第86話 雪原の三本線
補給網中継器の稼働率は、五十二パーセント。
北方のどこかに「補給網中枢」が存在する可能性が高まるなか、誠司たちは冬季中継所から先の調査を始めます。
けれど誠司が最初に作ろうとしたのは、中枢へ向かう道ではありませんでした。
夜明け前の冬季中継所は、音という音を雪に吸い込まれていた。
屋根の端に積もった雪が、ときおり小さく崩れる。
さらさら、と。
それだけが、夜と朝の境目を知らせる音だった。
田村誠司は厚手の上着の襟を立て、赤いトラックの周囲をゆっくり歩いた。
まず、右前輪。
しゃがみ込み、手袋をした手でタイヤの側面を押す。傷はない。雪の噛み込みも少ない。
続いて左前輪。
車体の下に氷の塊ができていないかを確認し、灯火類を一つずつ点検する。
「前、点灯します」
運転席に座ったロウグが、合図に応じて灯りをつけた。
白い雪面に、二本の光が伸びる。
「右、よし。左、よし」
誠司は後ろへ回った。
排気口。
荷台の扉。
固定金具。
燃料。
飲料水。
いつもの順番で、いつものように確かめる。
どこへ行く日でも、始まりは同じだった。
目的地が近くても。
未知の場所でも。
「異常なしです」
ロウグが運転席から降りてくる。
その肩には、昨夜よりも厚い毛皮が掛けられていた。
「今朝は特に冷えますね」
「ああ。指先の感覚がなくなる前に、こまめに休憩を入れよう」
誠司はそう言って、荷台の扉に手をかけた。
毎朝、必ず満タンになる荷台。
今日も中には、飲料水と保存食、燃料缶、それに基本的な生活物資が隙間なく積まれているはずだった。
金具を外し、扉を開く。
冷えた朝の空気が、荷台の中へ流れ込んだ。
誠司は、しばらく黙った。
「どうしました?」
ロウグが横から覗き込む。
荷台には確かに、いつもの飲料と保存食があった。
だが、それだけではなかった。
一番手前に、厚手の防寒布が何枚も畳まれている。
その奥には、先端を尖らせた金属製の杭。
長い縄。
携帯用らしい小型の燃焼炉。
そして、青く塗られた三本の細長い標識棒。
「これは……」
ロウグが一本を持ち上げた。
棒の側面には、見慣れない古い文字が浅く刻まれている。
「読めるか?」
「少し待ってください」
ロウグは指で雪を払い、刻まれた文字を目で追った。
やがて、ゆっくりと読み上げる。
「前だけを、見るな」
その声に、冬季中継所から出てきたガランが足を止めた。
「なんだって?」
ロウグは続きを読んだ。
「帰る道を、先に作れ」
風が吹いた。
雪の粉が舞い上がり、赤い車体の横を白く流れていく。
ガランが標識棒を受け取り、重さを確かめる。
「ずいぶん頑丈だな。雪に打ち込むためのもんだ。先も硬く焼いてある」
「満タン便が、今日の仕事を知っていたのでしょうか」
ロウグが小さな声で言った。
誠司は荷台の奥を見た。
防寒布。
杭。
縄。
燃焼炉。
標識棒。
どれも、これから北へ向かう者に必要な品だった。
けれど、それが満タン便の意思によるものなのか。
補給網の仕組みによるものなのか。
それとも、誰かが遠い昔に決めた積み荷なのか。
今はまだ分からない。
「分からないことは、分からないままにしておこう」
誠司は言った。
「使い道は分かります」
「そうですね」
「今日は中枢を探しに行くんじゃない」
ガランとロウグが、誠司を見る。
「帰ってこられる道を作りに行く」
誠司は青い標識棒を荷台へ戻した。
「目的地を見つけるより先に、次も同じ場所へ行けるようにする。それが今日の仕事だ」
間もなく、エレナとカイルも中継所へやってきた。
出発前の打ち合わせは、暖炉のある小部屋で行われた。
床の上には、持っていく予定の荷物が並べられている。
保存食。
薪。
毛布。
除雪用の道具。
修理工具。
予備の車輪部品。
