第87話 受け取る場所
補給網中枢の返送準備率は、九十九パーセント。
あと一パーセント。
けれど、何が足りないのかは分かりません。
誠司たちは中枢へ急ぐ前に、「帰ってくる荷物」を受け取るための準備を始めます。
朝になっても、配送帳面の表示は変わらなかった。
北方補給網中枢
返送準備率――九十九パーセント
誠司は水車町配送所の机に帳面を開いたまま、始業時刻を迎えた。
外では、赤い満タン便が朝日を受けている。
荷台はいつものように満たされていた。
飲料水。
保存食。
基本物資。
燃料も満タン。
異常はない。
それでも、配送所の空気は普段と違った。
ロウグは何度も帳面を確認し、エレナは北方から持ち帰った金属板を窓際の机に置いて調べている。
ガランは工具を並べながら、時折、北の方角へ目を向けていた。
「一パーセントくらいなら、叩けば動かんか?」
ガランが言った。
「機械ならな」
「叩かないでください」
エレナがすぐに振り返った。
「これは北方全域の街道を記録した資料です」
「本当に叩くわけじゃない」
ガランは太い指で金属板を示した。
「だが、九十九まで来て止まるってのは妙だ。壊れてるんじゃないのか?」
「故障なら、五十二から五十三へ上がった理由が説明できません」
ロウグが答えた。
「返送庫から木箱を運び出したことで、復元率が上がりました。中枢は私たちの行動を認識しています」
「だったら、次は何をすればいい」
誰も答えられなかった。
誠司は始業点検表へ視線を落とした。
燃料。
灯火。
タイヤ。
荷台固定。
運行経路。
受取人。
最後の項目で、手が止まった。
「受取人」
誠司が呟く。
ロウグが顔を上げた。
「どうしました?」
「北方から持ち帰った木箱は、水車町配送所宛てだった」
「はい」
「だから、ここで受領手続きをした。受取人を書いたら封印が外れた」
誠司は配送帳面の九十九という数字を見た。
「返送される物にも、受け取る場所が必要なんじゃないか」
エレナが金属板を持ち上げる。
「水車町配送所は、すでに存在しています」
「配送所はあります。でも、何が戻ってくるのか分からない」
誠司は室内を見回した。
積み上げられた荷物。
仕分け台。
帳面を置く机。
日常の配送を扱うには十分な場所だった。
だが、北方補給網中枢から戻ってくる物が、普通の荷物とは限らない。
大きいかもしれない。
壊れているかもしれない。
冷たいかもしれない。
危険ではなくても、扱い方が分からない可能性がある。
「今の配送所には、正体不明の返送品を受け取る準備がありません」
リアが頷いた。
「薬草でも、種類が分からないものは、普段の保管棚には入れません。一度分けて、匂いや毒性を調べます」
「食料なら?」
バシールが尋ねる。
「腐敗や虫を確認するまで、町の倉には入れられません」
サーラも口を開く。
「水だったとしても同じです。何が混じっているか分からない水を、給水所の水槽へ入れることはできません」
誠司は頷いた。
「受け取る場所を作りましょう」
「倉庫を増やすのか?」
「倉庫だけじゃありません」
誠司は紙を一枚広げた。
中央に四角を描く。
「まず、満タン便から荷物を降ろす場所」
その隣に、もう一つ四角。
「中身を確認する場所」
さらに三つ目。
「確認が終わるまで、一時的に置く場所」
四つ目。
「問題がなければ、種類ごとの倉庫へ送る」
ガランが紙を覗き込む。
「何が来るか分からんのに、どうやって広さを決める」
「最大の物に合わせるんじゃなく、広げられる形にします」
誠司は配送所の裏手を指した。
そこには、以前、荷車置き場として使われていた空き地がある。
水車町の街道に面し、満タン便もそのまま入れる。
「屋根は固定しません。柱を立てて、防寒布を張る。大きな荷物なら布を外せるようにする」
「床は?」
「水や油が漏れても、配送所へ流れ込まないように少し低くする。排水溝を作って、溜め桶へ送ります」
サーラが紙の端へ細い線を引いた。
「溜めたものは、確認が終わるまで水路へ流さないほうがいいですね」
「お願いします」
リアは確認場所の横を指した。
「人や動物が返送される可能性もあります」
一瞬、全員が黙った。
北方から持ち帰った金属板。
第一配送者の記録。
道の方角から名前を呼んだ声。
返送されるものが、道具や物資だとは限らなかった。
「横になれる寝台を用意しましょう」
リアが続けた。
「暖める場所と、冷たいまま保つ場所を分けます。凍傷なら急に温めてはいけない場合もあります」
カイルが北方で使われている毛布の寸法を書き込む。
「北から来るなら、氷に覆われている可能性がある。氷晶石を使った保冷区画も必要だ」
「冷たいものを、冷たいまま受け取るのか?」
ガランが尋ねる。
「温めて壊れる物もある」
「なるほどな」
一枚の紙に、線と四角が増えていった。
