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第23話 こんにちは……ポチです

挿絵(By みてみん)

 戸を叩く音で、恒一は目を覚ました。


 まだ日は低い。


 壁板の隙間から入る光は薄く、炉に残っていた灰にも赤みはなかった。


 寝台の横では、あかりが恒一の顔を覗き込んでいる。


 扉が叩かれるたびに視線をそちらへ向け、また恒一へ戻す。


 急いで起こそうとはしない。


 ただ、外に誰かがいることだけを伝えようとしていた。


「ありがとうございます」


 恒一は身体を起こした。


 左肩をゆっくり回す。


 森で傷めた場所には、まだ僅かな張りが残っている。


 右脚も、朝一番だけは動きが鈍い。


 それでも、歩くたびに痛みを数えていた頃とは違う。


 傷口は塞がっている。


 重いものを持つなら注意が必要だが、村の中で働くことに支障はなかった。


 問題があるとすれば、服の方だった。


 黒い上着の左肩には、何度も結び直した跡がある。


 袖口は擦り切れ、胸元には枝で裂いた傷。


 背中には、雨と汗と泥が乾いた色が残っていた。


 洗えるときには洗ってきた。


 村へ来てからも水を借り、汚れは落としている。


 それでも布そのものが傷んでいることまでは、どうにもならない。


 異世界へ来た日から、一度も着替えていない服だった。


 黒いズボンも同じだ。


 膝と裾が白く擦れ、右脚には魔物の爪で裂かれた箇所を紐で縫い合わせた跡がある。


 靴も底が薄くなっている。


 だが、ほかに着るものはない。


 恒一は裂けた上着へ腕を通し、扉を開けた。


 外には、白い髭を短く整えた男がいた。


 村へ入った日に小屋を示してくれた者だ。


 その後ろには、三人の男と一人の女が立っている。


 全員が太い縄や斧、長い鉄棒を持っていた。


 白い髭の男が恒一の姿を見る。


 胸へ手を当てる。


 次に村の西側を指し、両腕を大きく持ち上げる動きをした。


 重いもの。


 持ち上げる。


 続けて、流れる水を示すように片手を揺らした。


「水路で、何かあったんですか」


 言葉が通じるとは思っていない。


 それでも、恒一は確かめるように口にした。


 自分を指し、西側を指す。


 白い髭の男が強く頷いた。


 後ろの四人も歩き始める。


 急を要する仕事らしい。


 あかりが小屋から出てきた。


 白い髭の男は彼女へ気づかない。


 他の四人も同じだった。


 あかりは恒一のすぐ横まで来ると、男たちの持つ縄へ視線を向けた。


 僅かな不安が、契約を通して流れ込む。


「無理はしません」


 恒一がそう言うと、あかりは左肩を見た。


 次に右脚を見る。


 最後に恒一の顔へ視線を戻す。


「本当に、無理だと思ったら断ります」


 あかりはすぐには頷かなかった。


 けれど、恒一が男たちの後を追うと、その隣へ並んだ。


     ◇


 村の西側には、森から流れ込む細い川があった。


 川幅は三メートルほど。


 そこから木と石で作られた取水路へ水を分け、畑の上段へ流している。


 昨日まで、恒一は遠くから水面を見ただけだった。


 今朝は、その周囲へ十人以上の村人が集まっている。


 取水口の前で、水が不自然に膨らんでいた。


 本来なら水路へ入るはずの流れが塞がれ、川の反対側へ溢れている。


 原因は、すぐに分かった。


 巨大な石だった。


 長さは、恒一が両腕を広げた幅より大きい。


 厚さも膝から腰ほどまである。


 平らに切り出された形から見て、もともとは水路の壁か、流れを調整するための石だったのだろう。


 その石が斜めに落ち、取水口と木製の水門の間へ食い込んでいる。


 昨日の夜、地面が僅かに揺れた。


 恒一は寝台の軋みだと思っていた。


 村人たちにとっては、そうではなかったらしい。


 川沿いの石組みが一部崩れ、この石だけが取水口へ滑り落ちたようだった。


 白い髭の男が上流を指す。


 次に畑を指す。


 両手を下へ垂らし、指先を萎れさせる。


 水がなければ作物が枯れる。


 正確な期限までは分からない。


 けれど、放置できないことは理解できた。


 村人たちは、すでに準備を進めていた。


 石の下へ差し込むための太い鉄棒。


 梃子を支える丸太。


 移動させる方向へ並べた木製のころ。


 石へ二重に回された縄は、川岸の太い杭と、横倒しに置かれた巻き上げ機へ繋がっている。


 力任せに持ち上げようとしているのではない。


 石の片側を僅かに浮かせる。


 そこへころを入れる。


 縄で引き、準備した石床の上へ移す。


 目的は、おそらくそれだけだった。


 それだけでも、村人の人数では足りない。


 鉄棒の先へ六人が体重を掛ける。


 巻き上げ機にも四人。


 別の二人が縄の状態を見ている。


 白い髭の男が恒一を鉄棒の近くへ招いた。


 石。


 鉄棒。


 恒一。


 順に指す。


「僕も、ここへ力を掛ければいいんですね」


 鉄棒の中央を握ってみせる。


 男は首を横へ振った。


