第4話 赤い点が灯るまで
獣の死骸が、消えていた。
昨夜、黒い獣を倒した川辺。
恒一は浅瀬から数歩離れた場所で足を止めた。
そこにあるはずだった大きな身体は、どこにも見当たらない。
地面には、折れた枝の先が抉った跡が残っている。
黒く乾きかけた血。
踏み荒らされた草。
そして、何か重いものを引きずったような跡が、川下へ向かって伸びていた。
「……自分で起き上がった、ってことはないよな」
胸を貫いた感触は、いまも右手に残っている。
獣は動かなくなり、四つの目から光も消えていた。
少なくとも、あの時点では死んでいたはずだ。
仲間が運んだのか。
別の獣が持ち去ったのか。
それとも、死骸を持ち去れるほど大きな何かが、この森にいるのか。
引きずられた跡の周囲には、いくつもの足跡が重なっていた。昨夜の戦いでついたものも混じっていて、数までは分からない。
恒一は追わなかった。
確かめたところで、危険が増えるだけだ。
右手に持った杖を握り直し、反対側の岸へ目を向ける。
朝の光が差しても、木々の奥までは見通せない。
昨夜聞こえた声も、いまは聞こえなかった。
「水だけ取って、離れよう」
誰へ聞かせるでもなく口にする。
視界の隅には、淡い灰色の文字が浮かんでいた。
――REC。
返事はない。
けれど、黙ったままでいるより、自分の判断を声に出した方が頭の中を整理できた。
恒一は川沿いを上流へ進んだ。
左腕には、切り取った袖布が巻かれている。パーカーの左袖は肘から先がほとんど残っておらず、朝の冷気が裂けた布の隙間から肌へ触れた。
フードの左側には三本の裂け目が走り、紐もない。
足には樹皮と蔓で作った簡易靴。
左足側の樹皮には亀裂が入り、歩くたびに土が入り込んだ。
昨夜より痛みの軽くなった左腕に対し、右の脇腹は身体を捻るたび鈍く痛む。
万全とは程遠い。
それでも、朝まで生き残った身体だった。
引きずった跡が見えなくなるまで上流へ移動し、流れが少し速くなっている場所で立ち止まる。
川底の石まで見えるほど、水は澄んでいた。
臭いもない。
だから安全だとは限らない。
恒一にも、その程度の知識はあった。
「煮沸……するための火も、容器もなし」
手のひらで水を掬う。
朝日を反射した水は、地球の川と何も変わらないように見えた。
昨夜は傷を洗うために使ったが、まだ一口も飲んでいない。
喉は、目を覚ましたときから乾いている。
飲まなければ危険だ。
飲んでも危険かもしれない。
選べるのは、その二つだけだった。
恒一は最初の一口を口に含み、すぐには飲み込まず、味を確かめた。
冷たい。
土臭さも、金属のような味もない。
少し迷ったあと、喉へ流し込む。
一口。
間を置いて、もう一口。
乾ききった身体は、もっと飲めと訴えていた。
それでも一度に腹へ入れるのが怖くて、恒一は何度かに分けて水を飲んだ。
「これで腹を壊したら、どうしようもないな」
他人事のように呟き、濡れた手で口元を拭う。
水を持ち帰る方法も必要だった。
周囲には、皿ほどの大きさがある濃緑の葉が生えている。表面は厚く、水を弾いていた。
恒一は一枚を根元から折り、両端を重ねて器のような形にしてみた。
細い枝で留める。
水を掬うと、最初の数秒は持ちこたえた。
すぐに重ねた隙間から細い筋が落ち始め、指の間まで濡れていく。
「ですよね」
もう一枚重ねても、大きくは変わらなかった。
持ち運べても、せいぜい数分。
仮の寝床と川を何度も往復するしかない。
昨夜の大木までは、怪我をする前なら五分ほどだった。
いまの足では、もっとかかる。
夜に水を飲みたくなっても、獣のいる川へ来ることはできない。
恒一は川辺へ背を向け、斜面を見上げた。
「もう少し近くて、高い場所を探すか」
今日一日でやるべきことが、一つ決まった。
◇
川から離れすぎず、川面より高い場所。
背後を守れるものがあり、正面だけを警戒すればいい場所。
言葉にすれば簡単だった。
実際に探すと、条件に合う場所はなかなか見つからない。
川に近い平地は湿っている。
水が増えれば浸かるかもしれない。
斜面には大小の木が密集し、横になれるだけの広さがない。
