろした。


 湿った音がした。


 獣の全身が跳ねる。


 恒一は下がらない。


 もう一度。


 鉤が空を切る。


 三度目。


 六本の脚が、ばらばらに震えた。


 それでも、すぐには近づかなかった。


 杖の長さを保ち、腹の中央を押す。


 反応はない。


 鉤へ先端を当てる。


 動かない。


 恒一は息を殺し、川下と斜面を見回した。


 ほかに同じものがいないか。


 血や音へ寄ってくる獣がいないか。


 森の音を聞く。


 水。


 葉。


 自分の荒い呼吸。


 それ以外は、まだない。


 視界の残り時間は二十七分を少し切っていた。


 同時視聴者数は、十九人まで増えている。


 数分しか経っていない。


 身体の中では、最初の夜と同じくらい長い時間が過ぎたように感じた。


「……終わった、と思います」


 恒一は赤い点へ向けて告げた。


 声が震えている。


 地球側では、戦いの最初からコメントが途切れていなかった。


『杖の距離を保て』


『苔を踏むな』


『上は硬い、腹だ』


『逃げ道開いた』


『まだ動いてる』


『終わってない、近づくな』


『周りも見ろ』


『幽霊ちゃんがずっと前に出てる』


 恒一へ届くのは、十五分後。


 白い少女は、倒れた甲殻の獣と恒一の間に浮かんでいた。


 戦いが始まる前から、何度も恒一へ手を伸ばしていた。


 けれど、その声も姿も彼には届かない。


 少女は裂けたスウェットの裾へ視線を落とした。


 脛には、鉤で擦られた浅い傷が一本走っている。


 細い指先から、水の糸が伸びた。


 冷たいものが傷へ触れる。


 恒一の右脚が、わずかに強張った。


 今朝までなら、川の飛沫がかかったのだと考えていた。


 いまは違う。


 自分には見えない白い少女が、すぐ近くにいる。


 傷の布を濡らしていたのも、その少女かもしれない。


 恒一は視線を下へ向けなかった。


 冷たさへ反応したと悟らせない。


 水は痛みを薄め、すぐに消えた。


     ◇


 逃げるべきだった。


 危険を感じた時点で探索を終える。


 自分で決めた規則だ。


 恒一は、来た道を見た。


 帰路は開いている。


 残り時間は二十六分。


 予定より六分早い。


「ここで引き返します」


 杖を握り直す。


 甲殻の獣を置いていくなら、すぐにでも戻れる。


 だが、それを見下ろした瞬間、腹が強く縮んだ。


 硬い甲羅。


 水辺に棲む姿。


 地球の蟹や海老を思わせる姿。


 だからといって、食べられる保証はなかった。


 毒を持っているかもしれない。


 殻の内側に、そもそも肉があるかも分からない。


 それでも、ここへ来た目的は食料だった。


 魚を見つけただけでは、今日の空腹は満たせない。


 目の前には、自分を襲い、自分が倒した生き物がいる。


「持ち帰ります。ただし、食べられるとは判断しません」


 近くに生えている蔓を杖で確かめる。


 毒々しい色はない。


 同じ場所を何度も折り曲げ、繊維が裂けたところを捻り切る。


 切れ目から液体も出ない。


 素手で引いて強度を確かめ、甲殻の獣の鉤と脚をまとめる。


 何度も動かないことを確かめてから、幅の広い葉を甲羅へ巻いた。


 蔓を輪にし、右肩へ掛ける。


 持ち上げる。


「重っ……」


 想像より重い。


 抱えられない重さではない。


 だが、片側へ重さが寄り、歩くたび甲羅が脚へ当たる。


 LIVE中の今なら運べる。


 補正が切れたあと、同じ距離を運べるとは思わない。


 恒一は結び目を直し、杖を右手へ戻した。


「獲物を優先して帰りが遅れるなら、途中で捨てます」


 食料候補より、自分の命。


 そこだけは変えない。


 白い少女は、葉に包まれた甲殻の獣を覗き込んだ。


