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第4話 赤い点が灯るまで

挿絵(By みてみん)

 獣の死骸が、消えていた。


 昨夜、黒い獣を倒した川辺。


 恒一は浅瀬から数歩離れた場所で足を止めた。


 そこにあるはずだった大きな身体は、どこにも見当たらない。


 地面には、折れた枝の先が抉った跡が残っている。


 黒く乾きかけた血。


 踏み荒らされた草。


 そして、何か重いものを引きずったような跡が、川下へ向かって伸びていた。


「……自分で起き上がった、ってことはないよな」


 胸を貫いた感触は、いまも右手に残っている。


 獣は動かなくなり、四つの目から光も消えていた。


 少なくとも、あの時点では死んでいたはずだ。


 仲間が運んだのか。


 別の獣が持ち去ったのか。


 それとも、死骸を持ち去れるほど大きな何かが、この森にいるのか。


 引きずられた跡の周囲には、いくつもの足跡が重なっていた。昨夜の戦いでついたものも混じっていて、数までは分からない。


挿絵(By みてみん)


 恒一は追わなかった。


 確かめたところで、危険が増えるだけだ。


 右手に持った杖を握り直し、反対側の岸へ目を向ける。


 朝の光が差しても、木々の奥までは見通せない。


 昨夜聞こえた声も、いまは聞こえなかった。


「水だけ取って、離れよう」


 誰へ聞かせるでもなく口にする。


 視界の隅には、淡い灰色の文字が浮かんでいた。


 ――REC。


 返事はない。


 けれど、黙ったままでいるより、自分の判断を声に出した方が頭の中を整理できた。


 恒一は川沿いを上流へ進んだ。


 左腕には、切り取った袖布が巻かれている。パーカーの左袖は肘から先がほとんど残っておらず、朝の冷気が裂けた布の隙間から肌へ触れた。


 フードの左側には三本の裂け目が走り、紐もない。


 足には樹皮と蔓で作った簡易靴。


 左足側の樹皮には亀裂が入り、歩くたびに土が入り込んだ。


 昨夜より痛みの軽くなった左腕に対し、右の脇腹は身体を捻るたび鈍く痛む。


 万全とは程遠い。


 それでも、朝まで生き残った身体だった。


 引きずった跡が見えなくなるまで上流へ移動し、流れが少し速くなっている場所で立ち止まる。


 川底の石まで見えるほど、水は澄んでいた。


 臭いもない。


 だから安全だとは限らない。


 恒一にも、その程度の知識はあった。


「煮沸……するための火も、容器もなし」


 手のひらで水を掬う。


 朝日を反射した水は、地球の川と何も変わらないように見えた。


 昨夜は傷を洗うために使ったが、まだ一口も飲んでいない。


 喉は、目を覚ましたときから乾いている。


 飲まなければ危険だ。


 飲んでも危険かもしれない。


 選べるのは、その二つだけだった。


 恒一は最初の一口を口に含み、すぐには飲み込まず、味を確かめた。


 冷たい。


 土臭さも、金属のような味もない。


 少し迷ったあと、喉へ流し込む。


 一口。


 間を置いて、もう一口。


 乾ききった身体は、もっと飲めと訴えていた。


 それでも一度に腹へ入れるのが怖くて、恒一は何度かに分けて水を飲んだ。


「これで腹を壊したら、どうしようもないな」


 他人事のように呟き、濡れた手で口元を拭う。


 水を持ち帰る方法も必要だった。


 周囲には、皿ほどの大きさがある濃緑の葉が生えている。表面は厚く、水を弾いていた。


 恒一は一枚を根元から折り、両端を重ねて器のような形にしてみた。


 細い枝で留める。


 水を掬うと、最初の数秒は持ちこたえた。


