第22話 井戸に残る三本の波
村へ着いてから、三度目の朝。
恒一は、戸口の隙間が白み始める前に目を覚ました。
小さな炉の火は、灰の下へ赤みを残している。
寝台の横では、あかりが膝を抱えるようにして浮かんでいた。
眠っているのかどうかは、今も分からない。
目を閉じることはある。
けれど、呼吸に合わせて胸が上下することはなく、身体を包む細い水の糸も止まらない。
恒一が上体を起こすと、あかりの目が静かに開いた。
左肩の奥が鈍く痛んだ。
昨日より悪くはない。
右脚も、体重をかける角度さえ間違えなければ歩ける。
森の中にいた頃と比べれば、どちらも傷と呼べる程度に収まっている。
恒一は寝台の下から、昨夜のうちにまとめておいた布包みを引き出した。
中にあるのは、替えにできそうな古い布と、木の椀。
それから、セレスから渡された二冊の教本だった。
一冊は、子どもが最初に音と物の名前を結びつけるためのもの。
もう一冊は、その次に読むらしい薄い本だ。
文字の形そのものはまだほとんど読めない。
それでも、今の恒一にとっては食べ物と同じくらい失いたくない物だった。
二冊の上へ、結び目のついた細い紐を置く。
あかりとの安全な距離を示す、四メートルの紐。
これだけは、忘れるわけにはいかない。
布の端を重ね、右手で結ぶ。
あかりから、細い緊張が流れ込んできた。
言葉ではない。
布包みを見ていることと、その感情の向きから、恒一が意味を推測しているだけだった。
「今日で三日目です」
日本語で言ってから、恒一は指を三本立てた。
次に、窓の外を指す。
村へ入った日、白い髭の男も同じように三本の指を立て、太陽が昇って沈む動きを繰り返した。
三日だけ小屋を貸すという意味だったのか。
三日後に改めて決めるという意味だったのか。
正確なところは、まだ分からない。
「出ることになっても、あの森へすぐ戻るつもりはありません」
あかりの表情は変わらない。
声が届いているように見えるときはある。
けれど、言葉の内容まで伝わっていると考える理由はなかった。
恒一は布包みを指し、戸口を指す。
それから、あかりと自分を順に指した。
一緒に動く。
仕草で示せるのは、それくらいだった。
あかりの左手が伸び、恒一の袖へ触れた。
薄い指先から届く緊張は、すぐには消えなかった。
それでも、さきほどより僅かに弱くなる。
何が伝わったのかは分からない。
少なくとも、彼女が一人でここへ残されると思ってはいないらしい。
恒一は布包みを戸口の内側へ置いた。
追い出されると決まったわけではない。
先に外へ持ち出せば、出ていく意思があると誤解されるかもしれなかった。
灰を寄せ、残っていた火種を消す。
水差しの底に残った水を飲み終えたところで、戸が二度叩かれた。
◇
外に立っていたのは、白い髭の男だった。
昨日と同じ厚手の上着を着ている。
後ろには、荷車を押していた老人と、肩幅の広い中年の女がいた。
男の視線が、戸口の内側にある布包みへ落ちる。
恒一は反応を待った。
男は何も言わず、村の中央を指した。
次に、縄を引く仕草をする。
掌を下へ向け、泥を掻き出すように二度動かした。
「井戸の仕事でしょうか」
恒一が井戸の方角を指すと、男は頷いた。
昨日まで何度も聞いた、仕事を意味するらしい音を口にする。
恒一は自分の胸へ右手を当てた。
「ポチ。仕事」
男がもう一度頷く。
布包みについては、何も示さなかった。
少なくとも、今すぐ村を出ろという話ではない。
恒一は木の杖を右手に取り、戸を閉めた。
あかりがすぐ隣へ浮かぶ。
結び目のついた紐は、布包みの中に入れたままだ。
ただ、四メートルの距離は身体で覚え始めている。
森で十一日を過ごしたあとでは、村の朝は音が多かった。
斧が薪を割る。
