第2話 声の届かない森
視界の右上で、赤い点が明滅している。
――LIVE。
その下では、残り時間が一秒ずつ減っていた。
――残り時間 29:34。
恒一は、視界の隅に並ぶ表示をもう一度確かめた。
残り時間。
視聴者数。
自分の声に合わせて揺れる音声メーター。
それだけだった。
どこへ意識を向けても、コメント欄は現れない。
先ほど呼びかけても返事はなかった。誰もいないのか、返事を受け取る機能がないのか分からない。
それでも、視聴者数は4のままだ。
「……後で考えよう」
配信が本物でも夢でも、目の前の森は消えてくれない。
まず、自分の状態。
次に、夜を越すために必要なもの。
状況が分からないときほど、確認できるものから確認する。
恒一はその場へしゃがみ、頭から順に手で触れた。
後頭部、首、肩、胸、腹と順に押し、肘や膝を曲げ伸ばしする。寝起きの体は重いが、痛む場所はなかった。
試しに左腕をつねる。
「痛いな」
少なくとも、都合よく目を覚ませる夢ではないらしい。
身につけているのは、黒いパーカーとスウェット、靴下だけ。使えそうな持ち物は一つもない。
恒一は自分が横たわっていた場所を調べた。
湿った土と、体の形に倒れた草がある。引きずられた跡も、誰かの足跡もない。自分の靴下の跡だけが残っていた。
夜気は冷たい。
吐いた息が白くなるほどではないが、じっとしていれば体温を奪われる。恒一はパーカーの前を閉じ、フードを被った。
遠くで、低い声が響いた。
獣の唸り声にも、太い枝が軋んだ音にも聞こえる。
一度。
少し間を空けて、もう一度。
今度は、先ほどより右から聞こえた。
「何かいるな」
無意識に声が小さくなる。
光っている植物には触れない。
足元の鮮やかな実も拾わない。
見たことのないものを、見た目だけで安全だと決めない。
恒一は腕ほどの長さがある落ち枝を拾った。武器になるとは思えないが、前方の草を払い、地面を確かめる杖にはなる。
「周囲を確認します。ここからは、なるべく離れません」
視聴者がいると仮定して、短く告げる。
音声メーターは揺れた。
文字による返事は、どこにも現れなかった。
◇
『聞こえてる!』
『1:38:26。呼びかけに反応なし』
『画面、一人称になってない?』
『企画じゃないと思う、たぶん』
東京側の配信画面では、残った四人が返事を書き込み続けていた。
午前一時三十八分に映像が切り替わってから、誰一人として状況を理解できていない。
画面に映るのは、恒一が見ている森そのものだった。
彼が顔を動かせば映像も動く。見下ろせば黒い袖と両手が、顔を上げれば青白い植物と巨大な木々が映る。
声も届いている。
だが、恒一から返事はない。
『今、返事が来ないって言った』
『見えてない』
『音声はこっちに届く。でも、こっちからは届かない?』
『警察。』
『場所も本名も分からない』
十年以上、同じ小屋へ通っていた。
声の調子だけで、恒一が本当に大丈夫なのか、心配をかけまいとしているのかも分かった。
それでも四人が知っているのは、ポチという名前と、都内で働く会社員だということくらいだった。
近いはずの相手がどこにいるのか、誰も説明できない。
一人が映像の記録を始めた。
一人は画面が切り替わった時刻と、恒一の言葉を書き残していく。
一人は映った植物を画像で照合し、もう一人は配信サービスから緊急事態を伝える方法を探した。
登録者三十六人の小さなチャンネルで、この異常を見ているのは四人だけだった。
誰も画面を閉じなかった。
◇
恒一は最初の大木を中心に、ゆっくりと円を描いた。
一歩ごとに杖で地面を探る。
柔らかな土の上なら靴下だけでも歩けるが、落ち葉の下には細い枝や固い木の実が隠れている。何かを踏むたび、足裏へ鋭い痛みが走った。
十歩ほど進んだところで、頭上の枝が途切れていた。
夜空が見える。
恒一は足を止めた。
雲の向こうに、大きな白い月が浮かんでいる。
その下に、もう一つ。
半分ほどの大きさしかない青い月が、白い月へ寄り添うように並んでいた。
「……二つ?」
瞬きをする。
目を擦る。
それでも、月は二つのままだった。
精巧な撮影施設か、幻覚か。どちらも否定する材料はない。
だからこそ、今は一番危険な可能性を前提にする。
「少なくとも、東京じゃないな」
口にした途端、その事実だけが重さを持った。
会社の机。
つけっぱなしのパソコン。
冷蔵庫へ戻した食べかけの弁当。
三歩先のベッドへ座ったはずなのに、そのどれも手の届かない場所にある。
明日の朝になれば、スマートフォンのアラームが鳴る。
けれど、止める者はいない。
胸の奥から込み上げたものを、恒一は長く息を吐いて押し戻した。
考えるのは後だ。