 すぐに重ねた隙間から細い筋が落ち始め、指の間まで濡れていく。


「ですよね」


 もう一枚重ねても、大きくは変わらなかった。


 持ち運べても、せいぜい数分。


 仮の寝床と川を何度も往復するしかない。


 昨夜の大木までは、怪我をする前なら五分ほどだった。


 いまの足では、もっとかかる。


 夜に水を飲みたくなっても、獣のいる川へ来ることはできない。


 恒一は川辺へ背を向け、斜面を見上げた。


「もう少し近くて、高い場所を探すか」


 今日一日でやるべきことが、一つ決まった。


     ◇


 川から離れすぎず、川面より高い場所。


 背後を守れるものがあり、正面だけを警戒すればいい場所。


 言葉にすれば簡単だった。


 実際に探すと、条件に合う場所はなかなか見つからない。


 川に近い平地は湿っている。


 水が増えれば浸かるかもしれない。


 斜面には大小の木が密集し、横になれるだけの広さがない。


 少し開けた場所には光る草が群生していたが、その下に何が潜んでいるか分からなかった。


 恒一は川辺で拾った白い石をポケットへ入れ、曲がり角や目立つ木の根元へ一つずつ置きながら進んだ。


 昨夜と同じ失敗はしたくない。


 ときどき後ろを振り返り、川へ戻る目印が続いていることを確かめる。


 三十分ほど歩いたつもりだった。


 実際には、もっと短かったかもしれない。


 時計はない。


 太陽も、地球と同じ速さで動くとは限らない。


 恒一は足を止め、視界の隅に浮かぶ文字へ意識を向けた。


「録画があるなら、配信も……」


 赤い点を思い浮かべる。


「ライブ」


 灰色のRECの下に、細い文字が浮かんだ。


 ――NEXT LIVE 14:18:37。


「……出るのか」


 数字は、一秒ずつ減っている。


 前回の配信が終わったあと、何度試しても現れなかった表示だった。


 利用できる時間が近づいたから見えるようになったのか。


 意識の向け方が分かっていなかっただけなのか。


 どちらかは分からない。


 ただ、十四時間あまり後には、もう一度配信できる。


 恒一は表示を見つめたまま、昨夜から気になっていた言葉を口にした。


「コメント」


 何も起きなかった。


 NEXT LIVEの数字が、一秒減っただけだった。


「……アーカイブ」


 やはり、変化はない。


 視界に残るのは、淡い灰色のRECと、次のLIVEまでの時間だけだ。


 昨夜の配信を見直すことも、届かなかった返事を確かめることもできない。


 そもそも、本当に返事が送られていたのかさえ分からなかった。


 分かっているのは、最後まで視聴者数が四人だったことだけだ。


 登録者は三十六人。


 配信を始めれば、来るのはだいたい四人から六人。


 増えない代わりに、来る人もほとんど変わらない。


 昨夜、恒一が机で眠ってしまったあとにも残っていた四人。


 森で目を覚まし、呼びかけても返事がなかった三十分のあいだ、数字は一度も減らなかった。


 あの四人に映像が届いていたのか。


 ただ配信だけが切れず、数字が残っていただけなのか。


 確かめる方法はない。


 それでも恒一には、見慣れた誰かが画面の向こうにいたように思えた。


 いま声を出しても、RECに残るだけだ。


 十四時間後のLIVEまで、こちらから地球へ届けることはできない。


 東京へ戻れるわけではない。


 助けが届く保証もない。


「十四時間」


 口にすると、途方もなく長く感じた。


 同時に、終わりのない一日ではなくなった。


 十四時間後まで生きる。


 その先のことは、赤い点が灯ってから考えればいい。


「次の配信まで、生き残る」