荷降ろし。
確認。
一時保管。
排水。
保冷。
保温。
記録。
返送品を受け取るための場所。
誠司は紙の上部に名前を書いた。
――返送受入所。
「受け取る人も決めましょう」
ロウグが言った。
「誰でも受け取れるようにすると、記録が混乱します」
「最初の確認は俺とロウグ」
誠司は答えた。
「中身に応じて、ガラン、リア、エレナに引き継ぐ。北方の品ならカイルにも確認してもらいます」
「夜に届いたら?」
バシールが尋ねる。
「当番を置きます。ただし、ひとりでは開封しない。必ず二人以上で荷姿を確認する」
「受領印は?」
「新しく作ります」
ガランがにやりと笑った。
「そいつは俺の仕事だな」
誠司は最後に、紙の右下へ一つの空欄を作った。
「返送理由」
「理由?」
「なぜ戻ってきたのかを記録します。宛先が見つからなかった。壊れていた。受取人がいなかった。間違った品だった」
誠司は北方から届いた木箱を思い出した。
「戻ってきた荷物には、戻ってきた理由があるはずです」
*
返送受入所の建設は、その日のうちに始まった。
急いで完成させるのではない。
まず、満タン便が安全に出入りできるかを確かめた。
空き地へ縄を張り、仮の入口を作る。
誠司が満タン便をゆっくり進めた。
ガランが外から車体と柱の位置を確認する。
「右、あと手のひら一つ」
ロウグが誘導する。
「そのまま。真っ直ぐです」
満タン便は仮設の荷降ろし場所へ入った。
前進で入り、前進で出られる。
切り返しは必要ない。
「吹雪の中なら、後ろを見る余裕がなくなるかもしれない」
カイルが言う。
「この形なら、運転手ひとりでも出られる」
「入口の幅はこれでいきます」
誠司は地面へ印を付けた。
ガランたちは柱を立てた。
屋根には、満タン便が北方探索の日に積んでいたものと同じ厚手の防寒布を使う。
布は革紐で留め、必要ならすぐに外せる。
側面の壁も固定せず、風向きに応じて開閉できるようにした。
サーラと水車町の職人たちは、床の排水溝を掘った。
溝の先には三つの桶を並べる。
一つ目で土や砂を沈める。
二つ目で油を分ける。
三つ目で液体を保管し、リアかサーラが確認するまで流さない。
「返送品が水を漏らすとは限りませんけど」
サーラは桶の高さを調整しながら言った。
「何も漏れないのが一番です。でも、漏れてから考えるよりはいいですね」
保管区画の一角には、氷晶石を収める石箱を置いた。
ガランが作った金属枠に氷晶石を入れ、直接荷物へ触れないようにする。
反対側には小さな暖炉と寝台。
二つの区画の間には、厚い木の板を挟んだ。
冷やす場所。
温める場所。
どちらにも決められない物を置く、中間の場所。
「随分と細かいな」
作業を手伝っていた町の男が言った。
「何が来るか分からないから、何にでも使えるようにするんです」
誠司は答えた。
「何でも受け入れる、じゃないんですね」
「はい。何でも同じように扱うと、かえって壊してしまいます」
夕方には、建物の形が見えるようになった。
完全な倉庫ではない。
立派な施設でもない。
けれど、満タン便が荷物を降ろし、確認し、必要なら人を休ませる場所ができた。
ガランは最後に、小さな鉄の受領印を持ってきた。
円の中に、二本の手が向かい合っている。
片方が渡す手。
片方が受け取る手。
「どうだ?」
誠司は印を持ち上げた。
ずっしりと重い。
「いい印です」
「配送ってのは、渡すほうばかり目立つだろう」
ガランは照れ隠しのように鼻をこすった。
「受け取る手がなきゃ、荷物は宙ぶらりんだ」
ロウグが新しい帳面の最初のページを開いた。
表紙には、エレナが文字を書いている。
――水車町返送受入帳。
最初の欄には、まだ何も記されていない。
「試してみましょう」
誠司は小さな木箱を用意した。
中身は空。
発送元は水車町配送所。
宛先は返送受入所。
返送理由は、受取人不在。
ロウグが読み上げ、ガランが荷姿を確認する。
誠司が受領欄に署名する。
最後に、新しい受領印を押した。
ごん、と低い音がした。
紙に、二本の手の印が残る。
同時に。
配送所の中から、淡い光が漏れた。
「帳面です!」
エレナが駆け込む。
全員が後に続いた。
机の上の配送帳面が、ひとりでにページをめくっている。
北方補給網中枢の表示。
九十九という数字が揺れた。
一度、消える。
新しい数字が浮かんだ。
北方補給網中枢
返送準備率――百パーセント
誰も声を上げなかった。
完成した。
あと一パーセント。
足りなかったものは、北方の設備ではなかった。
中枢へ向かう道でもない。
帰ってくる荷物を受け取る場所だった。
「中枢は、送り返す準備を終えていた」
ロウグが呟く。
「でも、送り先に受入所がなかった」
「だから止まっていたのか」
カイルが北を見た。
「届け先のない荷物は、出発できない」
誠司は百という数字を見つめた。
