第24話 冒険者になろうと思います
黒い服と別れた翌朝、恒一は袖口の硬さで目を覚ました。
寝返りを打ったとき、手首へ布が擦れた。
昨日まで着ていた服なら、同じ動きで何も感じなかったはずだった。
新しい長衣は、まだ恒一の身体へ馴染んでいない。
肩と脇へ重ねられた補強布も、革紐で絞った袖口も、眠っているあいだ形を崩さなかった。
布が硬い。
それでも、破れてはいない。
恒一は寝台の上で身体を起こした。
左肩をゆっくり回す。
深く引けば張りは残る。
右脚も、最初に床へ下ろしたときだけ動きが鈍かった。
昨日、村人たちと水路の石を動かした疲れはある。
だが、森で傷めた場所が悪化した感覚はなかった。
寝台の横では、あかりが恒一を見ていた。
目が合うと、最初に顔を見る。
次に左肩。
袖口。
胸元の革紐。
最後に、長衣の裾まで視線を下ろした。
昨日、着替えを終えた直後と同じ順番だった。
契約を通して、穏やかな安堵が流れ込んでくる。
「まだ破れていませんよ」
恒一が両腕を少し広げる。
あかりの感情が一瞬だけ固まった。
すぐに、昨日の出来事を思い出したらしい動揺が重なる。
彼女は恒一の胸元から顔を逸らした。
「すみません。もう言いません」
謝ると、今度は困惑が返ってきた。
何を言っても、正確な意味までは伝わらない。
ただ、朝から服の話を続けない方がいいことだけは分かった。
恒一は革靴へ足を入れた。
昨日教わったとおり、足首側から紐を締める。
結び目を二重にする。
立ち上がり、踵が動かないことを確かめた。
棚の端には何もない。
黒い上着も、ズボンも、擦り減った靴も残っていなかった。
代わりに、二冊の教本と、四メートルの位置へ結び目を作った細い紐がある。
この世界へ来る前から持っていた物は、もう身につけていない。
それでも、目を覚ましたあとにすることは昨日までと変わらなかった。
炉の灰を寄せる。
残っていた水を飲む。
扉を開け、外の様子を見る。
村の朝が始まっている。
斧の音。
鍋の蓋が鳴る音。
柵の向こうから聞こえる家畜の声。
北側の水路には、昨日取り戻した水が流れ続けていた。
朝日を受けた水面が細く光っている。
恒一は、その流れをしばらく見た。
水路を直したからといって、村の全ての問題がなくなったわけではない。
今日も畑へ行く者がいる。
井戸へ水を汲みに行く者がいる。
薪を割る者がいる。
昨日の仕事は、今日の暮らしを続けるための一つだった。
恒一も、その中へ加わることができる。
小屋を出て数歩進んだところで、道の反対側にいた少年がこちらへ気づいた。
井戸で発音を直してくれた子どもだった。
少年は恒一の新しい服を見る。
両腕を身体の横へ広げた。
胸を張る。
次の瞬間、両手を勢いよく外へ開いた。
服が裂ける動きだった。
近くにいた子どもたちが笑う。
恒一は片手を上げた。
「おはようございます」
昨日覚えたばかりの朝の挨拶を、現地の音で返す。
発音が違ったらしい。
子どもたちは、服が裂ける真似をやめて、今度は恒一の発音を一斉に直し始めた。
どちらにしても笑われることに変わりはなかった。
◇
白い髭の男が恒一を呼びに来たのは、朝の食事を終えたあとだった。
昨日のように急いではいない。
恒一の姿を確かめると、村の中央を指す。
次に、何かを持ち上げて運ぶ仕草をした。
「今日も仕事ですね」
恒一は自分を指し、村人たちが仕事を示すときに使う音を口にした。
男が頷く。
新しい長衣の肩へ手を置き、布の厚みを確かめるように軽く叩いた。
それから、両腕を膨らませる仕草をする。
袖が裂けないか気をつけろ、と言っているように見えた。
「大丈夫です」