少し開けた場所には光る草が群生していたが、その下に何が潜んでいるか分からなかった。
恒一は川辺で拾った白い石をポケットへ入れ、曲がり角や目立つ木の根元へ一つずつ置きながら進んだ。
昨夜と同じ失敗はしたくない。
ときどき後ろを振り返り、川へ戻る目印が続いていることを確かめる。
三十分ほど歩いたつもりだった。
実際には、もっと短かったかもしれない。
時計はない。
太陽も、地球と同じ速さで動くとは限らない。
恒一は足を止め、視界の隅に浮かぶ文字へ意識を向けた。
「録画があるなら、配信も……」
赤い点を思い浮かべる。
「ライブ」
灰色のRECの下に、細い文字が浮かんだ。
――NEXT LIVE 14:18:37。
「……出るのか」
数字は、一秒ずつ減っている。
前回の配信が終わったあと、何度試しても現れなかった表示だった。
利用できる時間が近づいたから見えるようになったのか。
意識の向け方が分かっていなかっただけなのか。
どちらかは分からない。
ただ、十四時間あまり後には、もう一度配信できる。
恒一は表示を見つめたまま、昨夜から気になっていた言葉を口にした。
「コメント」
何も起きなかった。
NEXT LIVEの数字が、一秒減っただけだった。
「……アーカイブ」
やはり、変化はない。
視界に残るのは、淡い灰色のRECと、次のLIVEまでの時間だけだ。
昨夜の配信を見直すことも、届かなかった返事を確かめることもできない。
そもそも、本当に返事が送られていたのかさえ分からなかった。
分かっているのは、最後まで視聴者数が四人だったことだけだ。
登録者は三十六人。
配信を始めれば、来るのはだいたい四人から六人。
増えない代わりに、来る人もほとんど変わらない。
昨夜、恒一が机で眠ってしまったあとにも残っていた四人。
森で目を覚まし、呼びかけても返事がなかった三十分のあいだ、数字は一度も減らなかった。
あの四人に映像が届いていたのか。
ただ配信だけが切れず、数字が残っていただけなのか。
確かめる方法はない。
それでも恒一には、見慣れた誰かが画面の向こうにいたように思えた。
いま声を出しても、RECに残るだけだ。
十四時間後のLIVEまで、こちらから地球へ届けることはできない。
東京へ戻れるわけではない。
助けが届く保証もない。
「十四時間」
口にすると、途方もなく長く感じた。
同時に、終わりのない一日ではなくなった。
十四時間後まで生きる。
その先のことは、赤い点が灯ってから考えればいい。
「次の配信まで、生き残る」
恒一は、減り続ける数字を一度だけ確かめた。
それから、また歩き出した。
◇
仮拠点に使えそうな場所を見つけたのは、川を出てから体感で一時間ほど歩いた頃だった。
斜面から横へ張り出した大木の根が、土を抱えるように持ち上がっている。
その手前には、昔倒れたらしい木の幹が横たわっていた。
根と倒木の間は、恒一が身体を横たえるには十分な広さがある。
地面は緩やかに傾き、雨が降っても水が溜まりにくそうだった。
川の音は聞こえるが、水面は木々に隠れて見えない。
川辺からまっすぐ来れば五分ほど。
逃げ道は正面と左側。
右側は斜面。
背後は太い根が塞いでいる。
恒一はすぐに決めず、周囲を一周した。
獣の足跡。
糞。
食べ残し。
木の幹についた爪痕。
分かる範囲で探したが、目立つものはない。
倒木を杖で何度も叩く。
樹皮の下から黒い虫が二匹走り出し、落ち葉の中へ消えた。
ほかに大きな生き物はいない。
「ここにしよう」
決めたところで、住める場所になるわけではなかった。
根と倒木が守ってくれるのは、二方向だけ。
屋根はない。
地面には湿った落ち葉が積もっている。
恒一はまず、杖で地面を払い始めた。
虫や見慣れないものが出てこないことを確かめ、濡れた葉を外へ寄せる。
その上に、乾いた樹皮と枯れ葉を重ねる。
昨夜の寝床と同じだった。
違うのは、今日はまだ日があり、少し考える余裕があることだった。
屋根に使えそうな枝を探す。
長さ。
太さ。
腐っていないか。
片手で持ち上げられるか。
条件を満たす枝は少なく、一本運ぶだけでも脇腹が痛んだ。
根と倒木の間を何度も往復する。
左手は添える程度にしか使えない。