家畜らしい低い鳴き声が柵の奥から聞こえる。
鍋の蓋が鳴り、誰かが子どもを呼ぶ。
どれも意味は分からない。
それでも、危険の音ではないと判断できるものが増えていた。
共同井戸は、村の中央から少し東へ寄った場所にあった。
腰ほどの高さまで石を積んだ円形の井戸。
上には簡素な木の屋根があり、横木から太い縄と桶が下がっている。
石敷きの周囲には浅い溝が掘られ、こぼれた水を畑の方へ流すようになっていた。
その溝が、泥と枯れ葉で半分ほど塞がっている。
井戸の脇には木桶が六つ。
先の平たい木の棒と、小さな鍬が二本。
仕事の内容は、説明を聞くまでもなかった。
肩幅の広い女が、左肩へ布を巻いた恒一を見る。
鍬を取ろうとした恒一の手を止め、短い柄の木べらを渡した。
次に、自分の左肩を叩き、首を横へ振る。
「分かっています。無理はしません」
日本語は通じない。
恒一は左腕を身体へ寄せ、右手だけで木べらを動かしてみせた。
女はしばらく見たあと、溝の端を指した。
白い髭の男は井戸と恒一を交互に指す。
それから三本の指を立てた。
恒一の動きが止まる。
男はそのまま、泥の溝へ指を向けた。
三日目。
今日の仕事を終えたあとで、滞在について決めるつもりなのかもしれない。
恒一が頷くと、男は村の奥へ戻っていった。
残った老人が桶の縄を引く。
木の滑車が低く軋んだ。
井戸の底から水音が上がってくる。
◇
最初に教えられたのは、水だった。
老人が満たされた桶を指し、短い音を一つ口にする。
恒一は同じ音を繰り返した。
発音が違ったらしい。
老人がもう一度、今度はゆっくり言う。
恒一も口の形を見て言い直す。
三度目で、老人は頷いた。
次は運ぶ。
肩幅の広い女が桶を持ち上げ、井戸から少し離れた大きな水甕まで運ぶ。
同じ動作をしながら、別の音を繰り返した。
恒一は水の音と、運ぶ音を続けて口にした。
文法はない。
単語を並べただけだ。
それでも女には意図が届いたらしく、空の桶を一つ渡された。
恒一は右手で持つ。
半分ほど水を入れられると、取っ手が掌へ食い込んだ。
重い。
しかし、森で濡れた薪を抱えて歩いたときほどではない。
左肩を動かさず、右脚へ急に体重をかけないよう歩く。
水甕まで運び、指示された場所へ桶を置いた。
女が、置くことを意味するらしい音を発する。
恒一はそれも繰り返した。
一度で覚えられるとは思っていない。
同じ動作と同じ音が、何度も重なる必要がある。
二往復目。
三往復目。
四往復目で、井戸へ水を汲みに来た子どもが二人増えた。
昨日、細長い教室にいた子どもたちだった。
恒一を見つけると、片方が嬉しそうに水の音を口にする。
恒一が同じ音を返すと、二人は顔を見合わせて笑った。
発音がまた少し違っていたのだろう。
笑い方に悪意はない。
むしろ、自分たちの知っていることを大人が間違えるのが面白いらしかった。
小さい方の子が、空の桶へ手を伸ばす。
女が短い言葉を投げた。
語尾だけが、さきほどの置く音とよく似ている。
恒一は、桶を子どもの前へ置けという意味だと考えた。
空の桶を一歩前へ動かす。
女が首を横へ振った。
子どもが掌を恒一へ向けたまま、同じ言葉を言う。
動くな。
待て。
仕草を見て、ようやく意味に気づいた。
女が桶を地面へ置き、置く方の音をゆっくり言う。
次に掌を向け、待つ方の音を言う。
違うのは、最後の一音だけだった。
恒一が順に繰り返す。
子どもたちは真剣な顔で口元を見たあと、同時に首を横へ振った。
もう一度。
今度は片方が頷き、もう片方は首を傾げた。
「難しいですね」
日本語で言うと、子どもたちがまた笑った。
あかりから、僅かに明るい感情が届く。
彼女は恒一のすぐ後ろで、子どもたちを見ていた。
笑われたことが面白いのか。