古地図。
記録用の帳面。
薬。
縄。
カイルは腕を組み、荷物を見下ろした。
「食料は、もう少し多いほうがいい。北では天候が変われば、一日が三日になる」
「薪もだ」
ガランが言う。
「燃焼炉があるとはいえ、あれだけに頼るのは危ない。工具も一式じゃ足りん。鉄が冷えると、普段なら折れないところが折れる」
「古文書も持っていきたいです」
エレナが数冊の分厚い本を抱えていた。
「北端線について書かれた資料は、まだ整理しきれていません。現地で照合できれば――」
全部を積めば、安全に見えた。
足りないものはない。
けれど荷台の余裕もなくなる。
誠司は床に、三本の縄を横一列に置いた。
「荷物を分けます」
一番左を指す。
「必ず使うもの」
真ん中。
「使う可能性が高いもの」
最後に、一番右。
「念のためのもの」
カイルが眉を寄せた。
「念のための物が命を救うこともある」
「あります」
誠司は否定しなかった。
「だから、持っていかないとは言いません。ただ、全部を一度に運ぶ必要があるかを考えたいんです」
「どういうことだ?」
「途中に置きます」
誠司は地図を広げた。
冬季中継所から北へ伸びる、途切れた一本の線。
「今日の作業範囲は、ここから半日で戻れる地点まで。その途中に使える小屋か、風を避けられる場所があれば、食料と薪を分けて保管します」
「補給地点を作るのか」
「はい。一回の探索で全部を持つんじゃなく、何度も使える場所を途中に作る」
誠司は保存食の袋を二つに分けた。
「荷台を満杯にすると、帰りに何も載せられません。怪我人が出るかもしれない。道具を回収するかもしれない。何か見つかるかもしれない」
エレナは抱えていた本を見下ろした。
少し迷ったあと、最も薄い一冊だけを残して、ほかを机へ置いた。
「地図と、北端線の記録だけにします」
ガランも工具箱を開け、似た大きさの金槌を一本取り出した。
「こいつは置いていく。代わりに柄だけ積む。頭が割れても交換できる」
カイルはまだ納得しきれない表情だった。
「北では、持っている物の多さが命を守る」
誠司は頷いた。
「持ちすぎて動けなくなることもあります」
「……」
「途中に置いて、何度でも使える形にしましょう。今回だけ帰ってくるためじゃなく、次の便も、その次の便も使える形に」
暖炉の薪が、ぱちりと鳴った。
カイルは地図を見つめたあと、保存食の袋を一つ減らした。
「代わりに、保管場所の目印を目立たせよう」
「お願いします」
「雪が降れば、屋根ごと隠れる。旗が必要だ」
「満タン便が、ちょうど三本用意してくれています」
ロウグが青い標識棒を示した。
ガランが笑った。
「まるで、こっちの話を聞いてたみたいだな」
誠司は返事をしなかった。
ただ、出発前の確認表に一つ書き加えた。
――荷台余裕、三割。
それが今日の安全の一つだった。
*
冬季中継所を出た満タン便は、北砦を越え、雪の集落を抜けた。
集落の人々が使う道は、そこで終わっていた。
その先には、誰も踏んでいない雪原が広がっている。
空と地面の境目さえ、白く溶けていた。
満タン便は低い唸りを上げながら進んだ。
速度は出さない。
誠司はハンドルを両手で握り、雪面のわずかな凹凸を見逃さないようにしていた。
隣ではロウグが方角と距離を記録している。
後部では、ガランとカイルが左右の雪面を確認していた。
エレナは古地図を膝に広げ、窓の外の山並みと見比べている。
一時間ほど進んだところで、車体が小さく沈んだ。
誠司はすぐにアクセルから足を離した。
それ以上、踏み込まない。
「止まります」
満タン便は、雪を押し分けたまま静かに停止した。
誠司は車を降り、前輪の前にしゃがみ込んだ。
雪の下が柔らかい。
ここから先は、車体の重さで沈む可能性が高かった。
「押し切れそうか?」
