第28話 配信外の一撃
水の天幕が最初に大きく揺れたのは、風のせいではなかった。
午後の街道を、荷車は東へ進んでいる。
前方に渡された狭い横板の左側へ、白い髭の男が座っていた。
両手で手綱を握り、二頭の荷獣を進ませている。
恒一は、その右隣だった。
横板は、大人二人が並べばほとんど埋まる。
あかりは恒一の右斜め後ろ、荷台の前端へ身体を浮かせていた。
左手を上げ、荷車の前半分へ薄い水の膜を広げている。
青と緑の淡い光が天幕を流れる。
強い日差しは水を通ることで和らぎ、その下を抜ける風も僅かに冷たい。
村から遠ざかるほど、道の左右にある木は少なくなっていた。
見えるのは、低い丘。
乾いた草。
人の背丈を越える茂み。
その間を、土の道だけが東へ続いている。
昼前より太陽は傾いていた。
それでも、地面へ溜まった熱は消えていない。
水の天幕がなければ、頭へ巻いた布も汗で濡れていたはずだった。
「助かっています」
恒一がもう一度礼を言う。
あかりは横を向いた。
左手は上げたまま。
右手の指先だけが、恒一の袖へ触れている。
朝から残っていた不満は、完全には消えていない。
しかし、契約から届く感情の大部分は、魔法を使えるようになった喜びへ変わっていた。
役に立てること。
自分の力で、恒一の暑さを和らげられること。
白い髭の男まで水の天幕へ礼を示したこと。
そのどれもが、あかりには嬉しいらしい。
恒一は前を向く。
視界の隅に赤い表示はない。
今日使える二時間の配信枠は、昼のうちに使い切った。
身体の内側を満たしていた強い熱も、配信終了とともに引いている。
横板から伝わる振動は、配信中より大きい。
荷車が石を踏むたび、腰と背中へ揺れが残る。
それでも、村を出た直後よりは慣れてきた。
姿勢を少し変える。
足の置き方を調整する。
横板の角へ体重を掛けすぎないようにする。
町まで、どれだけ掛かるかは分からない。
白い髭の男は、時々太陽と道の先を交互に指す。
今夜どこかで休むのか。
陽が沈む前に別の集落へ着くのか。
恒一には、まだ正確に読み取れなかった。
少なくとも、男に焦りはない。
二頭の荷獣も一定の速さで歩いている。
そのため、恒一も急いで答えを求めなかった。
今は道から外れず、荷車と一緒に進めばいい。
そう考えていたときだった。
恒一の袖へ触れていた、あかりの指が強くなる。
青白い爪が布へ食い込んだ。
驚き。
警戒。
遅れて、はっきりした恐れが契約へ流れ込む。
恒一は振り返った。
あかりは道ではなく、右側の草むらを見ている。
青白い瞳が一点へ向けられていた。
左手も僅かに下がっている。
水の天幕へ走っていた流れが乱れた。
「何かいますか」
問い掛けるより早く、乾いた草が揺れた。
風とは逆方向へ倒れる。
最初に見えたのは、灰色の板だった。
次に、黄褐色の毛。
低く伏せた頭が茂みから現れる。
狼に似ていた。
ただし、恒一が知っている狼より大きい。
四本の脚で立った肩が、恒一の腰近くまである。
前脚は太い。
爪は黒く、先が内側へ曲がっている。
頭の上から背中にかけ、岩を薄く割って重ねたような甲板が三列に並んでいた。
甲板の隙間から、短く硬い毛が逆立っている。
口の端には、牙が二本見えた。
目は二つしかない。
森で最初に襲ってきた、四つ目の黒い獣ではなかった。
だからといって、安全という意味にはならない。
魔物の目は、恒一を見ていなかった。
荷車を引く、右側の荷獣へ向いている。
白い髭の男が短く叫んだ。
手綱を強く引く。
二頭の荷獣が首を上げた。
右側の一頭が、魔物の匂いに気づく。
太い脚が横へ動いた。
横木が軋む。
左の荷獣まで引かれ、荷車が道の中央で斜めになった。
積み荷を縛る縄が一斉に鳴る。
恒一は横板の端を掴んだ。
白い髭の男は片手で手綱をまとめ、もう片方の手を座席の下へ伸ばす。
短い槍が引き出された。
穂先は黒ずんだ金属だった。