日本語で答えても通じない。
恒一は袖を左右へ引き、首を横へ振った。
今日は壊さない。
そのつもりで示す。
白い髭の男は、なぜか不安そうな顔をした。
案内されたのは、村の中央より少し南にある大きな倉だった。
壁は他の家より厚い。
地面から少し高い位置へ床を作り、湿気が入らないようになっている。
扉の前には、木の車輪を二つ付けた荷車が置かれていた。
森で魔物を運んだ荷車より大きい。
前方には、荷獣を繋ぐための長い横木が伸びている。
その先では、牛に似た灰褐色の獣が二頭、干し草を食べていた。
牛より肩が高い。
短い角が左右ではなく、僅かに後ろへ曲がっている。
太い脚の先には、黒い蹄があった。
村へ来てから何度か柵越しに見ていたが、間近で見るのは初めてだった。
荷車の周囲には十人ほどが集まっている。
倉から運び出されているのは、穀物らしい袋。
口を縄で縛った炭の包み。
乾燥させた薬草。
織り上げた布。
木箱へ詰められた小さな器。
村の中で使うために出している量には見えなかった。
肩幅の広い女が袋を一つ持ち上げ、荷車の後ろへ運ぶ。
恒一へ同じ大きさの袋を指した。
「分かりました」
袋を抱える。
中身は穀物だった。
身体へ押し当てると、粒が布越しに動く。
昨日の石と比べれば軽い。
それでも、片手だけで持ち上げられる重さではない。
両腕で抱え、荷車まで運ぶ。
荷台へ置く前に、女が位置を指した。
重い袋を下へ。
軽い布や薬草を上へ。
荷崩れしないよう、隙間へ小さな包みを詰める。
力だけではなく、順番が必要だった。
昨日と同じだった。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
恒一は、村人と同じ速さで運んだ。
配信は始めていない。
補正もない。
重いものを一人で何個も抱える必要はない。
疲れれば置く。
別の者へ渡す。
誰かが空いた場所へ入る。
それで仕事は進んでいく。
荷台の半分ほどが埋まったところで、恒一は手を止めた。
荷物を積んでいるだけではない。
車輪へ油を差す者がいる。
軸へ巻いた革を交換する者がいる。
荷獣の蹄を確かめる者もいた。
一日の仕事に使う準備ではない。
もっと遠くへ運ぶための準備だった。
恒一は荷車を指す。
次に、村の門を指した。
指二本を地面の上で交互に動かす。
歩いて外へ出る仕草。
近くにいた老人が気づいた。
老人は荷車を指し、門を指す。
それから、空の高い位置へ両手で大きな円を作った。
円を村の東側から西側へ動かす。
太陽が昇り、沈む。
もう一度、反対側から昇らせる。
その先で、両手の指を何度も立てた。
家が多く並ぶ形に見えた。
「町へ行くんですか」
恒一は地面へしゃがんだ。
指で土を均す。
一つ、小さな四角を描く。
周囲へ短い線を数本加える。
村のつもりだった。
そこから東へ一本の道を引く。
道の先へ、大きな四角を描く。
その中へ、さきほど老人が示したように短い線をいくつも並べた。
老人は大きな四角を指し、同じ音を二度繰り返した。
村を示す音とは違う。
恒一はその音を真似た。
一度目は通じなかった。
二度目で、老人が頷く。
大きな四角。
家が多くある場所。
少なくとも、村より大きな集落を示している。
恒一は日本語で小さく言った。
「町」
老人が意味を理解したわけではない。
それでも、地面の大きな四角を指して頷いた。
白い髭の男も近づいてくる。
土に描かれた村と町を見る。
荷車を指す。
町を指す。
次に、恒一を指した。
荷台の前方にある、人が座れる狭い板を叩く。
恒一は自分の胸へ手を当てた。
荷車を指す。
門を指す。
町を指す。