村の中でこうして音を教えられている状況に安心しているのか。
そこまでは分からない。
恒一は桶を持ち上げた。
女が待つ方の音を言う。
今度は動かずに止まる。
頷きが返ってきた。
一つ。
朝から初めて、確実に使えた言葉だった。
◇
水甕が満たされると、仕事は溝の泥を除く方へ移った。
水を含んだ泥は重い。
木べらを差し込み、右手だけで手前へ寄せる。
一度に多く取ろうとすれば、左肩まで引かれる。
薄く削り、脇へ置いた籠へ入れる。
恒一は同じ動きを繰り返した。
老人は井戸の土台近くへ詰まった枯れ枝を掻き出している。
女は溝の下流から石を外していた。
三人で半刻ほど作業すると、濁った水が少しずつ流れ始める。
途中、溝へ渡してあった厚い木板を動かす必要があった。
水を吸った板は、老人が片側を持ち上げてもほとんど動かない。
恒一は反対側へ右手をかけた。
左肩を使わないよう身体を低くする。
老人が合図を出す。
二人で持ち上げた。
板の端が泥から抜ける。
吸いついていた水が音を立てて落ちた。
老人の動きが止まる。
恒一を見る。
恒一は板を横へずらし、石の上へ立てかけた。
重くはあった。
ただ、老人が先に泥との隙間を作っていた。
板も、見た目ほど厚くない。
右手の位置が端に近く、梃子のようになったのかもしれない。
理由はいくつも考えられた。
老人が何かを言い、恒一の右腕を指す。
子どもたちも目を丸くしている。
恒一は右手を開き、老人と自分を順に指した。
二人で持った。
そう示して、もう一度泥へ向き直る。
実際に一人で持ち上げたわけではない。
驚かれるほどのことではなかった。
外した板の下には、石組みの縁が隠れていた。
泥を払う。
灰色の石へ、浅い線が三本刻まれている。
最初は、自然にできた傷に見えた。
恒一は木べらの先で周囲の泥を落とした。
三本の線は、同じ方向へ緩く曲がっている。
上の線。
中央の線。
下の線。
並んだ三本の波だった。
恒一の手が止まった。
森の中で見た石にも、同じ形が刻まれていた。
倒木と土砂で塞がれた道。
村人が恐れる方角へ続いていた道の脇。
あの石の三本波には、上から斜めの一本が重ねられていた。
目の前の印には、それがない。
恒一の右隣から、強い感情が流れ込んできた。
痛みに似ている。
けれど、痛みだけではない。
懐かしさとも、恐れとも違う。
何かへ引かれながら、同時に近づくことを躊躇うような揺れだった。
恒一が顔を上げる。
あかりは井戸の縁を見ていた。
青白い瞳が、三本の波から離れない。
「知っているんですか」
問いかけても、答えはない。
あかりの唇が僅かに動く。
音にはならなかった。
契約を通して届くものにも、言葉の形はない。
恒一は三本波を指した。
次にあかりを指す。
彼女はすぐには動かなかった。
しばらくして、左手を胸元へ寄せる。
亀裂の残る霊核の上へ、指先を重ねた。
それが肯定なのか、傷が反応しているだけなのかは判断できない。
老人が恒一の視線を追った。
見えているのは、空中ではなく、石に刻まれた三本波だけだった。
老人はその印を見ると、胸へ手を当てた。
短い音を一つ口にする。
森の小屋で、老女が祈るときに使った古い響きと似ていた。
水辺の加護。
守るもの。
あかりが以前拾った意味から、恒一がそう考えているだけだ。
この印そのものの名かもしれない。
井戸を指す言葉かもしれない。
老人はそれ以上説明せず、外した板の下へ手を入れた。
恒一も泥を除く作業へ戻る。
ただ、あかりは井戸を見たまま動かなかった。
◇
外した板の下には、長いあいだ溜まっていたらしい泥が詰まっていた。
老人が小さな木べらで掻き出す。
恒一は右手で泥を受け、傍らの籠へ移した。
濡れた土は見た目以上に重い。