 恒一は、減り続ける数字を一度だけ確かめた。


 それから、また歩き出した。


     ◇


 仮拠点に使えそうな場所を見つけたのは、川を出てから体感で一時間ほど歩いた頃だった。


 斜面から横へ張り出した大木の根が、土を抱えるように持ち上がっている。


 その手前には、昔倒れたらしい木の幹が横たわっていた。


 根と倒木の間は、恒一が身体を横たえるには十分な広さがある。


 地面は緩やかに傾き、雨が降っても水が溜まりにくそうだった。


 川の音は聞こえるが、水面は木々に隠れて見えない。


 川辺からまっすぐ来れば五分ほど。


 逃げ道は正面と左側。


 右側は斜面。


 背後は太い根が塞いでいる。


 恒一はすぐに決めず、周囲を一周した。


 獣の足跡。


 糞。


 食べ残し。


 木の幹についた爪痕。


 分かる範囲で探したが、目立つものはない。


 倒木を杖で何度も叩く。


 樹皮の下から黒い虫が二匹走り出し、落ち葉の中へ消えた。


 ほかに大きな生き物はいない。


「ここにしよう」


 決めたところで、住める場所になるわけではなかった。


 根と倒木が守ってくれるのは、二方向だけ。


 屋根はない。


 地面には湿った落ち葉が積もっている。


 恒一はまず、杖で地面を払い始めた。


 虫や見慣れないものが出てこないことを確かめ、濡れた葉を外へ寄せる。


 その上に、乾いた樹皮と枯れ葉を重ねる。


 昨夜の寝床と同じだった。


 違うのは、今日はまだ日があり、少し考える余裕があることだった。


 屋根に使えそうな枝を探す。


 長さ。


 太さ。


 腐っていないか。


 片手で持ち上げられるか。


 条件を満たす枝は少なく、一本運ぶだけでも脇腹が痛んだ。


 根と倒木の間を何度も往復する。


 左手は添える程度にしか使えない。


 右手だけで枝を引きずると、先端が根や石に引っかかる。


 そのたびに立ち止まり、向きを変え、また数歩進む。


 最初の二本を斜めに立てかけるだけで、息が上がった。


 枝を横へ渡し、黒い蔓を巻きつける。


 蔓は簡易靴にも使っているため、余分は多くない。


 遠くまで探しに行くわけにもいかなかった。


 結び方は、荷物をまとめるときに使う固結びしか知らない。


 締める。


 枝がずれる。


 もう一度締める。


 今度は蔓が切れた。


「これは……いつもの配信なら、確実にコメントで怒られてるやつだな」


 誰も見ていない録画へ向かって言う。


「その結び方じゃない、とか。先に土台を作れ、とか」


 想像したコメントへ答えながら、別の蔓を探す。


 言ってから、恒一は手を止めた。


 次の配信。


 その言葉が、これまでと同じ日常の続きのように聞こえた。


 恒一は小さく息を吐き、作業へ戻った。


 太い枝を三本。


 その間へ細い枝を横向きに渡す。


 上から幅の広い葉を重ね、剥がれた樹皮を押さえに使う。


 形だけなら、片側へ傾いた屋根に見えた。


 最後の葉を載せるため、恒一が枝へ手をかける。


 骨組み全体が傾いた。


「あ」


 蔓が抜けた。


 枝と葉が、一度に倒れ込む。


 恒一は咄嗟に後ろへ下がり、右の脇腹を押さえた。


 乾いた葉が頭から肩へ降りかかる。


 しばらく、その場から動けなかった。


「……はい」


 痛みが引くのを待ってから、頭に載った葉を払う。


「ここは録画を止めたいところです」


 RECの文字は消えない。


「止まらないんですけど」


 自分で言って、ほんの少しだけ笑った。


 昨夜、この森へ来てから初めて出た笑いだった。


挿絵(By みてみん)


