第27話 水の天幕の下で
恒一が目を覚ましたとき、最初に見えたのは二つの青白い瞳だった。
近い。
目の前というより、胸の上にある。
白い髪が長衣の胸元へ広がっている。
あかりはそこへ頬を乗せたまま、恒一を見上げていた。
昨夜と違い、眠ってはいない。
いつから起きていたのかは分からない。
ただ、恒一が目を開けるのを待っていたようだった。
表情は静かでも、契約から届く感情は違う。
不満と羞恥と困惑が、一晩分積み重なっていた。
恒一は、自分の腕がどこにあるのかを確かめた。
右腕はあかりの背中へ回っている。
左腕は腰の近くを抱えていた。
眠る前には、どちらも身体の横へ置いていたはずだった。
それでも今は、あかりを胸の上から逃がさない形になっている。
「……おはようございます」
あかりの目が僅かに細くなった。
挨拶を間違えたわけではない。
朝の言葉だけで済ませようとしたことが気に入らなかったらしい。
「怒っていますか」
返事はない。
代わりに、不満が一段強くなった。
聞く必要もなかった。
「すみません」
恒一は腕の力を緩めた。
あかりの背中から右腕を外す。
腰へ回っていた左腕も、毛布の上へ下ろした。
ようやく自由になったあかりは、すぐには離れなかった。
両手を恒一の胸へつき、上半身だけ起こす。
白い髪が左右へ流れた。
その姿勢のまま、また恒一を見る。
恨めしそうな顔だった。
「僕が、眠っている間に抱き寄せたんですね」
あかりは強く頷いた。
恒一を指す。
自分を指す。
両腕で何かを抱え込む仕草をした。
それから、自分の身体を抱く腕へ力を込める。
一度。
少し緩めて、もう一度。
昨夜、二度も抱き直したことを示しているように見えた。
「二回ですか」
あかりは、さらに強く頷く。
その瞬間に届いた羞恥が大きすぎて、恒一にもそれ以上は聞けなかった。
「まったく覚えていません」
あかりの顔が固まった。
不満が、先ほどまでとは別の形で膨らむ。
どうやら、言い方を間違えたらしい。
「言い訳をするつもりではありません。眠っていたとしても、僕がしたことです」
恒一は寝台の上で頭を下げた。
「嫌な思いをさせました。すみません」
あかりは恒一を見下ろした。
怒りはまだ残っている。
しかし、拒絶は届かない。
昨夜の安心も、その奥から僅かに伝わってくる。
抱え込まれたことだけが嫌だったわけではないらしい。
逃げられず、自分だけが混乱し、恒一は何も覚えていない。
その辺りが混ざっているようだった。
「次から気をつけます」
そう言うと、あかりは少しだけ首を傾げた。
「寝ている間に、勝手に抱き寄せないようにします」
恒一は言い直した。
あかりは視線を横へ逸らした。
返事の代わりに、恒一の胸へついていた左手を一度だけ握る。
長衣の布が指の中へ寄った。
それから、ようやく身体を離した。
寝台の横へ降りる。
昨日の朝と同じように壁際まで行くかと思った。
しかし、あかりは一歩離れたところで止まった。
機嫌は悪い。
それでも、昨日より近い。
恒一は身体を起こした。
「調子を確認してもいいですか」
あかりはすぐには頷かなかった。
恨めしそうな視線を一度向ける。
それから、仕方がないというように左手を差し出した。
恒一は黒い布を、あかりの手の後ろへ重ねた。
指の向こうに布の色は見えず、白い髪の先にも揺らぎはない。
右腕だけは左腕より僅かに薄く、胸元の霊核にも亀裂が残っている。
それでも、村へ来てから見た中では最も安定していた。
「昨夜より、さらに濃くなっています」
あかりも自分の指を確かめる。
安心が届いた。
すぐあとに、昨夜のことを思い出した照れも届く。
彼女は手を引き、また横を向いた。
恒一は寝台から降りる。