「僕も、乗っていいんですか」
白い髭の男が大きく頷いた。
そのあと、恒一のすぐ横にある空間へ視線を向けた。
あかりはそこに浮かんでいる。
男には、彼女の姿が恒一と同じように見えているわけではない。
それでも、恒一が常に誰かと一緒に動いていることは理解している。
男は恒一と、その隣の空間を交互に指す。
最後に荷車を指した。
二人とも。
そう示しているように見えた。
あかりから、驚きが流れ込んできた。
恒一も、すぐには返事ができなかった。
村を出る方法が、急に目の前へ現れた。
森を一人で歩く必要はない。
道を知っている村人と一緒に、荷車で町へ向かえる。
食べ物を積む場所もある。
荷物を置く場所もある。
あかりとの距離を四メートル以内へ保ったまま移動できる。
条件だけを見れば、これ以上安全な機会はない。
だが、今日出るわけではないらしい。
恒一は白い髭の男へ、太陽が昇る動きをしてみせた。
指を一本立てる。
荷車を指す。
首を傾げる。
男は首を横へ振った。
恒一の指へ、自分の指を三本足す。
合わせて四本。
次に、太陽が昇る動きを四度繰り返した。
四日後。
荷車は町へ向かう。
恒一は土の上へ、短い線を四本引いた。
白い髭の男が頷く。
それから男は、小屋の方角を指した。
恒一を指す。
畑を指す。
仕事を示す音を口にする。
最後に、両手を掌を上へ向けた。
問いかけるような仕草だった。
町へ行くか。
村へ残るか。
どちらを選んでもいい。
正確な意味は分からない。
それでも、今すぐ決めろと迫られていないことは伝わった。
恒一は胸へ手を当て、頭を下げた。
「少し、考えさせてください」
男は恒一の言葉を理解しない。
けれど、地面へ引かれた四本の線を指し、もう一度頷いた。
答えを出すまでの時間はあった。
◇
昼の食事は、倉の横にある日陰で取った。
木の椀へ入った豆と根菜の煮込み。
硬い黒パン。
昨日の仕事のあとより量は少ない。
今日の仕事には、それで十分だった。
恒一は荷車を見ながら食べた。
積み込みは一度止まっている。
午後からは、箱の数と中身を確かめるらしい。
四日後。
村を出ることができる。
その言葉を、日本語なら簡単に理解できる。
けれど、出たあとに何をするのかは決まっていなかった。
町へ着く。
それから。
宿に泊まるには金がいる。
食べ物を買うにも金がいる。
この村では、仕事をすれば食事と寝場所を与えてもらえた。
町でも同じとは限らない。
言葉は、まだ単語をいくつか覚えただけ。
読み書きもできない。
身元を証明する物もない。
この世界で通じる名前さえ、ポチしか持っていなかった。
力仕事ならできる。
だが、町へ着いて最初に誰を訪ねればいいのか分からない。
何も決めずに村を出ることは、森へ戻るのと大きく変わらなかった。
恒一は食べ終えた椀を置いた。
近くに、朝の少年たちがいる。
荷車へ近づいて叱られ、倉の壁際へ集まっていた。
その一人が、地面へ枝で絵を描いている。
四本脚の何か。
長い尾。
頭に角が二本。
朝見た荷獣のつもりらしい。
絵だけを見れば、森で遭遇した魔物にも見えた。
恒一は少年から枝を借りた。
自分を指す。
次に地面を指した。
少年が枝を渡す。
恒一は、最初に人を描いた。
丸い頭。
一本線の身体。
左右へ伸びる腕。
人のつもりだった。
その手へ、斜めの線を持たせる。
剣。
少なくとも恒一の中では、剣だった。
人の前へ、少年が描いた角のある獣を移す。
剣を持つ人と、魔物。
その二つを戦わせるように枝を動かした。
次に、魔物を倒す。
人の手へ、小さな丸をいくつか描く。
硬貨のつもりだった。
少年たちは黙って絵を見た。
