第3話 誰も見ていない夜
赤い点が消えた。
視界の隅に残っていた残り時間も、視聴者数も、音声メーターも、すべて一度に消えていく。
最後まで四人を示していた数字も、もうどこにもない。
代わりに、淡い灰色の文字が浮かんだ。
――REC。
「……聞こえてますか」
恒一は、湿った土へ手をついたまま反射的に呼びかけた。
返事はない。
そもそも、LIVE中から返事を受け取る場所はなかった。
視界にコメント欄は一度も現れず、赤い点が消えるまで文字による返事は一つもなかった。
見えていたのは、残り時間と視聴者数、自分の声に合わせて揺れる音声メーターだけ。
四人が本当に同じ映像を見ていたのか。
何かを送ってくれていたのか。
そもそも、向こう側から文字を書き込める状態だったのか。
恒一の側から確かめられることは、最後まで何もなかった。
少なくとも、LIVE中の配信は一方通行だった。
分かっていたはずだった。
表示されたのは、「本日のLIVE可能時間を終了しました」という通知だった。
一日に使える三十分を使い切り、録画へ切り替わっただけだ。いまも記録が続いているのなら、残したものまで失われるとは限らない。
それでも、赤い灯が消えた途端、森の静けさが急に重くなった。
いま、この景色を見ている者はいない。
声を出しても、誰の反応も返ってこない。
たったそれだけの違いが、夜の森を先ほどまでとは別の場所に変えていた。
恒一の手の甲へ、冷たい雫が落ちた。
雨かと思って顔を上げる。
頭上には枝葉が重なり、その隙間から二つの月が覗いている。雲はあるが、雨が降り出した様子はなかった。
「夜露、か」
考える余裕もなく、恒一は息を吐いた。
左腕が熱い。
右の脇腹は、呼吸をするたびに内側から押されるように痛んだ。
まずは、ここから離れなければならない。
そう思って腕へ力を入れたが、肘が震え、身体は半分ほどしか起きなかった。視界が暗く狭まる。耳の奥で鳴っている心臓の音だけが、やけに大きい。
恒一は起き上がるのをやめ、そのまま十まで数えた。
一。
二。
三。
数えることだけに集中する。
十まで辿り着く頃には、傾いていた視界が少し戻っていた。
「慌てるな」
自分へ言い聞かせる。
「順番にやればいい」
倒木の根の間には、四つ目の獣が刺さったまま動かなくなっている。
胸元へ食い込んだ枝の周りから、黒に近い血が土へ落ちていた。四つの目は半ば開いたままだが、そこに先ほどまでの光はない。
死んだように見える。
見えるだけだ。
恒一は手を伸ばし、近くに落ちていた杖の片割れを拾った。立ち上がれないまま距離を取り、先端で獣の長い前脚へ触れる。
反応はない。
もう一度、今度は少し強く押す。
爪の先が土を掻いた。
恒一の肩が跳ねる。
だが、それきりだった。押した分だけ脚が動いただけで、獣自身に力が戻った様子はない。
恒一は杖を離さず、獣の腹を見た。
上下していない。
少なくとも、すぐに襲いかかってくる状態ではなさそうだった。
「……倒した」
言葉にしても、実感はなかった。
ゲームなら、敵が倒れれば音が鳴る。
経験値が入り、撃破数が増え、次に何をすべきかが画面へ表示される。
目の前にあるものは、ただの死体だった。
自分がそうした。
その事実を考え始めれば、動けなくなる気がした。
恒一は獣から視線を外し、自分の身体を確かめた。
左の袖は肘の少し下から裂けている。布をめくると、前腕に三本の傷が走っていた。一番長いものでも手のひらほど。深さは分からないが、指はすべて動く。手首も曲げられる。
出血は続いていた。
流れ落ちるほどではない。それでも、血で濡れたまま森を歩き回るのはまずい。
右の脇腹には爪の傷はなかった。
獣の前脚をまともに受けた場所を指先で押すと、鈍い痛みが広がる。大きく息を吸うことはできる。吐き気もない。骨が折れているかどうかなど、自分には判断できなかった。