顔を洗うため、炉のそばに置いていた器へ手を伸ばした。
底には、昨夜汲んでおいた水が残っている。
持ち上げようとしたところで、水面の中央が丸く盛り上がった。
一粒の雫が、器から離れる。
恒一は手を止めた。
あかりの左手に合わせ、雫が細い糸へ伸びる。
器の上で輪を描き、途切れることなく回り続けた。
森で見た水の腕ほど大きくない。
井戸で見せた三つの波よりも小さい。
それでも、間違いなくあかりが操っている。
「力を使えるようになったんですか」
あかりの胸元に、微かな誇らしさが生まれた。
指をもう一度動かすと、水の輪が小皿ほどの薄い膜へ広がった。
朝日を通し、炉の横へ青い光を落とす。
数秒後、あかりが手を下げると一つの雫へ戻った。
そのまま器へ落ちると思った。
雫は途中で向きを変えた。
恒一の額へ当たる。
冷たさに目を閉じた。
もう一粒、小さな雫が器から浮かぶ。
今度は頬へ当たった。
あかりを見る。
彼女は顔を逸らしている。
けれど、僅かな満足が契約を通して届いていた。
まだ機嫌は直っていないらしい。
「本当によかったです」
恒一は額の水を指で拭った。
「ただ、霊核の傷は残っています。無理はしないでください」
あかりは、横を向いたまま頷いた。
使えたのは僅かな水だけだった。
けれど、失っていた力が少し戻ったと分かるには十分だった。
その結果に納得しながら、恒一は頬へ残った水をもう一度拭った。
回復の確認としては、少し冷たかった。
◇
今日は、村を出る日だった。
恒一は朝のうちに荷物を最後まで確かめた。
村人たちから分けてもらった食料。
水を入れた蓋付きの木筒。
火を起こすための道具。
雨を避ける布。
細い紐と、右腰の小袋。
二冊の教本も、布で包んで荷物の奥へ入れた。
町へ着いたあとも困らないよう、一人で背負える量に収めている。
袋の口を締めて持ち上げる。
配信中の補正がなくても、歩ける重さだった。
恒一は一度袋を下ろした。
小屋の中を見る。
炉の火と灰は片づけ、寝台の毛布も畳んである。
床にも壁際にも、忘れ物はない。
数日を過ごしただけの小屋だった。
それでも、森を出て初めて落ち着いて眠れた場所だった。
あかりの身体が消えない方法を見つけた場所でもある。
昨夜を思い出し、あかりへ視線を向けかけてやめる。
しかし、彼女はすでに恒一を見ていた。
目が合う。
青白い瞳が細くなる。
「荷物の確認をしていただけです」
不信が届く。
恒一は背負い袋を持ち上げた。
「行きましょう」
話を変えるように扉へ向かう。
あかりは少し遅れてついてきた。
戸口を越える前に、一度だけ小屋の中を振り返る。
名残惜しさが届いた。
恒一も立ち止まった。
「戻る方法を探したあと、ここへお礼をしに来たいと思っています」
言葉の意味は全て伝わらない。
それでも、あかりは恒一の顔を見て小さく頷いた。
二人で戸口を出る。
恒一は扉を閉じた。
朝の村には、いつもより多くの声があった。
南側の倉の前へ人が集まっている。
大きな荷車は、すでに道へ向けられていた。
灰褐色の荷獣が二頭、長い横木の前に並んでいる。
太い脚が地面を踏むたび、黒い蹄の周りから土が崩れた。
荷台には穀物袋と炭の包みが積まれている。
乾燥させた薬草。
織った布。
小さな器を詰めた木箱。
荷崩れしないよう、太い縄が何本も渡されていた。
肩幅の広い女が、最後の結び目を確かめている。
白い髭の男は荷獣の前へ立ち、革の繋ぎを見ていた。
恒一に気づく。
背負い袋を指し、荷台の前方を指した。
「お願いします」
恒一は頭を下げた。
男は大きく頷く。
男は恒一の隣へも視線を向けた。
あかりの姿は見えなくても、そこにいることを理解している。
恒一と隣の空間を順番に指し、荷台の前にある狭い板を二度叩いた。
