第1話 いつもの夜が終わらない
宝知恒一の一日は、午前六時四十分に鳴るスマートフォンのアラームから始まる。
一度目を止め、二度目も止める。三度目が鳴る前に布団を抜け出すのが、ここ数年の決まりだった。
カーテンを開けても、見えるのは向かいのマンションの灰色の壁だけだ。空が晴れているかどうかは、窓の外よりスマートフォンの天気予報を見た方が早い。
「晴れ。降水確率十パーセント……傘はいらないか」
誰に聞かせるでもなく呟いて、恒一は台所へ向かった。
三十二歳、独身。都内の会社に勤める、ごく普通の会社員。寝癖の残った黒髪に薄い無精ひげ。腹まわりに少し年齢が乗った以外、健康診断にも目立った異常はない。長所を訊かれても困るが、人生を損なうほどの欠点にも心当たりはなかった。
電気ケトルのスイッチを入れ、湯が沸くまでに顔を洗う。インスタントコーヒーをマグカップへ一杯。食パンをトースターへ押し込み、その待ち時間に昨夜の配信結果を確認する。
これも、十年以上続いている朝の習慣だった。
動画配信チャンネル『ポチの小屋』。
管理画面に表示された登録者数は、三十六人。
昨夜の来場者は十一人。いちばん多い瞬間でも、同時に見ていたのは六人だった。これまで、一日の来場者が最も多かった日でも十八人。数字だけを見れば、弱小と呼ぶ以外にない。
増えない代わりに、来る人もほとんど変わらない。
それでも、恒一にとっては十分だった。
昨夜のアーカイブには、眠る前にはなかったコメントが三件増えていた。
『1:32:08。そこで左を選べるの何回見ても意味わからん』
『味方全滅から一人で立て直すの、ポチらしくて好き』
『普段は慎重すぎるのに、追い詰められると急に別人になるよな』
表示名を確かめる必要はなかった。
映像を見返すたび、秒単位の時刻を残す人。句読点をほとんど使わない人。確証のないことには、必ず語尾へ「たぶん」をつける人。普段は何にでも軽口を挟むくせに、本気で止めるときだけ短い文を句点で閉じる人。
コメントの長さや読点の位置だけで、いつもの誰が書いたのか、ほとんど外さずに分かる。
最後の一文に、恒一は小さく笑った。
「別人ってほどじゃないんだけどな」
ただ、余計なことが頭から消えるだけだ。逃げ道がなくなるほど、敵の足音も残弾も仲間の位置も鮮明になる。FPSでも、盤面全体を見るRTSでも、それは変わらない。
配信名のポチは、名字の宝知からついた学生時代のあだ名だ。
ほうち、ほっち、ポチ。
学校の外でも一緒に遊べる友人が欲しくて配信を始めたときも、そのまま名乗った。誰でも気軽に入り、疲れたら黙っていてもいい。そんな場所になればと『ポチの小屋』と名づけた。
三十六人の登録者すべてが、毎回来るわけではない。配信を始めれば集まるのは、だいたい四人から六人。その大半が、何年も同じ小屋へ通い続けている常連だった。最も古い数人とは、配信を始めた頃からの付き合いになる。
恒一が彼らの文章の癖を知っているように、彼らも恒一の声を知っている。
「大丈夫です」が、本当に問題ないときの言葉なのか。心配をかけたくなくて、話を終わらせようとしているときの言葉なのか。その違いまで、たいていは聞き分けられてしまう。
十年以上経った今も、その気持ちは変わっていない。
トースターが乾いた音を立てる。
恒一は配信画面を閉じ、少し焦げた食パンをコーヒーで流し込んだ。
◇
会社での一日は、昨日までとよく似ていた。
朝礼。メールの確認。進捗表の更新。取引先への連絡。昼休み前に届いた修正依頼。午後一番で終わるはずだった打ち合わせは四十分延び、その間に別件のトラブルが二つ積み上がった。
誰かが声を荒らげるような失敗はない。
その代わり、誰か一人が残って片づけなければならない細かな仕事ばかりが、砂のように一日を埋めていく。
「宝知さん、今日も配信でしたっけ」
隣の席から声をかけられたのは、午後七時を過ぎた頃だった。
恒一が配信をしていることを知っている、数少ない同僚だった。以前、昼休みに配信の告知を書いているところを、たまたま見られたのである。
「一応、十一時半から」
「また遅い時間にやるんですね。今日くらい休んだ方がよくないですか?」
「そう思いながら続けていたら、十年以上経ってた」
「それ、休まない理由になってます?」
「なってないかも」