男がそれを構える前に、魔物の肩が沈んだ。
後脚へ力が集まる。
跳ぶ。
恒一には、その前の動きが見えていた。
「あかりは、ここにいてください」
横板から降りる。
身体が考えるより早く動いた。
右足が地面へ着く。
次に左足。
荷車から二歩離れ、右の荷獣と魔物の間へ入る。
五メートルの範囲は越えていない。
あかりから届く感情も途切れなかった。
背後で、水の天幕が急速に縮む。
薄く広がっていた水が集まり、白い髭の男と荷獣の前へ厚い膜を作った。
あかりも守ろうとしている。
だが、魔物の方が早かった。
地面を蹴る。
草と土が後ろへ飛ぶ。
低い身体が、一息で恒一との距離を詰めた。
口が開く。
牙の間から、赤黒い舌が見えた。
狙いは、なおも荷獣だった。
間へ入った恒一ごと噛み倒すつもりらしい。
恒一は正面から受けなかった。
右の前脚が沈む。
頭が僅かに左へ傾く。
次に牙が通る場所が分かる。
左足を軸に、身体を半歩外へずらした。
牙が長衣の胸元を掠める。
布が風圧で鳴った。
森の獣より遅い。
岩の隆起を持つ巨大な猪よりは速い。
それでも、見失う速さではなかった。
魔物の頭が、恒一の右側を通る。
灰色の甲板は頭上を覆っている。
側頭部まで硬い板が重なっていた。
その下。
顎と首の境目だけは、黄褐色の毛に覆われている。
恒一は右拳を握った。
大きく振りかぶらない。
肘を身体の近くへ置いたまま、短く押し出す。
拳が、魔物の顎下へ当たった。
硬いものを殴った感触が、指から手首へ返ってくる。
恒一は、頭の向きを逸らすつもりだった。
荷獣から離せればいい。
もう一度襲ってきたなら、そのとき槍を使う。
その程度に考えていた。
魔物の前脚が、地面から離れた。
頭が上へ跳ねる。
開いていた口が閉じる。
牙がぶつかり、乾いた音を立てた。
巨体は勢いを残したまま、横へ半回転した。
背中の甲板から土へ落ちる。
重い音が街道へ響いた。
灰色の板が地面を削る。
身体が一度だけ滑り、道の端で止まった。
魔物の脚が動く。
一度。
二度。
黒い爪が土を掻く。
それきり、動かなくなった。
恒一は右拳を出した姿勢で止まっていた。
魔物を見る。
自分の拳を見る。
もう一度、魔物を見る。
殴ったのは一度だけだった。
槍は使っていない。
倒木もない。
相手の勢いを利用するため、地面へ穂先を固定したわけでもない。
拳を顎下へ当てただけだった。
背後で、荷獣が荒い息を吐いている。
水の膜が二頭の前で震えていた。
白い髭の男は、短い槍を片手に立ち上がっている。
穂先は魔物へ向いていた。
しかし、男は動かなかった。
口を開いたまま、恒一と魔物を交互に見ている。
恒一は拳を下ろした。
すぐには近づかない。
倒れた相手へ、不用意に接近しない。
森で学んだことだった。
魔物の腹を見る。
上下していない。
耳も動かない。
口元から、細い血が一筋だけ土へ落ちる。
それでも距離を保ったまま、近くに落ちていた枝を拾った。
前脚へ投げる。
枝が毛へ当たり、地面へ落ちた。
反応はない。
白い髭の男が、ようやく横板から降りた。
短い槍を両手で構え、魔物の後ろへ回る。
穂先で後脚へ触れる。
次に、腹。
最後に首の近くを押した。
魔物は動かなかった。
男が槍を下ろす。
恒一を見る。
右拳を指す。
倒れた魔物を指す。
もう一度、右拳を指した。
「僕も、こうなるとは思っていませんでした」
日本語は伝わらない。
恒一は右手を開き、傷がないことを見せる。
拳の皮膚は赤くなっていた。
人差し指の付け根に、鈍い痛みもある。
だが、骨を傷めた感覚ではない。
指は全て動く。
手首も曲げられる。
白い髭の男は、それを見てさらに目を大きくした。
男は自分の拳を握る。
魔物を見る。
首を強く横へ振った。
普通は、拳で殴る相手ではないらしい。
あかりが恒一の前へ飛んできた。
水の膜は、いつの間にか一つの球へ戻っている。
