第5話 幽霊と見る異世界配信
配信が終わって三十分後。
七分四十二秒の少女は、止まった映像から消えなかった。
地球側に残された『ポチの小屋』の配信ページ。
二本目の異世界配信は自動的に保存され、ようやく最初から再生できる状態になっていた。
画面の隅には、見慣れない表示が付いている。
――ARCHIVE 02。
四人は、配信が終わってからも誰一人として小屋を閉じていなかった。
再生位置を、残り七分四十二秒まで戻す。
倒木と木の幹の隙間。
そこから顔を覗かせる、白い少女。
地面へ届くほど長い白銀の髪。
水を編んだように透き通る衣。
青白い瞳は、画面のこちら側を見ているようにも、その向こうにいる恒一だけを見ているようにも見えた。
『七分四十二秒で合ってる』
『残り七分四十二秒。画面左端に出現。少なくとも十一秒間は確認できる』
『霧でも反射でもないと思う。輪郭が動いてる。たぶん』
『ポチは気づいていない。』
映像を一秒ずつ進める。
少女が、わずかに首を傾げる。
恒一は足元の簡易靴を直している。
顔を上げたとき、その視線は少女のいる場所を通り過ぎた。
見えていれば、無反応ではいられない距離だった。
『同じ場所を見てるのに?』
『映像には映る。でも本人には見えない、で仮置き』
『断定はまだできない。ポチが見落とした可能性もある』
『あの距離で見落とすな。』
次に、一人が最初の配信を開いた。
――ARCHIVE 01。
黒い獣との戦いが終わり、恒一が川辺へ倒れた直後。
画面が地面へ傾く寸前、茂みの奥で白いものが揺れている。
二本目の映像ほど、はっきりとは見えない。
髪なのか。
細い木の幹なのか。
光を反射した水なのか。
静止させれば人の形に見える。
動かせば、風に揺れただけにも見えた。
『昨日の最後にもいる』
『候補。残り二十七秒、画面中央より少し右』
『二本目の子と色は同じ。形も近い。たぶん同一』
『最初からついてきていたなら、危険。』
『でもポチが寝てる間に襲ってない』
『襲わないことと味方であることは別』
四人が確認できるのは、二本のLIVEだけだった。
配信と配信の間に記録されているはずのRECは、地球側からも開けない。
恒一が森で迎えた最初の夜。
白い少女が傷へ水を落とし、朝まで見守っていたことを、地球側の誰も知らない。
知っているのは、黒い獣の前から恒一が生き残ったこと。
翌日のLIVEでは、左腕の傷が予想より早く回復していたこと。
そして、その恒一のすぐそばに白い少女がいたことだけだった。
『呼び方がないと記録しづらい』
『白い少女でいいだろ。』
『長い。幽霊ちゃんでよくない?』
『ちゃん付けする雰囲気か?』
『少なくとも見た目は女の子だし』
『仮称、幽霊ちゃん。正体と敵味方は未確定』
『勝手に決めるな。』
『じゃあ代案』
しばらく、返事はなかった。
『……記録上は、それでいい。』
呼び名だけが決まった。
正体は、何も分からないままだった。
四人は、映像そのものを外へ広めなかった。
切り抜きも作らない。
作り物かもしれない映像だけを拡散しても、恒一の居場所へ近づけるとは限らない。
騒ぎになれば、必要な記録が憶測や冗談に埋もれる可能性もある。
ただ、地球側の配信ページには、視聴者からも書き換えられるタグ欄が残っていた。
一人が、これまでのゲーム配信用タグの末尾へ新しい文字を加える。
――#幽霊と見る異世界配信。
『タグまで変えるのか?』
『切り抜きを外へ投げるわけじゃない。ここまで来た人が、何の記録か分かるようにするだけ』
『幽霊が出る配信と、幽霊ちゃんも一緒に見てる配信。二つの意味?』
『遊ぶな。』
タグを書き換えた直後、登録者数は三十六人のまま動かなかった。
それでも数時間後、タグからARCHIVE 02を開いた誰かがいた。