苦笑しながら答え、恒一はパソコンへ視線を戻した。
配信は義務ではない。休んでも誰かに叱られるわけではない。それでも、昼休みに出した短い告知には反応がついていた。
『待機』
『今日こそ例の縛りをクリアするまで寝かせません』
『明日早いから途中まで見る』
相変わらずの三人だった。
一語だけ置いて先に席を取る人。無茶な縛りを提案しては最後まで見届ける人。翌朝が早い日は、先にそれを伝えてから途中で黙って抜ける人。
大勢ではない。けれど画面の向こうには、今夜そこへ来るつもりの人がいる。互いの本名も顔も知らない。それでも、同じゲームを囲んで過ごした時間だけは本物だった。
「一時間だけなら、まあ」
自分へ言い聞かせるように呟く。
その直後、片づけたばかりの資料に入力漏れを見つけた。
会社を出られたのは、午後九時を回ってからだった。
◇
マンションの玄関を開けた時刻は、午後十時十四分。
「ただいま」
返事はない。
けれど帰宅したときには、必ず口にする。子どもの頃から染みついた癖だった。
鍵をトレーへ置き、上着を掛け、パソコンの電源を入れる。起動を待つ間にシャワーを浴び、黒いパーカーとスウェットに着替えた。弁当を温めながら、マイクと配信ソフトを確認する。
カメラは使わない。
画面に映るのはゲームと、犬小屋を模した小さなアイコンだけ。声だけの配信は学生時代から変わらず、その気楽さが恒一には合っていた。
マイク、ゲーム画面、通知欄。どれも問題なし。
配信開始のボタンには、まだ触れない。
弁当は半分ほどで箸が止まった。残りを冷蔵庫へ戻し、代わりに濃いめのコーヒーを淹れる。
時刻は午後十一時二十七分。
予約枠は作っていない。昼休みに「今夜十一時半から」と告知しただけで、開始通知が出るまで視聴者が集まる画面もない。それでも何人かは、あと三分を気にしているのだろう。
「本当に来てくれるんだよな」
当たり前ではないことを確かめ、恒一は椅子へ深く座った。
午後十一時三十分。
マウスを動かし、配信開始をクリックする。
画面の端に、赤い表示が点灯した。
視聴者数は、ゼロ。
「こんばんは。お疲れさまです、ポチです。今夜も小屋、開けます」
開始通知が送られ、数字が一人、三人、五人と増えていく。コメント欄も、見慣れた調子で動き始めた。
『開店待ってた』
『声がもう眠そう』
『今日こそクリアするまで寝かせません』
「予定では一時間です。明日も仕事なので、クリアできなくても十二時半には終わります」
『予定』
『予定は未定』
『十年以上、その宣言を守れない男』
「守ったこともあるでしょう。たぶん」
『記憶にない』
誰がどの一文を書いたのか、表示名へ目を向ける前に分かる。
恒一は笑いながらゲームを起動した。
今夜挑むのは、高難度FPSの特殊作戦。
廃棄された研究区画からデータを回収して脱出する。条件は初期装備のみ、回復禁止、敵の索敵能力は最大。まともに撃ち合えば、まず勝てない。
「参加枠、あと一人空いてます。無理に来なくても大丈夫です」
『行きます。昨日の分、取り返したい』
「昨日のは僕の指示が遅かったからです。気にしなくていいですよ」
六人目の入室通知が出た頃、参加する四人が揃い、作戦が始まった。
最初の十分は順調だった。恒一は監視カメラの向きと巡回兵の足音から経路を組み立て、開閉する隔壁の時間を数えた。
「三、二、一。今。右の二人、移動してください」
「そこで止まって。前から二体来ます」
『見えてる?』
「足音です。まだ撃たないで。左の人が端末に触れば、照明が落ちます」
予測どおり区画が暗転し、巡回兵をやり過ごす。
『相変わらず耳どうなってんだ』
「ヘッドホンがいいだけです」
そう答えた直後、通気口から警備ドローンが味方の横へ落下した。
乾いた銃声。
一人が反射的に引き金を引く。警報が鳴り、照明が赤へ変わり、閉じていた扉が次々と開いた。
『ごめん!』
「謝るのは後。全員、左の部屋へ。入口に煙幕を」
恒一の声から、眠気が消えた。
正面に六体、背後に四体。増援まで全滅させる弾はない。恒一は地図を頭の中に重ね、閉じかけた防火扉へ走った。
「僕が中央で敵を引きつけます。三人はデータを取って、保守通路から脱出地点へ」
『一人で?』
「一人の方が敵の動きをまとめやすい」
「大丈夫。始めます」
返事を待たず発砲し、敵の注意を引きつける。
残弾は二十三。
