表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

第6話 声の届く森

挿絵(By みてみん)

 その夜、空腹は眠気よりもしつこかった。


 仮小屋の低い屋根。


 重ねた葉の隙間から、細い月明かりが落ちている。


 身体は疲れ切っていた。


 目を閉じれば眠れそうなのに、腹の奥で続く鈍い痛みが、意識を何度も引き戻す。


 恒一は右手を腹へ当てたまま、視界の隅へNEXT LIVEを呼び出した。


 ――23:41:08。


 次に赤い点を灯せるのは、明日の夕方だった。


 今日のLIVEも三十分。


 七人が最後まで見ていた。


 けれど、返事は一つも届かなかった。


「僕の声、聞こえていますか」


 暗い屋根へ向け、次の配信で口にする言葉を練習する。


 問いかけても、いまのままなら答えは見えない。


 アーカイブも開けない。


 配信が終われば、赤い点も、同時視聴者数も消える。


 七人が何を見て、何を書いたのかを知る方法はなかった。


 仮小屋の入口には、幅の広い葉が二枚置いてある。


 一枚には、赤い実。


 もう一枚には、青白く透けた房。


 黒い茸は、紫色の粉を見た時点で置いてきた。


 赤い実は、橙色の鳥が食べていた。


 それだけが、手元にある唯一の判断材料だった。


 鳥が食べられるものを、人間も食べられるとは限らない。


 似た姿をした地球の植物へ当てはめることもできない。


 それでも、水だけで動ける時間には限りがある。


 返事が届く日まで、何も食べずに待つことはできなかった。


「朝になったら、赤い方を一つだけ試す」


 声に出して決める。


「青い方には触らない」


 安全だから選ぶのではない。


 赤い実にだけ、食べている生き物を確認できたからだ。


 その判断が外れれば、一粒でも終わるかもしれない。


 何も食べなくても、遠からず水を汲みに行くことさえできなくなる。


 恒一は杖を右手の届く場所へ引き寄せ、身体を横たえた。


 仮小屋の外。


 枯れ枝の手前には、白い少女が座っている。


 少女は、腹へ置かれた恒一の右手を見つめていた。


 赤い実という音も、朝になったらという意味も、まだ知らない。


 ただ、力なく閉じられた瞼を見て、白い眉をわずかに寄せる。


 恒一の呼吸が眠りへ落ちてからも、少女はその場を動かなかった。


     ◇


 地球側では、三本目のLIVEが終わって三十分後、止まっていた映像が動き始めていた。


 ――ARCHIVE 03。


 新しく付けられたタグから来た者たちが、最初の配信まで遡っていく。


 四つの目を持つ黒い獣。


 傷を負った恒一。


 配信画面にだけ映る白い少女。


 赤い実へ一度だけ頷き、青白い房へ三度首を振る姿。


 最後まで見た七人のほかにも、アーカイブから配信へ辿り着く者がいた。


 ――チャンネル登録者数、四十人。


 少し間を置いて、四十一人。


 夜が深くなる頃には、四十二人。


 急に人が押し寄せたわけではない。


 タグの先で足を止めた者が、一人ずつ残っているだけだった。


 常連の四人は、ARCHIVE 03へ同じ注意を書き続けていた。


『赤い実は橙色の鳥が食べた。白い少女も実物を見たとき一回頷いた』


『青白い房へは否定三回。黒い茸は紫色の粉。どれも地球の植物とは一致しない』


『安全は保証できない。食べるなら赤を一つ、少量から』


『ポチへは届かない。』


 最後の一行だけは、何度書いても変わらなかった。


 配信中に送った言葉は、三十分のLIVEが終わるまで恒一の画面へ現れなかった。


 アーカイブへ残したコメントも、次のLIVEへは持ち越されない。


 恒一には過去の配信を開く機能さえない。


 答えは地球側に集まり始めている。


 けれど、それを必要としている男は、答えのない森で眠っていた。


     ◇


 この世界で迎える三度目の朝は、腹の痛みで始まった。


 もう、腹が鳴るほどの勢いもない。


 身体の中心だけが抜け落ち、手足へ力が届かないような感覚が続いている。


 起き上がろうと腹へ力を入れた瞬間、視界が暗くなった。


 恒一は大木の根へ肩を預け、そのまま数秒待つ。


 薄暗い森が、ゆっくりと輪郭を取り戻した。


「おはようございます」


 視界の隅には、淡い灰色のREC。


「異世界生活、三日目です」


 声に、いつもの張りがない。


 恒一は葉の器に残った水を一口だけ飲んだ。


 冷たい水が空腹の腹へ落ちる。


 一瞬だけ痛みが薄れ、すぐに元へ戻った。


「今日は、食べます」


 言葉にすると、逃げ道が一つ減った。


 入口の葉から、赤い実を一粒だけ持ち上げる。


 親指の先ほどの大きさ。


 薄い皮には皺も変色もない。


 鼻へ近づけると、甘さよりも青い草に似た匂いがした。


 青白い房は、昨日より表面の透明感が増している。


 恒一はそちらへ手を伸ばさない。


 葉ごと杖の先で押し、寝床からさらに遠ざけた。


「鳥が食べていた赤い実を、一つだけ試します」


 葉の器から少量の水を流し、実の表面を洗う。


 爪を皮へ立てると、薄い皮が裂けた。


 中は淡い橙色だった。


 汁は透明に近い。


 強い刺激臭もない。


 白い少女が、枯れ枝の外から身を乗り出す。


 恒一の指先にある実を見つめる。


 実と恒一の顔を交互に見たあと、こくりと一度だけ頷いた。


 恒一には見えない。


 いまはRECで、地球側の誰にも見えない。


 赤い実を知っているかもしれない少女の答えは、森の中で誰にも受け取られなかった。


 恒一は先端をほんの少しだけ噛み取った。


挿絵(By みてみん)