少女が映る七分四十二秒まで再生し、最初の配信まで遡り、何も書かずにチャンネル登録だけを残していく。
――チャンネル登録者数、三十七人。
増えたのは、たった一人だった。
けれど三十六で止まっていた数字は、タグを変えたことで初めて動いた。
タグは人を呼び込めても、恒一への伝言板にはならない。
そこへ少女のいる方向を書いても、異世界にいる恒一の視界へは届かなかった。
まずは、次のLIVEで少女がもう一度現れるかを確かめる。
恒一が頼んだことも、それぞれが調べ始めていた。
川の水を、道具のない状態で少しでも安全に飲む方法。
左腕を使えなくても火を起こせる方法。
画面に映った植物と獣に似たもの。
ただし、ここは地球ではないかもしれない。
形が似ているだけで、安全だとは言えない。
四人がどれだけ調べても、その答えを恒一へ届ける手段はなかった。
いま書いたコメントは、いま開いているARCHIVE 02に残るだけ。
次のLIVEへ持ち越されない。
恒一自身も、過去の配信を開けない。
それでも一人が時刻を記録し、一人が二本の映像を見比べ、一人が植物を探し、一人が配信サービスへの連絡を続けた。
次の赤い点が灯るまで。
四人にできるのは、準備して待つことだけだった。
そして、タグから来た最初の新規登録者が、次の赤い点を待つ側へ加わっていた。
◇
夜半、恒一は寒さで目を覚ました。
背中には大木の根。
頭上には、枝と葉を重ねただけの低い屋根。
入口へ撒いた枯れ枝は、どれも踏まれていない。
獣の声も聞こえなかった。
代わりに、左腕が冷たい。
恒一は暗闇の中で身体を起こし、巻いた布へ触れた。
湿っている。
血ではなかった。
指先に付いたのは、透明な水だ。
「またか……」
最初の夜も、傷へ巻いた布だけが不自然に濡れていた。
夜露なら、パーカーや屋根の葉も濡れているはずだった。
けれど肩へ触れても、布地は乾いている。
雨が降った様子もない。
恒一は結び目を解き、左腕の傷を確かめた。
三本の裂傷は残っている。
ただ、赤く腫れていた周囲は昨日より落ち着き、腕を曲げたときの痛みも軽くなっていた。
「水に、何かあるのか?」
川の水を飲んでから、腹痛や吐き気はない。
傷を最初に洗ったのも、あの川だ。
この世界の水に、地球とは違う働きがあるのかもしれない。
そう考えれば説明はつく。
巻いた布だけが、眠っている間に濡れた理由を除けば。
恒一は周囲へ耳を澄ませた。
風が葉を揺らす音。
遠くを流れる川。
見たことのない虫の、細く長い鳴き声。
ほかには何も聞こえない。
「……考えても分からないな」
傷へ布を巻き直し、杖を抱えるようにして座り直す。
視界の隅には、淡い灰色の文字が浮かんでいた。
――REC。
いまの映像は、地球側の誰にも見ることができない。
登録者が一人増えたことも、恒一は知らない。
目を閉じる。
仮小屋の外。
枯れ枝の手前には、白い少女が座っていた。
少女の指先から離れた細い水の糸が、音もなく宙を進む。
枯れ枝を一つも動かさず、その隙間を抜け、恒一の左腕へ吸い込まれていく。
少女は、眠り直した恒一の口元を見つめた。
唇が、ゆっくりと動く。
声にはならない。
形だけを思い出すように。
――おやすみなさい。
◇
朝。
枯れ枝が鳴ることなく、恒一は目を覚ました。
空腹で、腹の奥が鈍く痛んでいる。
東京の部屋で弁当を食べてから、二度目の朝だった。
水しか口にしていない。
動けなくなるほどではない。
それでも昨日より身体は重く、立ち上がるまでに一度、根へ手をつく必要があった。
「おはようございます」
誰が見るとも分からないRECへ挨拶する。
「異世界生活、二日目。たぶん、です」
太陽の位置も、一日の長さも、地球と同じとは限らない。
それでも、朝と夜は二度ずつ過ぎた。