 さらに端へ近い場所を指した。


 石から遠い方が、同じ力でも大きく働く。


 梃子の使い方を示しているらしい。


 恒一は指示された場所へ立った。


 足元は濡れている。


 滑らないように右脚を少し後ろへ引く。


 左肩へ一度に負担を掛けないため、腕ではなく腰と脚で押し下げる姿勢を取る。


 白い髭の男が大声を上げた。


 全員が動く。


 鉄棒の反対側へ立つ者たちも、同時に体重を掛けた。


 巻き上げ機が軋む。


 太い縄が張り詰める。


 石と川底の間から、濁った泡が上がった。


 恒一も鉄棒を押した。


 最初は腕。


 次に肩。


 それでは足りない。


 膝を曲げ、全身の重さを乗せる。


 鉄棒が僅かに撓んだ。


 石は動かない。


 白い髭の男がもう一度声を上げる。


 二度目。


 村人たちが揃って息を吐く。


 恒一も力を込めた。


 足元の泥が沈む。


 右脚が滑りかけ、踏み直す。


 石の下から低い音がした。


 だが、浮いたようには見えなかった。


 男の声が止まる。


 全員が力を抜いた。


 恒一も鉄棒から手を離す。


 掌に赤い跡が残っていた。


 巻き上げ機の近くにいた男が首を横へ振る。


 白い髭の男は石を見つめ、次に上流を見る。


 流れ込む水は止まらない。


 水位が上がれば、崩れた石組みがさらに削られる。


 時間を掛けすぎることもできない。


 恒一は石の大きさを見た。


 人の力だけで動かすには重すぎる。


 道具の使い方は間違っていない。


 ころもある。


 縄も二重。


 石床も準備されている。


 足りないのは、最初に片側を浮かせる力だけだった。


 恒一は視界の端へ意識を向けた。


 薄い表示が現れる。


 配信は、まだ始まっていない。


 ライブ配信中にだけ働く補正。


 森を抜けるまで、その力に何度も助けられた。


 魔物と戦うとき。


 倒木を越えるとき。


 あかりを守るため、限界を越えて動かなければならなかったとき。


 配信を始めれば、恒一の身体能力は上がる。


 見ている者が増えるほど、効果も強くなる。


 けれど、今日は戦いではない。


 畑へ水を通すための労働だった。


 配信を使うほどのことなのか。


 一瞬だけ迷う。


 石へ食い込んだ鉄棒を見る。


 十人以上が力を合わせても動かなかった。


 どうしても補正が必要なら、迷う理由はなかった。


「今日は、労働配信ですね」


 日本語で呟く。


 あかりが恒一を見る。


 配信を始めることに気づいたらしい。


 不安が少し強くなる。


「戦うわけではありません。石を動かすだけです」


 恒一は配信画面を開いた。


 放送レベルを示す数字。


 使用できる機能。


 灰色のまま選べない項目。


『自動翻訳字幕 未開放』


 以前と変わらない。


 村人が何を話しているのか、視聴者にも分からない。


 現地の言葉がそのまま届くだけだ。


 コメントにも十五分の遅延がある。


 作業の指示を視聴者に尋ねることはできない。


 それでも、必要なのは字幕ではなかった。


 恒一は配信開始を選んだ。


『ライブ配信を開始しました』


 視界の端に表示が出る。


 恒一は石と水路が映る位置へ立った。


 最初から事情を詳しく説明しても、画面の向こうには伝わりにくいだろう。


 まずは、いつも通り挨拶をする。


 恒一は僅かに頭を下げた。


「こんにちは……」


 身体の奥で、何かが噛み合った。


 熱が背骨に沿って駆け上がる。


 呼吸が深くなる。


 両脚が地面を捉える。


 肩から背中にかけて筋肉が膨らみ、傷の癒えた身体へ配信補正が行き渡っていく。


 同時に、上半身から小さな音がした。


 ぷつり。


 最初は、糸が一本切れただけだった。


 次の瞬間。


 バツン、と大きな音が響いた。


 左肩を結び合わせていた縫い目が弾ける。


 胸元の裂け目が一気に広がる。


 背中の布が、膨らんだ筋肉へ耐えられず左右へ割れた。


 袖が肩口から外れる。


 前身頃が翻り、黒い布片が風を受けて川へ向かって飛んだ。


 恒一は反射的に片手を伸ばした。


 辛うじて紐を掴む。


 だが、掴んだものはもう服と呼べる形をしていなかった。


 片袖。


 裂けた背中。


 胸元から下だけが残った布。


 上着は一度の音とともに、完全に壊れていた。


 村人たちが静まり返る。


 巻き上げ機へ手を掛けていた者も、鉄棒を支えていた者も動かない。


 白い髭の男の口が僅かに開いている。


 あかりから、弾けるような驚きが流れ込んだ。


 恒一は手に残った黒い布を見る。


 次に、自分の上半身を見る。


 補正を受けた胸と肩には、森を歩いていた頃よりはっきり筋肉がついている。


 古い傷と、新しい傷。


 塞がった爪痕。


 左肩には、これまで巻いていた布の跡が薄く残っていた。


 上半身を覆うものは、もう何もない。


 挨拶は途中だった。


 恒一は配信画面へ視線を戻す。


「……ポチです」


 川の音だけが流れた。


挿絵(By みてみん)