 果肉は柔らかい。


 酸味のあとに、わずかな甘さが残る。


 強い苦味はない。


 舌が痺れる感覚も、喉が焼けるような刺激もなかった。


 それで安全だと分かるわけではない。


 少量なら助かるという保証もなかった。


「何も起きないことを確認する方法じゃない。起きたときに、量を増やさないためだ」


 自分へ言い聞かせ、噛み取った分だけを飲み込む。


 空だった腹へ、ほんの小さな重みが落ちていく。


 味を知ってしまったせいで、残りを一度に口へ入れたい衝動が強くなった。


 恒一は実を葉の上へ戻した。


「待ちます」


 杖を抱え、仮小屋の入口へ座る。


 少女も、その正面へ座った。


 恒一の腹。


 口元。


 葉の上に残された赤い実。


 三つを何度も見比べる。


 十分。


 二十分。


 三十分。


 吐き気はない。


 息苦しさも、手足の痺れもない。


 腹の痛みは残っている。


 ただ、それは食べる前から続いていた空腹の痛みだった。


 恒一は噛み取った残りの実を手に取り、今度は皮ごと少しずつ食べた。


 小さな実だった。


 腹が満たされたとは言えない。


 それでも、水以外のものを飲み込んだというだけで、身体の奥に弱い火が戻ったような気がした。


「……うまい」


 思わず漏れた声に、少女の張りつめていた表情が少しだけ緩む。


 言葉の意味を理解したわけではない。


 実を飲み込んだあとも恒一が苦しまず、顔から強張りが消えたことを見ていた。


 恒一の右手が、空になった葉の上を探すように動いた。


 二粒目はない。


 採った低木まで行けば、まだ残っているかもしれない。


 すぐに取りに行きたい衝動を、立ち上がる前に止める。


「今日は、この一粒だけ」


 一つで足りないことは、身体が一番よく分かっている。


 遅れて症状が出る可能性もある。


 空腹に任せて数を増やせば、何か起きたときに原因も量も分からなくなる。


 恒一は空になった葉を畳み、青白い房だけを自分からさらに遠ざけた。


 もう一時間、仮小屋から動かなかった。


 異常は起きない。


 立ち上がると、朝よりは足へ力が入った。


 食料を得たというより、動けなくなるまでの時間を少し延ばしただけだった。


 それでも、その少しがなければ次のLIVEまで持たなかったかもしれない。


     ◇


 恒一は、その日も水を取りに行く以外ほとんど動かなかった。


 白い石の道をゆっくりと辿る。


 昨日、赤い実を採った低木は、水場へ向かう道から大きく外れていない。


 枝には、橙色の鳥がついばんだ跡のある実が残っていた。


 周囲には同じ低木が二本ある。


 恒一は熟して見えるものを六粒だけ採った。


 採り尽くさない。


 次に実る時期も、この三本がどれだけ持つかも分からない。


 根元へ白い石を一つ置き、位置を記憶する。


「ここが、最初の食料候補だ」


 食料だとは、まだ断定しない。


 朝に一粒を食べてから、数時間しか経っていない。


 採った六粒にも手をつけず、葉へ包んで腰の蔓へ挟んだ。


 赤い実だけで暮らし続けることはできない。


 数がなくなれば終わる。


 季節が変われば、同じものが採れる保証もない。


 川に魚がいるか。


 繰り返し採れそうな植物があるか。


 小動物を捕まえる方法があるか。


 捕まえても、切る道具と火がなければ食べられないものもある。