一人が、剣を持つ人を指す。
次に恒一を見る。
両腕を膨らませる。
最後に、服が裂ける仕草をした。
「それは関係ありません」
日本語で否定する。
少年たちは笑った。
絵の意味は、まだ伝わっていない。
恒一は立ち上がった。
枝を剣のように構える。
角のある獣へ向けて振る。
倒れた獣から何かを取り、誰かへ差し出す。
代わりに硬貨を受け取る。
仕事を示す音を口にする。
その動きを見ていた肩幅の広い女が、短い言葉を一つ発した。
少年たちも同じ言葉を繰り返す。
音は完全には揃っていない。
大人と子どもで、語尾が僅かに違う。
それでも、中心になる音は同じだった。
女は地面の剣士を指す。
村の門を指す。
大きな町を示すときに使った音を口にする。
次に、壁の高い建物を空中へ描く。
入口の上へ、二本の線を交差させた。
武器を示す印に見えた。
女は、剣を持つ人がそこへ入る動きをする。
紙のようなものを受け取る。
外へ出る。
魔物を倒す。
戻る。
硬貨を受け取る。
同じ短い言葉を、もう一度口にした。
恒一は動きを一つずつ追った。
仕事を受ける場所。
武器を持つ者。
村の外へ行く。
魔物を倒す。
報酬を得る。
恒一が知っている呼び方で近いものは、一つしかなかった。
「冒険者」
日本語で口にする。
女には通じない。
恒一は地面の剣士を指し、女が使った音を真似た。
発音を二度直された。
三度目で、女が頷く。
それが職業そのものを意味するのか。
仕事を受ける者全体を指すのか。
あるいは、魔物を狩る者だけの呼び方なのか。
正確なところは分からない。
それでも、この世界には、町で仕事を受けるための場所がある。
武器を持ち、村の外へ出て、報酬を受け取る者がいる。
町へ着いたあと、最初に向かう場所が一つできた。
白い髭の男も地面の絵を見る。
恒一を指す。
両腕を膨らませる。
地面に描かれた魔物を指す。
町を指す。
最後に、問いかけるように首を傾げた。
恒一はすぐには頷かなかった。
配信中なら、自分の身体には補正が掛かる。
重い石を村人たちと動かせる。
魔物へ追いつかれそうになっても、反応できる。
けれど、配信していない時間の恒一は、三十二歳の会社員だった。
森を生き延びた。
傷を負いながら歩いた。
以前より身体は動くようになっている。
それでも、一人で魔物を狩り続けられる者ではない。
冒険者になれることと、強い冒険者になれることは違う。
仕事を選ばなければ、最初の依頼で死ぬ。
恒一は地面へ、もう一人の人を描いた。
荷物を持たせる。
その横へ草を描く。
木の枝を拾う動きをする。
次に、荷物を運ぶ。
魔物と戦わない仕事もあるのか。
そのつもりで示した。
白い髭の男は少し考えた。
やがて、何度か頷いた。
荷物を持つ人を指す。
薬草を指す。
柵を直す動き。
道を歩く動き。
先ほどと同じ建物を空中へ描く。
戦う以外の仕事もあるらしい。
それなら、選択肢にはなる。
恒一は剣を持つ人と、荷物を持つ人を囲むように大きな円を描いた。
その円から、町まで一本の線を引く。
白い髭の男が見ている。
恒一は自分を指した。
次に円を指す。
町を指す。
ゆっくり頷いた。
男の表情が僅かに変わった。
驚き。
納得。
その奥に、少しだけ寂しさに似たものがあった。
男は恒一の右腕を一度叩く。
小屋を指す。
四本の指を立てる。
旅立つまで、まだ時間がある。
そのあいだもここにいていい。
そう受け取ることにした。
◇
午後の仕事を終えたあと、恒一は共同井戸へ向かった。
板の下から見つかった三本波は、今日も灰色の石へ残っている。
水が窪みへ入り、三本の線だけが周囲より濃く見えた。