 一度、匂いを確かめるように顔を近づける。


 それから、小さく頷いた。


 地球側のコメント欄に、その反応が記録される。


『残り二十五分、幽霊ちゃんが獲物を見て頷いた』


『赤い実のときと同じ反応』


『たぶん食える』


『でも火も刃物もないぞ』


『今はとにかく戻れ』


 恒一へ届くのは、帰り着く頃だった。


     ◇


 帰り道では、来たとき以上に足元へ時間を使った。


 右肩の重さ。


 脛の傷。


 戦いで強く握り続けたせいで、右手の指も震えている。


 同時視聴者補正があっても、疲労が消えるわけではない。


 むしろ、動けるからこそ限界を見落としやすい。


 恒一は一つ目の白い石で止まった。


 呼吸を三回。


 背後を確認。


 次の目印。


 歩く。


 いつもの水場へ着いたとき、残り時間は二十一分を少し切っていた。


 恒一は水を飲まなかった。


 肩から下げた器には、まだ少し残っている。


 川へ近づくより、拠点へ戻ることを優先する。


 ここから仮小屋までは五分ほど。


 平常なら。


 今日は、右肩に甲殻の獣がある。


 恒一は一度だけ荷物を地面へ置き、蔓を結び直した。


「残り二十分。水場です。もう帰路へ入っています。このまま小屋へ戻ります」


 予定では、ここから引き返す時刻だった。


 実際には、危険に遭った時点で予定より早く帰路へ入っている。


 獲物を結ぶために時間を使ったことは、次の反省に残る。


 それでも、帰るための時間はまだ残っている。


 恒一は右肩へもう一度蔓を掛け、白い石の道を進んだ。


 木々の間に残る光は薄くなり、足元では青白い草が目立ち始めている。


 残り十九分。


 コメント欄には、魚のいる淵を見つけた頃の言葉が届き始めた。


『魚だ』


『少なくとも五匹』


『水の中へ入るなよ』


『手づかみより罠が必要』


『残り三十四分、倒木の手前に魚』


 恒一は肩の荷物を支えながら頷いた。


「魚のいる場所には、白い石を二つ並べました。今日は捕りません」


『青いヒレ、地球の魚とは一致しない』


『食えるかはまだ分からない』


『罠を作るなら流れを塞ぐな』


 終わった場面について、違う目で見た情報が届く。


 すぐに役立つ答えではない。


 だが、次に道具を作るときの材料にはなる。


 いくつかの白い石を越えた。


     ◇


 大木の根が見えた。


 仮小屋。


 残り十五分二十秒。


「戻りました」


 入口へ着いた瞬間、膝から力が抜けそうになる。


 恒一は踏みとどまり、先に右肩の荷物を下ろした。


 甲殻の獣は、枯れ枝の警戒線より外側へ置く。


 寝床へ近づけない。


 血や匂いで、別の獣を呼ぶ可能性がある。


 近くの太い根へ蔓を回し、持ち去られにくいよう結んだ。


 最初の夜に倒した獣の死骸は、朝になる前に消えていた。


 同じことが起きるかもしれない。


 だからといって、小屋の中へ入れる方が危険だった。


 地球側では、戻った恒一の姿を見てコメントが一斉に送られた。


『小屋見えた』


『戻った』


『おかえり』


『生きて帰った』


『ポチ、おかえり』


 その言葉は、十五分をかけて森へ向かい始める。


 残り十四分。


 コメントの内容が変わった。


『残り二十九分、幽霊ちゃんが止まった』


『白い子が先に川下を見てる』


『崩れた岸の土が動いた』


『ポチ、後ろ』


『甲羅みたいなのが出てきた』


『逃げろ』


 十五分前の警告。


 もう、甲殻の獣は枯れ枝の外へ下ろされている。


「いま届いているのは、戦闘が始まる直前のコメントです」


 声を整えようとしても、呼吸の荒さまでは隠せない。


「警告は間に合いませんでした。戦闘は終わっています。右脚に浅い傷がありますが、歩けます。いまは、すでに小屋へ戻っています」