右手だけで枝を引きずると、先端が根や石に引っかかる。
そのたびに立ち止まり、向きを変え、また数歩進む。
最初の二本を斜めに立てかけるだけで、息が上がった。
枝を横へ渡し、黒い蔓を巻きつける。
蔓は簡易靴にも使っているため、余分は多くない。
遠くまで探しに行くわけにもいかなかった。
結び方は、荷物をまとめるときに使う固結びしか知らない。
締める。
枝がずれる。
もう一度締める。
今度は蔓が切れた。
「これは……いつもの配信なら、確実にコメントで怒られてるやつだな」
誰も見ていない録画へ向かって言う。
「その結び方じゃない、とか。先に土台を作れ、とか」
想像したコメントへ答えながら、別の蔓を探す。
言ってから、恒一は手を止めた。
次の配信。
その言葉が、これまでと同じ日常の続きのように聞こえた。
恒一は小さく息を吐き、作業へ戻った。
太い枝を三本。
その間へ細い枝を横向きに渡す。
上から幅の広い葉を重ね、剥がれた樹皮を押さえに使う。
形だけなら、片側へ傾いた屋根に見えた。
最後の葉を載せるため、恒一が枝へ手をかける。
骨組み全体が傾いた。
「あ」
蔓が抜けた。
枝と葉が、一度に倒れ込む。
恒一は咄嗟に後ろへ下がり、右の脇腹を押さえた。
乾いた葉が頭から肩へ降りかかる。
しばらく、その場から動けなかった。
「……はい」
痛みが引くのを待ってから、頭に載った葉を払う。
「ここは録画を止めたいところです」
RECの文字は消えない。
「止まらないんですけど」
自分で言って、ほんの少しだけ笑った。
昨夜、この森へ来てから初めて出た笑いだった。
失敗しても、命までは取られない。
それだけで、獣に襲われたときよりずっと気が楽だった。
恒一は崩れた枝を拾い直した。
今度は先に地面へ浅い穴を作り、枝の先を差し込む。
倒木側には、枝がずれない窪みを探した。
蔓だけへ重さをかけず、枝同士を支え合わせる。
完成したものは、屋根と呼ぶには低く、入口も狭かった。
身体を丸めて入れば、頭と肩だけは覆われる。
風が強ければ葉は飛ぶ。
雨が降れば、隙間からいくらでも水が入る。
あの黒い獣が来れば、壁にもならない。
それでも、何もなかった朝よりは一つ前へ進んでいた。
恒一は入口の前へ座り込んだ。
NEXT LIVEの表示を呼び出す。
――08:46:11。
まだ半分以上ある。
喉が再び乾いていた。
「次は水」
立ち上がり、白い石を辿って川へ向かった。
◇
二度目に川へ下りたときも、獣の姿はなかった。
恒一は上流側で水を飲み、重ねた葉へも水を入れた。
戻るまでに半分以上が零れたが、寝床のそばへ置くことはできた。
葉の器は、地面へ置けばどうにか形を保っている。
夜まで残るかは分からない。
次にしたのは、食べられるものを探すことだった。
空腹は、朝よりはっきりしている。
森には実がないわけではない。
赤い豆ほどの実。
青白く透けた房。
手のひらほどもある黒い茸。
どれも食べ物には見えなかった。
少し離れた枝へ、橙色の鳥が止まった。
鳥は赤い実を嘴で一つ摘み、そのまま飲み込む。
恒一は赤い実へ手を伸ばしかけた。
途中で止める。
「鳥が食べられるから、人間も食べられるとは限らない」
聞き覚えのある知識だった。
正しいかどうかを確かめる手段はない。
腹は減っている。
だが、昨夜、東京の部屋で弁当を食べてから、まだ一日も経っていない。
今日食べなくても、すぐに飢え死にするわけではない。
毒の実へ手を出す方が早く死ぬ。
「今日は食べない」
決める。
「形と場所だけ覚えておく。それまでは水だけ」
赤い実から手を離した。
橙色の鳥が、枝の上で首を傾げる。
「そんな顔をしても、食べないからな」
鳥は短く三度鳴き、森の奥へ飛び去った。
恒一は拠点の周囲へ戻り、できる範囲で準備を続けた。
細い枯れ枝を入口の外へ撒く。
投げられそうな石を三つ、右手の届く位置へ置く。
折れた杖の先を岩へ擦りつけたが、鋭くなる前に木の表面が毛羽立った。
火を起こせないか試そうとして、乾いた枝を両手で回す必要があることに気づき、やめた。
左腕の傷が開けば、昨夜助かった意味がない。
できないことを数えると、いくらでも出てくる。