カイルが尋ねる。
「今なら進めるかもしれません」
誠司は答えた。
「でも、戻るときは分かりません」
天候が変われば、同じ雪ではなくなる。
風向きが変われば、車輪の跡は一刻も経たず消える。
誠司は首を横に振った。
「ここまでです」
「まだ午前だぞ」
「だから止まれます。暗くなってから止まる場所を探すよりいい」
ガランが荷台から長い鉄棒を持ってきた。
雪へ差し込む。
深く入ったところで、硬い音がした。
こつん。
ガランは場所を変え、もう一度差し込む。
こつん。
さらに少し横へ。
こつん。
「石だな」
雪を掘ると、平らな石の表面が現れた。
自然の岩ではない。
人の手で並べられた舗装石だった。
「道です」
エレナが膝をつき、石の縁をなぞった。
周囲の山を見上げ、地図へ視線を落とす。
「この角度で北東へ伸びているなら、北端線と一致します。第一配送者の記録に出てくる、最も北の街道です」
「この下全部が道なのか?」
カイルが雪原を見渡す。
「おそらく」
「全部掘り返していたら、春になるな」
ガランが鼻を鳴らした。
誠司は雪面に立ち、道幅を測った。
舗装石の端から端まで。
満タン便の車輪幅。
人が安全に歩ける幅。
「全部は除雪しません」
誠司は棒で雪面に線を引いた。
「車輪が通る二本と、人が歩く一本だけにします」
左右に二本。
その中央に一本。
「中央は点検用か?」
「はい。車を動かす前に人が歩いて、穴や崩れがないか確認できるようにします」
ガランが笑う。
「三本線か。分かりやすくていい」
作業が始まった。
左右の二本は、満タン便の車輪が通るための線。
中央の一本は、人が歩くための線。
雪かきで掘りすぎない。
舗装石の表面が見える直前で止める。
深く掘れば、左右から雪が崩れ込む。
浅すぎれば、車輪が滑る。
誠司は何度も幅を測り、ガランとカイルが雪を押し分けた。
ロウグは除雪した距離を帳面へ記録する。
エレナは古地図に、現在地と道の向きを書き込んだ。
午前の光の中で、白い雪原に三本の線が少しずつ伸びていく。
長い距離ではない。
振り返れば、満タン便の赤い車体がまだ近くに見える。
それでも、何もなかった雪原に、確かな道が生まれていた。
誠司は青い標識棒を雪へ打ち込んだ。
進行方向から見える側には青い布。
戻る側には白い布を結ぶ。
「白い布は雪に紛れないか?」
カイルが尋ねる。
「近づけば見えます。青が見えるうちは前向き。白が見えたら中継所へ戻る向きです」
「吹雪の中で向きを間違えないためか」
「はい。行きと帰りで見える色を変えます」
カイルは標識を回り込み、両側から確かめた。
「単純だな」
「単純なほうが、疲れていても使えます」
一本目。
さらに進んで、二本目。
その先に、雪からわずかに突き出た黒いものが見えた。
屋根の端だった。
五人で周囲の雪を取り除くと、小さな石造りの建物が現れた。
屋根の半分は崩れ、扉は外れている。
だが、壁は残っていた。
床も固い。
風を避けるには十分だった。
「古い印があります」
エレナが内壁の隅を指した。
四角の中に、左向きの矢印が描かれている。
その下には、第一配送者の帳面で見たものと似た文字が刻まれていた。
ロウグが読み上げる。
「返送庫」
「返送?」
ガランが首を傾げる。
エレナは壁のくぼみを調べた。
「届けられなかった荷物や、回収した品を一時的に置くための施設だと思います。次の便が来たとき、元の配送所へ戻すための場所です」
「置いていくためじゃなく、持って帰るための倉庫か」
「はい」
誠司は小屋の中を見回した。
風は防げる。
床も乾いている。
補修すれば、仮設の保管所として使える。
「ここを今日の到達点にしましょう」
「まだ先へ行けるぞ」
エレナが言った。
その声には、北端線を見つけた興奮が残っていた。