青白い身体が、恒一と魔物の間へ入った。
両手で恒一の右腕を取る。
拳を見る。
手首を見る。
袖をまくろうとする。
強い心配が契約を通して届いた。
「大丈夫です」
あかりは恒一を睨んだ。
朝とは違う。
怒りより、心配の方が大きい。
「痛みはありますが、指も手首も動きます」
右手をゆっくり握る。
開く。
もう一度握る。
「新しい傷はありません」
あかりは納得していない。
恒一の拳を両手で包む。
冷たい身体が、赤くなった皮膚へ触れた。
心配が僅かに和らぐ。
代わりに、どうしてこうなったのかという困惑が届く。
それは恒一も同じだった。
視界の隅へ意識を向ける。
赤い表示はない。
LIVEは始まっていない。
今日の配信時間も残っていない。
同時視聴者補正が働く条件は、どこにもなかった。
それでも、何の補正もないわけではない。
以前、表示された説明を思い出す。
チャンネル登録者数に応じた基礎補正。
LINKが成立してから、常時適用される力。
筋力。
持久力。
反応速度。
身体耐久。
知識としては分かっていた。
配信を切っていても、全てが元へ戻るわけではない。
ただ、LIVE中の力が大きくなったことで、その下に残るものを正確に測れていなかった。
村の仕事では、配信終了後に腕と腰が重くなった。
荷車の揺れも、配信中より強く感じる。
その差ばかりを見ていた。
運動から遠ざかっていた三十二歳の会社員へ、完全に戻っていたわけではない。
恒一は倒れた魔物を見る。
狼より大きい身体。
頭と背中を覆う甲板。
それを、一度の拳で倒した。
顎へ当たった瞬間、魔物自身の速度も加わっていたはずだ。
狙った場所が、偶然急所だった可能性もある。
だから、自分がどんな魔物でも素手で倒せると考えるべきではない。
それでも、拳だけでこの結果になった事実は変わらなかった。
「自分の力を、もう一度確認する必要がありそうです」
あかりには、言葉の全ては届かない。
それでも、恒一が無謀なことを繰り返すつもりではないと伝わったのか、両手の力が少し緩む。
恒一は右手を引かなかった。
あかりが安心するまで、そのまま触れさせておく。
水の球が二人の横へ浮かんでいる。
強い日差しが戻っていた。
しかし、今は暑さを気にしている者はいなかった。
◇
白い髭の男は、倒れた魔物の前へしゃがみ込んだ。
最初に顎下を見る。
黄褐色の毛を掻き分ける。
拳が当たった場所には、傷らしい傷がなかった。
皮膚が僅かに窪み、その周囲へ暗い色が広がっている。
口元から出た血は、牙が唇の内側を切ったものらしい。
男は魔物の口を開く。
牙を指でなぞる。
黒い爪を持ち上げる。
背中の甲板を短い槍の柄で叩いた。
石を叩いたような音がする。
男の顔から驚きが消えたわけではない。
それでも、別の感情が増えていた。
喜びに近い。
男は甲板を指す。
牙を指す。
毛皮を指す。
次に、道の先へ手を向けた。
町の方角だった。
親指と人差し指を擦り合わせる。
小さなものを何枚も数える仕草をした。
「町で売れるんですか」
恒一は魔物を指す。
町を指す。
男と同じように指を擦り合わせる。
白い髭の男が何度も頷いた。
背中の甲板を両手で示す。
牙と爪も順番に示した。
どれが、どれほどの価値を持つのかは分からない。
魔物の名前すら知らない。
それでも、捨てていく獲物ではないことは伝わった。
男は荷車へ戻る。
荷台の後ろへ回り、太い縄を二本引き出した。
古い布も一枚取り出す。
魔物の身体の下へ敷き、荷物へ血や土がつかないようにするらしい。
恒一も手伝う。
頭側へ回る。
白い髭の男は後脚側へ立った。
二人で持ち上げようとする。
「重いですね」
魔物の肩へ両手を入れる。
配信中に運んだ穀物袋より、明らかに重い。
身体も長く、力を掛けにくい。
それでも、持ち上がらない重さではなかった。
恒一が腰を落とす。