容器がない。
刃物がない。
火がない。
食料がない。
薬がない。
安全な場所もない。
恒一はNEXT LIVEの表示を出した。
――03:12:24。
三時間。
いま必要なのは、三時間を生きることだけだった。
全部を今日どうにかする必要はない。
恒一は葉の器から、残っていた水を一口飲んだ。
それから、入口の前で膝を抱えた。
身体を休めながら、次のLIVEで伝えることを頭の中に並べた。
まず、生きていること。
次に、傷の状態。
獣の死骸が消えたこと。
川の水を飲んだこと。
そして、川の近くに寝床を作ったこと。
順番を決めておけば、限られた三十分を無駄にせずに済む。
「……最初は、生きてることからだな」
RECへ向けて呟き、仮拠点へ視線を向ける。
「小屋と呼ぶには、だいぶ無理がありますけど」
重ねた葉の隙間から、向こう側の空が見えている。
自宅の一室。
机とパソコン。
犬小屋を描いたチャンネルアイコン。
そこから始めた名前だった。
いま目の前にあるのは、枝と葉を立てかけただけの寝床だ。
それでも、自分で場所を選び、自分の手で作った。
今日一日を生き延びるための場所だった。
「これでも、昨日よりはましか」
恒一は倒木へ背を預けた。
残り時間が減っていく。
あと二時間。
あと一時間。
森が少しずつ暗くなる。
太陽が木々の向こうへ傾き、光る草が存在感を増していく。
昨夜ほど、暗闇に突然放り込まれる感覚はなかった。
枯れ枝が鳴るたび杖を取った。
一度は橙色の鳥。
一度は青い鼠のような生き物。
三度目は、何も見えなかった。
恒一は入口へ身体を寄せ、呼吸を抑えて待った。
茂みの向こうで、白いものが揺れた気がした。
細い木の幹。
月のない空から落ちた、最後の光。
どちらなのか見分ける前に、それは消えた。
追うことはしない。
杖を手元へ置いたまま、残り時間を見る。
――00:02:31。
「もうすぐだ」
喉が急に渇いた。
葉の器に残る最後の水を飲む。
切り取った袖布を巻き直す。
左の簡易靴へ新しい蔓を一本足した。
配信だからといって、見た目を整えられるわけではない。
それでも、できることだけはした。
――00:00:10。
数字が一つずつ減る。
恒一は、仮小屋の入口へ座った。
背後は大木の根。
右手のそばに杖。
正面には、薄暗い森。
――00:00:03。
――00:00:02。
――00:00:01。
数字が消えた。
灰色のRECが、一度だけ瞬く。
その下へ、短い文字が浮かんだ。
――LIVE READY。
恒一は息を吸った。
「配信、開始」
赤い点が灯った。
◇
視界の隅へ、数字と音声メーターが戻る。
残り時間は、三十分。
同時視聴者数は、ゼロ。
恒一は、挨拶をする前に一度だけ息を止めた。
通知が届くまでのわずかな時間だと分かっている。
東京の部屋で配信していたときも、最初はいつもゼロから始まった。
それでも、この森で見るゼロは、意味が違って見えた。
一人。
数字が動く。
続いて三人。
少し遅れて、四人。
そこで止まった。
昨夜、この森まで繋がっていた数と同じだった。
視界にあるのは、残り時間と視聴者数、音声メーターだけだった。
コメントを表示する欄は、今回もない。
四人が誰なのかも、こちらの声が本当に届いているのかも分からない。
恒一は一度俯き、すぐに顔を上げた。
「こんばんは。ポチです」
いつもの挨拶。
「見てのとおり、とりあえず生きています」
声が少し震えた。
森で独り言を続けていたときとは違う。
少なくとも、数字の向こうには、この先を見ようとしている人がいる。
それでも、誰も見ていない録画ではなかった。
「前回の配信が終わってから、朝まで森で過ごしました。左腕の傷は出血が止まっています。右の脇腹はまだ痛みますが、歩けます」
左腕を視界へ入れる。
黒い布。
肘から先が裂け落ちた左袖。
爪で裂かれたフード。
自分の姿がどう映っているのかは見えない。
「川へ戻ったところ、倒した獣の死骸はなくなっていました。水は上流へ移動してから飲みました。いまのところ、身体に異常はありません」
同時視聴者数は、四人のままだった。
いつもの『ポチの小屋』なら、珍しくもない数字だ。