 失敗しても、命までは取られない。


 それだけで、獣に襲われたときよりずっと気が楽だった。


 恒一は崩れた枝を拾い直した。


 今度は先に地面へ浅い穴を作り、枝の先を差し込む。


 倒木側には、枝がずれない窪みを探した。


 蔓だけへ重さをかけず、枝同士を支え合わせる。


 完成したものは、屋根と呼ぶには低く、入口も狭かった。


 身体を丸めて入れば、頭と肩だけは覆われる。


 風が強ければ葉は飛ぶ。


 雨が降れば、隙間からいくらでも水が入る。


 あの黒い獣が来れば、壁にもならない。


 それでも、何もなかった朝よりは一つ前へ進んでいた。


 恒一は入口の前へ座り込んだ。


 NEXT LIVEの表示を呼び出す。


 ――08:46:11。


 まだ半分以上ある。


 喉が再び乾いていた。


「次は水」


 立ち上がり、白い石を辿って川へ向かった。


     ◇


 二度目に川へ下りたときも、獣の姿はなかった。


 恒一は上流側で水を飲み、重ねた葉へも水を入れた。


 戻るまでに半分以上が零れたが、寝床のそばへ置くことはできた。


 葉の器は、地面へ置けばどうにか形を保っている。


 夜まで残るかは分からない。


 次にしたのは、食べられるものを探すことだった。


 空腹は、朝よりはっきりしている。


 森には実がないわけではない。


 赤い豆ほどの実。


 青白く透けた房。


 手のひらほどもある黒い茸。


 どれも食べ物には見えなかった。


 少し離れた枝へ、橙色の鳥が止まった。


 鳥は赤い実を嘴で一つ摘み、そのまま飲み込む。


 恒一は赤い実へ手を伸ばしかけた。


 途中で止める。


「鳥が食べられるから、人間も食べられるとは限らない」


 聞き覚えのある知識だった。


 正しいかどうかを確かめる手段はない。


 腹は減っている。


 だが、昨夜、東京の部屋で弁当を食べてから、まだ一日も経っていない。


 今日食べなくても、すぐに飢え死にするわけではない。


 毒の実へ手を出す方が早く死ぬ。


「今日は食べない」


 決める。


「形と場所だけ覚えておく。それまでは水だけ」


 赤い実から手を離した。


 橙色の鳥が、枝の上で首を傾げる。


「そんな顔をしても、食べないからな」


 鳥は短く三度鳴き、森の奥へ飛び去った。


 恒一は拠点の周囲へ戻り、できる範囲で準備を続けた。


 細い枯れ枝を入口の外へ撒く。


 投げられそうな石を三つ、右手の届く位置へ置く。


 折れた杖の先を岩へ擦りつけたが、鋭くなる前に木の表面が毛羽立った。


 火を起こせないか試そうとして、乾いた枝を両手で回す必要があることに気づき、やめた。


 左腕の傷が開けば、昨夜助かった意味がない。


 できないことを数えると、いくらでも出てくる。


 容器がない。


 刃物がない。


 火がない。


 食料がない。


 薬がない。


 安全な場所もない。


 恒一はNEXT LIVEの表示を出した。


 ――03:12:24。


 三時間。


 いま必要なのは、三時間を生きることだけだった。


 全部を今日どうにかする必要はない。


 恒一は葉の器から、残っていた水を一口飲んだ。


 それから、入口の前で膝を抱えた。


 身体を休めながら、次のLIVEで伝えることを頭の中に並べた。


 まず、生きていること。


 次に、傷の状態。


 獣の死骸が消えたこと。


 川の水を飲んだこと。


 そして、川の近くに寝床を作ったこと。


 順番を決めておけば、限られた三十分を無駄にせずに済む。


「……最初は、生きてることからだな」


 RECへ向けて呟き、仮拠点へ視線を向ける。


「小屋と呼ぶには、だいぶ無理がありますけど」


 重ねた葉の隙間から、向こう側の空が見えている。


 自宅の一室。


 机とパソコン。


 犬小屋を描いたチャンネルアイコン。


 そこから始めた名前だった。


 いま目の前にあるのは、枝と葉を立てかけただけの寝床だ。


 それでも、自分で場所を選び、自分の手で作った。


 今日一日を生き延びるための場所だった。


「これでも、昨日よりはましか」


 恒一は倒木へ背を預けた。


 残り時間が減っていく。


 あと二時間。


 あと一時間。


 森が少しずつ暗くなる。


 太陽が木々の向こうへ傾き、光る草が存在感を増していく。


 昨夜ほど、暗闇に突然放り込まれる感覚はなかった。


 枯れ枝が鳴るたび杖を取った。


 一度は橙色の鳥。


 一度は青い鼠のような生き物。


 三度目は、何も見えなかった。


 恒一は入口へ身体を寄せ、呼吸を抑えて待った。


 茂みの向こうで、白いものが揺れた気がした。


 細い木の幹。


 月のない空から落ちた、最後の光。


 どちらなのか見分ける前に、それは消えた。


 追うことはしない。


 杖を手元へ置いたまま、残り時間を見る。


 ――00:02:31。


「もうすぐだ」


 喉が急に渇いた。


 葉の器に残る最後の水を飲む。


 切り取った袖布を巻き直す。


 左の簡易靴へ新しい蔓を一本足した。


 配信だからといって、見た目を整えられるわけではない。


 それでも、できることだけはした。


 ――00:00:10。


 数字が一つずつ減る。


 恒一は、仮小屋の入口へ座った。


 背後は大木の根。


 右手のそばに杖。


 正面には、薄暗い森。


 ――00:00:03。


 ――00:00:02。


 ――00:00:01。


 数字が消えた。


 灰色のRECが、一度だけ瞬く。


 その下へ、短い文字が浮かんだ。


 ――LIVE READY。


 恒一は息を吸った。


「配信、開始」


 赤い点が灯った。


挿絵(By みてみん)