井戸へ来た村人は、その印を踏まない。
水を汲むとき、僅かに頭を下げる者もいる。
意味を尋ねる言葉を、恒一はまだ持っていなかった。
仮に尋ねられても、全てを知る者がこの村にいるとは限らない。
森で見た石には、同じ三本波へ斜線が重ねられていた。
あかりは斜線のない印へ引かれた。
水へ触れている短いあいだだけ、薄い右腕が僅かに安定した。
だが、治ったわけではない。
いまも左腕より輪郭が薄い。
胸元の霊核には亀裂が残っている。
恒一は井戸の縁へ手を置いた。
あかりが隣へ浮かぶ。
水面を見る。
次に、石の印を見る。
彼女から届いたのは、静かな懐かしさに似た感情だった。
本当に懐かしいのかは分からない。
安心なのかもしれない。
失った何かを思い出しているのかもしれない。
恒一には、そこまで読み取ることはできなかった。
「ここにいれば、水には触れられます」
日本語で言う。
あかりが恒一を見る。
「でも、それだけでは治りません」
霊核を直接指すことはしなかった。
彼女が傷を見られることへ緊張するのを知っている。
代わりに、自分の胸元へ手を当てる。
次に右腕を示す。
首を横へ振る。
あかりの感情へ、細い不安が混じった。
恒一は井戸の横にしゃがんだ。
湿った土へ、朝と同じ地図を描く。
小さな村。
東へ伸びる道。
その先にある大きな町。
町の中へ、二本の線を交差させた建物を加える。
恒一は村を指した。
自分とあかりを順に指す。
両手を重ね、頬へ当てる。
眠る。
次に仕事の仕草をする。
村に残って暮らす。
それから町を指した。
指二本を歩かせる。
交差した印の建物を指す。
井戸の三本波を指す。
最後に、あかりの右腕を見る。
町へ行き、仕事をしながら、この印と傷について調べる。
全てが伝わるとは思っていない。
恒一自身も、町へ行けば答えが見つかると知っているわけではない。
ただ、ここへ残るか。
外へ進むか。
その選択だけは、恒一一人で決めたくなかった。
「あかりは、どうしたいですか」
言葉に意味はない。
声の調子と、地面の絵と、指の動き。
それだけで尋ねる。
あかりは村の絵を見た。
井戸を見る。
水路の先にある畑を見る。
村で過ごした日々は長くない。
それでも、森の中で迎えた朝より穏やかな時間がここにはあった。
食べ物がある。
火がある。
屋根がある。
恒一を仕事へ呼ぶ者がいる。
あかりへ杯を置く者がいる。
あかりから、離れがたい温かさが流れ込んできた。
そのあとへ、不安が続く。
町までの道。
知らない人。
五メートルの限界。
何が起きるか分からない場所へ向かう怖さ。
そう考えているように感じただけで、正確な内容は分からない。
あかりはしばらく動かなかった。
やがて、恒一の新しい袖へ左手を伸ばす。
水の指先が、濃灰の布へ重なった。
物を掴む力はない。
それでも、触れていることは契約を通して分かる。
あかりは袖へ手を重ねたまま、町の絵を指した。
小さく頷く。
不安は消えていない。
その中へ、はっきりした意思が混じっていた。
一緒に行く。
恒一には、そう思えた。
「分かりました」
恒一も頷く。
「四日後、一緒に村を出ましょう」
あかりが言葉を理解したわけではない。
けれど、恒一が地面の四本線を指し、二人を指し、町まで道をなぞると、もう一度頷いた。
契約を通して届く感情は、森を出ると決めたときと似ていた。
怖い。
それでも、進む。
今度は逃げるためではなかった。
◇
その夜。
恒一は小屋の机へ、二冊の教本と一枚の板を並べた。
板には、昼に描いたものを炭で描き直してある。
村。
道。
町。
二本の線が交差した建物。
剣を持つ人。