知らない誰かが偶然迷い込むことはほとんどない。増えない代わりに、来る人も、書き込まれる言葉の癖も、何年も大きくは変わらなかった。
だからこそ、恒一には思えた。
いま見ているのは、昨夜、眠ってしまった自分を置いていかなかった四人なのだと。
名前も、言葉も見えない。
確かめることもできない。
それでも、四という数字だけは消えずに残っている。
「それと、先に一つだけ」
返事を待つ代わりに、恒一は先回りして伝えた。
「こちらには、コメント欄が表示されていません。昨日も一文字も見えませんでした。いまも同じです」
一度、息を吸う。
「そちらから返事が送れるのかも、送ってくれているのかも分かりません。でも、見てくれている人数だけは分かります」
四人。
数字は動かなかった。
「……それだけでも、助かります」
恒一は仮拠点へ視線を向けた。
「今日は、寝る場所を作りました」
枝と葉を組んだ屋根を、ゆっくり映す。
「小屋と呼ぶには無理があるんですけど……川より少し高くて、背後を大木の根に守られています」
入口へ座り直す。
「今日から、ここを異世界版の『ポチの小屋』にします」
「改めまして」
少し間を置いた。
「ポチの小屋へようこそ」
その言葉が地球へ届いたとき、どんな反応が返ったのか。
恒一には、まだ分からない。
けれど、配信を始める前より呼吸が楽になっていた。
◇
地球側の配信画面では、恒一へ届かない言葉が流れ続けていた。
『生きてた』
『配信開始から二分十一秒。歩行可能、左腕の出血停止』
『傷、昨日より良くなってるように見える。たぶん』
『川の水をそのまま飲むな。』
昨夜と同じ四人だった。
短く声を上げる者。
時刻と事実を記録する者。
断定を避けながら映像を見比べる者。
句点のついた短い言葉で、恒一の無茶を止めようとする者。
十年以上も同じ小屋へ通ってきた彼らには、表示名を確かめなくても、誰が何を書いたのか分かった。
恒一にも、本来なら分かるはずだった。
けれど、どの言葉も異世界側のLIVE表示へは加わらない。
◇
残り時間は二十二分。
「皆さんにお願いがあります」
恒一は、できるだけはっきりと話した。
「もし、そちらからコメントを送れるなら、記録を残しておいてください。こちらでは今、読むことができません。配信が終わったあとに読める保証もありません」
自分で口にすると、頼み事としてあまりに頼りなかった。
書いてもらっても、届かないかもしれない。
届くとしても、それがいつなのか分からない。
「それでも、いつか確認できるようになるかもしれないので」
「一つ目。道具がない状態で、川の水を少しでも安全に飲む方法」
右手の指を一本立てる。
「二つ目。火を起こす方法。左腕を怪我しているので、両手へ強い力をかけるやり方は難しいです」
二本目。
「三つ目。これまでの映像に映った植物と獣について。似たものや、危険そうな特徴があれば教えてください」
三本目。
「それから、僕が気づいていないものが映ったら、時間と画面のどちら側かを残してもらえると助かります」
普段の参加型配信なら、ここで誰かが要点をまとめ、別の誰かが足りない条件を聞き返してくる。
いまは、返事を待っても沈黙しかない。
恒一は視聴者数を見た。
四人。
「ただ、無理はしないでください。四人だけで全部を調べる必要はありません。皆さんにも仕事や学校があるでしょうし……明日早いって言っていた人もいましたよね」
昨夜、配信を途中まで見ると書いていた誰か。
その誰かも、結局は眠る恒一を置いていかなかった四人の中にいたのだろうか。
分からないままでも、恒一は続けた。
「今日と同じなら、次にLIVEを使えるのは、たぶん二十四時間後です。それまでに僕がやることは、水を確保すること。寝床を補強すること。食べられそうなものを、食べずに記録すること」
残り時間を見る。
「次のLIVEまで、生き残ります」
昨夜、誰も見ていない録画へ向けて言った言葉。
今度は、地球にいる誰かへ届く。
◇
残り十分を切ったところで、恒一は拠点の周囲を見せることにした。
暗くなってから歩き回るつもりはない。
入口から数歩だけ外へ出る。