分かるのは、動けば痛むということだけだ。
「左腕の止血。それから移動」
言いながら、恒一は川を見た。
水は月明かりを映し、何もなかったように流れている。
飲めるかどうかは分からない。
傷を洗っていいかも分からない。
未知の水に何が含まれているのか、確かめる手段はなかった。
それでも、爪が何に触れていたのか分からないまま、土と血を傷へ残しておく方が危険に思えた。
恒一は杖を支えにして、もう一度立ち上がった。
右脚へ体重をかけると、脇腹まで痛みが響く。
倒れそうになるたびに杖をつき、川辺までのわずかな距離を進んだ。
岸へしゃがみ込む。
流れへ左手を入れた瞬間、冷たさで息が止まりそうになった。
「冷た……」
水は痛いほど冷えていた。
けれど、その冷たさに紛れるように、腕を焼いていた熱が少し引いた。
恒一は袖をできるだけ捲り、傷へ直接水を流した。
血が細い筋になって川へ溶ける。
傷口へ水が触れるたび、鋭い痛みが走った。
十分に洗えたかどうかは分からない。
何分流せばいいのかも知らない。
それでも、傷の周りに付いていた泥と血の塊が落ちるまで続けた。
洗い終える頃には、指先の感覚が鈍くなっていた。
恒一は川から離れ、裂けたパーカーの袖を見下ろした。
爪が作った切れ目へ指を入れ、縫い目に沿って布を引く。思ったより丈夫で、簡単には裂けない。何度か引っ張っているうちに脇腹へ痛みが走り、力が抜けた。
「こんなときまで頑丈じゃなくていいだろ」
息を整え、今度は杖の折れた先へ布を引っかける。
少しずつ切れ目を広げ、袖の一部を細長く分けた。
比較的汚れていない内側を傷へ重ね、上から残った布を巻く。フードから紐を抜き、強く締めすぎないよう結んだ。
正しい処置かは分からない。
少なくとも、何もしないよりはましだと思いたかった。
結び目を確かめたとき、川の対岸から低い声が響いた。
恒一の手が止まる。
先ほどの獣が鳴らしたものとよく似ていた。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
さらに遠い森の奥から、別の声が返った。
一頭ではない。
恒一は倒木へ目を向けた。
死骸。
流れ続ける血。
自分の腕にも、まだ血の臭いが残っている。
川辺に長居する理由はなかった。
「戻ろう」
水を入れる容器もない。
獣の牙や爪を持っていけば武器になるかもしれないと一瞬考えたが、引き抜く道具もなければ、死体へ近づく気にもなれなかった。
恒一は折れた杖の長い方だけを拾った。
外れかけていた右足の簡易靴を結び直す。左足の樹皮には亀裂が入っていたが、交換する余裕はない。
来た道へ目を向ける。
暗い森の中に、白い石が一つ見えた。
恒一はそれを目印に歩き出した。
◇
行きよりも、帰りの方が遠く感じた。
数歩進むたびに脇腹が痛み、呼吸が浅くなる。
左腕を下げていると布へ血が滲むため、胸の前へ抱えるようにして歩いた。
片手しか使えない。
簡易靴はすぐにずれる。
青白く光る草を避け、木の根を越え、白い石を一つずつ拾うように進んでいく。
対岸から聞こえた声は、いつの間にか止んでいた。
それが遠ざかったからなのか、こちらの様子を窺っているからなのかは分からない。
音がしないことが、安心にはならなかった。
四つ目の獣も、襲いかかる直前までほとんど音を立てていなかった。
恒一は何度も足を止め、後ろを振り返った。
木々の間に、動くものは見えない。
そのたびに、少し遅れて自分の足音だけが消えていく。
何個目かの石を越えたところで、次の目印が見つからなくなった。
恒一は立ち止まった。
正面には、二本に分かれた大木。
左には腰ほどの高さまで伸びた青い草。
右には、黒い蔓に覆われた倒木がある。
来るときに見た気もする。
見ていない気もする。