恒一は入口の外へ出る前に、撒いた枯れ枝を調べた。
折れたものはない。
獣の足跡もない。
夜の間、何かが近づいた形跡は見つからなかった。
「襲われなかった。それだけで十分だな」
杖を右手に持ち、NEXT LIVEの表示を呼び出す。
――10:41:26。
昨日と同じなら、日が沈み始める頃に使える。
やることを頭の中へ並べた。
水。
寝床の補強。
食べられるものの候補を集める。
そして、配信を始める前に身体を休める。
空腹の状態で一日中動き続ければ、夜を越せなくなる。
「今日は、昨日より少なく動く」
決めてから、白い石の道を辿って川へ向かった。
◇
川の水位は昨日と変わっていなかった。
獣の死骸を引きずった跡は、夜露と風で少し崩れている。
新しい足跡は見つからない。
恒一は上流へ移動し、周囲を確かめてから水を飲んだ。
冷たい水が空腹の腹へ入る。
一瞬だけ満たされたように感じたが、立ち上がる頃には、また何かを食べたいという感覚が戻っていた。
昨日使った大きな葉を二枚重ねる。
折った枝で端を留め、さらに細い蔓を外側へ巻いた。
器というより、口の広い袋に近い。
水を入れると、やはり隙間から漏れた。
それでも昨日よりは遅い。
「十分持てばいい」
両手が使えれば胸の前へ抱えられる。
左腕は動くようになったが、水の重さを任せるにはまだ怖かった。
恒一は蔓を長く残し、葉の器を肩から下げた。
一歩進むたび、足へ冷たい水が落ちる。
半分も持ち帰れないかもしれない。
それでも手を塞がず、杖を持ったまま運べる。
白い石を辿って戻る途中、恒一は何度も立ち止まった。
何かがついてくる。
音がしたわけではない。
視線を感じたわけでもない。
ただ、自分が足を止めると、少し遅れて森全体が静かになるような気がした。
後ろを振り返る。
木々の間に動くものはない。
青白い草が朝の光を受け、薄く透けている。
「気にしすぎか」
恒一が歩き出す。
その数歩後ろを、白い少女が音もなく浮かんで進んだ。
長い髪の先が草へ触れても、葉は揺れない。
少女は恒一の肩から落ちる水滴を見つめていた。
雫が地面へ落ちる直前、ふわりと持ち上がる。
一滴。
また一滴。
零れた水は空中で葉の器へ戻り、恒一が仮小屋へ着いたときにも、半分以上が残っていた。
「思ったより漏れなかったな」
恒一は、昨日より少しだけ形の整った葉を見た。
作り方がよかったのだと思った。
◇
午前中は、寝床の補強へ使った。
新しい枝を一本だけ運ぶ。
屋根の低い側へ差し込み、葉が滑り落ちないよう横向きの枝を増やす。
昨日の失敗を思い出し、蔓だけへ重さをかけない。
それでも片手で枝を支えながら結ぶ作業は難しかった。
三度目に枝が外れたところで、恒一はその場へ座り込んだ。
呼吸が荒い。
脇腹の痛みより、全身から力が抜けていく感覚の方が強かった。
「食べないと、まずいな」
昨日までは、毒を避けることを優先できた。
今日も何も食べなければ、明日は水を取りに行く体力さえ残らないかもしれない。
恒一は休んでから、拠点の周囲だけを探した。
橙色の鳥が食べていた赤い実。
青白く透けた房。
手のひらほどある黒い茸。
それぞれを少量だけ採り、幅の広い葉の上へ並べる。
赤い実は潰さない。
青白い房には素手で触れず、枝で根元を折った。
黒い茸を杖で倒すと、裏側から紫色の粉が舞った。
恒一はすぐに顔を背け、数歩下がった。
「これは候補から外そう」
黒い茸だけは、その場へ置いていく。
少し離れた木の陰では、白い少女も紫色の粉を見つめていた。
恒一が黒い茸から距離を取ると、少女は茸へ目を戻し、こくりと一度だけ頷いた。
恒一は赤い実と青白い房を拠点へ持ち帰った。
食べるつもりはない。
少なくとも、次のLIVEで形を見せるまでは。
視聴者の中に植物へ詳しい者がいても、返事を受け取ることはできない。