 地球側では、十五分前の警告へ恒一が返す声も、その場で聞こえていた。


『やっぱり警告は間に合わなかった』


『届く頃にはもう小屋にいる』


『十五分が長すぎる』


『緊急用には使えないな』


『でも見落としの確認には使える』


『反省会なら間に合う』


 その確認への返事が届くのは、LIVEが終わったあとになる。


 流れる文字の中で、恒一は同じ内容を何度か見つけた。


 白い少女が、自分より先に異変へ気づいた。


 崩れた岸が動くより前から、そちらを見ていた。


 恒一は、少女の位置を確かめなかった。


 名前も口にしない。


 ただ、情報だけを覚える。


 食べ物の良し悪しだけではない。


 少女は、森の危険にも自分より早く気づく可能性がある。


 それが好意によるものか。


 この森の生き物を知っているからなのか。


 まだ決めつけることはできない。


 だが、昨夜より一つ、彼女について分かったことが増えた。


 恒一は杖の先で甲羅を押した。


 反応はない。


 表側に大きな割れもない。


 腹側には石で打った跡がある。


 中身を確かめるには、殻を割るか、隙間へ何かを差し込む必要がある。


 そのための刃物はない。


 食べるなら、火も必要だった。


「魚は見つけました」


 仮小屋の入口へ座り、息を整える。


「食べられる可能性のある獲物も、一体持ち帰りました」


 成果だけを並べれば、食料探索は成功に見える。


 だが、いま口へ入れられるものは、朝と同じ赤い実しかない。


「でも、どちらもまだ食料にはなっていません」


 魚は捕まえられない。


 獲物は解体できない。


 生で食べるつもりもない。


「次に必要なのは、捕まえる方法と、切る道具と、火です」


 必要なものが、また増えた。


 それでも、昨日までとは違う。


 何が足りないかさえ分からなかった状態から、足りないものを数えられるところまで進んだ。


     ◇


 残り十三分。


 戦いの最中に送られたコメントが届き始めた。


『杖の距離を保て』


『そこ苔だ』


『足元!』


『上から叩いても効いてない』


『杖を挟まれた』


『引っ張り合うな』


『離したの正解』


『ひっくり返った』


 終わった戦いを、他人の目を通してもう一度見る。


 自分が何をしたのか。


 何を間違えたのか。


 戦っている最中には言葉にできなかったことが、短いコメントで形になっていく。


 杖の長さが、最初の鉤を止めた。


 甲羅の上を叩いても、何も起きなかった。


 濡れた苔を踏み、転びかけた。


 杖を奪われまいと力比べをしなかったことで、前へ倒されずに済んだ。


 硬い相手へ正面から力をぶつけるのではなく、地形と相手の動きを使った。


 できたことより、偶然うまくいったことの方が多い。


 次も同じように勝てる保証はなかった。


「足場を一度、見落としました」


 恒一は自分から言葉にする。


「杖の間合いは使えた。ただ、攻撃に使うより、近づけないための道具です。甲羅にはほとんど効きませんでした」


 右の簡易靴は、戦いで蔓が少し緩んでいる。


「倒したと思ったあと、すぐ近づかなかったのはよかった。周囲の確認も、次から先にします」


 一戦で、強くなったとは思わない。


 今日覚えたのは、濡れた場所へ立たないこと。


 杖の届く距離を失わないこと。


 動かなくなった相手へ、すぐ手を伸ばさないこと。


 その三つだけだった。


 それでいい。


 次に森へ出たとき、一つでも同じ失敗を減らせればいい。


 コメントは、十五分前の危険を止められなかった。


 けれど、戦いが終わったあとには、自分一人では見えなかった失敗を返してくれる。


 遅れて届くことにも、使い道はあった。