「正面が、川へ続く道です。白い石を目印に置いています」
視線を右へ動かす。
斜面。
太い根。
青白く光り始めた草。
「右側は上りです。昨夜いた大木は、あちらへ十分くらい」
次に左。
倒木の先。
葉の間から、まだ明るさの残る空が見える。
視界の端を、白いものが横切った。
恒一は気づかなかった。
足元の樹皮がずれ、そちらへ意識を向けていた。
しゃがみ込み、蔓を結び直す。
「左側は少し開けています。逃げるなら、たぶんこちらです」
地球側へ送られている映像では、その左上。
倒木と木の幹の隙間から、白い少女が半分だけ顔を覗かせていた。
地面へ届くほど長い白銀の髪。
水を編んだように透き通る衣。
青白い瞳は、恒一ではなく、彼の視界の向こう側を見ているようだった。
地球側のコメント欄で、四人の言葉が立て続けに重なった。
『左』
『残り七分四十二秒。画面左端、白い人影』
『昨日の最後に映った白いのと同じ、たぶん』
『ポチ、振り向くな。』
『いや、場所を確認した方がいい』
『見えてない。いま左を映したのに反応してない』
『ずっとこっち見てる』
『動くな。』
その一つも、恒一の視界には現れなかった。
同時視聴者数は、四人のままだった。
新しく誰かが来ることもない。
四人のうち、一人も画面を離れなかった。
数字が動かないため、恒一には向こう側で何かが起きたと気づく手がかりさえなかった。
立ち上がった恒一の背後で、白い少女がわずかに首を傾げる。
恒一は仮小屋へ戻った。
「今日は、ここから動きません」
入口へ入り、杖を右側へ置く。
「明日の朝、また水を取りに行きます。配信が使えるようになるまで、RECで記録を続けます」
残り一分。
同時視聴者数は、四人。
最後まで、誰の言葉もLIVE表示には現れない。
恒一には、数字の向こうにいる者たちの名前も、声も分からなかった。
「四人とも、最後まで見てくれて、ありがとうございます」
赤い数字が減っていく。
「また明日」
少し迷ってから、いつもの配信と同じ言葉を続けた。
「おやすみなさい」
残り時間がゼロになる。
赤い点が消えた。
同時視聴者数。
音声メーター。
すべてが一度に消え、淡い灰色の文字だけが残る。
――REC。
恒一は、静かになった視界を見つめた。
昨夜ほどの絶望はなかった。
次のLIVEまで、あと一日。
それは長い。
けれど、終わりの見えない時間ではない。
「アーカイブ」
何も開かなかった。
朝に試したときと同じだった。
「コメント」
RECの文字は変わらない。
四人が何を書いたのか。
何も書かなかったのか。
自分の声が、どこまで届いていたのか。
やはり、確かめることはできなかった。
それでも、配信が終わる直前まで視聴者数は四人だった。
四人がいる。
いまの恒一に受け取れた返事は、それだけだった。
恒一は背中を大木の根へ預けた。
右手には杖を残す。
目を閉じるつもりはなかった。
ほんの少し、痛む脇腹を休めるだけのつもりだった。
仮小屋の外。
彼が撒いた枯れ枝の手前へ、白い少女が座る。
枯れ枝を踏めば音が鳴ることを知っているように、その内側へは入らない。
長い髪が、夜の中を水のように漂う。
少女は、眠ろうとする恒一を見つめた。
昨夜よりも近い場所から。
地球側では、映像が止まったあとも、同じ四人が配信ページに残っていた。
『ポチ、女の子がいる』
『残り七分四十二秒、画面左』
『昨日の最後にも映ってる。今回より遠いけど、たぶん同じ子』
『次の配信へ書いても届かない。』
四人は、前日のLIVEでそれをすでに確かめていた。
こちらから送った言葉は、恒一の視界へ現れない。
終わった配信へ残したコメントが、次のLIVEへ持ち越されることもない。
恒一自身にも、過去の配信やコメントを開く機能はまだ与えられていなかった。
一人が、少女の映った時刻を記録する。
一人が、前日の映像から白い影を探す。
一人が、二つの場面を見比べる。
一人が、返事の来ない画面へ短く書いた。
『ポチ、生きろ。』
その言葉も、届かない。
それでも四人は、小屋を閉じなかった。
画面の向こうでは、白い少女が何も知らない恒一を、昨夜よりも近い場所から見つめていた。