それでも映像を残しておけば、いつか情報が繋がったときに役立つかもしれない。
「今は、記録だけ」
空腹へ言い聞かせる。
赤い実の皮が、朝日を受けて艶やかに光っていた。
◇
昼を過ぎてから、恒一はほとんど動かなかった。
葉の器から少しずつ水を飲む。
傷へ巻いた布を外し、乾かす。
杖の先端を石へ擦り、ささくれを落とす。
ときどきNEXT LIVEを呼び出す。
――04:18:03。
――02:55:41。
――01:07:12。
数字が減るにつれ、地球側へ話す内容を頭の中で整理した。
水を飲んでから一日経っても、大きな異常はない。
左腕の傷は、理由は分からないが回復している。
獣の襲撃はなかった。
食料はまだ確保できていない。
候補を二つ採った。
同じ報告を何度も繰り返しても仕方がない。
今日分かったことだけを短く伝える。
残りの時間は、仮小屋と周囲を映す。
聞きたいことも決めた。
四人が、自分の声を聞けているのか。
昨日の映像に、何が映っていたのか。
地球側で、自分がどう扱われているのか。
けれど、問いかけても返事は見えない。
昨日までに、それは分かっている。
「それでも、聞いておくか」
いつか過去の記録を開けるようになるかもしれない。
なら、必要な問いも残しておくべきだった。
恒一は仮小屋の入口へ座り、膝の上へ右手を置いた。
森は夕方の色へ変わり始めている。
青白い草が、木々の影で淡く光る。
――00:00:10。
地球側では、止まっていた四つの画面が一つずつ動き始めた。
一人は、時刻を書き込むための記録を開く。
一人は、二本のアーカイブを並べたままにする。
一人は、調べた植物の候補を断定しない形で整理する。
最後の一人は、コメント入力欄へ短い言葉を打ち込んだまま待っていた。
その四つとは別の画面でも、『ポチの小屋』が開かれている。
――#幽霊と見る異世界配信。
新しいタグから二本のアーカイブへ辿り着き、三十七人目の登録者になった者だった。
――00:00:03。
――00:00:02。
――00:00:01。
灰色のRECが瞬いた。
――LIVE READY。
「配信、開始」
赤い点が灯った。
◇
同時視聴者数は、ゼロから始まった。
一人。
三人。
少し遅れて、四人。
さらに間を空けて、五人。
昨日は現れなかった数字だった。
恒一は五という数字を二度見てから、口を開いた。
「こんばんは。ポチです」
いつもの言葉で始める。
「異世界生活、二日目。今日も生きています」
最初に、それだけを伝えた。
地球側では、待っていた言葉が続けて送られる。
『聞こえてる』
『配信開始。四人全員接続』
『昨日と同じ場所。ポチの歩き方は少し重い、たぶん』
『生きていてよかった。』
『タグから来ました。これ、本当に生配信?』
『最初のアーカイブから見て。ポチにはコメントが見えてない』
その一つも、恒一の視界には現れない。
彼に見えるのは、赤い点。
三十分から減り始めた残り時間。
同時視聴者数。
音声メーター。
昨日と同じ四つだけだった。
「昨日報告した川の水ですが、一日経っても腹痛や吐き気はありません。安全だと断定はできませんが、少なくとも、すぐに倒れるようなものではなさそうです」
左腕を持ち上げる。
「傷も、昨日よりよくなっています。夜になると、巻いた布だけが水で濡れるんですが、原因は分かりません」
地球側のコメントが重なった。
『巻いた布だけ?』
『夜間のRECは見られない。確認不能』
『幽霊ちゃんが何かしてる可能性はある。たぶん』
『決めつけるな。』
恒一は続ける。
「昨夜は、拠点の周囲へ撒いた枝も鳴りませんでした。獣の足跡もありません。今日は水を運ぶ方法を少し変えて、屋根を補強しました」
仮小屋の屋根へ視線を向ける。