乗れ、と示している。
あかりから、柔らかな感情が届く。
朝から残っていた不満が、そのときだけ少し薄くなった。
彼女は白い髭の男へ向き直る。
両手を身体の前へ揃え、深く頭を下げた。
男は、その辺りに生まれた淡い光へ目を細め、同じように頭を下げた。
恒一は背負い袋を荷台へ置き、村の荷と混ざらないよう目印の布を結んだ。
準備を終えて振り返る。
倉の前には、いつの間にか村人が集まっていた。
仕事の途中で来た者も、桶を持ったままの者もいる。
森から運ばれた恒一へ小屋と食事と衣服を与え、村の仕事へ入ることも許してくれた者たちだった。
あかりの姿が見えなくても、恒一の隣に誰かがいることを理解し受け入れてくれた。
恒一は、覚えた数少ない村の言葉を口にした。
感謝を示す短い言葉だった。
一度では通じず、もう一度言うと、肩幅の広い女が笑った。
周囲の者たちも、同じ言葉を恒一へ返す。
また来い。気をつけろ。
そのどちらかに近いように感じた。
恒一は深く頭を下げた。
「助けていただき、ありがとうございました」
日本語でも伝える。
あかりも隣で深く頭を下げた。
子どもの一人が、恒一へ手を振った。
続けて、恒一のすぐ横にある空間へも手を振る。
他の子どもたちも真似をした。
あかりが驚く。
自分を指す。
子どもたちを指す。
恒一が頷くと、彼女は胸の前で左手を小さく振った。
見えているかは分からない。
子どもたちは、それでも笑って手を振り返した。
白い髭の男が前の板へ上がる。
左側へ腰を下ろし、手綱を取った。
恒一は右側へ座る。
あかりは荷台の前へ浮かび、恒一のすぐ後ろへ収まった。
距離は一歩もない。
狭い荷車と身体の安定。近づく理由は二つあった。
あかりは横を向いたまま、恒一の肩へ左手を置いた。
触れたところから淡い光が広がる。
恒一は何も言わなかった。
必要な接触だと彼女が自分で決めたことを、恒一は口にしなかった。
白い髭の男が手綱を動かす。
荷獣が顔を上げた。
太い脚が一歩前へ出る。
横木が軋む。
車輪がゆっくり回り始めた。
村人たちの声が大きくなる。
恒一は振り返り、何度も頭を下げた。
あかりも肩から手を離し、両手を振る。
荷車は倉の前を離れた。
家々の間を通る。
共同井戸の横を過ぎる。
泥をさらった水路を越える。
最後に、村の門を抜けた。
東へ伸びる道へ出る。
森から来たときには、荷車の上で空しか見られなかった。
今日は起きたまま、自分の意思で村を出る。
戻る方法を探すため。
あかりの霊核を治す方法を探すため。
この世界で生きるための仕事を見つけるため。
答えが町にあるとは限らない。
それでも、村に留まっているだけでは何も進まなかった。
恒一は遠くなっていく門を見た。
村人たちは、まだそこに立っている。
小さくなる姿へ、最後にもう一度頭を下げた。
◇
村が畑の向こうへ隠れ始めた頃、恒一は視界の端へ意識を向けた。
朝の準備と別れを配信することはしなかった。
村人たちの顔を、本人たちの了承もないまま長く映したくなかった。
それに、別れの言葉へ五分遅れのコメントを重ねる気にもなれなかった。
道へ出た今なら、映るのは荷車と景色が中心になる。
昼も近い。
今日使える配信時間は二時間ある。
町までの道を確かめるには十分だった。
「こんにちは。ポチです」
声に反応し、視界の隅へ赤い表示が灯った。
《LIVE配信を開始します》
身体の内側へ熱が広がる。
背筋が伸びる。
車輪から伝わる細かな振動が、先ほどより小さく感じられた。
配信中の身体補正が働いている。
「昨日お伝えした通り、今日、村を出ました」
恒一は前方へ視線を向けた。
土の道が東へ続いている。
左右には低い畑が広がっていた。