似たような木と草ばかりの森では、自分の記憶がどこまで正しいのか分からない。
「石は……」
杖で落ち葉を払いながら探す。
ない。
置き忘れたのか。
何かに蹴られたのか。
別の方向へ来てしまったのか。
胸の奥で、押さえていた焦りが急に膨らんだ。
元の大木には何があるわけでもない。
食料も水も、助けを呼ぶ道具もない。
それでも、自分がこの世界で唯一知っている場所だった。
そこへ戻れないというだけで、足元から地面がなくなったような感覚になる。
恒一は目を閉じかけ、すぐに思い直した。
「落ち着け。水場は下った先にあった」
地面の傾きを確かめる。
川へ向かうときは、緩やかに下っていた。
なら、戻る方向は上りだ。
杖を地面へ置いても、わずかな傾きしか分からない。
耳を澄ませば、背後から水音が聞こえている。
少なくとも、川へ逆戻りはしていない。
正面と左右を見比べる。
左の青い草の向こうは、地面が少し低くなっていた。
右の倒木側は、木の根が露出し、こちらより高い。
「右だ」
確信はなかった。
それでも立ち止まり続けるよりはいい。
右へ一歩踏み出したとき、黒い蔓の下で小さな光が揺れた。
恒一は杖を構えた。
獣の目ではない。
透明な雫が一滴、蔓の先から落ちようとしていた。
二つの月を映した雫が、淡く白く光っている。
その真下に、白い石があった。
落ち葉へ半分埋もれ、さっきまで見えなくなっていた石だ。
石の並びを辿ると、進むべき方向は右ではなく、正面の二本に分かれた大木の間だった。
「……危なかった」
恒一は息を吐いた。
落ちかけていた雫は、枝が揺れていないのに蔓から離れた。
音もなく土へ吸い込まれる。
恒一はそれを見届けることなく、見つけた道を進んだ。
◇
元いた大木が見えたとき、恒一はその場へ座り込みそうになった。
太い幹。
波打つように地面から持ち上がった根。
自分が積んだ三つの白い石と、斜めに立てかけた枝。
何一つ役に立つものはない。
それでも、自宅の玄関を見つけたような安堵があった。
恒一は大木の周囲を一周した。
ほかの獣が潜んでいないか。
自分が離れている間に、足跡が増えていないか。
杖で茂みを払い、根の陰を一つずつ確かめる。
目立つ変化はなかった。
大木の根は一方が大きく抉れ、幹との間に浅い窪みを作っている。横になれるほど広くはないが、身体を丸めれば入れそうだった。
風が吹いてくる側には太い根がある。
何もない地面で夜を越すよりはましだ。
恒一は大木から離れすぎない範囲で、乾いたものを探した。
剥がれ落ちた樹皮。
幅の広い枯れ葉。
腕ほどの長さの枝。
拾う前に杖で叩き、裏側に虫や見慣れない卵が付いていないか確かめる。
一度に多くは運べない。
何度も往復するたび、脇腹が痛んだ。
窪みの地面へ樹皮を並べ、その上へ枯れ葉を重ねる。寝床と呼べるほどのものではないが、湿った土へ直接座るよりは冷えを防げる。
風が入る側には、枝を斜めに立てかけた。
隙間へ葉を挟もうとしたが、固定できずに何度も落ちる。蔓を使おうにも、簡易靴へほとんど使ってしまっていた。
最後には、倒れない枝を三本だけ残した。
「屋根ですらないな」
雨が降れば、ほとんど意味はない。
火もない。
ライターはもちろん、乾いた薪へ火をつける方法も知らない。木の枝を擦れば火が起こせるという知識だけはあるが、今の腕と体力で試す気にはなれなかった。
できないものは、できない。
恒一は大木の周囲へ細い枯れ枝を撒いた。
何かが近づけば、踏んだ音で気づけるかもしれない。
思いついたのはその程度だった。
折れた杖を右手側へ置く。
拳より少し大きな石も二つ並べた。
四つ目の獣が来れば、これだけでどうにかできるとは思えない。
それでも、何も持っていないよりは落ち着いた。
恒一は根の窪みへ身体を入れた。
背中を幹へ預け、膝を抱える。
右脇腹を庇う姿勢を探し、何度か身体の向きを変えた。