     ◇


 あかりは、恒一の右隣にいなかった。


 五メートルの範囲から出たわけではない。


 二歩ほど後ろへ下がり、身体ごと反対側を向いている。


 長い白銀の髪が水のように広がり、顔の横を隠していた。


 左手で目元を覆っている。


 ただし、指の間は完全には閉じていなかった。


 そこから一度だけ恒一を見て、すぐに顔を背ける。


 契約を通して届く感情は、先ほどの驚きだけではない。


 落ち着かない。


 困っている。


 身体の内側へ熱が集まるような、これまであまり受け取ったことのない感覚。


 恒一は自分の左肩へ触れた。


「大丈夫です。怪我はしていません」


 あかりは振り返らないまま、強く首を横へ振った。


「服が壊れただけです」


 さらに強い動揺が返ってきた。


 違うらしい。


 何が違うのかまでは分からない。


 恒一には、あかりの考えている文章は届かない。


 ただ、彼女がひどく困っていることだけが伝わってくる。


「作業が終わるまで、少しだけ我慢してください」


 慰めたつもりだった。


 あかりの肩が小さく揺れる。


 感情の熱が、さらに強くなった。


 恒一は首を傾げた。


 視線を戻すと、村人たちもまだこちらを見ている。


 白い髭の男が、恒一の上半身を指した。


 次に、地面へ落ちた布を指す。


 最後に両腕を広げ、筋肉を膨らませるような動きをした。


 周囲の何人かが笑い始めた。


 嘲るものではない。


 驚きに耐えられなくなった笑いだった。


 巻き上げ機の近くにいる男は、自分の服の胸元を両手で引き、裂ける動きを再現している。


 別の男が恒一の真似をして、胸を張った。


 恒一は頭を下げた。


「忘れてください」


 通じるはずのない日本語だった。


 それでも、村人たちの笑いは少し大きくなった。


 白い髭の男だけは、すぐに表情を引き締めた。


 石を指す。


 恒一を指す。


 鉄棒を指す。


「はい。やりましょう」


 上着はない。


 借りられる服もない。


 だが、いま必要なのは身体を隠す布ではなく、石を動かす力だった。


 恒一は壊れた上着を川から離れた場所へ置いた。


 黒い布が、朝露に濡れた草の上へ沈む。


 あかりは依然として反対を向いている。


 それでも恒一が鉄棒へ戻ると、彼女も少しずつ身体の向きを変えた。


 恒一の胸元は見ない。


 鉄棒と石。


 縄と巻き上げ機。


 村人たちの手元だけを追っている。


 作業を見守るつもりらしい。


 恒一は鉄棒の端を握った。


 先ほどより軽く感じる。


 まだ押していない。


 持っただけで、道具の重さと、自分がどこまで力を掛けられるかが分かった。


 配信補正は確かに働いている。


 白い髭の男が全員へ声を掛ける。


 同じ短い音を二度。


 鉄棒を持つ者が足を開いた。


 巻き上げ機の四人も、取っ手を握る。


 縄の近くにいた女が、右手を高く上げた。


 白い髭の男の声。


 女の手が下がる。


 一斉に力が掛かった。


 恒一は鉄棒を押し下げた。


 先ほどは動かなかった棒が、今度ははっきり沈んだ。


 腕だけではない。


 肩と背中。


 腰。


 脚。


 全身の力が鉄棒へ流れる。


 支点になっている丸太が土へ食い込んだ。


 鉄棒の先が石の下へ入り込む。


 石が鳴った。


 低く、腹へ響く音。


 川底の泥が割れる。


 巨大な石の片側が、指一本分だけ浮いた。


 村人の一人が短く叫ぶ。


 待機していた二人が、石の下へ細い楔を打ち込んだ。


 恒一は力を緩めない。


 鉄棒が元へ戻ろうとする。


 石の重さが、梃子を通して全身へ返ってきた。


 歯を食いしばる。


 補正があっても軽くはない。


 人間一人で持ち上げているわけではなかった。


 梃子。


 支点。


 村人たちの体重。


 巻き上げ機。


 何重にも回された縄。


 それら全てが重さを分けている。


 恒一は、その中で足りなかった力を補っているだけだ。


 楔を打つ音が三度。


 白い髭の男が声を上げる。


 恒一はゆっくり力を抜いた。


 石は元へ戻らなかった。


 差し込まれた楔が支えている。


 村人たちの顔が明るくなった。


 第一段階は成功した。


 次は、さらに持ち上げる。


 太いころを石の下へ入れなければならない。


 村人が支点の位置を変える。


 鉄棒を一度抜き、先ほどより奥へ差し込む。


 恒一も手伝った。


 補正を受けた身体なら、鉄棒一本を移すこと自体は難しくない。


 片手で持ち上げかけ、途中で両手に持ち替える。


 軽く感じるからといって、重さが消えたわけではない。


 手を滑らせれば、近くの者を傷つける。


 補正は、危険をなくしてはくれない。


「ゆっくりやります」


 自分へ言い聞かせる。


 あかりがこちらを見ていた。


 目が合う。


 すぐに胸元へ視線を落としかけ、慌てて鉄棒へ戻す。


 また、落ち着かない熱が届いた。


 恒一は左肩へ意識を向けた。


 痛みはない。


 彼女が何を気にしているのかは、まだ分からなかった。


     ◇


 作業開始から十五分ほど過ぎた頃、最初のコメントが流れてきた。


 配信開始直後に送られたものだ。


《お、今日は村だ》


《水路工事?》


《昨日配信ないから心配したぞ》


《石でかくない?》


《ポチさん朝から労働してる》


 恒一は鉄棒の位置を確かめながら、側から見れば独り言なのだがリスナーだけがわかるように説明をする。


「水路の入口に石が落ちています。これを動かさないと、畑へ水が流れないようです」


《説明助かる》


《完全に村人の一員になってる》


《異世界労働配信始まったな》


《時給は出ますか》


「さっき試したのですが、できませんでした。」


 白い髭の男が次の合図を出す。


 恒一はコメントから意識を外した。


 鉄棒へ力を掛ける。


 二度目は、最初より難しかった。


 石は片側だけ浮いている。


 重心が僅かに変わり、鉄棒へ返ってくる力も一定ではない。


 巻き上げ機の縄が軋む。


 村人が取っ手を半周回すたび、石が横へ数ミリ動く。


 恒一は鉄棒を押し下げたまま、石が傾きすぎないよう調整する。


 力を込めすぎれば、反対側が滑る。


 弱ければ、ころを入れる隙間ができない。


 白い髭の男の声を聞く。


 意味は分からない。


 けれど、長く伸ばす音と短く切る音で、力を維持するのか、緩めるのかは少しずつ見分けられるようになっていた。


 恒一が押す。


 男が叫ぶ。


 村人が楔を打つ。


 巻き上げ機が回る。


 石の下へ、腕ほど太い丸太が一本入った。


 続いて二本目。


 太いころが石の重みを受ける。


 泥の中で木が沈んだ。


 もう一本必要だった。


 村人の一人がころを運ぶ。


 そのとき、あかりから鋭い感情が流れ込んだ。


 驚き。


 恐れ。


 止めなければならないという、強い焦り。


 恒一は反射的にあかりを見た。


 彼女は縄を指している。


 石へ巻かれた二本のうち、上側の縄。


 張り詰めた箇所を何度も指す。


 恒一には最初、何が違うのか分からなかった。


 縄は切れていない。


 結び目も外れていない。


 だが、よく見ると、杭の近くで細い繊維が何本も立っていた。


 張力が掛かるたび、その数が増えている。


「止めてください!」


 つい、日本語で叫ぶ。


 当然、村人には通じない。


 恒一は鉄棒を離さず、空いた片手を大きく上げた。


 白い髭の男が気づく。


 恒一は縄を指した。


 もう一度、手を横へ振る。


 男の表情が変わった。


 村人へ短い声を飛ばす。


 巻き上げ機が止まった。


 全員が力を維持したまま、動きを止める。


 縄を見ていた女が杭へ駆け寄った。


 立ち上がった繊維へ触れる。


 その直後。


 ぷつり、と音がした。


 太い縄の表面が裂ける。


挿絵(By みてみん)