     ◇


 残り十一分。


 戦いの終わりに送られたコメントが届いた。


『動かなくても近づくな』


『周りを見ろ』


『同じのがいないか確認』


『右脚切れてる』


『幽霊ちゃんが傷に水を当てた』


『残り二十七分、白い子がポチの脚を見てる』


 恒一は、右の脛へ視線を落とした。


 スウェットの裾は裂けている。


 傷は浅い。


 血はすでに止まり、周囲の熱もほとんどない。


 戦いのあとに感じた、短い冷たさ。


 川の飛沫ではなかった。


 夜ごと濡れていた左腕の布。


 葉の器へ戻っていた水。


 そして、いまの右脚。


 白い少女が、水を使って自分を助けている可能性は高い。


 まだ断定はしない。


 だが、偶然として片づけるには、同じ方向を示す事実が増えすぎていた。


 恒一は周囲を見回さない。


 礼も言わない。


 コメントへ返事もしない。


 存在を知られたと少女が気づけば、今の関係がどう変わるか分からない。


 助けを当然のものとして求めるつもりもなかった。


 ただ、傷の周りについた砂を残りの水で流しながら、心の中へ一つだけ残す。


 ――助けられた。


 白い少女は、恒一の正面にいた。


 傷が深くないことを確かめたように、少しだけ肩を下ろす。


 恒一が顔を上げても、視線は少女を通り抜け、甲殻の獣へ向かった。


 少女は、自分の存在が知られたとは気づかなかった。


 そのまま獲物のそばへ移り、硬い甲羅へ指先を触れる。


 残り九分。


 恒一が獲物を持ち帰ると決めた頃のコメントが届き始めた。


『重いなら置いていけ』


『帰る体力を優先』


『残り二十五分、幽霊ちゃんが獲物を見て頷いた』


『赤い実のときと同じだ』


『青白い房には首を振ってた』


『黒い茸を置いてきたときにも頷いてた』


『食べられる可能性は高そう』


『火を通せ』


『殻を割る道具もいる』


 少女の反応。


 赤い実へ頷いた。


 青白い房には首を振った。


 黒い茸を置いてきたときにも頷いた。


 今回の獲物にも頷いた。


 少なくとも、持ち帰ったことを止める反応ではない。


 恒一は甲殻の獣を見た。


「食べられるかどうかは、まだ分かりません」


 少女のことには触れず、配信全体へ向けて言う。


「見た目が地球の甲殻類に似ているというだけで判断はしません。火と道具を用意して、内側も確認します」


 短い時間で結論を急がない。


 空腹だからこそ、食べられると信じたい気持ちが判断へ混じる。


 赤い実のときと同じだった。


 欲しい答えではなく、確認できた事実だけを積み上げる。


 残り七分。


 恒一は葉の包みから赤い実を一粒取り出した。


 水で洗い、ゆっくり食べる。


 肩と腕が震えていた。


 戦いが終わり、仮小屋へ戻ったことで、身体が遅れて恐怖を思い出している。


「正直に言うと、怖かったです」


 赤い実を飲み込む。


「最初の獣より小さかった。でも、戦えると思ったわけではありません」


 鉤が布を裂いた瞬間。


 苔で足が滑った瞬間。


 杖を挟まれ、前へ引かれた瞬間。


 一つ違えば、いまここには戻っていない。


「今日は、たまたま間合いを取れる杖があって、乾いた足場へ移れて、相手を返せる根があった。それに、LIVE中の補正もあった」


 勝った、とは口にしなかった。


 生きて帰った。


 それだけだった。


「次も同じようにいくとは考えません」


 視界の同時視聴者数は、二十人になっている。


 画面の向こうで見ている人数が、今日も身体を支えていた。


 けれど、足を置く場所を選ぶのは恒一自身だ。


 十五分前の警告は、次の危険が起きたときにも間に合わない。


「ただ、今日覚えたことは忘れません」


 恒一は新しい杖を手元へ置いた。