村の近くは人の手が入っている。
石が脇へ退けられ、荷車二台がすれ違えるほど道幅もある。
「村の荷車へ乗せてもらい、町へ向かっています」
白い髭の男は、恒一の言葉を気にする様子もなく手綱を握っている。
配信の仕組みは説明していない。
恒一が時々、誰もいない場所へ話すことには慣れているようだった。
「町では、この世界について調べます。元の世界へ戻る方法と、あかりの傷を治す方法。それから、働く手段も探すつもりです」
言葉へ返事はない。
配信を始めてから、まだ五分経っていない。
視聴者には映像が届いていても、その反応が恒一へ戻るまでには時間がある。
恒一は静かな視界のまま、荷車へ揺られた。
あかりはすぐ後ろにいる。
先ほどまで肩へ置いていた手は離れていた。
それでも、昨日のように二歩の距離は取っていない。
荷車が石を越えるたび、白い髪が水面のように揺れる。
時々、恒一を見る。
目が合えば、恨めしそうに目を細める。
朝から機嫌は完全には直っていなかった。
五分が過ぎる。
視界へ、ようやく文字が流れ始めた。
《始まった》
《本当に村を出てる》
《荷車だ》
《荷獣でかいな》
《異世界の街道配信》
《あかりちゃん近くに戻ってる》
《でも顔が怒ってない?》
最後の文字を見て、恒一はすぐに返事をしなかった。
あかりを見る。
彼女も恒一を見ていた。
今朝のことを話すつもりだと察したらしい。
胸元の光が僅かに強くなる。
「体調は回復しています」
恒一は事実だけを先に伝えた。
「機嫌については、少し問題があります」
あかりの不満が強くなった。
「昨夜、僕が眠ったままあかりを抱き寄せ、そのまま離さなかったようです」
あかりの身体が淡く光る。
白い髪が一度大きく波打った。
「詳しいことは非公開です」
昨日と同じ言葉で打ち切る。
今の返答に対する反応が届くのは、さらに五分後になる。
その間に、荷車は村の畑を抜けた。
左右の景色が変わる。
低い草地。
点々と立つ木。
遠くには、森より低い丘が連なっている。
道は僅かに上り始めた。
荷獣の歩みは変わらない。
白い髭の男は、ときどき短い声を掛けながら二頭を進ませる。
恒一は荷台の縄を確かめた。
揺れはあるが、荷崩れする様子はない。
右腰の小袋も外れていなかった。
あかりは、まだ光ったままだった。
「これ以上は話しません」
念のため小さく伝える。
安心と、それでも残る羞恥が届いた。
ちょうど五分後、待っていた反応が流れ始める。
《二夜連続で抱いたのか》
《今度は検証ですらない》
《寝相で確保されるあかりちゃん》
《詳しいことが一番必要》
《非公開が増えていく》
《体調と機嫌を別項目にするな》
「結果に必要なことは報告しました」
恒一は前を向いた。
《五分遅れでも逃がさない》
《ポチ、ちゃんと謝ったか》
それは、今の会話に対する返答ではない。
五分前の流れを見た視聴者が、同じ頃に書いたものだった。
「朝、謝りました」
答える。
あかりから、不満を含んだ肯定が届く。
謝ったこと自体は認めてくれるらしい。
「まだ許されたわけではないようです」
あかりが恒一の肩を、左手の指先で一度だけ押した。
冷たい感触が長衣越しに伝わる。
否定ではなかった。
念を押されたように感じた。
恒一はそれ以上話さず、道の説明へ戻った。
◇
太陽が高くなるにつれ、日差しは強くなった。
空には雲が少ない。
道の両側にあった木も、村から離れるほど疎らになっていく。
荷車の前方には屋根がない。
光が頭と肩へ直接落ちる。
地面から返る熱も強かった。
白い髭の男は、頭へ薄い布を巻いた。
恒一にも予備の布を差し出す。
「ありがとうございます」
受け取り、頭から首へ掛ける。
直射日光は和らいでも、風が止まればすぐに暑さが戻る。