     ◇


 視界の隅へ、数字と音声メーターが戻る。


 残り時間は、三十分。


 同時視聴者数は、ゼロ。


 恒一は、挨拶をする前に一度だけ息を止めた。


 通知が届くまでのわずかな時間だと分かっている。


 東京の部屋で配信していたときも、最初はいつもゼロから始まった。


 それでも、この森で見るゼロは、意味が違って見えた。


 一人。


 数字が動く。


 続いて三人。


 少し遅れて、四人。


 そこで止まった。


 昨夜、この森まで繋がっていた数と同じだった。


 視界にあるのは、残り時間と視聴者数、音声メーターだけだった。


 コメントを表示する欄は、今回もない。


 四人が誰なのかも、こちらの声が本当に届いているのかも分からない。


 恒一は一度俯き、すぐに顔を上げた。


「こんばんは。ポチです」


 いつもの挨拶。


「見てのとおり、とりあえず生きています」


 声が少し震えた。


 森で独り言を続けていたときとは違う。


 少なくとも、数字の向こうには、この先を見ようとしている人がいる。


 それでも、誰も見ていない録画ではなかった。


「前回の配信が終わってから、朝まで森で過ごしました。左腕の傷は出血が止まっています。右の脇腹はまだ痛みますが、歩けます」


 左腕を視界へ入れる。


 黒い布。


 肘から先が裂け落ちた左袖。


 爪で裂かれたフード。


 自分の姿がどう映っているのかは見えない。


「川へ戻ったところ、倒した獣の死骸はなくなっていました。水は上流へ移動してから飲みました。いまのところ、身体に異常はありません」


 同時視聴者数は、四人のままだった。


 いつもの『ポチの小屋』なら、珍しくもない数字だ。


 知らない誰かが偶然迷い込むことはほとんどない。増えない代わりに、来る人も、書き込まれる言葉の癖も、何年も大きくは変わらなかった。


 だからこそ、恒一には思えた。


 いま見ているのは、昨夜、眠ってしまった自分を置いていかなかった四人なのだと。


 名前も、言葉も見えない。


 確かめることもできない。


 それでも、四という数字だけは消えずに残っている。


「それと、先に一つだけ」


 返事を待つ代わりに、恒一は先回りして伝えた。


「こちらには、コメント欄が表示されていません。昨日も一文字も見えませんでした。いまも同じです」


 一度、息を吸う。


「そちらから返事が送れるのかも、送ってくれているのかも分かりません。でも、見てくれている人数だけは分かります」


 四人。


 数字は動かなかった。


「……それだけでも、助かります」


 恒一は仮拠点へ視線を向けた。


「今日は、寝る場所を作りました」


 枝と葉を組んだ屋根を、ゆっくり映す。


「小屋と呼ぶには無理があるんですけど……川より少し高くて、背後を大木の根に守られています」


 入口へ座り直す。


「今日から、ここを異世界版の『ポチの小屋』にします」


「改めまして」


 少し間を置いた。


「ポチの小屋へようこそ」


 その言葉が地球へ届いたとき、どんな反応が返ったのか。


 恒一には、まだ分からない。


 けれど、配信を始める前より呼吸が楽になっていた。


     ◇


 地球側の配信画面では、恒一へ届かない言葉が流れ続けていた。


『生きてた』


『配信開始から二分十一秒。歩行可能、左腕の出血停止』


『傷、昨日より良くなってるように見える。たぶん』


『川の水をそのまま飲むな。』


 昨夜と同じ四人だった。