 完全には切れていない。


 だが、あと一度強く引いていたら耐えられなかった可能性がある。


 もし切れていれば、巻き上げ機の取っ手が逆回転する。


 近くの者が弾き飛ばされる。


 石も、ころを入れようとしていた男の方へ滑ったかもしれない。


 白い髭の男が恒一を見る。


 恒一はあかりを見た。


 彼女はまだ縄を指している。


「見つけたのは、あかりです」


 村人には見えない。


 説明する方法もない。


 恒一は自分の目を指し、縄を指した。


 白い髭の男は深く頷いた。


 恒一だけが気づいたことになった。


 正確ではない。


 けれど、いまは作業を止められたことの方が重要だった。


「ありがとうございます」


 あかりへ言う。


 彼女の焦りが少しずつ薄れる。


 代わりに、安堵が届いた。


 その後から、慎ましい喜びが続く。


 自分も役に立てたことが嬉しいのかもしれない。


 確かなことまでは分からない。


 ただ、あかりが先ほどより真っ直ぐ作業を見られるようになったことだけは分かった。


 村人たちは傷んだ縄を緩め、新しい縄を重ねた。


 完全に外せば石が戻る。


 古い縄を残したまま、新しい縄へ少しずつ力を移す。


 誰か一人でも急げば危険だった。


 恒一は鉄棒を押し下げ、石の高さを維持する。


 肩から腕へ力が掛かる。


 汗が胸元を伝い、腹へ落ちた。


 あかりがそれを見た。


 視線が一瞬止まる。


 次の瞬間には、また顔ごと横を向いた。


 驚きに似た感情。


 先ほどと同じ、熱のある戸惑い。


「疲れているように見えますか」


 恒一が尋ねる。


 あかりは背を向けたまま、首を横へ振った。


「補正は切れていません。まだ大丈夫です」


 あかりの肩がさらに小さくなった。


 どうやら、それも違うらしい。


 恒一は作業へ意識を戻した。


 分からないものを無理に推測しても、いまは答えに届かない。


     ◇


 新しい縄へ力が移る。


 古い縄が外された。


 切れかけた部分を見た村人たちは、何度も恒一へ声を掛けた。


 礼を言っているように見える。


 恒一はそのたび、あかりのいる場所へ目を向けた。


 誰にも意味は伝わらない。


 あかりだけが、少し困ったように目を伏せた。


 ころが三本入る。


 石の片側が川底から離れた。


 ここからは、持ち上げるのではなく横へ動かす。


 巻き上げ機を回す者が六人へ増えた。


 恒一は鉄棒から離れ、長い横木の前へ移る。


 横木は巻き上げ機の反対側から石を押すためのものだった。


 一端が石へ当てられ、三人が並ぶ。


 白い髭の男が恒一を中央へ立たせる。


 自分は隣へ入った。


 恒一一人に任せるつもりはない。


 村人全員で動かす。


 合図が上がる。


 横木を押す。


 巻き上げ機が回る。


 石が、初めてはっきり動いた。


 ころの上を数センチ進む。


 水路との隙間から、水が細く噴き出した。


 勢いに押され、泥が跳ねる。


 村人たちから声が上がった。


 恒一は横木を押し続ける。


 補正された筋肉が軋む。


 足の下で土が崩れる。


 右脚を踏み直す。


 石は遅い。


 だが、止まってはいない。


 一センチ。


 二センチ。


 ころが回るたび、濡れた木の表面が光る。


 先頭のころが石の後ろへ抜けた。


 待機していた男が拾い、進行方向へ置き直す。


 古い方法だった。


 けれど、重いものを動かすために必要なものが全て揃っている。


 力だけではない。


 道具。


 順序。


 合図。


 支える者。


 危険を見張る者。


 恒一がどれだけ強くなっても、一人ではここまで安全に動かせなかった。


 石が半分ほど移動したところで、横木に強い反動が返った。


 ころの一本が泥へ沈んだ。


 石が傾く。


 横木の左側にいた村人が足を取られた。


 恒一は押す方向を変えた。


 前ではなく、僅かに上。


 横木を通して石の傾きを支える。


 白い髭の男が倒れかけた男の腕を掴む。


 別の者が楔を打ち込む。


 石の動きが止まった。


 恒一の両腕へ、先ほどまでとは比べものにならない重みが掛かる。


 横木が胸元へ近づく。


 押し返される。


 足が泥へ沈む。


 補正がなければ、横木ごと弾き飛ばされていた。


 恒一は息を止めないよう、短く吐いた。


「まだ、持てます」


 日本語で告げる。


 誰にも意味は分からない。


 それでも声の調子は伝わったらしい。


 白い髭の男が頷き、村人へ指示を出す。


 沈んだころの横へ板を差し込む。


 その上へ新しい丸太を置く。


 一人が槌を振る。


 もう一人が楔を押す。


 恒一は横木を支え続けた。


 あかりが近くまで来る。


 横木。


 恒一の腕。


 足元。


 順番に見る。


 強い心配が届く。


「大丈夫です」


 恒一は歯を食いしばったまま言った。


 あかりは納得していない。


 けれど、邪魔にならない場所で見守っている。


 彼女の存在が、集中を途切れさせない。


 森の中でも同じだった。


 五メートルの制限は、不便だった。


 離れられない。


 逃がすこともできない。


 それでも、どれほど孤立した場所でも、自分一人だけにはならなかった。


 槌の音が止む。


 新しいころが入った。


 白い髭の男が恒一の肩へ触れようとし、直前で手を止める。


 触れれば姿勢を崩すと思ったのだろう。


 代わりに、目の前で拳を握った。


 もう少し。


 そう示しているように見えた。


 恒一も頷く。


 合図。


 巻き上げ機が再び回る。


 恒一は横木を押し返した。


 石が傾きを戻す。


 新しいころへ重さが移る。


 動く。


 準備された石床まで、あと僅か。


 最後のひと押し。


 恒一の背中と腕に力が集まる。


 上半身へ残っていた黒い布の細片が、一枚だけ肩から落ちた。


 もう服は残っていない。


 村人たちが声を揃える。


 意味の分からない音。


 それでも、力を合わせるための声だと分かる。


 恒一も息を吐いた。


 横木を押す。


 石がころを越えた。


 準備された石床へ乗る。


挿絵(By みてみん)