配信中の補正で身体が強くなっても、日差しまで消えるわけではなかった。
喉の渇きも感じる。
恒一は蓋付きの木筒を取った。
水を一口だけ飲む。
途中で水を補給できる場所があるか分からないため、飲む量は抑える。
蓋を閉じる。
木筒を荷物の脇へ戻そうとした。
あかりの左手が、その上へ重なる。
恒一は動きを止めた。
「水が必要ですか」
あかりは首を横へ振った。
木筒と恒一の頭上を指し、左手を横へ広げる。
「水を使いたいんですか」
今度は頷く。
恒一は、静かに光る霊核と右腕を確かめた。
「少しだけなら」
木筒の蓋を外す。
「苦しくなったら、すぐにやめてください」
あかりは左手を開いた。
木筒の口から、水が一本の糸になって昇る。
朝より多い水が、あかりの指先で輪を作り、二本に分かれた。
一本は恒一の頭上へ。
もう一本は白い髭の男の頭上へ伸びる。
白い髭の男が、手綱を握ったまま目だけを上へ向ける。
二本の水は弧を描き、その間へ薄い膜を広げていく。
端から端へ水が巡るたび大きくなり、やがて二人を覆った。
布一枚を張ったような形だった。
支える棒も縄もなく、薄い水だけが宙へ浮かんでいる。
太陽の光が膜へ当たり、青と緑の淡い色が水面を走った。
強い日差しが柔らかくなり、地面まで僅かに青く見える。
恒一は頭の布を少し上げた。
暑さが違う。
透明な膜越しに空も道も見えるが、肌へ刺さっていた熱は弱い。
巡る水が、その下へ冷えた空気を落としていた。
乾いた風が通るたび、首元の汗が冷える。
「あかり、これは……」
恒一が振り返る。
あかりは左手を上げたまま、少し得意そうに恒一を見ていた。
朝から初めて、恨めしさのない顔だった。
ただし、目が合うとすぐ横を向く。
まだ素直に機嫌を直すつもりはないらしい。
「ありがとうございます。かなり涼しいです」
感謝を伝える。
あかりから、満足が届いた。
白い髭の男も冷えた空気を掌で確かめ、ポチのいる方へ頭を下げた。
あかりも左手を動かさないまま、頭を下げた。
荷車が窪みで大きく揺れると、天幕も波打った。
それでも崩れず、雫一つ落ちない。
「動きながらでも保てるんですね」
あかりは小さく頷く。
指を曲げると天幕の前側が下がり、正面からの光も遮る。
景色が僅かに歪むだけで、進む妨げにはならなかった。
五分前、この水が木筒から昇るところは配信にも映っている。
視界へ反応が届き始めた。
《水が浮いた》
《でかくなってる》
《屋根になったぞ》
《透明な日傘》
《あかりちゃん魔法戻ってる》
《天然の冷房だ》
《異世界の旅、急に快適になった》
恒一は流れる文字を確かめた。
「あかりが、水を薄い天幕のように広げてくれました」
手を上へ向ける。
掌の少し先で、水が流れている。
「日差しが弱まり、下を通る風も冷たくなっています。見た目以上に涼しいです」
《水はどこから出した》
《飲み水を全部使ってない?》
《無限に出せるのか》
それも五分前、水が昇った場面を見た視聴者の反応だった。
「水は僕の木筒から使っています。無から出したものではありません」
木筒の水は、底が見えるほど減っていない。
薄い天幕の中を、同じ水が循環していた。
「使っているのは一部です。落とさずに戻せるなら、失う量も少なく済むと思います」
あかりが頷いた。
自分の力を正しく説明できたことへの肯定が届く。
恒一は続けて霊核を見る。
「魔法が使える程度には回復しました。ただし、傷が治ったわけではありません」
胸元の亀裂も、薄い右腕も残っている。
森で作った水の腕と違い、今の水に何かを押し流す力はない。
それでも今の旅では、敵を倒す力より強い日差しを和らげる力の方が役に立った。
指先も胸元の光も、いまは安定していた。