画面の中央に、重ねた葉と枝が映る。
その向こう。
大木の幹から、白い少女がゆっくりと顔を覗かせた。
『いた』
『残り二十六分十四秒。画面右上、幽霊ちゃん』
『昨日より近い。同じ個体でいいと思う、たぶん』
『ポチの背後。警戒。』
四人全員が、同じものを見ていた。
『タグにあった幽霊って、この子?』
五人目も、遅れて少女へ気づく。
その直後、同時視聴者数が六人へ変わった。
新しいタグから、もう一人がLIVEへ入ってきた。
恒一は数字へ目を向ける。
六人。
昨日までの四人より、二人多い。
「今日は、初めて来た人もいるんでしょうか」
地球側の配信ページでは、登録者数も三十七人から三十八人へ変わった。
大きな流入ではない。
タグを見て入り、少女を確かめ、続きを見ようと思った誰かが一人ずつ残っている。
少女が、幹の陰からもう少しだけ身体を出す。
青白い瞳は恒一へ向けられていた。
恒一の目も、同じ場所を通り過ぎる。
けれど彼に見えるのは、大木の幹と、その表面を這う黒い蔓だけだった。
「次は、食料です」
恒一は葉の上に並べた二つの候補へ手を伸ばした。
まず、赤い実を一つ指先でつまみ上げる。
配信に形と色が映るよう、目の前まで持ち上げ、自分でも確かめるように指先でゆっくりと回した。
「赤い方です。昨日、橙色の鳥が食べていました。ただ、鳥が食べられるものを人間も食べられるとは限らないので、まだ口にはしていません」
少し間を置き、実へ目を凝らす。
「これが食べられるものか、分かる方がいたら記録をお願いします」
地球側では、植物を調べていた一人が、用意していた文章を送った。
『地球の植物には一致なし。似た実は複数あるが、安全性は判断不能』
届かない答えだった。
白い少女が木の陰から離れる。
地面へ足をつけず、恒一の視界の端を横切った。
彼の真横まで来ると、指先につままれた赤い実を覗き込む。
『近い』
『残り二十一分三十二秒。赤い実を確認』
『実とポチの顔を交互に見てる』
『動くな。』
少女は赤い実を見た。
次に、恒一の顔を見る。
それから、こくりと一度だけ頷いた。
『頷いた』
『赤い実に対して肯定反応。一回』
『食べられるって意味とは限らない。でも止めてはいない、たぶん』
『記録。まだ食べるな。』
『今の頷き、赤い実は大丈夫って意味?』
恒一は何も気づかないまま、赤い実を葉の上へ戻した。
次に、もう一枚の葉で青白い房の根元を包み、直接触れないようにして持ち上げる。
「もう一つは、青白く透けた房です。これは素手では触っていません。こちらも、食べられるかどうかは分かりません」
少女の視線が、恒一の手の中へ移る。
次の瞬間、少女ははっきりと首を横へ振った。
一度ではない。
二度、三度と、長い白髪を揺らして否定する。
『それは駄目』
『残り十九分五秒。青白い房へ否定反応、三回』
『赤い実のときと明確に違う』
『ポチ、捨てろ。』
『赤い実のときと反応が全然違う』
常連四人の言葉へ、新しく来た者たちの短い反応も重なる。
恒一は青白い房も、赤い実から少し離した葉の上へ戻した。
「ほかに黒い茸もありましたが、倒したら紫色の粉が出たので置いてきました」
少女は恒一の顔を見たまま、今度は頷きも首振りもしなかった。
『黒い茸には反応なし』
『実物を見せた赤と青白い房にだけ反応した?』
『言葉を全部理解してるわけじゃないのかも。たぶん』
『現物がないと判断できないだけかもしれない』
『タグから来た。あの子、ポチが見せたものに答えてる?』
同時視聴者数が、七人になった。
登録者数も、三十八人から三十九人へ変わる。
タグを変えてから増えたのは、まだ三人だけだった。
それでも『ポチの小屋』を見つける人間は、確かに増え始めていた。
コメント欄が、一度だけ止まった。
少女は恒一のすぐ隣にいる。