 鈍い音が、川岸全体へ響いた。


 楔が打ち込まれる。


 縄が緩む。


 横木へ返っていた重さが消えた。


 巨大な石は、取水口から完全に外れていた。


 木製の水門が見える。


 待機していた者が水門を少しずつ開いた。


 塞がれていた水が、細い水路へ流れ込む。


 最初は泥色。


 すぐに透明な流れへ変わる。


 乾いていた石の間を水が走った。


 畑の方角へ、光る筋が伸びていく。


 村人たちが歓声を上げた。


     ◇


 横木から手を離した途端、腕の重さが戻ってきた。


 配信補正は続いている。


 それでも、疲労まで消えるわけではない。


 恒一は呼吸を整えた。


 村人たちが次々と近づいてくる。


 肩を叩こうとして、汗に濡れた上半身を見て手を止める者。


 気にせず背中を叩く者。


 両腕を曲げ、恒一の筋肉を真似する者。


 壊れた黒い上着を拾い上げ、元の形へ戻そうとする者。


 誰がどう持っても、服にはならなかった。


 あかりは水路の反対側へ視線を向けている。


 恒一が動けば、すぐ隣を歩く。


 けれど、目は合わせない。


 感情だけが落ち着かないまま流れてくる。


 恒一は理由を尋ねようとして、視界を流れるコメントに気づいた。


 十五分前。


 ちょうど、挨拶を始めた頃の反応だった。


《こんにちは……》


《え?》


《待って》


《今なんか膨らんだ?》


《服が》


《服が死んだ》


《こんにちはの途中で上半身が爆発した》


《筋肉で服を破る人、初めて生で見た》


《……ポチです、じゃないんだよ》


《挨拶を完遂する精神力》


《切り抜き確定》


《保存した》


《ネット史に残る三秒》


 恒一は目を閉じた。


「忘れてください」


《無理》


《もう遅い》


《タイトル『こんにちは……ポチです』で決まり》


《映像として完成されすぎてる》


《前半と後半の間に服の死を挟むな》


「切り抜かないでください」


 十五分遅れている。


 いま言っても、その返事が届くのはさらに十五分後だ。


 その頃には、もう切り抜かれている可能性が高い。


 恒一は壊れた上着を持つ村人へ目を向けた。


 男は布を胸へ当て、恒一の真似をしている。


 周囲がまた笑った。


 配信画面にも、新しいコメントが増える。


《現地でもウケてる》


《村に伝説を残した男》


《筋肉の言語だけ翻訳不要》


《やはり筋肉は全てを解決する!》


 恒一はため息を吐いた。


 あかりから、僅かに違う感情が届いた。


 戸惑いの中へ、ほんの少しだけ柔らかいものが混じっている。


 彼女も村人の反応を見ている。


 笑っているのかまでは分からない。


 口元は長い髪で隠れていた。


 恒一が覗き込もうとすると、あかりはすぐ顔を反対へ向けた。


「僕の服が壊れたのが、そんなにおかしいですか」


 あかりは激しく首を横へ振った。


 強い否定が感情にも重なる。


 笑っていたわけではないらしい。


 では何なのか。


 恒一が考えている間にも、コメントは流れる。


《白い子、ずっと目を逸らしてない?》


《見ちゃいけないものだと思ってる》


《いや一回見てる》


《めちゃくちゃ気にしてるじゃん》


《ポチさん気づいてないのか》


《鈍い》


「何に気づけばいいんですか」


 答えは十五分前の画面へ向けて送られている。


 いま問い返しても間に合わない。


 あかりが両手で顔を覆った。


 契約を通して届く熱が、これまでで最も強くなる。


 恒一はようやく、自分の上半身を見下ろした。


「もしかして、見ない方がいい格好でしたか」


 あかりの感情が一瞬止まった。


 次いで、驚きと困惑が同時に流れ込む。


 彼女は頷こうとして止まり、首を横へ振ろうとして止まる。


 最後には背中を向けた。


 どう答えても困るらしい。


「すみません」


 恒一は素直に謝った。


 あかりから、謝ってほしいわけではないという感覚が返ってくる。


 やはり、正確な意味までは分からない。


 ただ、彼女が恒一の怪我を心配しているだけではなかったことは理解できた。


 白い髭の男が近づいてくる。


 石。


 流れ始めた水。


 村人たち。


 恒一。


 順に指す。


 胸へ手を当て、深く頭を下げた。


 恒一も頭を下げる。


「手伝えて良かったです」


 男は壊れた上着を見る。


 恒一のズボンを見る。


 擦り切れた靴を見る。


 何かを考えたあと、村の方角を指した。


 ついてくるよう手を動かす。


 恒一は配信画面へ目を向けた。


 石は動いた。


 補正を必要とする作業は終わっている。


「今日の労働配信は、短いのですがここまでにします」


《お疲れ》


《服もお疲れ》


《石より服の方が先に限界を迎えた》


《労働配信、定期化希望》


《次回も挨拶で何か壊して》


「とりあえず忘れてください!」


 まだ配信終了まで結構な時間があったが小恥ずかしさが勝ってしまい、配信を終了する。

 