水の天幕の下で、荷車は道を進む。
車輪と蹄と縄の音へ、水が薄く流れる音が加わった。
耳を澄ませば、小屋の近くにあった水路を思い出す。
恒一は前を向く。
水越しの空は、青色が少し濃く見える。
乾いた道の上だけに、小さな涼しさが一緒に進んでいた。
◇
水の天幕を作ってから、しばらく経った。
あかりは天幕を崩していないが、右腕の輪郭が僅かに薄くなっていた。
左手だけで操っていても、傷ついた霊核には負担が掛かるらしい。
「一度休みますか」
あかりは首を横へ振った。
「身体が薄くなり始めています」
右腕を指す。
あかりは自分の腕を見ても、すぐに天幕へ視線を戻した。
恒一たちの汗が引いたことに、役に立てる喜びを感じている。
恒一は昨日までの検証を思い出し、左手を差し出した。
「手を繋ぎますか」
あかりの目が細くなる。
朝の不満を忘れたわけではないと伝える顔だった。
「抱き寄せません」
すぐに付け加える。
あかりは天幕と右腕と恒一の掌を順に見る。
左手は魔法へ使ったまま、薄くなった右手を伸ばした。
恒一の掌へ重ねる。
冷たい指が触れた。
淡い光が二人の手首へ広がり、右腕と胸元が安定する。
頭上の天幕にあった細かな震えまで消えた。
「この状態なら、もう少し続けられそうです」
あかりは顔を逸らしたまま頷いた。
右手は離さない。
魔法の維持と身体の安定。
理由が二つあれば、朝の不満が残っていても手を繋げるらしい。
眠っている間とは違い、いつでも離せるよう掌を開いたまま支える。
あかりの指が、恒一の指の間へ少しだけ入った。
あかりから握る力は、安定に必要なものより僅かに強かった。
恒一は何も言わない。
五分後、視聴者だけがそれに気づいた。
《手を繋いだ》
《怒ってても繋ぐんだ》
《右手を回復させながら魔法を使ってる?》
《接触が充電になってるな》
《理由があれば近づけるあかりちゃん》
《ポチ、今度は離せるようにしておけ》
「身体を安定させるためです」
恒一は必要な説明だけをした。
《はいはい検証》
《理由は必要》
《握り返してるように見えるけど》
届いているのは、まだ手を重ねた直後への反応だった。
「必要な接触です」
恒一は言い直した。
あかりの指へ、僅かに力が入る。
意味は判断できなかったが、手は離れなかった。
荷車は低い丘を越えた。
前方の道が長く見える。
遠くに木が集まった場所があった。
白い髭の男がそこを指す。
次に、口へ手を運ぶ仕草をした。
昼の休憩を取るらしい。
恒一は頷いた。
視界の隅では、配信の残り時間が少なくなっている。
町はまだ見えなくても、道と進む方向は分かっている。
「もうすぐ休憩に入ります。今日の配信も、ここで終わります」
それから五分、荷車は水の天幕の下を進んだ。
先ほどの終了予告に対するコメントが届く。
《お疲れ》
《旅配信よかった》
《町に着いたらまた見せて》
《あかりちゃん魔法復活おめでとう》
《無理だけはさせるなよ》
《手はちゃんと離してやれ》
《次も待ってる》
《お疲れポチ》
《あかりちゃんもお疲れ》
「無理はさせません」
恒一はあかりの右手を見る。
「手は、あかりが離すまで待ちます」
必要のない報告だったと気づいたときには、あかりの身体が強く光っていた。
その反応へのコメントが返る前に、配信時間は終わる。
「それでは、今日はここまでにします。ありがとうございました」
恒一は配信を終了した。
赤い表示が消える。
身体を満たしていた力が引き、荷車の揺れが少し大きく感じられる。
それでも、水の天幕は消えなかった。
あかり自身が取り戻した、精霊の力だった。
青と緑の淡い光が、二人の上を流れ続けている。
恒一は繋いだ手を開いたままにしていた。