脚へ力を入れる。
魔物の前半分が地面から離れた。
白い髭の男が、また動きを止めた。
恒一の腕を見る。
魔物を見る。
「一人では運びません」
意味は伝わらなくても、恒一は首を横へ振った。
男へ後ろ側を持つよう示す。
二人で力を合わせる。
一度に荷台まで上げるのではなく、まず道の端へ置かれていた平たい板へ載せた。
板へ縄を通す。
荷台の後ろへ斜めに立て掛ける。
恒一が下から押す。
白い髭の男が荷台へ上がり、縄を引く。
魔物の身体が、布ごと板の上を滑った。
前脚が荷台へ入る。
次に頭。
最後に後脚が上がった。
荷車が重さで沈む。
車輪の下の土が僅かに崩れた。
魔物は、積み荷の上へそのまま置けなかった。
穀物袋を傷つける。
黒い爪が布や薬草へ引っ掛かる。
何より、荷台の後ろ側だけへ重さを集めれば、車輪と荷獣へ掛かる負担が偏る。
白い髭の男は積み荷を指し、いくつか位置を変え始めた。
恒一も指示に従う。
軽い布包みを前へ。
木箱を一つ、右の前方へ。
炭の包みを中央へ寄せる。
穀物袋は低い位置から動かさない。
重さと大きさを見ながら、隙間を作っていく。
荷台の中央へ古い布を広げた。
その上へ魔物を横たえる。
頭を前へ。
後脚を荷台の後ろへ向ける。
長い身体が、積み荷の上を半分近く占めた。
灰色の甲板と黒い爪が他の荷物へ触れないよう、布を何重にも挟む。
最後に太い縄を胸と腰へ回した。
荷台の横木へ結ぶ。
魔物の身体は動かなくなった。
白い髭の男が荷車の横から全体を見る。
右の車輪。
左の車輪。
横木と、二頭の荷獣。
積み荷の高さ。
一つずつ確かめている。
やがて、納得したように頷いた。
恒一も前へ回る。
そこで、荷物を動かした結果に気づいた。
御者台そのものが、なくなったわけではない。
白い髭の男が座る左側。
恒一が座る右側。
大人二人の場所は、先ほどまでと同じように残っている。
右端へ小さな布包みが一つ結ばれたため、恒一の使える横幅が少し狭くなった程度だった。
なくなったのは、その右斜め後ろにあった空間だ。
あかりが、先ほどまで浮かんでいた場所だった。
移動させた木箱が、荷台の右前へ置かれている。
その後ろには魔物の頭がある。
牙が布から僅かに見えていた。
上には、積み荷を押さえる縄が何本も渡っている。
人が立てる隙間はない。
あかりは荷車の横で、その場所を見ていた。
自分がいた空間。
木箱。
魔物の頭。
もう一度、自分がいた空間。
困惑が届く。
恒一は荷台の他の場所を見る。
中央は魔物が占めている。
後ろには布と薬草が高く積まれ、縄で固定されていた。
魔物の上へ座らせるという選択はない。
荷車の左側へ浮けば、白い髭の男と手綱の動きを妨げる。
前へ出れば、横木と荷獣へ近づきすぎる。
右側の外へ浮いたまま進むことも、できなくはない。
しかし、道の脇には背の高い草と枝が張り出している。
車輪のすぐ横で上下へ揺れ続けることにもなる。
荷車が急に動けば、恒一との距離が五メートルを越える危険もあった。
安全に乗り続けられる場所は、ほとんど残っていない。
恒一は御者台の右側へ座った。
両足を横木の内側へ置く。
自分の右と後ろをもう一度確かめる。
やはり、あかりが身体を置ける幅はなかった。
残っているのは、恒一の膝の上だけだった。
◇
恒一は自分の膝を指した。
「ここへ座りますか」
あかりの身体が固まった。
青白い瞳が、恒一の両膝へ落ちる。
すぐに顔を見る。
もう一度、膝を見る。
契約を通して、激しい動揺が届いた。
朝の恨めしそうな顔が戻ってくる。
昨夜、恒一の胸の上へ抱き込まれた記憶も一緒に戻ったらしい。
「他の場所も考えます」
恒一は荷台を見回した。
見回しただけで、状況は変わらない。
木箱の上は狭く、縄が通っている。
魔物の隣へ僅かな隙間があっても、揺れれば身体が触れる。
外側は安全ではない。