物を送るだけでは、物流は完成しない。
受け取る人がいる。
受け取る場所がある。
中身を確かめる。
必要なところへ引き渡す。
そこまで続いて、初めて一つの配送が終わる。
帳面に、新しい文字が現れた。
返送先を確認しました。
水車町返送受入所。
続いて、次の一行。
返送経路を照合中。
数字が表示される。
一。
二。
三。
ゆっくりと増えていく。
誰もその場を離れなかった。
二十。
三十五。
五十八。
七十一。
八十三。
九十四。
そして。
返送経路照合――完了。
その直後、満タン便の警笛が一度だけ鳴った。
短い音だった。
外へ出ると、赤い車体に異常はない。
エンジンも止まっている。
誠司は運転席を開けた。
鍵は抜いてある。
計器も消えていた。
ただ、助手席の上に一枚の紙が置かれていた。
さっきまで、そこには何もなかった。
紙は古くない。
雪にも濡れていない。
配送帳面に使われているものと同じ、わずかに灰色がかった紙だった。
ロウグが隣から覗き込む。
「返送送り状です」
「読めるか?」
「はい」
ロウグの表情が変わった。
「発送元、北方補給網中枢」
誠司は続きを待った。
「返送先、水車町返送受入所」
そこまでは予想できた。
問題は、その下だった。
「返送品分類……人員」
風が、返送受入所の防寒布を揺らした。
ガランが近づく。
「人?」
ロウグは紙を持つ手に力を入れた。
「荷姿、低温休眠容器」
リアが息を呑んだ。
「生きているということですか?」
送り状には、まだ続きがあった。
ロウグが読み上げる。
「状態――生命反応あり」
誰も言葉を発しなかった。
第一配送者が北端で聞いた、自分の名を呼ぶ声。
中枢から帰ってくる荷物。
返送品の分類は、人員。
誠司は送り状の最後の欄を見た。
受取人。
そこには、はっきりと名前が書かれていた。
田村誠司。
「俺が、受取人……」
その下に、小さな文字がある。
ロウグが読み取る。
「回収便の到着を待つ」
カイルが眉を寄せた。
「中枢から、ここへ送られてくるんじゃないのか?」
誠司は首を横に振った。
「違う」
返送品は準備されている。
送り先も決まった。
だが、それだけでは荷物は動かない。
雪原の街道は、まだ途中までしか整備されていない。
「こちらから取りに行く必要があるんだ」
回収便。
荷物を届けるための便ではない。
帰ってくるものを迎えに行く便。
エレナは金属板の削り取られた部分を見た。
「中枢の場所は、まだ分かりません」
「誘導線があります」
カイルが答える。
「雪崩跡の先へ続いていた」
「まず雪崩跡までの道を整えます」
誠司は送り状を折らず、慎重に受入帳の上へ置いた。
「人が入った容器なら、傾けられないかもしれない。振動にも弱い可能性がある。荷台の固定方法と温度管理も必要です」
ガランが腕を組む。
「容器の大きさも分からんぞ」
「分からないものを運ぶ準備をします」
「また細かい仕事になりそうだな」
「お願いします」
ガランはしばらく誠司を見たあと、笑った。
「それを言われちゃ、断れん」
リアは必要な薬と毛布を書き出し始めた。
カイルは北方までの人員交代表を考える。
エレナは金属板と古地図を並べた。
ロウグは新しい送り状を、一字も誤らないよう受入帳へ写していく。
誠司は満タン便の荷台を開いた。
明日の朝には、また荷物が満タンになる。
けれど次に北へ向かうとき、必要なのは届ける荷物だけではない。
空けておく場所。
揺れを防ぐ固定具。
温度を保つ設備。
そして、誰かを無事に連れて帰るための道。
「急がない」
誠司は静かに言った。
全員の手が、一瞬止まった。
「相手が人なら、なおさらです。必ず連れて帰れる準備をしてから出ます」
その夜。
配送帳面に、新たな記録が浮かんだ。
第一配送記録・北方第十八便
私は、届ける場所ばかり作っていた。
返す場所がないことに気づいたときには、もう遅かった。
中枢は、私に尋ねた。
「あなたは、誰を帰したいのですか」
私は、自分の名前を書かなかった。
記録の下に、返送品の詳細が表示された。
返送品番号――北方一号
分類――人員
状態――生命反応あり
回収先――北方補給網中枢
受取人――田村誠司
最後の一行だけが、わずかに遅れて現れた。
登録名――第一配送者ではありません。
誠司は、その文字を見つめた。
中枢に眠っているのは、第一配送者ではない。
では。
第一配送者は、誰を帰そうとしていたのか。
水車町に返送受入所が完成し、補給網中枢の返送準備率は百パーセントとなりました。
不足していた一パーセントは、荷物を送り出す設備ではなく、帰ってきたものを受け取る場所でした。
中枢で待っている返送品は、生命反応のある「人員」。
しかし、その登録名は第一配送者ではありません。
次回、誠司たちは北方回収便の準備を始めます。