先頭の脚を止めれば、狭い通路で後続が詰まる。
一発。移動。二発。身を伏せる。
机を蹴り倒して遮蔽物にし、次の部屋へ滑り込む。手榴弾は敵ではなく、壁際の配電盤へ投げた。
爆発。
二度目の停電が起きる。
「今。走って」
三人が保守通路へ入る。恒一は敵の銃口が光る直前に伏せ、その射線へ別の敵を重ねた。誤射で先頭が崩れた横を抜ける。
残弾九。
五。
二。
最後の一発で非常用ロックを撃ち抜き、隔壁の向こうへ転がり込んだ。
背後で分厚い扉が閉じた。画面の縁は赤く染まり、体力はあと一度かすれば終わる。
『なんで生きてる』
『追い詰められたポチ、やっぱり怖い』
「怖くはないでしょう」
言葉とは裏腹に、恒一の口元には笑みが浮かんでいた。
仕事中に積もった眠気も肩の重さも、その数分だけは消えていた。恒一は味方と合流し、先頭に立って脱出地点まで駆け抜ける。
最後の一人が輸送機へ飛び込んだ直後、作戦成功の文字が画面に現れる。
通話の向こうで歓声が上がり、コメント欄にも見慣れた名前が流れていく。
『クリアきた!』
『今日のアーカイブ確定』
同時視聴者数は、六人。それ以上に増える気配はない。
それでも仲間の喜ぶ声が聞こえ、いつもの視聴者が一緒に騒いでくれる。恒一には、それで十分だった。
◇
「予定していた縛りは達成です。参加してくれた三人、ありがとうございました」
時刻は午前零時四十八分。予定を十八分過ぎていた。
「誤差です。あとは少し雑談して終わります」
『その少しが長い』
参加者が通話を抜けたあとも、視聴者数は五人のままだった。仕事の愚痴には「それはしんどいですね」と返し、眠れない者には、眠くなるまで聞いていけばいいと言った。
始めた頃は沈黙が怖かったが、今は違う。キーボードやマグカップの音に、ときどき返事が混じる。それだけの時間を好んでくれる人がいる。
『ポチ、今日かなり疲れてない?』
「ちょっと残業が長引いただけです。大丈夫ですよ」
『それ大丈夫じゃない時の言い方』
『もう終わって寝な。』
普段なら、止めるときにも何か一つ軽口を挟む人が、句点だけで文を閉じていた。
本気で言っているときの書き方だった。
「そうします。これを読んだら」
画面には、視聴者がまとめた武器ごとの検証表が開かれていた。一行読み、次へ視線を移す。文字が滲んだ。
目を擦ってコーヒーへ手を伸ばし、空のマグカップに触れてから、とうに飲み切っていたことを思い出す。
「すみません。五分だけ休憩します。戻ったら配信を切ります」
『今切れ』
『戻る必要ない』
『寝落ちフラグ立てるな』
「五分で寝るほど器用じゃないですよ」
休憩画面へ切り替え、マイクをミュートしようとした瞬間、先ほどの参加者から礼のメッセージが届いた。短く返信した恒一は、それだけでマイクを切ったつもりになった。
ベッドまでは三歩。横になるつもりはない。壁に背を預け、五分だけ目を閉じる。そのつもりで腰を下ろしたところまでは覚えている。
次の瞬間には、ベッドへ斜めに倒れ込んでいた。
パーカーも脱いでいない。
照明もついたまま。
配信も、終わっていない。
枕元へ置かれたスマートフォンが、午前一時十九分を表示していた。
規則正しい寝息が、切り忘れたマイクを通して配信へ乗る。
『寝た?』
『五分で寝るほど器用じゃない人、三十秒で寝ました』
『誰か起こして』
『起こせるなら起こしてる』
『今日は疲れてたし、このまま寝かせよう』
休憩画面の隅で、犬小屋のアイコンだけが尻尾を振り続けていた。
一人が抜け、視聴者数は四人になった。
それでも、四という数字はそれ以上減らなかった。誰かが『本当に小屋で寝てる犬みたいだ』と書き込み、残った三人がそれぞれのやり方で同意した。
午前一時三十七分。
恒一の寝息に、微かな雑音が混じった。
ざあ、と。
遠くで木々が揺れたような音だった。
『今の何?』
『雨?』
『東京、降ってないけど』
午前一時三十八分。
休憩画面が一度だけ大きく乱れた。
配信ソフトには誰も触れていない。マウスも、キーボードも動いていない。それなのに、映像の中央を細い光が走り、犬小屋のアイコンが輪郭からほどけるように崩れていく。
画面が暗転した。
『配信落ちた?』
『いや、LIVE表示は残ってる』
『音も聞こえる』
聞こえていたのは、エアコンの送風音ではない。
葉と葉が擦れる音。