「行けます」
誠司は答えた。
「でも、ここを使えるようにしてからです」
ガランが満タン便から防寒布と金属杭を運んできた。
崩れた屋根の穴に布を張り、外側から杭で固定する。
完全な修理ではない。
雪の重さに耐え続けるものでもない。
それでも、次の便まで風雪をしのぐことはできる。
カイルは薪と保存食を壁際へ置いた。
薬と予備の毛布も一組ずつ。
ロウグは帳面に品目と数を書き込む。
しかし誠司は、しばらく考えたあと、小さな石板を取り出した。
「文字が読めない人でも使えるようにしましょう」
保存食は、丸い器の印。
薪は、枝を三本。
布は、折り重なった四角。
薬は、小さな瓶。
それぞれの横に、置いてある数だけ線を引く。
持ち出した者は、その線を削る。
補充した者は、線を足す。
「これなら数だけは分かる」
カイルが石板を見た。
「名前を書かなくてもいいのか?」
「救援用の物資です。誰が使ったかより、あと何個あるかが分かるほうが大事です」
「持ち逃げされたら?」
「そのときは、次の便で不足が分かります」
誠司は壁際の保存食を見た。
「信じるだけじゃなく、確認できる形にしておく。両方が必要です」
最後に、三本目の標識棒を小屋の横へ立てた。
青い布が、北風の中ではためく。
冬季中継所から北へ。
最初の補給地点ができた。
その瞬間だった。
小屋の奥で、ガランが床を踏み鳴らした。
「ここだけ音が違うぞ」
石板をずらすと、その下に浅い空間があった。
中には、油紙に包まれた木箱が収められている。
両手で持てるほどの大きさ。
けれど、持ち上げてみると驚くほど軽い。
振っても音はしない。
箱の側面には、古びた配送印。
そして、見慣れない印が押されていた。
左向きの矢印。
返送の印だった。
「宛名があります」
ロウグが雪と埃を払い落とした。
古い文字を、一字ずつ確かめる。
「北方補給網中枢管理所より――」
その場にいた全員の動きが止まった。
ロウグは息を整え、続きを読んだ。
「水車町配送所へ返送」
小屋の外で、風が唸った。
エレナが木箱へ近づく。
「補給網中枢管理所」
「書いてあるな」
ガランが低く言った。
「中枢は、本当にあったのか」
「少なくとも、この箱を送った者は、そう名乗っています」
ロウグが答える。
エレナは箱の封印を見つめた。
「開けましょう。中枢の位置が分かるものが入っているかもしれません」
誠司は宛名を見た。
北方補給網中枢管理所より。
水車町配送所へ。
長い年月、返送庫に置かれていた荷物。
本来なら、誰かが持ち帰るはずだったもの。
「ここでは開けません」
「でも――」
「宛先は水車町配送所です」
誠司は木箱を両手で持った。
「荷物には、開ける場所まで含めて行き先があります」
「何百年も前の荷物かもしれません」
「それでも、返送の途中です」
エレナは何かを言いかけたが、やがて口を閉じた。
「……分かりました」
木箱は、満タン便の荷台へ積まれた。
ロウグが返送品として帳面へ記入する。
発見場所。
荷姿。
封印の状態。
受取先。
記録を書き終えたとき、荷台の片隅に置いていた補給網中継器が低い音を立てた。
全員が振り返る。
表示されていた数字が、一度消える。
そして、再び浮かび上がった。
五十二。
その数字が揺れた。
五十三。
「上がった……」
エレナが呟いた。
「何も修理していないのに」
「何も、ではありません」
ロウグが木箱を見た。
「返送されるはずだった荷物を、配送経路へ戻しました」
補給網の復元とは、壊れた施設を直すことだけではない。
止まった荷物を、再び動かすこと。
誠司は五十三という数字を見つめた。
「物流が止まるっていうのは、道が壊れるだけじゃない」
木箱へ手を置く。
「届くはずの物が、途中に残ることでもあるんだ」