左肩を動かさないよう身体ごと向きを変えるたび、右脚の奥へ鈍い痛みが走った。
老人は二度、恒一の手を止めようとした。
そのたび恒一は首を横へ振り、右手を見せる。
「ポチ。仕事」
覚えたばかりの音を添えると、老人は呆れたように息を吐いた。
それでも木べらを取り上げることはしなかった。
井戸の反対側では、少年が縄を引いていた。
滑車が乾いた音を立て、桶が石の縁まで上がってくる。
少年は両手で桶を受けると、低い台の上へ置いた。
汲み上げたばかりの水が、木の縁から一筋こぼれる。
石の上を伝った雫が、三本の波へ触れた。
あかりの感情が大きく揺れた。
恒一は顔を上げた。
彼女は桶を見ている。
さきほどまであった躊躇いより、引かれる感覚の方が強くなっていた。
恒一から桶までは三歩ほどしかない。
あかりが一歩、近づく。
もう一歩。
五メートルの境界には遠い。
それでも恒一は、彼女と自分のあいだを目で確かめた。
あかりは桶の前で止まった。
薄い左手を伸ばす。
指先が水面へ重なった。
触れたように見えただけかもしれない。
水を押した感触も、音もなかった。
ただ、風のない井戸端で、小さな輪が一つ広がった。
少年が桶を見る。
桶の縁から落ちた雫が揺らしたと思ったのか、すぐに縄へ手を戻した。
二つ目の輪が広がる。
今度は、あかりの指先を中心にしていた。
冷たいものが恒一の胸へ流れ込んだ。
身体の冷えではない。
森で水場を見つけたときに届いた安堵と似ている。
その奥には、長く息を止めていた者がようやく吐き出したような緩みがあった。
言葉ではない。
水を知っているのか、この印を知っているのか、それとも傷が楽になったのか。
恒一には区別できなかった。
あかりの右腕へ淡い光が集まった。
森を出てからも、右腕は左腕より薄いままだった。
肩から先が時折透け、指の輪郭が水へ溶けるように崩れる。
いま、その輪郭がゆっくり戻っていく。
肩。
肘。
細い手首。
順に水の膜を重ねるように、形が確かになった。
恒一は泥のついた右手を止めた。
「あかり」
呼びかける。
彼女が振り返る。
青白い瞳にも、いつもより僅かに光が戻っていた。
けれど胸元の霊核に走る亀裂は消えていない。
右腕の内側にも、細い筋のような透けが残っている。
治ったわけではなかった。
恒一がそう判断した直後、契約の奥へ鋭い痛みが混じった。
あかりの指が水面から離れる。
戻った輪郭が、一度だけ揺れた。
彼女は右腕を胸へ寄せる。
安堵はまだ届いている。
同時に、疲労に似た重さも増えていた。
長く触れ続ければいいというものではないらしい。
恒一は桶を指し、次にあかりの右腕を指した。
それから両手を広げ、問いかけるように首を傾ける。
あかりは桶を見る。
胸元を見る。
最後に、ゆっくり首を横へ振った。
何に対する否定なのかは分からない。
もう触れないという意味かもしれない。
治ってはいないと示したのかもしれない。
恒一はそれ以上、意味を決めなかった。
分かったのは、水に触れている短いあいだだけ、右腕が少し安定したこと。
そして、その変化にも負担が伴うことだけだった。
老人が木べらを石へ当て、恒一を呼ぶ。
作業を止めていたことに気づき、恒一は頭を下げた。
泥を運び直す。
その横で、あかりは桶から半歩離れた。
それでも三本波の印からは離れなかった。
◇
昼が近づくころ、炭焼き小屋の老女が井戸へやってきた。
片腕に布包みを抱え、もう一方の手へ小さな土の杯を持っている。
老女は恒一を見つけると、目尻を下げた。
左肩の布と右脚を順に見て、何かを早口で言う。
叱られているらしいことだけは、声で分かった。
恒一が作業場を指して頭を下げると、老女はさらに一言重ねた。
老人が笑う。
少年も笑った。