 補正が切れた。


 肩や胸の筋肉から、張り詰めていた感覚が薄れていく。


 急に身体が重くなる。


 恒一は一歩だけよろめいた。


 あかりが反射的にこちらへ手を伸ばす。


 触れられるほど近くへ来て、恒一の顔を見る。


 心配が伝わる。


「少し疲れただけです」


 今度は、その言葉で合っていたらしい。


 あかりの感情が僅かに和らいだ。


 ただし、恒一の胸元へ視線を落とすことはなかった。


     ◇


 白い髭の男が向かったのは、村の中央ではなかった。


 小屋が並ぶ一角。


 軒下に染めた布を吊るし、壁へ糸巻きや革紐を掛けた家だった。


 入口には、年老いた女性がいる。


 炭焼き小屋で会った老女ではない。


 背中を丸め、片手に太い針を持っている。


 白い髭の男が早口で説明した。


 川の方角を指す。


 大きな石を持ち上げる動き。


 両腕を膨らませる仕草。


 最後に、布が裂ける動きをした。


 年老いた女性が恒一を見る。


 肩から胸。


 腕。


 腰。


 足元。


 順に視線を移す。


 それから家の中へ戻った。


 恒一は入口の外で待つ。


 あかりも隣にいる。


 彼女は家の中より、恒一の上半身を見ないことへ意識を使っているようだった。


 視線が右へ行く。


 戻りかける。


 恒一と合いそうになる。


 また右へ行く。


 感情も落ち着かない。


「もう少しで、何か着られるかもしれません」


 恒一が言うと、あかりは素早く頷いた。


 その反応だけは分かりやすかった。


 しばらくして、年老いた女性が布の束を抱えて戻ってきた。


 一枚ずつ広げる。


 濃い灰色の肌着。


 その上へ着る、腿近くまである長衣。


 色は黒に近い濃灰。


 肩と脇には別の布が重ねられ、動いても裂けにくい作りになっている。


 袖口は紐で絞れる。


 首元にも革紐。


 ズボンは厚手の焦げ茶色で、膝と腰へ補強布が縫われていた。


 革の帯。


 小さな袋。


 布の靴下。


 最後に、足首まで覆う革靴。


 行商へ渡すために作られたものなのか。


 誰かの予備だったのか。


 どれも古着には見えなかった。


 着用された跡がない。


 年老いた女性が、服を恒一へ差し出した。


 恒一は受け取る前に、自分を指した。


 次に服を指す。


 家を指す。


 両手で渡し返す動きをした。


 借りるのか。


 あとで返すのか。


 その確認だった。


 女性は強く首を横へ振った。


 服を恒一の胸へ押し当てる。


 恒一を指す。


 服を指す。


 それから、両手で何かを持ち上げる動きをした。


 川の方角を指す。


 流れる水。


 畑。


 村全体。


 最後に、恒一の手を取り、服を握らせた。


 借り物ではない。


 石を動かした仕事への対価。


 あるいは、村へ渡した巨大な魔物の分も含まれているのかもしれない。


 どちらにしても、返すものではないと示している。


「いただいていいんですか」


 年老いた女性は頷いた。


 白い髭の男も胸へ手を当て、同じように頷く。


 恒一は服を抱え直した。


 布の重さ。


 革の匂い。


 まだ誰の身体にも馴染んでいない硬さ。


 自分のものになる新しい服だった。


「ありがとうございます」


 深く頭を下げる。


 年老いた女性は恒一の肩幅を測るように両手を動かした。


 長衣を身体へ当て、袖の長さを見る。


 少し大きい。


 だが、紐で締めれば着られる範囲だった。


 ズボンも、帯を使えば合う。


 靴だけは確かめる必要がある。


 女性は恒一へ家の横を指した。


 低い板壁で囲われた場所。


 中には水桶と、小さな腰掛けがある。


 身体を洗い、着替える場所らしい。


 恒一は服を抱え、あかりを見た。


 五メートルより遠くへ離れることはできない。


「あかり」


 板壁の外側を指す。


 次に自分と服を指した。


「少しだけ、向こうを向いていてもらえますか」


 言葉の全てが伝わったわけではないだろう。


 ただ、状況は理解したらしい。


 あかりは顔を赤らめる代わりに、全身の水の光を微かに揺らした。


 驚きと緊張が流れ込む。


 彼女は素早く背を向け、板壁の外へ移動した。


 五メートルの範囲には収まっている。


 恒一から姿も見える。


 ただし、顔は完全に村の反対側へ向いていた。


「終わったら声を掛けます」


 あかりが背を向けたまま頷く。


 恒一は板壁の内側へ入った。


     ◇


 水桶の水は冷たかった。


 汗と泥を流す。


 腕。


 肩。


 胸。


 背中。


 補正が切れた身体には、作業の疲れが残っている。


 古い傷に異常はない。


 新しく血が出ている場所もない。


 石を動かすことはできた。


 配信補正がなければ不可能だった。


 けれど、補正だけで成し遂げたわけでもない。


 村人たちの準備があった。


 あかりが縄の傷を見つけた。


 全員が同じ合図で動いた。


 その結果として、水が畑へ戻った。