荷物を持つ人。
絵として上手いとは言えない。
それでも、自分に必要な意味は残っている。
細い紐には、結び目を四つ作った。
朝が来るたび、一つずつ解く。
最後の結び目を解く朝、荷車が町へ向かう。
あかりは机の横に浮かび、板と紐を交互に見ていた。
恒一は配信画面を開く。
開始を選ぶ。
視界の端へ、小さな赤い印が灯った。
「こんばんは。ポチです」
挨拶の途中で、何も壊れない。
新しい長衣の胸元も、袖も、そのままだった。
恒一は念のため、一度自分の服を見下ろした。
あかりから、呆れに近い感情が僅かに届く。
「大丈夫です。今日は無事です」
当然、コメントはまだ一つも現れない。
前の配信で、終了までに表示されなかったコメントが、新しい配信へ持ち越されることはない。
新しい枠を開いた以上、最初の反応が恒一へ届くのは十五分後だ。
恒一は反応を待たず、両腕を前へ出した。
「昨日は、急に配信を終えてしまってすみませんでした」
濃灰の袖を視聴者へ見せる。
「服については、新しいものを頂きました」
「こちらの世界で作られた服です。村の仕事の対価として頂きました」
いま説明しても、その反応が届くのは十五分後になる。
「それから、今日は服の話ではなく、今後について報告があります」
恒一は板を持ち上げた。
「今後のことを決めました」
村の絵を指す。
「この村には、残ってもいいようです」
次に、四つの結び目がある紐を指した。
「ですが、四日後、この村を出ます」
道をなぞる。
町を指す。
「村の荷車が、近くの町へ向かいます。僕とあかりも、一緒に乗せてもらえることになりました」
あかりへ目を向ける。
彼女は自分の名前だけ聞き取ったように、顔を上げた。
恒一が町の絵を指すと、あかりは小さく頷く。
「町へ行けば、すぐに帰る方法が見つかるとは思っていません」
板に描いた三本波へ指を移す。
「あかりの傷について分かる人がいるとも限りません」
交差した印の建物を指す。
「ただ、この世界には、武器を持って村の外で仕事をする人たちがいるようです」
昼に覚えた現地の音を、一度口にする。
発音が正しいかは分からない。
「魔物を倒す仕事だけではなく、荷物を運んだり、薬草を集めたりする仕事もあるようでした」
恒一は一度言葉を切った。
反応はない。
配信を始めてから、まだ十五分は経っていない。
新しい枠で送られた最初のコメントさえ、恒一の視界には届いていなかった。
恒一は、そのあいだに教本を開いた。
今日覚えた音を、炭で板の端へ書き留める。
正しい文字ではない。
日本語の音に置き換え、自分だけが読める形で残す。
町。
荷車。
出る。
仕事。
武器を持つ者を示した音。
四日後までに、最低限使えるようにしたい言葉だった。
あかりは教本を覗き込む。
恒一が町の音を繰り返すと、彼女も口元を僅かに動かした。
声は聞こえない。
同じ音を真似しているのかも分からない。
それでも、一緒に覚えようとしているように見えた。
やがて、視界の端へ新しいコメントが現れ始めた。
十五分前、濃灰の袖を見せた場面への反応だった。
《挨拶が無事に終わった》
《今日は服が生きてる》
《新しい服だ》
《『こんにちは……ポチです』から来ました》
《現地装備更新》
《肩と脇が補強されてる》
《村人、対ポチ仕様で選んだだろ》
《今度は挨拶に耐えた》
《白い子がめちゃくちゃ安心してる》
恒一は自分の袖を見る。
「できれば、これが普通です」
いまの返事に対する反応が届く頃には、話題はもう先へ進んでいるはずだった。
少しして、コメントの流れが一度止まった。
村を出るという説明へ、反応の対象が移ったのだと分かった。