フードを被ろうとして、爪で切り裂かれていることに気づく。裂け目を手で押さえながら頭へ被せ、できるだけ首元を閉じた。
身体を動かさなくなると、寒さが急に戻ってきた。
汗と川の水で湿った服が、少しずつ体温を奪っていく。
歯が鳴りそうになるのを堪え、恒一は両腕を胸の前へ抱えた。
視界の隅では、淡い灰色の文字が変わらず浮かんでいる。
――REC。
録画。
この映像がどこへ保存されるのかは分からない。
地球側の誰かが、あとで見られるのか。
次の配信で使えるのか。
自分が死んだ後にも残るのか。
何一つ分からない。
それでも、残せる情報は残した方がいい。
恒一は顔を上げた。
「記録します」
配信を始めるときよりも、声が固かった。
「ここへ来てからの正確な時間は分かりません。空には月が二つ。大きい白い月と、小さい青い月があります」
返事を待つ理由はなかった。
コメント欄も、声が記録されていると示す音声メーターもない。
それでも、恒一は続けた。
「最初にいた大木から、地面が下っている方へ進むと川があります。歩いて……怪我をする前なら、たぶん五分もかからない距離です。水は透明。臭いと濁りはありません。飲めるかどうかは分かりません」
一度、息を整える。
「川で、黒い獣に襲われました。大型犬より少し大きい。目が四つ。前脚が長くて、三メートルくらいある川を飛び越えます。一頭は倒しました。ただ、同じ鳴き声がほかにも聞こえました」
左腕を持ち上げようとして、痛みに眉を寄せる。
「左腕に裂傷。川の水で洗って、布を巻いています。出血は……まだ少し。右の脇腹を打ちました。立って歩くことはできます」
報告すべきことを、頭の中で探す。
森。
光る植物。
二つの月。
獣。
川。
それだけだった。
自分がどこにいるのかを示す情報は、一つもない。
「配信の仕組みについて。LIVEは、一日に三十分まで。時間切れになると、自動でRECへ切り替わります」
視界の隅に浮かぶ灰色の文字を見てから、恒一は続けた。
「LIVE中に見えたのは、残り時間と視聴者数、音声メーターだけです。視聴者数は、最初から最後まで四人。コメントを表示する欄は、一度も出ませんでした」
一度、言葉を切る。
「誰かが何かを書いてくれていたとしても、俺には確認できません。こっちの映像や声が向こうへ届いているのかも、今のところは四という数字から推測するしかないです」
そこまで言って、恒一は黙った。
録画へ向けた報告は、もう終わっている。
RECの文字を消す方法は分からない。何かが返ってくるのを待つ理由もない。
話すのをやめれば、残るのは夜の森だけだった。
「朝になっても、会社へ行けません」
口から出たのは、そんな言葉だった。
自分でも場違いだと思った。
「無断欠勤になるな……連絡先はスマホの中だし、そもそも俺が部屋にいないって、誰が気づくんだ」
同僚は配信を知っている。
最後まで残っていた四人がいつもの常連なら、自分の勤め先までは知らなくても、会社員であることは知っている。
映像を見て、本当に異常が起きたと思ってくれただろうか。
警察へ連絡した者がいるかもしれない。
合成か、企画だと思われているかもしれない。
どちらでも、今の恒一に確かめる方法はなかった。
「部屋のパソコンも、つけっぱなしだ」
食べかけの弁当は冷蔵庫へ戻した。
風呂の湯は抜いたはずだ。
玄関の鍵も閉めた。
そんなことを一つずつ思い出す。
いま考える必要のないことばかりだった。
考えなければ、東京の部屋が本当に消えてしまうような気がした。
恒一はフードの上から額を押さえた。
「……ポチ、生きてます」
小さく言う。
「少なくとも、いまは」
最後の一言だけは、記録ではなかった。
誰かに聞いてほしかった。
返事はない。
それでも声に出したことで、胸の奥に固まっていたものが少しだけ解けた。