食べ物の違いを知っているように見える。
恒一が目の前へ持ち上げた二つにだけ、頷き、首を振った。
それでも恒一は、少女の姿にも、その反応にも気づかない。
見えないのか。
聞こえないのか。
少女の側が声を出せないのか。
地球側の誰にも、その理由までは分からなかった。
「皆さんに聞こえているなら、昨日の映像に何か変なものが映っていなかったか、残しておいてください」
恒一が、まるでコメント欄の沈黙を待っていたように口を開く。
「獣でも、植物でも、僕が気づいていないものでも。時間と場所が分かれば助かります」
『いま真横にいる』
『残り十七分四十秒。ポチの左』
『白い少女。仮称、幽霊ちゃん』
『左を見ろ。』
答えはある。
画面の向こうにいる全員が、同じものを見ている。
それでも恒一の視界には、一文字も現れなかった。
◇
残り時間は十六分。
恒一は一度、水を飲んだ。
配信前まで全身を包んでいた重さが、少しだけ薄れている。
空腹は消えていない。
右の脇腹も、押せば痛む。
それでも、立ち上がるときに根へ手をつく必要がなかった。
昨日もそうだった。
LIVEが始まってから、呼吸が少し楽になった気がする。
人に見られている緊張で、身体が動いているだけかもしれない。
配信者として染みついた習慣が、弱っていることを忘れさせているのかもしれない。
「残りは、拠点の周りを映します」
恒一は杖を取り、入口から外へ出た。
昼間に補強した屋根を横から見せる。
水を入れた葉の器。
投げるために並べた石。
音を鳴らすために撒いた枯れ枝。
「この枝より内側には、昨夜も何かが入った跡はありませんでした」
恒一が枯れ枝へ視線を落とす。
地球側の映像では、そのすぐ外側に白い少女が立っていた。
少女は枝を踏まない。
昨日と同じように、境目を理解している。
『やっぱり中へ入らない』
『枯れ枝の外側で停止』
『音が鳴るって分かってるみたい』
『見張っている可能性。警戒は継続。』
少女は枯れ枝の前へしゃがんだ。
長い髪と水の衣が地面へ広がる。
恒一は少女の正面へ立っている。
互いの距離は、手を伸ばせば届くほどしかない。
それでも、恒一は何もいない場所を見つめていた。
「今夜も、ここで休みます」
少女の青白い瞳が、まっすぐ恒一を見上げる。
「食べ物は……明日までに決めないといけません。今日持ってきたものを試すか、別のものを探すか」
少女の表情がわずかに曇った。
「本当は、こういうときこそ皆さんの知恵を借りたいんですけど」
恒一は視界の隅を見る。
そこにコメントを表示する場所はない。
「今は、まだ無理みたいです」
地球側では、答えが途切れなかった。
『赤い実には幽霊ちゃんが一回頷いた』
『青白い房には三回、首を横に振った』
『黒い茸の話には反応しなかった』
『実物があるときだけみたいだ』
『伝わらない。』
必要な答えは、四人の手元に集まり始めている。
タグから来た三人も、その記録を読みながら同じ場面を見ていた。
ただ、届かない。
恒一が配信を続けるほど、四人が記録を増やすほど、伝えられない情報も増えていった。
◇
残り一分。
同時視聴者数は、七人のままだった。
恒一は仮小屋の入口へ戻り、杖を右手の届く場所へ置いた。
正面には薄暗い森。
その中央に、白い少女が座っている。
恒一には見えない。
けれど地球側の画面では、少女の姿がこれまでで最もはっきりと映っていた。
逃げも、隠れもしない。
まるで、自分も配信の終わりを待っているように。
「今日も最後まで見てくれて、ありがとうございます」
恒一は、昨日より少し増えた数字へ向かって頭を下げた。
「皆さんが誰なのか、何を言ってくれているのかは、まだ分かりません」
一度、言葉を切る。
「でも、見てくれていることだけは分かります」