「まずは、今日を越える」


 白い石を踏み、仮小屋へ戻りながら口にする。


「次に、明日も食べられる方法。そのあとに、道具と火だ」


 三十二歳の会社員が、突然森へ放り出されたからといって、冒険者のように振る舞えるわけではない。


 順番に片づけるしかなかった。


 地味でも、遅くても。


 今日を明日へ繋ぐために必要なことから。


     ◇


 地球側では、その間にもARCHIVE 03が再生されていた。


 赤い実を持ち上げる恒一。


 頷く白い少女。


 青白い房を見て、繰り返し首を振る姿。


 短い場面を確認した者が、次のLIVEも見るために登録を残していく。


 四十三人。


 四十四人。


 数字の増え方は遅い。


 けれど、三十六人で止まっていた頃とは違う。


 タグを辿れば、異世界の森と、その森にはいないはずの少女へ行き着く。


 常連の四人は、同じ時刻に次のLIVEが始まるとは断定できなかった。


 待機枠も、開始予定の表示もない。


 ただ、昨日まで赤い点が灯った頃合いに、それぞれが『ポチの小屋』を開き直した。


 新しく登録した者たちも、更新の止まったチャンネルを何度か確かめていた。


 恒一が朝に赤い実を一粒食べたことを、地球側の誰も知らない。


 RECは今日も開けなかった。


 彼らが結果を知れるのは、恒一が次のLIVEを始められたときだけだった。


     ◇


 日が傾くまで、恒一は身体を休めた。


 採ってきた赤い実を水で洗う。


 六粒すべてを葉の上へ並べる。


 水を飲む。


 左腕の布を巻き直す。


 三本の傷は、完全には塞がっていない。


 それでも、腕を伸ばしたときの痛みは昨日よりさらに軽くなっていた。


 夜ごと濡れる布と、早すぎる回復。


 理由は分からない。


 LIVE中だけ身体が軽くなるように感じることも、まだ気のせいとは言い切れなかった。


 恒一は、次の配信で話すことを頭の中へ並べる。


 朝、赤い実を一粒だけ食べた。


 八時間近く経っても、異常はない。


 残りは六粒。


 次は、水場から先の食料を探す。


 聞きたいことはいくつもある。


 けれど、返事を受け取る方法はまだ分からない。


 昨日と同じように、問いも記録として残すしかなかった。


 ――00:00:10。


 恒一は仮小屋の入口へ座った。


 洗った赤い実。


 水を入れた葉の器。


 杖。


 投げられる大きさの石を三つ。


 必要なものを、すべて右手の届く場所へ置く。


 ――00:00:03。


 空腹とは別の理由で、心臓が速くなる。


 ――00:00:02。


 ――00:00:01。


 灰色のRECが消えた。


 代わりに、赤い点が灯る。


 ――LIVE。


 ――残り時間 29:59。


 同時視聴者数は、ゼロから始まった。


 一人。


 四人。


 昨日と同じ七人。


 そこから少し遅れて、八人。


 九人。


 恒一は数字が止まったことを確かめ、口を開いた。


「こんばんは。ポチです」


 いつもの挨拶。


「異世界生活、三日目。今日も生きています」


 地球側のコメント欄が、一斉に動き始めた。


『生きてる』


『四人全員接続』


『昨日と同じ小屋。赤い実が六粒』


『食べたのか?』


『タグから来た。今日も本当に始まった』


『幽霊ちゃんは大木の右』


 そのどれも、恒一の視界には現れない。