恒一は背中を幹へ預け直した。
「次の配信まで、生き残ります」
それを最後に、目を閉じた。
◇
眠れるはずがなかった。
目を閉じると、四つの光が浮かぶ。
牙が迫る。
鈍い音とともに、獣の胸へ枝が食い込む。
恒一は何度も目を開けた。
そのたびに、二つの月の位置が少しずつ変わっている。
高い場所で虫が鳴く。
遠くで何かが枝を折る。
枯れ葉が擦れるだけで、右手が杖を探した。
一度、周囲へ撒いた小枝が鳴った。
恒一は痛みを堪えて身体を起こし、音のした方へ杖を向けた。
茂みの下から、小さな生き物が走り去る。
青い光を帯びた、鼠のような影だった。
襲ってくる様子はない。
姿が消えてからも、恒一はしばらく杖を下ろせなかった。
「朝まで……あと何時間だ」
時間を知るものは、月しかない。
その月の動き方すら、地球と同じとは限らなかった。
眠気はある。
身体は休息を求めている。
だが意識を手放せば、次に目を開けられる保証がない。
恒一は短く目を閉じては、物音に反応して起きることを繰り返した。
どれほど経ったのか分からない。
やがて、恐怖よりも疲労の方が大きくなった。
杖を握っていた指から、少しずつ力が抜けていく。
頭が幹へ傾く。
一定しなかった呼吸が、ゆっくりと同じ間隔を刻み始めた。
恒一は眠った。
眠ったというより、身体が限界を迎え、意識を手放した。
森は何も変わらない。
枝葉が揺れ、二つの月から落ちる光が地面を移っていく。
恒一が目を閉じても、RECの映像は暗転しなかった。
録画の視点は彼の目そのものではなく、顔の向く先を視線と同じ高さから捉え続けていた。
淡い灰色のRECだけが、誰も見ていない時間を記録し続けていた。
大木の反対側で、一滴の水が宙へ浮かんだ。
雫は落ちることなく、月明かりを集める。
その下へ、白い爪先が現れた。
続いて、細い脚。
水を幾重にも編んだような衣。
地面へ届くほど長い白銀の髪が、重さを持たないまま夜の中へ広がっていく。
白い少女は、大木の陰から半分だけ顔を覗かせた。
青白い瞳が、眠る恒一へ向けられる。
すぐには近づかなかった。
根の窪みで身体を丸める恒一を、ただじっと見つめている。
風が吹いても、少女の髪は風と同じ方向へは流れなかった。
水の中を漂うように、ゆっくりと揺れている。
恒一が浅い呼吸をする。
右の脇腹を庇うように身体が縮まり、眉間へ皺が寄った。
少女の表情も、同じように曇った。
一歩、近づく。
足元の枯れ葉は鳴らない。
もう一歩。
恒一が周囲へ撒いた小枝を踏みそうになり、少女は足を止めた。
小枝を見る。
眠る恒一を見る。
少女は少し考えるように首を傾げ、それから小枝を跨いだ。
音を立てるものだと、分かっているかのように。
恒一の前まで来ると、少女はその場へ膝をついた。
視線の先には、胸の前へ抱えられた左腕がある。
巻かれた黒い布には、乾きかけた血が滲んでいた。
少女が手を伸ばす。
指先が布へ触れる直前で止まった。
怖がるように、細い指がわずかに震える。
それでも手を引かなかった。
少女の指先から、小さな雫が生まれた。
雫は布の表面で弾けることなく、その中へ吸い込まれていく。
ぽたり。
どこか遠くで、水が落ちたような音がした。
淡い光が、巻かれた布の下へ広がる。
熱を持って腫れていた傷を、冷たい水が包んだ。
三本のうち浅い二本が、ゆっくりと閉じていく。
一番深い傷も、開いていた縁がわずかに寄り、滲んでいた血が止まった。
傷は消えない。
赤い線も、痛みも残っている。
それでも、夜明けまで出血を続けることはなくなった。
少女はもう一方の手も重ねた。
光が一度だけ強くなる。
その瞬間、長い髪の先が霧のように薄れた。
水で編まれた衣からも輝きが失われ、向こう側の木の根が透けて見える。
少女は苦しそうに目を閉じた。
それでも、傷から手を離したのは、光が完全に消えた後だった。