 短く声を上げる者。


 時刻と事実を記録する者。


 断定を避けながら映像を見比べる者。


 句点のついた短い言葉で、恒一の無茶を止めようとする者。


 十年以上も同じ小屋へ通ってきた彼らには、表示名を確かめなくても、誰が何を書いたのか分かった。


 恒一にも、本来なら分かるはずだった。


 けれど、どの言葉も異世界側のLIVE表示へは加わらない。


     ◇


 残り時間は二十二分。


「皆さんにお願いがあります」


 恒一は、できるだけはっきりと話した。


「もし、そちらからコメントを送れるなら、記録を残しておいてください。こちらでは今、読むことができません。配信が終わったあとに読める保証もありません」


 自分で口にすると、頼み事としてあまりに頼りなかった。


 書いてもらっても、届かないかもしれない。


 届くとしても、それがいつなのか分からない。


「それでも、いつか確認できるようになるかもしれないので」


「一つ目。道具がない状態で、川の水を少しでも安全に飲む方法」


 右手の指を一本立てる。


「二つ目。火を起こす方法。左腕を怪我しているので、両手へ強い力をかけるやり方は難しいです」


 二本目。


「三つ目。これまでの映像に映った植物と獣について。似たものや、危険そうな特徴があれば教えてください」


 三本目。


「それから、僕が気づいていないものが映ったら、時間と画面のどちら側かを残してもらえると助かります」


 普段の参加型配信なら、ここで誰かが要点をまとめ、別の誰かが足りない条件を聞き返してくる。


 いまは、返事を待っても沈黙しかない。


 恒一は視聴者数を見た。


 四人。


「ただ、無理はしないでください。四人だけで全部を調べる必要はありません。皆さんにも仕事や学校があるでしょうし……明日早いって言っていた人もいましたよね」


 昨夜、配信を途中まで見ると書いていた誰か。


 その誰かも、結局は眠る恒一を置いていかなかった四人の中にいたのだろうか。


 分からないままでも、恒一は続けた。


「今日と同じなら、次にLIVEを使えるのは、たぶん二十四時間後です。それまでに僕がやることは、水を確保すること。寝床を補強すること。食べられそうなものを、食べずに記録すること」


 残り時間を見る。


「次のLIVEまで、生き残ります」


 昨夜、誰も見ていない録画へ向けて言った言葉。


 今度は、地球にいる誰かへ届く。


     ◇


 残り十分を切ったところで、恒一は拠点の周囲を見せることにした。


 暗くなってから歩き回るつもりはない。


 入口から数歩だけ外へ出る。


「正面が、川へ続く道です。白い石を目印に置いています」


 視線を右へ動かす。


 斜面。


 太い根。


 青白く光り始めた草。


「右側は上りです。昨夜いた大木は、あちらへ十分くらい」


 次に左。


 倒木の先。


 葉の間から、まだ明るさの残る空が見える。


 視界の端を、白いものが横切った。


 恒一は気づかなかった。


 足元の樹皮がずれ、そちらへ意識を向けていた。


 しゃがみ込み、蔓を結び直す。


「左側は少し開けています。逃げるなら、たぶんこちらです」


 地球側へ送られている映像では、その左上。


 倒木と木の幹の隙間から、白い少女が半分だけ顔を覗かせていた。


 地面へ届くほど長い白銀の髪。


 水を編んだように透き通る衣。


 青白い瞳は、恒一ではなく、彼の視界の向こう側を見ているようだった。


挿絵(By みてみん)