 彼に見えるのは、赤い点。


 三十分から減り始めた残り時間。


 同時視聴者数。


 音声メーター。


 昨日までと同じ四つだけだった。


「最初に、食料の報告です」


 恒一は赤い実を一つ持ち上げた。


 白い少女が、大木の陰から離れる。


 指先の実が見える位置まで浮かび、昨日と同じように一度頷いた。


 地球側では、すぐに記録が重なる。


『赤い実へ頷き。一回』


『昨日と同じ反応』


『やっぱり赤を知ってる?』


『ポチには見えてない』


「今朝、この実を一粒食べました」


 地球側の文字が、一度だけ止まった。


『食べた』


『生きてる』


『赤で合ってた』


『安全確定ではない。食べた時刻を聞きたい』


『幽霊ちゃんが安心した顔してる』


 恒一は続ける。


「最初に先端を少しだけ口へ入れ、三十分待ってから残りを食べました。それから八時間ほど経っています」


 赤い実を葉の上へ戻す。


「いまのところ、吐き気、痺れ、呼吸の異常はありません。腹痛も、食べる前からの空腹以外には感じていません」


 六粒へ視線を落とす。


「食べても安全だと断定はしません。今日は一粒だけで止めています」


 地球側から、安堵と注意が同時に送られた。


『一粒で止めたならいい』


『遅れて出る毒もある。まだ増やすな』


『水を近くに』


『赤い実、暫定食料候補』


『朝のRECを見せてくれ』


 同時視聴者数が、十人へ変わった。


 その少し後、地球側の登録者数も四十五人になる。


 大きな波ではない。


 LIVEのタグを見つけた者が一人入り、状況を確かめ、続きを見るために残っただけだった。


「昨日より、また増えていますね」


 恒一は十という数字を見た。


「初めての方がいるなら、先に説明します。僕からは、皆さんの名前もコメントも見えていません」


 返事を待つ間は取らない。


「そちらから何か送れているのかも、まだ確認できていません。見えているのは、いま見てくれている人数だけです」


 地球側から、答えが一斉に送られる。


『聞こえてる』


『最初から聞こえてる』


『コメントも送れてる』


『ポチには届いてない』


『ずっと見てる。』


 恒一には届かない。


 配信が始まった直後に送られた最初の言葉でさえ、まだ森へ向かう途中にある。


 恒一は、その遅れの長さを知らなかった。


 それでも、口にしようと決めていた問いを投げる。


「僕の声、聞こえていますか」


 第一話の夜と、同じ言葉だった。


「聞こえているなら、短く『聞こえてる』と残しておいてください。いつか僕が過去の配信を見られるようになったとき、最初に探します」


 コメント欄が、同じ五文字で埋まっていく。


『聞こえてる』


『聞こえてる』


『聞こえてる』


『聞こえてるよ、ポチ』


『ずっと聞こえてる』


 白い少女は、恒一の口元を見つめていた。


 何度も繰り返される、短い音。


 その意味はまだ知らない。


 ただ、恒一が赤い点へ向かって話すときの口の動きを、青白い瞳で追っている。


 同時視聴者数が十一人になった。


 恒一は数字へ目を向ける。


「返事は、やっぱり見えません」


 一度、息を吸う。


「でも、昨日は七人が最後まで残ってくれました。今日は、いま十一人いる」


 誰もいないように見える森へ、わずかに笑う。


「だから、声は届いていると思うことにします」


挿絵(By みてみん)