「荷車が止まっている間なら、横へ浮いていても問題ありません。ただ、動き始めたあとは……」
車輪を指す。
道の脇へ伸びた枝を指す。
恒一とあかりの間を手で示し、五本の指を開く。
距離の限界。
あかりにも意味は伝わった。
彼女は右側の道を見る。
荷車を見る。
恒一を見る。
最後に、また膝を見る。
迷い。
羞恥。
不満。
その奥に、身体を薄くしたくないという不安がある。
恒一と触れていれば、輪郭は安定する。
魔法も維持しやすくなる。
あかり自身が、それを理解していた。
「無理にとは言いません」
恒一は両手を上げた。
掌をあかりへ見せる。
「昨夜のように、勝手に抱き寄せることもしません」
あかりの身体が強く光った。
白い髪の先から、細かな水滴が弾ける。
言わない方がよかったらしい。
白い髭の男が手綱を持ったまま、恒一を見る。
次に、恒一が話し掛けている空間を見る。
何かを待っていることは理解している。
男は急かさなかった。
二頭の荷獣も、少し落ち着きを取り戻している。
道の中央で止まり続けても、今すぐ危険という様子ではなかった。
あかりは恒一の前まで来た。
膝の上へ、左手をかざす。
触れない。
距離を測るように、掌を上下させる。
恒一の右膝。
左膝。
その間。
どこへ座っても、身体のどこかが触れる。
当然だった。
あかりが小さく息を吐くように肩を下げた。
実際には、呼吸の音は聞こえない。
それでも、覚悟を決めたことは届いた。
彼女は恒一へ背を向けた。
前を向く。
身体をゆっくり下げる。
最初に、白い髪が恒一の胸へ触れた。
水の流れのような冷たさが、長衣越しに広がる。
次に、あかりの脚が両膝の間へ入る。
腰が、恒一の腿へ近づく。
直前で止まった。
座っていない。
膝の上へ、僅かに浮いている。
接触を最後まで避けようとしているらしい。
しかし、その姿勢のまま荷車へ揺られ続ける方が難しそうだった。
「そのままでは疲れませんか」
あかりが振り返る。
恨めしそうな顔だった。
恒一は黙った。
あかりは前へ向き直る。
もう少し身体を下げた。
腿へ、冷たい感触が重なる。
軽い。
重さがないわけではない。
けれど、人一人を膝へ乗せたときの重さとは違う。
水を満たした薄い布が、身体へ沿う感触に近かった。
あかりは完全に恒一の膝へ座った。
背中は触れていない。
腰を前へずらし、恒一の胸との間に僅かな隙間を作っている。
両手は胸の前で固く握られていた。
青白い耳の辺りまで強く光っている。
羞恥が契約へ流れ続ける。
恒一は上げていた両手を下ろした。
あかりへ触れないよう、自分の左右へ置く。
右手は横板の端。
左手は自分の左膝。
あかりの身体を囲まない。
白い髭の男が恒一の膝へ一度視線を落とした。
そこには、男にも淡い光くらいは見えているのかもしれない。
恒一が不自然に背筋を伸ばしていることも分かる。
男は何も聞かなかった。
前を向く。
手綱を動かした。
二頭の荷獣が歩き始める。
横木が軋む。
重くなった荷車の車輪が、ゆっくり回った。
最初の揺れで、あかりの身体が後ろへ傾く。
白い髪が恒一の胸へ押しつけられた。
背中も僅かに触れる。
あかりの感情が跳ねた。
すぐに身体を前へ戻す。
両手を空中へ伸ばし、何か掴めるものを探す。
前にあるのは、横木と白い髭の男が持つ手綱だけだった。
どちらも掴むべきではない。
恒一は右腕を少し動かした。
「袖なら掴んで大丈夫です」
右腕を、あかりの横へ出す。
抱くためではない。
掴める場所を作るためだった。
あかりは右腕を見る。
また迷う。
荷車の車輪が、小さな石を踏んだ。
横板が跳ねる。
あかりの左手が、反射的に恒一の袖を掴んだ。
右手も続く。
両腕で、恒一の右前腕へしがみつく。
身体が横へ傾き、恒一の胸へ背中が重なった。
契約を通して、驚きと羞恥が一度に届く。
けれど、あかりはすぐには離れなかった。
次の揺れが来る。