 地球側のコメント欄で、四人の言葉が立て続けに重なった。


『左』


『残り七分四十二秒。画面左端、白い人影』


『昨日の最後に映った白いのと同じ、たぶん』


『ポチ、振り向くな。』


『いや、場所を確認した方がいい』


『見えてない。いま左を映したのに反応してない』


『ずっとこっち見てる』


『動くな。』


 その一つも、恒一の視界には現れなかった。


 同時視聴者数は、四人のままだった。


 新しく誰かが来ることもない。


 四人のうち、一人も画面を離れなかった。


 数字が動かないため、恒一には向こう側で何かが起きたと気づく手がかりさえなかった。


 立ち上がった恒一の背後で、白い少女がわずかに首を傾げる。


 恒一は仮小屋へ戻った。


「今日は、ここから動きません」


 入口へ入り、杖を右側へ置く。


「明日の朝、また水を取りに行きます。配信が使えるようになるまで、RECで記録を続けます」


 残り一分。


 同時視聴者数は、四人。


 最後まで、誰の言葉もLIVE表示には現れない。


 恒一には、数字の向こうにいる者たちの名前も、声も分からなかった。


「四人とも、最後まで見てくれて、ありがとうございます」


 赤い数字が減っていく。


「また明日」


 少し迷ってから、いつもの配信と同じ言葉を続けた。


「おやすみなさい」


 残り時間がゼロになる。


 赤い点が消えた。


 同時視聴者数。


 音声メーター。


 すべてが一度に消え、淡い灰色の文字だけが残る。


 ――REC。


 恒一は、静かになった視界を見つめた。


 昨夜ほどの絶望はなかった。


 次のLIVEまで、あと一日。


 それは長い。


 けれど、終わりの見えない時間ではない。


「アーカイブ」


 何も開かなかった。


 朝に試したときと同じだった。


「コメント」


 RECの文字は変わらない。


 四人が何を書いたのか。


 何も書かなかったのか。


 自分の声が、どこまで届いていたのか。


 やはり、確かめることはできなかった。


 それでも、配信が終わる直前まで視聴者数は四人だった。


 四人がいる。


 いまの恒一に受け取れた返事は、それだけだった。


 恒一は背中を大木の根へ預けた。


 右手には杖を残す。


 目を閉じるつもりはなかった。


 ほんの少し、痛む脇腹を休めるだけのつもりだった。


 仮小屋の外。


 彼が撒いた枯れ枝の手前へ、白い少女が座る。


 枯れ枝を踏めば音が鳴ることを知っているように、その内側へは入らない。


 長い髪が、夜の中を水のように漂う。


 少女は、眠ろうとする恒一を見つめた。


 昨夜よりも近い場所から。


 地球側では、映像が止まったあとも、同じ四人が配信ページに残っていた。


『ポチ、女の子がいる』


『残り七分四十二秒、画面左』


『昨日の最後にも映ってる。今回より遠いけど、たぶん同じ子』


『次の配信へ書いても届かない。』


 四人は、前日のLIVEでそれをすでに確かめていた。


 こちらから送った言葉は、恒一の視界へ現れない。


 終わった配信へ残したコメントが、次のLIVEへ持ち越されることもない。


 恒一自身にも、過去の配信やコメントを開く機能はまだ与えられていなかった。


 一人が、少女の映った時刻を記録する。


 一人が、前日の映像から白い影を探す。


 一人が、二つの場面を見比べる。


 一人が、返事の来ない画面へ短く書いた。


『ポチ、生きろ。』


 その言葉も、届かない。


 それでも四人は、小屋を閉じなかった。


 画面の向こうでは、白い少女が何も知らない恒一を、昨夜よりも近い場所から見つめていた。


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