今は、朝まで生き残る。
まず足を守るものが必要だった。
周囲を探すと、大木から剥がれ落ちた樹皮が何枚か見つかった。手で曲げられる程度に薄く、内側は比較的乾いている。
恒一は二枚を足の大きさに合わせ、その上へ幅の広い枯れ葉を重ねた。
次は紐だ。
地面を這う蔓から、光っておらず、表面に棘のないものを選ぶ。杖で押し、切れ目から液体が出ないことも確かめた。
靴下の上から樹皮と葉を足裏へ当て、蔓を足の甲と足首へ回して縛る。
立ち上がる。
右足の樹皮が、すぐ横へずれた。
「原始人よりひどいな」
結び直し、今度は踵にも蔓を回す。
靴と呼べる見た目ではない。それでも、尖った枝を直接踏まずに済む。
最後に元いた大木の根元へ白い石を三つ積み、折れた枝を斜めに立てかけた。
戻るための目印だ。
視界の隅では、残り時間が二十分を切っていた。
視聴者数は四のままだった。
数字が減っていないことだけが、向こう側にまだ誰かいると教えてくれる。
◇
『月が二つある』
『1:47:51。大きい白、小さい青』
『青い方にも雲がかかってる。背景じゃないと思う、たぶん』
『光ってる植物、画像検索で一致なし』
『ポチ、止まれ。』
最後の短い一文には、句点が打たれていた。
いつもなら真っ先に軽口を挟む者が、本気で止めるときだけ使う書き方だった。
恒一なら、見た瞬間に気づいたはずだ。
だが、その一文が彼の視界へ現れることはない。
『右上の残り、もう二十分ない』
『ゼロになったらどうなる』
『切れるだけならいいけど、たぶん』
四人のうち、答えを知る者はいなかった。
◇
動き回るうちに、耳が森の音へ慣れてきた。
葉が擦れる音。
高い場所で鳴く虫。
ときおり遠くから響く、正体不明の低い声。
その下に、先ほどは聞き取れなかった音がある。
水だ。
地面の下を這うような、かすかな流れの音。
朝まで動かない選択肢もある。だが気温は下がり続けている。水場がどこにあるかは、体力の残っているうちに把握しておきたかった。
恒一は白い石をいくつか拾い、数歩進むごとに目立つ根の上へ置いた。
「水場まで確認したら、一度戻る」
自分へ言い聞かせ、音の方へ歩き出す。
森の地面は、やがて緩やかな下り坂になった。
水音が近づく。
杖で茂みを払い、太い根を跨ぐ。簡易靴は何度もずれたが、そのたびに結び直した。
木々の間から、二つの月を映す細い流れが見えた。
幅は三メートルほど。
川と呼ぶには小さいが、飛び越えるには広い。
流れは穏やかで、底の白い石まで見えるほど澄んでいる。水面のところどころから淡い光が立ち上り、霧のように漂っていた。
恒一は川辺へ近づく前に、周囲を見回した。
足跡はない。
獣の糞らしいものも見当たらない。
岸辺には、見慣れない白い花が咲いている。
喉は渇いていた。
だが、ここへ来てまだ三十分も経っていない。正体の分からない水を急いで飲む理由はない。
岸へしゃがみ、匂いだけを確かめる。
腐った臭いも、油のような膜もない。
「水はある。飲めるかは分からない」
容器もない。今は場所を覚えるだけでいい。
そう判断して立ち上がろうとしたとき、対岸の茂みが揺れた。
風ではない。
低い位置で枝が押し分けられ、闇の中に二つの光が浮かぶ。
目だ。
その下に、もう二つ。
四つの目が、恒一を見ていた。
茂みから、黒い獣が音もなく姿を現す。
大きさは大型犬より一回り大きい。
全身は短い毛に覆われ、前脚だけが不自然なほど長い。頭は狼に似ているが、口元は頬の近くまで裂けている。閉じた口の隙間から、細い牙が何本も覗いていた。
恒一は、しゃがんだ姿勢のまま動かなかった。
何を食べる生き物かは分からない。ただ、あの牙が草を噛むためのものではないことだけは分かった。
獣の鼻先が動く。
四つの目は一度も逸れない。
恒一は杖を握ったまま、ゆっくり腰を上げた。
急に走らない。
背中を向けない。
川を挟んだ距離を保ちながら、来た方向へ下がる。
一歩。
獣も、岸に沿って一歩動いた。
もう一歩。
四つの目が同時に恒一を追う。
少し川上に、根元から倒れた大木があった。持ち上がった根と別の木の間に、人一人が通れるほどの隙間ができている。
身を隠せる。
少なくとも、何もない場所よりはいい。
恒一はそちらへ向かって、少しずつ足を運んだ。
獣の長い前脚が止まる。
腰が低く沈んだ。
ゲームで何度も見た、飛びかかる直前の動きに似ていた。
だが、これはゲームではない。
攻撃範囲を示す線も、体力ゲージも、やり直しもない。
「来るなよ」
獣が地面を蹴った。
三メートルの川を、一息で越える。
恒一は反射的に横へ飛んだ。
黒い影が、さっきまで胸のあった場所を通り過ぎる。
長い爪が左腕を掠めた。