名も知らない虫の声。
湿った土の上を通り過ぎる、夜の風。
黒い画面の中央に、白い文字が浮かんだ。
――接続方式を更新しています。
続けて、もう一行。
――LIVE READY。
どちらも、読めた者がいたか分からないほど短い表示だった。
直後、映像が戻る。
ただし、そこにゲーム画面も、休憩用の画像もなかった。
暗い。
映像全体が呼吸に合わせるように緩く揺れ、ときおり細い隙間から青白い光が差し込む。何かがカメラを覆っているようにも、閉じた瞼の向こうを映しているようにも見えた。
『何これ』
『外?』
『ポチ、カメラ使ってなかったよな?』
『起きてる?』
呼びかけに答える声はない。
コメントだけが、届かない場所へ向けて流れ続けた。
◇
冷たいものが、頬に触れた。
恒一は眉を寄せ、寝返りを打とうとした。
肩の下で、何かがぱきりと折れる。
ベッドのスプリングではない。
頬に触れているものも、洗い忘れたシーツではなかった。
冷たく、湿っていて、ざらついている。
「……ん」
重い瞼を開く。
最初に見えたのは、黒に近い土だった。
次に、苔。
その向こうに、指ほどの幅がある青白い草が生えている。葉先に溜まった雫が落ち、恒一の頬をもう一度濡らした。
夢だと思った。
そうでなければ、説明がつかない。
恒一は地面へ手をつき、ゆっくりと上体を起こした。
黒いパーカー。スウェット。靴下。眠る前と同じ格好だ。
だが、ベッドも、机も、つけっぱなしだった照明もない。
周囲には、見上げても先端が分からないほど巨大な木々が並んでいた。
太い幹には淡い光を放つ蔓が巻きつき、頭上では見たことのない羽虫が星のように瞬いている。冷たい夜気の中に、濡れた土と草、それから微かに甘い花の匂いが混じっていた。
夢にしては、匂いがある。
頬を伝う水滴も、地面についた手の冷たさも、あまりに鮮明だった。
遠くで、獣とも鳥ともつかない低い声が響く。
恒一の眠気が、一瞬で消えた。
「……ここ、どこだ?」
返事はない。
代わりに、視界の右上で赤い点が明滅した。
見間違いかと思い、目を擦る。
赤い点は消えない。
顔を左右へ向けても、同じ位置についてくる。
その横には、見慣れた四文字が浮かんでいた。
――LIVE。
その下で、数字が一秒ずつ減っている。
――残り時間 29:41。
さらに小さく、視聴者数が表示されていた。
四人。
恒一は息を止めた。
「配信……?」
声に反応するように、半透明の音声メーターだけが動いた。
その下にはコメント欄らしき枠がある。しかし、そこには一文字も表示されていない。
地球側では、残った四人が同じ光景を見ていた。
『ポチ?』
『声は聞こえる』
『そこどこだよ』
『右上の時間、三十分から始まってる』
『コメント見えてない?』
けれど、その一つも恒一の視界には現れなかった。
通信が途切れているのか。配信ソフトの異常か。それとも、これ自体が疲れ切った頭の見せている夢なのか。
試しに目を強く閉じてみる。
赤い光は、瞼の裏にまで残った。
恒一は立ち上がろうとして、靴を履いていないことに気づいた。足の裏に小枝が刺さらないよう、近くの木へ手をつきながら慎重に腰を上げる。
マンションはない。
道路も、電柱も、街の明かりもない。
どの方向を見ても、夜の森だけが続いている。
ポケットを探る。財布はない。鍵もない。スマートフォンもない。
身につけているのは、部屋着と靴下だけ。
状況が分からないときほど、確認できるものから確認する。
自分に怪我はない。
空気は冷たいが、今すぐ体温を奪われるほどではない。
水の音は聞こえない。
遠くに何かいる。
そして、配信は続いている。
「僕の声、聞こえていますか」
返事はなかった。
地球側のコメント欄には、返事がいくつも流れた。
『聞こえてる』
『聞こえてるぞ』
『ポチ、こっちは見えてる』
その言葉は、届かない。
恒一の視界では、音声メーターだけが虚しく揺れていた。
助けを呼ぶ電話はない。
現在地を示す地図もない。
帰り道どころか、ここが地球なのかどうかさえ分からない。
それでも、赤い表示の横にある視聴者数は、四のままだった。
宝知恒一、三十二歳。
ただ配信中に寝落ちしただけの会社員は、見知らぬ森の真ん中で一人きりになった。
そして、彼の日常からたった一つだけ――。
ライブ配信だけが、まだ繋がっていた。