あかりは、まだ離さなかった。
◇
荷車は、道沿いの木陰で止まった。
白い髭の男が手綱を引き、荷車を木々の作る影へ止めた。
あかりが左手を下げる。
天幕が中央から縮み、細い水の筋となって木筒へ戻っていく。
最後の一滴まで口へ入ったところで、恒一が蓋を閉じた。
水は少し減っていたが、減った量は同じ時間に飲んだはずの量より少ない。
水を節約しながら暑さを和らげられる、旅向きの力だった。
「疲れていませんか」
あかりは胸元と右腕を確かめ、首を横へ振った。
続けて、恒一と繋いだままだった手を見る。
朝の記憶が戻ったらしい。
頬の辺りまで青白い光が強くなる。
右手を急いで引いた。
不満も一緒に戻ってくる。
恒一は追わなかった。
「力を使ってくれて、ありがとうございました」
あかりは横を向く。
それでも、嬉しさは隠しきれていなかった。
木の根元へ座り、薄いパンと乾燥させた果物で昼食を取る。
白い髭の男は、二頭の荷獣へ桶の水を飲ませていた。
道の上はまだ強い光に照らされていた。
あの中を進めば、またすぐ暑くなる。
恒一は木筒を見る。
あかりも同じものを見た。
「午後も使うつもりですか」
あかりは頷く。
「無理をしない範囲でお願いします」
もう一度頷く。
今度は、先ほどより素直だった。
村を出て最初にあかりが見せた力は、誰かを傷つけるものではなかった。
恒一と白い髭の男を暑さから守る力だったことが嬉しい。
「町で、霊核を治す方法を必ず探します」
あかりが恒一を見る。
「今日できるようになったことを、無理なく続けられるようにします」
期待と不安、そして信頼が契約から届く。
あかりは肩が触れない距離へ浮かび、恒一の袖を摘んだ。
接触したところから、ごく淡い光が生まれる。
検証でも魔法のためでもないのに、あかりは手を離さなかった。
恒一も理由を尋ねなかった。
木々の向こうでは、強い日差しが道を白く照らしている。
恒一は袖を摘む冷たい指を感じながら、静かに水を飲んだ。
◇
午後、荷車は再び東へ進み始めた。
村はもう見えない。
畑も水路も小屋の屋根も丘の向こうへ隠れ、前には知らない道だけがある。
荷獣の蹄が土を踏み、車輪が二本の跡を残していく。
恒一は荷台の前へ座り、進む先を見ていた。
配信中の身体補正が消え、荷車の揺れが腰へ溜まり始めていた。
頭上からは、昼前より強い日差しが落ちていた。
恒一が布を頭へ掛け直す前に、隣で水が動いた。
あかりが左手を上げると、木筒から透明な糸が昇った。
恒一が頼むより早く、頭上へ弧を描いて広がる。
青と緑の光を含んだ天幕が、もう一度荷車の前へ作られた。
熱が和らぐ。
乾いた風が冷たく変わる。
白い髭の男が上を見て笑った。
あかりへ向けるように、胸へ手を当てる。
あかりは少し得意そうに頷いた。
朝の不満は残っていても、恨めしそうな顔は長く続かない。
風や日差し、荷車の揺れに合わせて天幕を直すうち、不機嫌でいる余裕がなくなっていた。
恒一は笑わないよう前を向く。
気づかれれば、朝の雫が二粒では済まない気がした。
しばらくして、あかりの右手が伸び、恒一の袖へ指先を掛ける。
身体と魔法を安定させ、狭い荷車から離れないため。
近づく理由はいくつもある。
けれど、どの理由が一番大きいのかは、もう確かめる必要がなかった。
恒一は、あかりが自分で選んだ距離をそのままにした。
水の天幕の下で、二人は同じ道を進んだ。
村の小屋は、もう遠い。
それでも二人の頭上には、あかりが作った小さな屋根があった。
持ち運べる荷物ではない。
縄で結ぶこともできない。
あかりが恒一のそばにいる限り、一緒についてくる屋根だった。
水の天幕は荷車とともに揺れながら、町へ続く道を進んでいった。