パーカーの袖が裂け、遅れて熱い痛みが走る。
「っ……!」
着地した獣は、ほとんど間を置かず振り向いた。
恒一は杖を両手で構える。
腕から血が流れている。
浅い。
指は動く。
そう判断する間にも、獣は低く喉を鳴らしていた。
逃げ切れるとは思えない。
足元は不安定で、相手には川を飛び越える脚がある。正面から戦えば、もっと勝ち目がない。杖はただの枯れ枝だ。
あの牙へ一度でも噛みつかれれば終わる。
恒一は倒木の方へ下がった。
獣が前脚を踏み出す。
ゆっくり追い詰めればいいと知っているような動きだった。
倒木の根元まで、あと五歩。
四歩。
三歩。
視界の端に、表示が割り込む。
――残り時間 01:00。
「今、それどころじゃない」
獣の腰が、再び沈む。
恒一は杖を突き出した。
長い前脚が枝を叩く。
乾いた音を立て、杖が中央から折れた。
衝撃で両腕が痺れる。
残った枝を投げ捨て、倒木の根と木の間へ体を滑り込ませた。
狭い。
パーカーの背が樹皮に擦れる。
振り返ると、獣は隙間の前で一度止まっていた。
入れないわけではない。
長い前脚を畳めば、恒一より低い姿勢で潜り込める。
逃げ道のつもりだった場所が、袋小路になる。
背後には、折れて斜めに突き出した太い枝があった。
先端は裂け、槍の穂先のように尖っている。
恒一はそれを見た。
隙間の幅を見る。
獣の肩幅を見る。
飛びかかる前に腰を沈める癖を思い出す。
頭の中から、余計な音が消えた。
腕の痛みも、恐怖も、視界の隅で減り続ける数字も遠のく。
見えるのは、獣と根と、尖った枝の位置だけだった。
恒一は枝の正面へ立った。
「来い」
声が震えた。
獣の四つの目が細くなる。
前脚が土を掻いた。
――00:34。
獣が地面を蹴った。
恒一は最後まで引きつけた。
四つの目が迫る。
裂けた口が開く。
腐った鉄のような息が顔へ届く。
恒一は右へ身を投げた。
外れかけていた樹皮が根に引っかかり、足を取られる。体を捻り切れないまま、獣の前脚が脇腹へ当たった。
息が肺から押し出される。
それでも、牙は届かなかった。
勢いのついた獣は、狭い根の間で向きを変えられない。
恒一のすぐ後ろにあった尖った枝へ、正面から突っ込んだ。
鈍い音がした。
枝が黒い胸元へ深く食い込み、獣の体が止まる。
甲高い鳴き声が森へ響いた。
獣が暴れる。
倒木全体が軋み、土が跳ねる。
恒一は地面を転がりながら隙間の外へ這い出した。
終わっていない。
獣は尖った枝を胸に刺したまま、無理やり体を引こうとしている。枝の根元に亀裂が入り、少しずつ折れ曲がっていく。
抜ければ、また動く。
恒一は落とした杖の折れた片方を拾った。
立ち上がろうとして、脇腹の痛みに膝が落ちる。
獣の四つの目が、もう一度恒一を捉えた。
恒一は声にならない息を吐き、折れた杖を獣の肩へ押し当てた。
獣が体を振る。
爪が頬の横を通り、フードだけを切り裂いた。
手を離さない。
もう一度、全体重をかける。
倒木から伸びた枝が、さらに深く沈んだ。
獣の口から空気が漏れる。
長い前脚が一度大きく震え、力を失った。
黒い体が、根の間へ崩れ落ちる。
恒一も、その場へ尻をついた。
耳の奥で心臓の音が鳴っている。
左腕が熱い。
脇腹は、息を吸うたびに痛んだ。
それでも、獣は動かない。
「……倒した、のか」
音声メーターだけが、掠れた声に反応した。
視聴者数は4のままだ。
だが、助かったのか、まだ危険なのかを教える言葉は、どこにもなかった。
◇
『倒した』
『2:07:26。獣の動き停止』
『ポチ、血が出てる』
『立つな。』
地球側でどれほど言葉が重なっても、LIVE中の恒一へ表示されることはない。
書き込まれたコメントは、三十分の遅れを経て配信の記録へ紐づけられる。
だが、いまの恒一にはアーカイブを開く手段そのものがなかった。
少なくとも今夜、四人の声は一文字も彼へ届かない。
◇
――残り時間 00:08。
恒一は立ち上がろうとした。
元いた大木へ戻らなければならない。
川の近くには、ほかの獣も来るかもしれない。血の臭いが何を呼ぶかも分からない。
頭では分かっている。
だが、右脚に力が入らなかった。
一度腰を上げ、すぐに膝をつく。
血のついた手が地面へ触れた。
視界が大きく傾く。
――00:03。
――00:02。
――00:01。
地球側の画面で、倒れた恒一の向こうにある茂みが揺れた。
『後ろ』
『待って、まだ何かいる』
『白いの、今動いたよな?』
――本日のLIVE可能時間を終了しました。
――録画モードへ移行します。
赤い点が消える。
最後に見えたのは、湿った土へ伸びた恒一の手と、その向こうへ落ちた一滴の水だった。
誰の声も届かないまま、配信は途切れた。