最初の一つが現れる。
《村を出るのか》
続けて、文字が増えた。
《四日後》
《ついに町へ》
《荷車に乗れるならかなり安全そう》
《あかりちゃんも一緒でよかった》
《村に残れるのに出るんだな》
《三本波とあかりの傷を調べるためか》
《帰る方法も町の方が情報ありそう》
恒一はコメントを一つずつ読んだ。
「はい。追い出されるわけではありません」
その言葉を口にしてから、胸の奥へ静かなものが残った。
村へ着いた三日目。
荷物をまとめ、いつ出ることになってもいいようにしていた。
あのときは、残ることを自分で決められなかった。
いまは違う。
残っていいと言われたうえで、出ることを選ぶ。
「ここで暮らしていくこともできると思います」
畑の仕事をする。
薪を運ぶ。
水路を直す。
村の言葉を少しずつ覚える。
それだけでも、生きていくことはできる。
「ですが、この村だけでは分からないことがあります」
あかりを見る。
薄い右腕。
亀裂の残る霊核。
彼女は恒一の視線に気づき、僅かに身を固くした。
恒一はすぐに目を町の絵へ戻す。
「僕がどこから来たのか。帰る方法があるのか。あかりが何者なのか。どうすれば傷を治せるのか」
答えが町にある保証はない。
町になければ、その先へ行く必要がある。
そのためには、食べ物と寝場所を自分で得る手段がいる。
身元のない自分でも始められる仕事が必要だった。
その頃、十五分前に説明した、武器を持って村の外で仕事をする者たちへの反応が届いた。
《武器持って外で仕事》
《それ冒険者では》
《冒険者ギルドあるのか》
《異世界冒険者編、始まる》
《でもポチ、配信切ったら普通の人だぞ》
《いきなり討伐はやめとけ》
《採集とか荷運びからだな》
《あかりちゃんと四メートル以上離れない依頼限定》
恒一も、同じことを考えていた。
「冒険者、と呼んでいいものだと思います」
現地で聞いた音の正確な意味は分からない。
視聴者も、村人の身振りを見ただけだ。
それでも、日本語で説明するなら、その呼び方が最も近かった。
「ただし、登録できたとしても、最初から魔物を倒すつもりはありません」
配信中の補正を、自分の力だと思わない。
配信できる時間には上限がある。
視聴者が見ていなければ、補正も弱くなる。
十五分遅れの助言は、目の前の危険へすぐには間に合わない。
魔物との戦いを仕事にするには、不確定なものが多すぎた。
「まずは町の近くでできる仕事を探します。荷運びか、採集か、村でやったような修理でも構いません」
その仕事で言葉を覚える。
土地を知る。
自分が何をできるのか確かめる。
必要なら、配信を使う。
危険を避けられないときだけ、補正を頼る。
それが、いまの恒一にできる進み方だった。
しばらくして、「最初から魔物を倒すつもりはない」と話した場面への反応が現れた。
《慎重で安心した》
《最初の依頼:荷車の荷下ろし》
《水路工事の実績あるぞ》
《職業・冒険者というより現場作業員》
《初期武器は横木》
《挨拶で服を破るタンク》
恒一は最後の二つを見なかったことにした。
「四日間で、旅の準備をします」
机の上へ必要な物を並べるように指を動かす。
背負える袋。
水を入れる容器。
食料。
雨を避ける布。
火を起こす道具。
護身に使える物。
いま持っているのは、二冊の教本と細い紐。
右腰の小袋。
新しい服と靴。
村でもらった物ばかりだった。
町へ行けば返せるわけではない。
だからこそ、残る四日も仕事をする。
「村の皆さんには、最後まで働いて返します」
返す、という考え方で合っているのかは分からない。
村人は仕事の対価として服を渡した。