「濡れた足場へ立たない。杖の距離を失わない。倒れた相手へ、すぐ近づかない」


 一戦で三つ。


 次は、その三つを守る。


 そして、また別の一つを覚える。


 地道に積み上げる以外に、この森で生き残る方法はなかった。


     ◇


 残り一分。


 LIVEが終わったあとに動かなくて済むよう、恒一は水と杖を仮小屋の内側へ入れた。


 最後に残った二粒の赤い実も手元へ置く。


 甲殻の獣は外。


 結んだ蔓と周囲の枯れ枝を、もう一度確かめる。


 同時視聴者補正が切れれば、今日の疲労が一度に戻る。


 その前に、必要なことは終えた。


 コメント欄には、帰路で送られた言葉が流れている。


『白い石、次は左』


『大木まであと少し』


『獲物は下ろすまで気を抜くな』


『そのまま戻れ』


 十五分前の恒一を、最後の数歩まで小屋へ帰そうとする言葉。


 もう戻っている。


 それでも、その一つ一つが無駄だったとは思わなかった。


 次の探索では、十五分前の行動を振り返る記録になる。


 自分が見落とした道。


 危険の兆候。


 白い少女の動き。


 すぐには間に合わなくても、次に生き残るための情報は届く。


 ――残り時間 00:20。


 コメントの流れが変わった。


 十五分前。


 恒一が仮小屋へ戻った瞬間に送られた言葉が、間に合い始める。


『小屋見えた』


『戻った』


『おかえり』


『生きて帰った』


『ポチ、おかえり』


『食料探索、一日目終了』


 恒一は、その言葉を見つめた。


 配信の始まりに届いた「聞こえてる」。


 森から戻ったいま、届いた「おかえり」。


 残り十秒。


「……ただいま」


挿絵(By みてみん)


 白い少女が、恒一の口元を見る。


 残り七秒。


「魚のいる場所を見つけました。食料になるかもしれない獲物も持ち帰りました」


 残り四秒。


「まだ食べられません。でも、昨日より一歩前です」


 残り二秒。


「今日も、ありがとうございました」


 残り時間がゼロになる。


 赤い点が消えた。


 同時視聴者数。


 音声メーター。


 流れ続けていたコメント。


 すべてが視界から消え、灰色のRECへ戻る。


 同時に、身体へ重さが落ちた。


「っ……」


 恒一は大木の根へ背中を預けた。


 腕。


 肩。


 右脚。


 戦いと帰路で使った場所が、一斉に痛みを訴える。


 外へ置いた甲殻の獣は、先ほどよりずっと重そうに見えた。


 補正が切れた今、もう一度肩へ担いで川まで運ぶことはできないだろう。


 危険を感じた時点で、残り二十分を待たずに引き返す。


 その判断を守っていなければ、獲物を抱えたまま森の途中で動けなくなっていたかもしれない。


 恒一は、最後に残った二粒の赤い実を見た。


 今日、すぐ食べられるものは、まだこれしかない。


 けれど、川には魚がいた。


 小屋の外には、食べられる可能性のある獲物がある。


 火。


 刃物。


 捕まえるための道具。


 次に必要なものは見えた。


 白い少女は、仮小屋の外から恒一を見つめている。


 彼が無事に戻ったことへ安心したように、青白い瞳を細めていた。


 恒一は、少女がそこにいると知らないふりをしたまま目を閉じる。


 朝までは、返事が届くことを知っているだけだった。


 いまは違う。


 自分の声へ「聞こえてる」が返り、森から帰った自分へ「おかえり」が届いた。


 食べるために森へ出た。


 食べるまでには、まだ届かなかった。


 それでも初めて、自分の手で明日の食料になり得るものを持ち帰った。


 そして初めて、十五分の向こう側にいる誰かと、同じ一時間を歩いて戻った。


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