恒一には理由が分からない。
老女は布包みを少年へ渡した。
次に、外された板の下へ現れた三本波へ気づく。
表情が変わった。
笑いが消えたわけではない。
ただ、声を出す前の静けさが加わった。
老女は三本波の前へしゃがんだ。
指で泥を拭う。
胸へ右手を当てると、以前と同じ古い音を口にした。
老人も作業の手を止める。
少年まで、真似るように胸へ手を置いた。
あかりは三人を見ていた。
驚きが恒一へ流れ込む。
その感情が何へ向けられたものかは分からない。
祈りの音か。
三本波か。
それとも、見えない自分の前で同じ仕草をする三人か。
老女は土の杯を井戸水で二度すすいだ。
三度目に汲んだ水だけを残す。
そして杯を、三本波のすぐ上にある平らな石へ置いた。
誰かへ差し出すように、杯の向きを井戸側へ揃える。
その場にいる者へ飲ませる置き方ではなかった。
老人も少年も手を伸ばさない。
老女は杯へ頭を下げ、立ち上がった。
恒一を見る。
次に井戸を指し、胸へ手を当てる。
何かを説明している。
守るものへの礼なのか。
水を最初に誰かへ返す習わしなのか。
恒一には分からなかった。
分からないまま、同じように胸へ手を当てて頭を下げる。
老女は満足したように頷いた。
あかりが杯へ近づいた。
土の縁を覗き込む。
水面が僅かに震えた。
彼女の手は杯へ触れていない。
井戸端を抜ける風もなかった。
老女はその揺れに気づかなかった。
あかりの姿にも、もちろん気づかない。
それでも彼女の胸から届いたものは、痛みより温かかった。
恒一は何も言わなかった。
言葉にすれば、意味を一つに決めてしまう気がした。
老女が見ているのは井戸で、あかりではない。
けれど、見えない相手へ届かないとは限らなかった。
◇
布包みの中には、木の椀が四つ入っていた。
蓋代わりの布を外すと、煮込んだ肉と根菜の匂いが立つ。
村へ着いた日に見た香辛料の少ない匂い。
それでも森で食べていた硬い実や、焼いただけの肉とは比べられない。
少年が椀を一つ取り、老人へ渡す。
次に老女。
最後に恒一の前へ差し出した。
恒一が受け取ろうとすると、少年は椀を引いた。
短い音を口にする。
朝、桶を置く前に恒一が間違えた音だった。
待つ。
おそらく、そういう意味だ。
恒一は伸ばした手を止めた。
「待つ」
少年の発音を真似る。
今度は椀が差し出された。
少年が得意げに頷く。
恒一も頭を下げた。
「ありがとう」
日本語は通じない。
それでも、礼を言わずに受け取ることはできなかった。
椀の中には、拳ほどの肉が入っていた。
表面の黒い皮。
厚い脂。
筋の強い赤身。
荷車で村へ運び込んだ魔物の肉に見えた。
断言できるほど、恒一はあの魔物を食材として見ていない。
けれど老人が肉を指し、額へ拳を二つ当てて角のように見せた。
次に恒一を指す。
老女が槍を突き出す仕草をした。
間違いなかった。
恒一が倒した魔物だった。
肉は村へ渡したつもりでいた。
その一部が、仕事をしている自分の椀へ戻ってきた。
恒一はもう一度頭を下げる。
老人は気にするなというように手を振った。
老女は恒一の椀を指し、口へ運ぶ仕草をする。
食べろ。
今度は迷わない。
木匙で肉を崩す。
長く煮込まれた赤身は、見た目より柔らかかった。
獣臭さは残っている。
根菜の甘みと、少量の塩がそれを抑えていた。
身体へ熱が戻る。
空腹を満たすだけではない食事だった。
同じ鍋から取り分けられ、同じ井戸の縁で食べている。
森へ入る前の恒一なら、当たり前だと思っていたかもしれない。
いまは、その当たり前が重かった。
あかりは恒一の隣に浮かび、湯気を見ていた。
彼女の前には椀がない。
匂いを感じられるのかも分からない。
食事を必要とするのかさえ、まだ分かっていない。