今度は、恒一の腕を掴んだまま耐える。
身体は膝から落ちない。
恒一も腕へ力を入れすぎないようにした。
あかりが掴んでいる位置を変えれば、すぐ動かせる。
逃げられない形にはしない。
昨夜とは違う。
あかりが自分で選び、自分から掴んでいる。
接触した範囲から淡い光が広がった。
右腕の輪郭が濃くなる。
髪の先まで形が安定していく。
あかりにも、その変化が分かった。
掴んでいた腕を見下ろす。
離そうとする。
荷車がまた揺れる。
指へ力が戻る。
結局、袖を掴んだままになった。
恒一は何も言わなかった。
理由を確認すれば、あかりは意地でも手を離すかもしれない。
身体の安定。
荷車から落ちないため。
魔法を使うため。
近づく理由は、もう十分にある。
白い髭の男が一度だけ横を見る。
恒一の腕へ集まる淡い光を見た。
それから、荷台の魔物を見る。
小さく首を振る。
今日一日で驚くものを見すぎた、と言っているように見えた。
恒一は前を向いた。
水の球が荷車の横をついてきている。
あかりの左手は、まだ恒一の腕を掴んでいた。
天幕を作るには、どちらかの手を離す必要がある。
日差しは少し傾いたとはいえ、まだ強い。
あかりも空を見る。
恒一の腕を見る。
考える。
右手だけを残し、左手を離した。
水の球へ向ける。
透明な水が細く伸びた。
荷車の前方へ弧を描く。
先ほどより小さい天幕が、二人と白い髭の男の頭上へ広がった。
あかりは恒一の膝へ座ったまま、片手で水を操っている。
もう片方の手は、恒一の袖を掴んでいた。
水が流れる音が戻る。
熱が和らぐ。
乾いた風が、また僅かに冷たくなった。
白い髭の男が頭上を見て、深く息を吐いた。
荷台には魔物が増えた。
荷車は重くなった。
それでも、旅の快適さだけは失われなかった。
◇
しばらく進んだあと、あかりが水の天幕ではない場所を見始めた。
恒一の右手だった。
袖を掴んでいるため、すぐ近くにある。
拳の皮膚は、まだ僅かに赤い。
指の間へ黄褐色の毛が一本挟まっている。
手首の近くには、乾き始めた血が小さく付いていた。
恒一のものではない。
魔物の口元から飛んだ血だった。
袖口にも、細かな土と血がついている。
長衣の胸元には牙が掠めた跡があった。
布は破れていない。
ただ、唾液と土で色が変わっている。
膝にも、魔物を持ち上げたときの泥がついていた。
あかりの感情が変わる。
先ほど和らいだ心配が戻ってきた。
恒一の右手を引く。
袖を掴むだけではなく、手首ごと自分の前へ持ってきた。
拳を裏返す。
掌を見る。
指を一本ずつ触る。
傷を探している。
「僕の血ではありません」
あかりが恒一を見る。
「魔物のものです。皮膚が赤くなっているだけで、切れてはいません」
右手を開く。
握る。
先ほどと同じように、全ての指が動くことを見せる。
あかりの心配は、完全には消えなかった。
汚れた袖口を見る。
胸元を見る。
膝を見る。
青白い眉が僅かに寄った。
汚れていることも気に入らないらしい。
あかりは左手を動かした。
頭上の天幕から、一本の細い水が下りてくる。
糸より細い。
日差しを受け、銀色に光っている。
水はあかりの指先を一度回った。
恒一の右拳へ触れる。
冷たさが、赤くなった皮膚を包んだ。
「洗ってくれるんですか」
あかりは頷いた。
水が指の間へ入る。
皮膚の表面を薄く滑る。
挟まっていた毛が浮かび上がった。
乾き始めた血も、赤茶色の筋になって水へ溶ける。
普通に水へ手を入れたときとは違う。
拳全体を濡らしているわけではない。
汚れのある場所だけを水が通っている。
毛と血を取り込んだ部分が、小さな球へ分かれた。
あかりが指を払う。
汚れた水球は荷車の外へ飛び、道の脇の土へ落ちた。
残った透明な水は、恒一の手首へ進む。
袖口へ触れた。
布の表面へ広がる。
繊維の間へ染み込むと思った。
水は薄い膜のまま、血と土だけを持ち上げた。