 恒一は濡れた髪を拭き、渡された肌着へ腕を通した。


 布が身体へ触れる。


 少し硬い。


 それでも、裂け目がない。


 肩を動かしても糸が切れる音はしない。


 長衣を重ねる。


 首元の革紐を結ぶ。


 濃い灰色は、これまでの黒い服と大きく印象が変わらない。


 村の中で浮かない程度には現地の作り。


 それでいて、恒一には落ち着く色だった。


 ズボンを穿き替える。


 革帯を締める。


 小袋は右腰へ寄せた。


 靴下を穿き、革靴へ足を入れる。


 少し大きい。


 紐を強く結ぶと、踵は動かなくなった。


 立ち上がる。


 膝を曲げる。


 腕を上げる。


 腰を捻る。


 作業着として作られているらしく、見た目より動きやすい。


 肩と脇の補強布も、筋肉が張った程度では裂けそうになかった。


 少なくとも、挨拶の途中で吹き飛ぶことはないだろう。


 恒一は板壁の外へ声を掛けた。


「終わりました」


 あかりがすぐに振り返った。


 最初に恒一の顔を見る。


 次に首元。


 肩。


 袖。


 革帯。


 足元。


 新しい服を一つずつ確かめる。


 強い安堵が流れ込んだ。


 その後から、穏やかな温かさが続く。


 恒一は両腕を少し広げた。


「変ではありませんか」


 あかりは首を横へ振った。


 もう一度、全身を見る。


 今度は目を逸らさない。


 左肩の補強布へ視線を止め、右腕の袖口を見る。


 最後に小さく頷いた。


「良かったです」


 恒一も息を吐いた。


 板壁の内側には、古い服が残っている。


 黒いズボン。


 擦り減った靴。


 原形を失った上着。


 恒一はそれらを拾い集めた。


 腕へ掛ける。


 新しい濃灰の長衣の上で、古い黒はさらに色褪せて見えた。


 年老いた女性の家へ戻る。


 白い髭の男は、もう川の方へ戻っていた。


 女性だけが入口で待っている。


 恒一の姿を見ると、満足そうに目を細めた。


 袖口を確かめる。


 帯の締め方を直す。


 靴紐を一度解き、より外れにくい結び方を教える。


 言葉は分からない。


 それでも、手の動きを真似すれば十分だった。


 恒一は着替え終えたあとも、古い服を抱えたままだった。


 年老いた女性がそれを見る。


 上着の残骸を広げる。


 縫い直せる箇所を探すように見たあと、首を横へ振った。


 もう服へ戻すことはできない。


 恒一にも分かっていた。


 黒いズボンは、まだ穿けないわけではない。


 靴も、あと数日は歩けるだろう。


 だが、新しい服を受け取った。


 この世界で作られたズボンも靴も、自分のものになった。


 古い方を使い続ける理由はない。


 恒一は、上着の残骸を見た。


 何度も手を入れたポケット。


 もう形のないフード。


 片方だけ残った紐。


 異世界へ来る前、特別な思いを込めて買った服ではなかった。


 店で見かけた。


 色が地味で、合わせやすかった。


 値段も高すぎなかった。


 それだけで選んだ服だった。


 転移した日にも、特別なつもりで着ていたわけではない。


 家を出る。


 買い物へ行く。


 配信の準備をする。


 その程度の日常のために着たものだった。


 けれど、異世界へ来てからは違った。


 森の雨を受けた。


 枝に引っかかった。


 獣から逃げた。


 血を吸った。


 包帯の代わりに裂いた。


 寒い夜には身体を包んだ。


 あかりと出会ったときも着ていた。


 村の門を越えたときも着ていた。


 この世界で恒一が過ごした全ての日に、同じ服があった。


 最後まで残っていた、元の世界の日常だった。


 恒一は上着の紐を指で摘んだ。


 持っていこうと思えば持っていける。


 小屋の棚へ置くこともできる。


 記念として残すこともできる。


 けれど、形を失った服を抱え続けることが、元の世界を忘れない唯一の方法ではない。


 覚えている。


 自分がどこから来たのか。


 どんな部屋で暮らしていたのか。


 何をしていたのか。


 忘れたわけではない。


 物がなくなれば消える記憶でもなかった。


 年老いた女性が、家の横にある籠を指した。


 中には小さな布片。


 革の切れ端。


 金具。


 短い紐。


 使えなくなった服や道具を、素材ごとに分けているらしい。


 女性は黒い上着の袖を指す。


 次に細長く切る動き。


 包帯か、物を結ぶ紐にする。


 ズボンの補強されていない箇所も、まだ布として使える。


 靴からは紐と、残った革を外せる。


 捨てるのではない。


 形を変えて、村のどこかで使う。


 女性が恒一を見る。


 古い服を指す。


 籠を指す。


 それから掌を上へ向けた。


 本当に手放すのか。


 確かめているように見えた。


 恒一は古い服を抱え直した。


 あかりを見る。


 彼女も黒い布を見つめている。


 静かな寂しさが届く。


 彼女にとっても、恒一の服は最初から同じだった。


 森で出会ったときの姿。