恒一が椀を僅かに彼女へ向ける。
あかりは肉を見てから、恒一を見る。
小さく首を横へ振った。
拒絶なのか、食べられないという意味なのかは判断できない。
恒一は椀を戻した。
契約から届いたのは、空腹ではなく、穏やかな感情だった。
それだけを受け取る。
井戸の石へ置かれた杯は、誰にも飲まれないまま光を映していた。
◇
午後には、板の下の泥をほとんど取り除くことができた。
詰まっていた細い溝へ水を流す。
最初は茶色い泥水が溢れた。
老人と恒一が枝で詰まりを崩すと、水は村の外周へ向かう浅い溝へ流れ始めた。
少年が声を上げる。
井戸の周りにいた女たちも、こちらを見て何かを言った。
恒一には一語しか拾えない。
水。
同じ音が何度も使われていた。
老人が外した板を戻す。
今度は持ち上げたときほど重くない。
恒一が右端を支え、老人が左端を落とす。
板は三本波を隠さず、そのすぐ脇へ収まった。
印は作業のために刻まれた目印ではなかった。
少なくとも、板の下へ隠すためのものでもない。
水が細い溝を流れるたび、三本の線の窪みだけが濃くなる。
あかりの右腕は、昼前より薄くなっていた。
水へ触れる前と、ほとんど変わらない。
指の形は保っている。
肘から先も消えてはいない。
ただ、短い安定が終わったことは見て分かった。
胸元の亀裂も残ったままだ。
恒一は落胆を顔へ出さないようにした。
完全に戻らなかったことより、一度は変化したことを覚えておく。
水だけで起きたのか。
三本波のある井戸だから起きたのか。
老女の祈りや、杯が関係したのか。
確かめるには、知らないことが多すぎた。
それでも手掛かりではある。
森を抜けるまで、あかりの傷に変化を与えたものは一つもなかった。
恒一は三本波の形を目へ焼きつけた。
上の短い線。
中央の線。
下の長い線。
細部を覚える必要はない。
森の石にあったものと、同じ三本だった。
違うのは、それを断つような斜めの線がないことだけだ。
◇
太陽が柵の向こうへ傾いたころ、白い髭の男が井戸へ来た。
作業をした老人から話を聞く。
流れ直した溝を見る。
戻した板を踏み、ぐらつきがないことを確かめる。
最後に恒一へ向き直った。
男は指を三本立てた。
その手を空へ向け、太陽が昇って沈む動きをする。
小屋を与えられた日に見たものと同じ仕草だった。
恒一の胸が僅かに沈んだ。
三日。
最初から、永住を認められたわけではないと分かっていた。
仕事をすれば寝場所と食事をもらえる。
その約束が三日分だったとしても、不当ではない。
むしろ、素性も分からず言葉も通じない男を置いた方が長い。
恒一は白い髭の男へ頭を下げた。
「ありがとう」
男が眉を寄せる。
恒一は小屋の方角を指した。
次に自分の荷物を背負う仕草をする。
村の門を指し、歩く動きを見せた。
白い髭の男の眉間の皺が深くなる。
強く首を横へ振った。
恒一の腕を取ろうとして、左肩の負傷に気づき、右の袖を掴む。
そのまま小屋へ向けて歩き出した。
恒一は引かれるまま後へ続く。
あかりもすぐ横を進んだ。
彼女からは不安が届いていた。
恒一と同じ理由で不安なのかは分からない。
村を出ることか。
男の険しい顔か。
井戸から離れることかもしれない。
恒一は意味を当てはめず、距離だけを確かめた。
小屋の中には、朝まとめた荷物が残っている。
二冊の薄い教本。
結び目を付けた紐。
乾かしていた布と、僅かな木の実。
恒一が荷物へ右手を伸ばすと、白い髭の男が先に持ち上げた。
そして寝台の中央へ戻す。
三本の指を立てる。
今度は、その三本を一本ずつ折った。
最後に両手を払う。
終わった。
そう見える。
男は戸口から外を指した。
沈みかけた太陽へ手を向ける。
次に反対側から太陽が昇る動きをした。