寝場所も、食事も、働く者へ与えている。
恒一だけが一方的に借りているわけではない。
それでも、受け取ったまま何もせず出ていくことはしたくなかった。
あかりが恒一の袖へ手を重ねる。
昼と同じ場所だった。
温かな感情が流れ込む。
それが賛成なのか。
村への感謝なのか。
一緒に行くことへの安堵なのか。
正確な意味は分からない。
けれど、恒一の決めたことを拒んではいなかった。
恒一は板に描いた町を指した。
「四日後、町へ行きます」
次に、剣を持つ人と荷物を持つ人を囲んだ円を指す。
「そこで、冒険者になろうと思います」
宣言しても、すぐには反応がない。
その宣言への反応が恒一へ届くまで十五分。
恒一はそのあいだ、教本を開いた。
町を示す音を一度。
仕事を示す音を一度。
助けを求めるために覚えた音を一度。
あかりも隣から頁を見ている。
十五分後。
視界の端へ、最初のコメントが現れた。
《行ってこい》
次に、見慣れた名前から短い言葉が続く。
《登録できるといいな》
《あかりちゃんと二人でな》
《帰る方法、見つけよう》
《傷の治し方も》
《ポチの小屋、町編待ってる》
大きな人数ではない。
森にいた頃から残っている者。
村へ着いてから見始めた者。
切り抜きから来たらしい、見慣れない名前も混じっている。
それでも、文字が途切れず流れた。
《冒険者ポチ》
《水の精霊あかり》
《二人パーティ結成》
《初依頼で服だけは壊すな》
恒一は最後の一文で目を閉じた。
「新しい服は、大切にします」
十五分前に送られたコメントへ答える。
その返事への反応が恒一へ届く頃には、配信を終えているかもしれない。
それでも、言葉にした。
「ありがとうございます」
画面の向こうへ頭を下げる。
あかりも恒一を見る。
少し遅れて、同じように頭を下げた。
二人が並んで頭を下げた姿へ、どんな言葉が送られたのか。
恒一がそれを読むことはない。
その反応が届く十五分後には、もう配信を終えているからだ。
◇
配信を終えたあと、恒一は細い紐を手に取った。
四つの結び目。
指先で、一つずつ確かめる。
最後の結び目の向こうには、まだ何もない。
町の名前も知らない。
冒険者と呼んだ仕事の正式な仕組みも知らない。
登録に何が必要なのか。
身元を証明できない者が受け入れられるのか。
あかりを連れて建物へ入れるのか。
分からないことばかりだった。
それでも、村へ来たばかりの頃とは違う。
道がある。
同行できる荷車がある。
出発する日が決まっている。
新しい服がある。
隣には、あかりがいる。
恒一は寝台の下へ手を伸ばしかけた。
前に荷物をまとめたときは、そこへ布包みを置いていた。
三日が終われば、村を出なければならないと思っていた。
いつ追い出されてもいいように、持っている物を一つへまとめた。
いま、寝台の下に布包みはない。
旅へ使える袋も、まだ持っていない。
明日から用意する必要がある。
恒一は二冊の教本を重ねた。
その上へ、四つの結び目がある紐を置く。
あかりが町を描いた板の前へ浮かぶ。
町の印を見る。
村の印を見る。
最後に、恒一を見る。
「おやすみなさい」
恒一が言うと、あかりは小さく頷いた。
炉の火を落とす。
小屋の中が暗くなる。
四日後。
恒一は、あかりと村を出る。
目指すのは、まだ名前も知らない町。
そこで仕事を得る。
言葉を覚える。
この世界を知る。
帰る方法と、あかりの傷を治す方法を探す。
その最初の手段として、冒険者になる。
以前、荷物をまとめたのは、追い出される日に備えるためだった。
今度は違う。
自分で選んだ道へ出るための支度が、明日から始まる。