黒い布から、赤茶色と灰色の粒が剥がれていく。
水の色が濁る。
濁った部分だけが、また小さな球へ分かれた。
荷車の外へ捨てられる。
袖口には、透明な水が残っている。
あかりが左手を上へ動かした。
水が布から離れる。
細かな雫まで一つに集まる。
袖を触る。
濡れていない。
血も土も消えていた。
「水分まで取り除けるんですね」
あかりから、小さな誇らしさが届く。
朝、器の上へ作った水膜。
昼、日差しを遮った天幕。
そして今は、布を濡らさずに汚れだけを取り除いている。
動かしている水の量は少ない。
それでも、制御は朝より細かくなっていた。
身体が回復しただけではない。
使うたびに、力の扱い方を取り戻している。
「すごいです」
恒一は率直に伝えた。
あかりの光が少し強くなる。
誇らしさ。
嬉しさ。
そのあとに、照れが届く。
あかりは顔を横へ逸らした。
しかし、洗う手は止めなかった。
次に胸元へ水を動かす。
牙が掠めた部分へ、透明な膜が広がった。
土と唾液を取り込む。
濁った水だけを分け、外へ捨てる。
残った水を一滴も残さず回収する。
長衣の黒い色が戻った。
あかりは続けて、恒一の膝を見た。
泥がついている。
自分が座っている、すぐ下だった。
左手が止まる。
恒一の腿を見る。
自分の腰を見る。
強い葛藤が届いた。
膝の汚れを落とすには、自分が少し身体を浮かせる必要がある。
あるいは、座ったまま水を下へ通す。
どちらにしても、いま膝の上にいることを改めて意識する。
「膝は、あとで大丈夫です」
恒一が言う。
あかりは泥を見る。
首を横へ振った。
汚れを残すつもりはないらしい。
右手で恒一の袖を強く掴む。
身体を僅かに浮かせた。
冷たい重さが、腿から離れる。
左手を下へ向ける。
天幕から下ろした水の一部が、膝の上へ広がった。
あかりの身体のすぐ下で、水が動く。
泥を細かな粒へ分ける。
布から浮かせる。
汚れた水だけを、横へ抜き取った。
恒一は動かなかった。
あかりが姿勢を保てるよう、右腕も同じ位置へ置いている。
白い髭の男は前を見たまま、何も気づいていない。
数秒後、膝の泥が消えた。
透明な水が天幕へ戻る。
あかりは身体を下ろした。
再び、恒一の腿へ座る。
先ほどより位置が僅かに後ろだった。
背中が長衣へ触れる。
あかりが気づく。
動揺が届く。
すぐ前へ動こうとした。
荷車が窪みを越える。
横板が大きく揺れた。
あかりの身体が後ろへ戻る。
今度は、恒一の胸へ背中全体が重なった。
右手は袖を掴んだまま。
左手は、反射的に恒一の左腕へ触れている。
感情が一度に流れ込む。
驚き。
羞恥。
朝から残っていた不満。
そして、それより少し大きな安心。
恒一は両腕を動かさなかった。
抱き寄せない。
逃げ道を塞がない。
あかりが自分で身体を起こすのを待つ。
あかりはすぐには動かなかった。
胸へ触れている背中。
両腕へ置いた手。
安定した自分の身体。
一つずつ確かめるように視線を落とす。
水の天幕は崩れていない。
右腕の輪郭も濃い。
髪の先まで、午後の光を受けてはっきり形を保っている。
しばらくして、あかりは左手だけを離した。
右手は恒一の袖へ残す。
背中も、胸へ僅かに触れたままだった。
恥ずかしさは届いている。
しかし、離れようとする力はない。
恒一も何も言わなかった。
必要な接触だと説明する必要もない。
検証と呼ぶ必要もない。
あかりが選んだ距離を、そのままにする。
水の天幕の下で、荷車は東へ進んだ。
荷台には、町で売れるらしい魔物が一頭増えている。
恒一の膝の上には、座る場所を失った水の精霊が一人いる。
袖も、胸元も、膝も、すでに綺麗になっていた。
ただし、今日の配信は終わっている。
配信外で魔物を一撃で倒したことも。
あかりが膝の上へ座っていることも。
そのまま服を洗ってくれたことも。
視聴者たちは、まだ誰も知らなかった。