明日。
井戸の方角を指す。
薪置き場を指す。
柵の縄で仮留めされた箇所を指す。
仕事を示すときに、村人たちが使う音を口にした。
最後に小屋と恒一を交互に指す。
恒一はすぐには頷かなかった。
理解したつもりで間違えることを、今日だけでも何度か繰り返している。
自分を指す。
寝台を指す。
両手を重ねて頬へ当てる。
次に、明日の太陽を示す動きを真似た。
井戸を指す。
「ポチ。仕事」
白い髭の男が大きく頷いた。
恒一はもう一度、小屋と自分を指す。
男は呆れたような顔で、寝台の荷物を手の甲で二度叩いた。
置いておけ。
少なくとも、今夜持って出る必要はない。
明日の朝も、仕事をするため村にいていい。
分かったのはそこまでだった。
滞在が何日延びたのかは分からない。
井戸の修理が終わるまでかもしれない。
次の判断まで一日ずつなのかもしれない。
それでも、三日が終わったから出ていけという意味ではなかった。
恒一は胸へ右手を当て、深く頭を下げた。
「ポチ。仕事。ありがとう」
最後だけ日本語になった。
白い髭の男には分からない。
けれど、男は恒一の肩を叩こうとして、また左肩を避けた。
右腕を一度だけ強く叩く。
小屋を出ていった。
あかりから届いていた不安が、ゆっくり薄れる。
代わりに、柔らかな温度が胸へ広がった。
恒一は彼女を見る。
「明日も、ここにいていいみたいです」
言葉の内容が伝わったとは思わない。
それでも声にした。
あかりは寝台に置かれた荷物を見る。
次に恒一を見る。
僅かに頬を緩めた。
その表情と流れ込んでくる安堵だけで、今は十分だった。
◇
夜になってから、恒一は炉のそばへ座った。
薪を一本だけ入れる。
炎を大きくする必要はない。
昼の仕事で身体にはまだ熱が残っていた。
右脚の布を巻き直す。
左肩は朝より少し痛む。
板を持ち上げたことを考えれば当然だった。
あかりは寝台の端に浮かび、教本を見ている。
本へ触れているように見えるが、頁は動かない。
恒一は炭の細い欠片を取り出した。
床へ置いた板の裏へ、井戸で見た形を描く。
緩く曲がる線を三本。
上は短く。
下は少し長く。
正確な文字を書き写すつもりはなかった。
あの形が三本の波に見えたことだけ残せればいい。
その隣へ、斜めの一本を重ねた形も描く。
森で見た石の印。
細部は違っているかもしれない。
それでも二つを並べると、差は明確だった。
井戸の印。
森の印。
同じ三本波。
片方だけに、斜めの線がある。
あかりが板へ近づいた。
斜線のない方を見る。
次に、斜線のある方を見る。
胸から流れ込んできたものは、昼と同じではなかった。
井戸の印には、引かれる感覚があった。
森の印には、張りつめるような警戒が混じる。
そう感じただけで、二つの意味が分かったわけではない。
恒一は板の端へ小さく印を付けた。
今日。
自分にだけ分かる記録だった。
そのとき、視界の端へ半透明の表示が開いた。
配信の開始を待つ窓。
森を歩いていたころより、表示される項目は僅かに増えている。
ただし、欲しい機能はまだ灰色のままだった。
【自動翻訳字幕:未開放】
条件を示す部分は伏せられている。
配信の段階が足りないことだけは、以前の表示から分かっていた。
恒一は字幕の項目を閉じる。
ないものを待っても仕方がない。
配信を始めた。
視界の隅へ、小さな赤い印が灯る。
視聴者へ届く映像と、恒一へ返ってくる反応には十五分のずれがある。
いま現れる言葉は、十五分前の恒一が井戸から戻る途中に見せた景色へのものだった。
《村に戻れた》
《今日は追い出されなかったっぽい?》
《じいさん荷物を寝台に戻してたから延長だと思う》
《言葉分からないの、見てる側も同じなの地味にきつい》