少女が恒一の口元を見つめる。
「明日も、生きて配信をつけます」
残り十秒。
「また明日」
少女の唇が、少し遅れて同じ形を作った。
『いま真似した』
『残り八秒。「また明日」を模倣』
『昨日の言葉も覚えていたのかも。たぶん』
『言葉を覚えている。』
残り三秒。
恒一は、いつもの言葉を続けた。
「おやすみなさい」
白い少女も、音のない声で繰り返す。
――おやすみなさい。
残り時間がゼロになった。
赤い点が消える。
同時視聴者数も、音声メーターも、一度に見えなくなった。
淡い灰色の文字が戻る。
――REC。
その瞬間、恒一の身体へ重さが戻った。
「……っ」
背中が大木の根へ当たる。
配信中は立ったまま周囲を映せていた。
いまは、座った姿勢を保つだけでも腹に力が要る。
「気が抜けた、だけか?」
恒一はしばらく呼吸を整えた。
視界に新しい表示は現れない。
配信時間も、次に使えるまでの間隔も、昨日までと同じままだった。
「今日は、七人か」
声に、落胆はなかった。
昨日の四人が、今日も来た。
そこへ、どこから来たのか分からない三人が加わった。
四人は自分が生きているかも分からない配信を待ち、新しい三人も途中で離れず、最後まで見ていた。
恒一は何もいないように見える森へ頭を下げた。
「また明日」
白い少女が、その言葉にも小さく頷く。
恒一には見えない。
地球側の誰にも、LIVEが終わったあとの姿は見えない。
誰にも見られていないRECの中で、少女だけが恒一のそばに残った。
◇
三十分後。
三本目の配信が、地球側で再生できるようになった。
――ARCHIVE 03。
四人は、少女が見せた反応を最初から確かめ直した。
赤い実。
頷き、一回。
青白い房。
否定、三回。
黒い茸。
実物なし。反応なし。
枯れ枝。
踏まずに、その外側で停止。
そして、「また明日」と「おやすみなさい」の口の形。
『聞こえてるよな』
『短い言葉は真似してる。でも意味まで分かってるとは限らない』
『赤い実と青白い房は、ポチが実物を見せたときだけ反応した』
『赤が食用かは未確定。青白い房は危険候補。黒い茸は紫の粉が出たので除外』
『本人へ届かなければ意味がない。』
その一行で、四人の手が止まる。
映像の中では、白い少女が恒一の隣に座っていた。
恒一へ最も近い存在が、恒一には見えない。
少女の反応を最初から追ってきた四人は、恒一へ声を届けられない。
四人は少女の反応を、一つの文へまとめた。
――白い少女には恒一の声が聞こえている。短い言葉を真似るが、意味の理解範囲は未確定。
――現物を示した赤い実に肯定。青白い房に否定。実物のない黒い茸の報告には反応なし。
――恒一からは見えていない。
同じ文章を、ARCHIVE 03のコメントへ残す。
次のLIVEには届かない。
恒一が読むこともできない。
それでも、いつか過去の配信を開けるようになったとき、この記録だけは迷わず見つけられるように。
『タグから来たけど、最初から見直した』
『次の配信も来る。赤い実を食べる前に伝わるといいな』
新しく来た者たちの言葉が、四人の記録の下へ加わる。
『俺たち、幽霊ちゃんと一緒にポチを見てるんだな』
『幽霊が出る配信、じゃなくて?』
『そっちも合ってる』
『遊ぶな。』
『でも、ずっと見てるのは本当だろ』
四人と、タグから辿り着いた三人の向こう。
止まった映像の中で、白い少女は恒一だけを見ていた。
チャンネル登録者数は、三十九人。
同じLIVEを最後まで見たのは、七人。
急に大勢へ見つかったわけではない。
それでも、四人しか知らなかった異世界の『ポチの小屋』へ、新しい人間が少しずつ入り始めていた。
そして森の中では、その誰より近い場所から、もう一人が同じ配信を見ている。
恒一だけが、それを知らなかった。