 地球側では、常連四人の言葉へ、新しく来た者たちの返事が重なった。


『届いてる』


『ちゃんと聞こえてる』


『一人で喋ってたんじゃない』


『こっちは答えてる。』


 恒一は、その一文字も読めない。


 けれど、十一という数字は消えなかった。


 地球側の登録者数も、四十六人へ変わっていた。


     ◇


 残り時間は十五分。


 恒一は水を一口飲んだ。


 配信前まで身体を包んでいた重さが、少しだけ薄れている。


 朝に食べた一粒だけでは説明できない変化だった。


 LIVEが始まる前より、呼吸が楽になっている。


 背中を大木の根へ預けずに座っていられる。


 昨日も、配信が始まると身体が軽くなった。


 理由は分からない。


「次の目標を話します」


 恒一は杖へ手を置いた。


「赤い実が、すぐに身体を壊すものではない可能性は出てきました。ただ、この実がいつまで採れるか分かりません。量も多くありません」


 白い石が続く方向を映す。


「次のLIVEでは、水場までの道を辿りながら、毎日確保できる食べ物を探します」


 川に魚がいるか。


 繰り返し採れそうな植物があるか。


 足跡や獣道がどこへ続いているか。


「いまの配信時間は三十分です。水場まで五分ほど。残り十五分になったら、見つけたものがあっても引き返します」


 地球側では、すぐに意見が送られた。


『三十分で探索は短い』


『行きと帰りで十分。確認に使えるのは五分しかない』


『目印を増やせ』


『上流か下流、片方だけにしろ』


『戦うためじゃなく、食べるために行け。』


 どれも恒一には届かない。


 それでも、恒一が自分で決めた方針は、四人が用意していたものと大きく外れていなかった。


「上流側だけを見ます。白い石を増やし、帰る分の体力は残す。危険なものに出会ったら、追いません」


 四つ目の黒い獣を思い出す。


 あの一戦は、戦い方を覚えた結果ではない。


 地形。


 獣の癖。


 極限まで追い詰められた集中。


 すべてが噛み合い、偶然に近い形で生き残っただけだ。


「逃げられないときは戦います。でも、目的は生きて小屋へ戻ることです」


 同時視聴者数が十二人へ変わった。


 登録者数は四十七人。


 その後も、タグから一人ずつ入ってくる。


 四十八人。


 四十九人。


 森で話し続ける恒一には、その数字は見えない。


 視界にあるのは、残り時間と十二人だけだった。


     ◇


 残り一分。


 恒一は仮小屋の入口へ深く腰を下ろした。


 LIVEが終われば、身体へ重さが戻るかもしれない。


 今日はもう立つ必要がないよう、杖も水も手元へ置いてある。


 同時視聴者数は、十三人になっていた。


「今日も最後まで見てくれて、ありがとうございます」


 昨日の七人より、六人多い。


 東京にいた頃の配信なら、小さな増減でしかない。


 いまは、一人増えるたびに、森の外と繋がる場所が少し広がったように感じられた。


「明日は、食べるために森へ出ます」


 地球側の配信ページで、登録者数が変わった。


 ――五十人。


『五十』


『登録者五十人』


『タグを変えてから十四人増えた』


『まだ小さい。でも止まってない』


『ポチ、五十人いる。』


 その事実も、恒一には届かない。


 残り十秒。


「また明日」


 白い少女が恒一の口元を見つめる。


 残り五秒。


「次も、生きて戻ってきます」


 少女の唇が、少し遅れて動いた。


 意味も音も伴わない。


 ただ、何度も見てきた口の形だけをなぞる。


 ――また明日。


 配信開始直後に地球側で送られた最初のコメントが、ようやく森へ届く時刻。


 それと、残り時間がゼロになった瞬間は、ほとんど同じだった。


 赤い点が消える。


 同時視聴者数も、音声メーターも、一度に見えなくなった。


 届くはずだった文字を表示する場所も、LIVEとともに閉じた。


 恒一は、一文字も見ることができなかった。


 身体へ重さが戻る。


 恒一は大木の根へ背中を預けた。


「十三人……」


 息を整えながら、最後に見た数字を口にする。


 昨日の七人が、今日は十三人になった。


 声は届いている。


 少なくとも、そう信じるには十分だった。


 視界の隅へ、灰色のRECが戻る。


 その直後。


 RECとは違う、淡い青色の文字が浮かんだ。


 ――配信実績を集計しています。


「配信実績……?」


 文字が切り替わる。


 ――最高同時視聴者数が規定値へ到達しました。


 ――チャンネル登録者数が規定値へ到達しました。


 ――『ポチの小屋』の配信レベルが上昇します。


 見慣れたチャンネル名の下で、数字が変わった。


 ――配信レベル 1 → 2。


「レベル……二」


挿絵(By みてみん)