《でも仕草だけでだいぶ読めるようになってきた》
字幕はない。
村人の言葉は、視聴者にも村人の言葉のまま届いている。
恒一が拾えた単語を日本語で口にしないかぎり、正しい意味は誰にも分からない。
それでも、最初から見続けている者は場面を比べ始めていた。
同じ音が水を運ぶときに使われた。
別の音は、仕事を示す仕草と一緒に何度も出た。
そうした断片を、過去の配信まで遡って並べているらしい。
正解を知る者はいない。
一つの音へ複数の推測が付く。
翌日には、その推測がまた崩れる。
翻訳ではなかった。
理解できない番組を、理解できないまま追い続けるための遊びに近い。
恒一は床の板を持ち上げた。
「今日は、村の井戸でこれを見つけました」
斜線のない三本波を指す。
次に、隣の斜線を重ねた方を指した。
「こっちは、村へ来る前に森で見たものです」
あかりがすぐ横から板を覗く。
恒一は彼女へ視線を向けた。
「あなたも何か感じているようですが、僕には意味までは分かりません」
あかりから届いたのは、僅かな緊張だった。
言葉への返事ではない。
板の二つの印を見た反応かもしれない。
恒一はそう考えるだけに留めた。
配信へ映した板を床へ戻す。
すぐには反応がない。
十五分前の映像へ向けた言葉が流れ続ける。
恒一はそのあいだ、教本を開いた。
最初の頁に描かれた絵を指し、覚えた音を声にする。
水。
桶。
置く。
待つ。
発音が正しいかは分からない。
昼に少年から直された音だけは、朝より少し近づいたはずだった。
あかりが頁を見ている。
彼女に教えているわけではない。
恒一自身が忘れないため、声へ出している。
やがて、視界の端を流れる言葉が一度に増えた。
十五分前に板を見せた場面が、視聴者へ届いたのだ。
《あれ?》
《三本波、前にも映ってなかった?》
《見覚えある》
《ちょっと待って録画見てくる》
《形はかなり近い。完全一致かは画角が悪くて分からん》
《井戸=水だから三本波は水の印?》
《それなら森の方は水禁止?》
《禁止じゃなくて壊れてる、枯れてる、封印済みとかもある》
《現地語も読めないのに断定するな》
《断定はしてない。考察だ》
恒一は流れる文字を追った。
自分と同じところに気づいた者がいた。
それ以上の答えを持つ者はいない。
過去の映像を見直せる分、視聴者の方が形を比べるには有利だった。
けれど、井戸の祈りも、森の恐れも、字幕へ変わることはない。
村人が何と呼んだのか。
老女が杯を誰へ置いたのか。
三本波へ斜線を加えることが、何を意味するのか。
分からないものは、画面の向こうでも分からないままだった。
それでも配信には、数人の名前が長く残っている。
毎回、音を拾う者。
過去の場面を探す者。
地図らしきものを作り、恒一が歩いた距離を数える者。
翻訳がなくても離れず、分からなさごと見続けている者たちだった。
恒一は彼らを知っているわけではない。
画面へ現れる名前と、短い言葉しか知らない。
それでも十五分遅れて届く反応が、いまでは村の外に残る唯一の人の声だった。
恒一は斜線のない三本波へ炭を足した。
その下へ、土の杯の形を描く。
上手な絵ではない。
記録として残ればいい。
あかりは杯の絵を見つめた。
右腕の輪郭は、もう昼前と同じ薄さへ戻っている。
けれど完全に消えてはいない。
明日も井戸へ行ける。
もう一度水へ触れさせるべきかは分からない。
負担があるなら、繰り返さない方がいいかもしれない。
まずは今日と同じ変化が起きる条件を見極める。
恒一は教本を閉じ、板を壁際へ立てかけた。
井戸には、三本の波だけが残されている。
森では、その上へ一本の線が引かれていた。
知らない言葉が一つ減るより先に、知らなければならない形が一つ増えた。