恒一の眉間から、わずかに力が抜ける。
少女はそれを見つめた。
唇が、何かを伝えようとするように小さく動く。
声にはならなかった。
代わりに、青白い瞳から一滴の雫が零れた。
雫は恒一の左手へ落ち、音もなく消えた。
少女は立ち上がった。
来たときよりも、その姿は薄い。
大木の陰へ戻る途中で一度だけ振り返る。
恒一の呼吸が穏やかになったことを確かめると、少女はようやく目を細めた。
ほんの少し、安堵したように。
白い姿が幹の向こうへ溶ける。
その後も、森の夜は続いた。
◇
最初に気づいたのは、光だった。
閉じた瞼の向こうが白い。
次に、知らない鳥の声が聞こえた。
短く三度鳴き、少し離れた場所から同じ声が返る。
恒一は目を開けた。
大木の枝葉の間から、淡い朝の光が差し込んでいた。
二つの月は見えない。
空は地球よりわずかに青みが薄く、東と思われる方角が白く霞んでいる。
「……朝か」
声は掠れていた。
眠ったという感覚はない。
何度も目を覚まし、最後に意識を失っただけだ。
それでも、朝まで生きていた。
恒一は大木へ背を預けたまま、長く息を吐いた。
身体を起こそうとして、右の脇腹に痛みが走る。
「っ……」
昨夜と変わらない。
むしろ、時間が経った分だけ固くなっている気がする。
左腕も同じように痛むことを覚悟しながら、胸の前からゆっくり下ろした。
違和感があった。
布は血で汚れている。
だが、昨夜より軽く動かせる。
結び目を緩め、巻いた布を慎重に外す。
「……なんだ、これ」
三本あった傷のうち、浅い二本は細い赤い線になっていた。
一番深かった傷も、完全に塞がってはいないが、出血は止まっている。
周囲の腫れも、思っていたほどひどくない。
恒一は指を動かした。
手首を曲げる。
痛みはある。
けれど、昨夜のように腕全体が焼ける感覚はなかった。
「そんなに浅かったのか?」
暗闇と恐怖で、ひどい傷だと思い込んでいただけかもしれない。
圧迫したのがうまくいった。
川の水が冷たく、腫れを抑えた。
そう考えれば説明はつく。
説明はつくはずだった。
恒一は外した布を見た。
昨夜巻いたときより、わずかに湿っている。
血ではない。
触れた指先に残ったのは、透明で冷たい水だった。
夜露が染みたのだろうか。
けれどパーカーのほかの場所は乾き始めている。
「……分からないな」
恒一は傷へ布を巻き直した。
分からないものは、いま考えても答えが出ない。
傷が悪化していないなら、それでいい。
喉は乾いていた。
空腹も、はっきりと感じる。
今日は水を確保し、周囲をもう少し広く調べなければならない。
昨夜の川へ戻るなら、四つ目の獣の死骸にも気をつける必要がある。
夜までに、もっと安全な寝床も探したい。
やるべきことは多い。
恒一は立ち上がる前に、視界の隅を見た。
淡い灰色の文字は、朝になっても消えていない。
――REC。
「おはようございます」
返事の来ない録画へ向け、いつもの配信と同じように言った。
「異世界生活、一日目です」
口にしてから、恒一は少しだけ顔をしかめた。
「……まだ異世界と決まったわけじゃないか」
二つの月。
光る植物。
四つ目の獣。
ここが地球上のどこかだと考える方が、もう難しい。
それでも、断定するには分からないことが多すぎた。
恒一は折れた杖を手に取り、大木の根へ片手をついて立ち上がった。
右の脇腹は痛む。
足元も頼りない。
状況は昨夜から何も変わらず、助けが来る気配もない。
それでも、朝まで生き残った。
「まずは水だな」
恒一は白い石の目印へ向かって歩き出した。
大木の陰で、朝日に透けた白い髪が揺れた。
恒一は気づかない。
誰も見ていないと思っていた夜。
RECには、水のように透き通った少女が確かに残っていた。
彼がまだ知らないところで、その命を案じ、朝まで見守っていた少女の姿が。