 守ってくれた者の色。


 きっと、それに近い記憶がある。


 正確な内容は分からない。


 それでも、別れを惜しんでいることは伝わった。


 恒一は上着を胸元へ寄せた。


「今まで、ありがとうございました」


 誰へ向けた礼なのか、自分でも分からない。


 服へ。


 元の世界へ。


 森を歩き抜いた自分へ。


 その全てだった。


 恒一は上着を畳もうとした。


 破れすぎていて、四角い形にはならない。


 できる範囲で布を重ねる。


 その上へ黒いズボンを置く。


 靴の紐を揃える。


 まとめたものを、年老いた女性へ差し出した。


 女性はすぐには受け取らなかった。


 もう一度、恒一の目を見る。


 恒一は頷いた。


「お願いします」


 女性が両手で受け取る。


 古い服が恒一の腕から離れた。


挿絵(By みてみん)


 軽いものだった。


 それでも、なくなった腕の中へ風が通ったように感じた。


 女性は服を籠へ投げ込まない。


 一度、作業台の上へ置く。


 使える布。


 紐。


 金具。


 革。


 これから分けるつもりらしい。


 黒い服は、そこで恒一の服ではなくなった。


 あかりから、寂しさが流れ込む。


 その奥に、温かなものがある。


 恒一は新しい長衣の胸元へ手を当てた。


「行きましょう」


 あかりが頷く。


 二人で小屋へ戻る。


     ◇


 村を歩くと、何人もの者が恒一を見た。


 服が変わっているからではない。


 川での出来事を聞いた者が、腕を膨らませる仕草をして笑う。


 中には、自分の服を両側へ引っ張り、破れる動きをする者もいた。


 どうやら挨拶の途中で服を失った話は、配信の向こうだけではなく村の中にも残るらしい。


 恒一は片手を上げるだけにした。


 もう日本語で忘れてほしいとは言わなかった。


 小屋へ戻る。


 扉を閉める。


 新しい靴を脱ぐ。


 棚の前へ立ったとき、恒一は僅かな違和感を覚えた。


 置くべき古い服がない。


 朝まで、棚の端には黒い布があった。


 眠るときも、乾かすときも、視界へ入っていた。


 いまは空いている。


 代わりに、濃灰の長衣を着ている。


 革帯がある。


 新しいズボンがある。


 明日も着られる服。


 破れた箇所を隠すために、紐の結び方を考えなくていい服だった。


 恒一は寝台へ腰を下ろした。


 あかりが隣へ浮かぶ。


 もう上半身を見て慌てることはない。


 新しい服の肩を見て、袖を見て、安心した感情を伝えてくる。


「今日は助かりました」


 縄を見つけたことを言っているつもりだった。


 あかりは少し考えたあと、自分を指した。


 次に縄を指す仕草。


 最後に、小さく頷く。


 意味は通じたらしい。


「あなたが気づかなければ、誰かが怪我をしていました」


 あかりは目を伏せる。


 嬉しさと、照れに似た柔らかい感情が届いた。


 恒一は微笑んだ。


「それから、朝はすみませんでした」


 あかりの顔が上がる。


 何のことか思い出したらしい。


 再び強い動揺が流れ込んだ。


 彼女は顔を背ける。


「服が破れるとは思っていませんでした」


 あかりは両手で顔を覆った。


 恒一はそれ以上説明しないことにした。


 どうやら口にするたび、彼女を困らせる。


 意味の全ては分からない。


 ただ、あかりが恒一の裸を平気で見られるわけではないことだけは、もう理解した。


「次からは気をつけます」


 あかりは手の間から恒一を見る。


 ゆっくり頷いた。


 感情の熱が、少しずつ引いていく。


 恒一は寝台へ横になった。


 新しい服が身体へ馴染んでいない。


 肩を動かすたび、硬い布の感触がある。


 元の黒い服とは違う。


 けれど、不快ではなかった。


 この世界で作られた服。


 この村で働いた対価として受け取った、自分の服。


 借り物ではない。


 返す日を考える必要もない。


 明日、起きたあとも着ていい。


 その事実が、静かに胸へ残った。


 その頃、切り抜きらしい短い映像の再生数が、すでに本配信の視聴者数を越えていた。


 題名も予想どおりだった。


『こんにちは……ポチです』


 黒歴史が一つ誕生した瞬間だった。


 その夜。


 恒一は異世界へ来て初めて、この世界で作られた服を着たまま炉の火を落とした。


 棚の端に、黒い服はない。


 明日になれば、新しい濃灰の服へ村の匂いがつく。


 土。


 煙。


 薪。


 流れる水。


 少しずつ、自分のものになっていく。


 元の世界から着続けた服との別れは、戦いでも儀式でもなかった。


 水路の石を動かし。


 挨拶の途中で吹き飛び。


 最後には、村で使う布と革へ姿を変える。


 ひどく間の抜けた終わり方だった。


 それでも恒一は、悪くないと思った。


 黒い服と別れた翌朝からも、ポチとしての暮らしは続いていく。

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