 続けて、更新された項目が開く。


 【配信機能】


 ――一日あたりLIVE上限。


 ――00:30:00 → 01:00:00。


 恒一は、増えた三十分を見つめた。


 水場までの往復だけで終わらない。


 上流側を確かめ、余裕を持って仮小屋へ戻る時間ができる。


 青い文字は、さらに次の項目へ切り替わった。


 ――配信レベル上昇に伴い、配信者補正情報を開示します。


 【CHANNEL LINK】


 ――チャンネル登録者補正。


 ――チャンネル登録者数に応じた基礎補正を、LINK成立時から常時適用しています。


 ――同時視聴者補正。


 ――異世界側でのLIVE中、同時視聴者数に応じた一時補正を適用します。


 ――補正対象。


 ――筋力。持久力。反応速度。身体耐久。


 最後に、一行だけ表示が加わる。


 ――同時視聴者補正は、転移後の初回LIVEから適用済みです。


「初回から……」


 恒一の脳裏に、川辺の光景が蘇った。


 四つの目を持つ黒い獣。


 三メートルほどある川を、一息で飛び越えた身体。


 左腕を裂いた爪。


 脇腹へ叩き込まれた前脚。


 そして、最後の突進。


 獣の牙が届く直前まで引きつけ、尖った枝の前から身を外した。


 運動から遠ざかっていた三十二歳の会社員に、本当にあの動きができただろうか。


 倒木と枝を使うと決めたのは、自分だ。


 獣の癖を読み、立つ位置を選んだのも自分だった。


 けれど、考えたことを実行するための最後の一歩。


 あれが間に合った理由は、自分の力だけではなかった。


 最初のLIVEを見ていたのは、四人。


 声も名前も分からない四人が、知らないうちに自分の身体を支えていた。


 今日、配信中に呼吸が楽になったことも、気のせいではなかった。


 十三人という数字は、画面の外側にあるだけではなく、この森の中まで届いていた。


「見ていた人が、いたから」


 恒一は、力の抜けた右手を見下ろした。


 獣を倒したのは、視聴者ではない。


 自分一人でもない。


 考え、選び、身体を動かした自分の最後の一歩を、四人がほんの少しだけ先へ押してくれた。


「ありがとうございます」


 LIVEは終わっている。


 地球側の誰にも聞こえないRECだった。


 それでも恒一は、何もいないように見える森へ頭を下げた。


 白い少女が、その正面に浮かんでいる。


 言葉の意味は分からない。


 ただ、恒一の声から強張りが消え、頭を上げたときに少しだけ笑っていたことを見て、少女もわずかに目を細めた。


 その下へ、最後の更新項目が現れた。


 【配信機能】


 ――コメント受信遅延。


 ――00:30:00 → 00:15:00。


 恒一の目が、その一行で止まった。


「三十分……?」


 コメントが存在しなかったのではない。


 送られていなかったのでもない。


 三十分遅れて、自分の側へ届く仕組みだった。


 ただ、これまでのLIVEも三十分で終わっていた。


 最初の返事が届く時刻と、受け取る場所が閉じる時刻が同じだった。


 だから、一文字も見えなかった。


 配信のたびに問いかけた言葉。


 自分の声は聞こえているのか。


 昨日の映像に何か映っていなかったか。


 食べられるものを知っている者はいないか。


 画面の向こうでは、そのたびに誰かが答えていたのかもしれない。


 恒一は、LIVEが消えた場所を見つめた。


「返事は、あったんだ」


 読むことはできなかった。


 誰が何を言ったのかも、まだ分からない。


 それでも、沈黙しかなかったと思っていた場所に、最初から言葉があった。


 青い表示の末尾へ、新しい一行が加わる。


 ――変更内容は、次回LIVEより適用されます。


「十五分」


 次のLIVEは一時間。


 開始して十五分待てば、最初の問いへの返事が届く。


 残り時間は、その時点でも四十五分ある。


 一度だけではない。


 短い問いへ答えてもらい、その答えを受けて、もう一度話す時間がある。


 完全な会話には遠い。


 危険を知らせる警告としても遅すぎる。


 それでも、これまでの三十分とは違う。


 同じLIVEの中で、声が往復できる。


 青い表示が消える。


 視界には、再び灰色のRECだけが残った。


 恒一はNEXT LIVEを呼び出した。


 次に使えるLIVE時間は、一時間。


 返事が届き始めるのは、開始から十五分後。


 水場まで五分。


 白い石を増やしながら上流側だけを進む。


 残り二十分になったら、途中でも引き返す。


 朝に決めた予定を、新しい時間へ合わせて組み直していく。


 返事は、まだ一つも読めていない。


 けれど、次は違う。


 自分の声は森を越え、地球にいる誰かへ届いている。


 その誰かの言葉も、十五分かければ同じ森へ戻ってくる。


 恒一は葉に包んだ六粒の赤い実と、右手の杖を見た。


「明日は、小屋の外を一緒に歩きましょう」


挿絵(By みてみん)


 誰へ向けた言葉なのか、もう迷わなかった。


 声の届く森で。


 次は、返事を待つことができる。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