その後、一行は返送庫からさらに北へ短い偵察を行った。
歩いて進める範囲だけ。
満タン便は小屋の前に置き、中央の一本線を足で確かめながら進む。
やがて街道は、大きな雪崩の跡にぶつかった。
道の上に、山から落ちてきた雪と氷が積み重なっている。
簡単には除けられない。
だが、雪崩跡の向こう側に、三本の深い溝が見えた。
左右に二本。
中央に一本。
「俺たちが作った跡じゃないな」
ガランが雪へ手を入れ、幅を測る。
左右の間隔を確かめるため、一度小屋へ戻り、満タン便の車輪幅も測った。
結果は、ほぼ同じだった。
「第一配送者の荷車の跡でしょうか」
ロウグが言う。
「何年残っているんだ、そんな跡が」
カイルは中央の溝へ近づいた。
そこには青白い欠片が、一定の間隔で埋まっていた。
氷晶石だった。
「落としていったのかもしれません」
エレナが一つを拾う。
「吹雪の中で道を失わないように」
誠司は欠片の並びを見た。
一つ。
その先に一つ。
さらに同じ距離を空けて、一つ。
間隔が揃いすぎている。
誰かの荷物からこぼれたようには見えなかった。
「道の下に、何かあるのかもしれない」
携帯していた氷晶石を、中央の溝へ近づける。
最初の欠片が青く光った。
次の欠片へ光が移る。
さらに、その次へ。
青白い光が一つずつ順番に灯り、雪原の奥へ伸びていく。
まるで、進む方向を示すように。
「誘導線……」
エレナが立ち上がった。
遠く。
さらに遠く。
光は北へ続いていた。
雲は薄い。
風も、まだ強くない。
今なら進める。
そう思わせる空だった。
「このまま行けば、中枢まで辿れるかもしれません」
エレナの声が弾む。
「少なくとも、位置は絞れます」
カイルも空を見た。
「夕方までは持つ。明日からは崩れる可能性がある。進むなら今日だ」
ガランは雪崩跡を調べた。
「人なら越えられる。道具を置いていけば、向こう側を見て戻るくらいはできるぞ」
三人の言うことは正しかった。
今なら行けるかもしれない。
あと少しだけ。
次の丘まで。
次の灯りまで。
そうやって進んだ先に、補給網中枢があるかもしれない。
誠司は光の列を見た。
胸の奥が動く。
第一配送者が探していた場所。
満タン便が毎朝満たされる理由。
世界の補給網を支えていた中枢。
ここまで来て、背を向けるのは難しかった。
誠司は腕時計を見た。
予定していた撤収時刻まで、残りは少ない。
帰りには返送庫の記録を整え、三本線を確認しながら満タン便を戻さなければならない。
荷台には、水車町へ返すべき木箱がある。
雪崩跡の先には、標識もない。
補給地点もない。
満タン便が走れる道かどうかも分からない。
誠司は目を閉じた。
急がない。
続けられることが一番大事。
いつも口にしてきた言葉だった。
簡単な場面で言うだけなら、ただの標語になる。
先へ行きたいときに止まれるか。
答えは、こういうときに決まる。
「戻ります」
エレナが目を見開いた。
「誠司さん」
「今日はここまでです」
「でも、光はまだ続いています」
「はい」
「天候も安定しています」
「はい」
「だったら――」
「次もここへ来られるようにしてからです」
誠司は雪崩跡の向こうを見た。
青白い光は、変わらず北を示している。
「見つけることより、次もここへ来られることのほうが大事です」
誰もすぐには返事をしなかった。
やがてガランが、大きく息を吐いた。
「まったく。目の前に宝の地図があるってのに、帰るって言うんだからな」
そう言いながら、工具を取り出す。
「基準杭だけ打っていくぞ。次に来たとき、雪崩跡の高さを比べられるようにな」
カイルも頷いた。
「北砦から除雪要員を出す。だが、人数は増やしすぎない。返送庫を拠点に、交代で進める」
エレナは名残惜しそうに光の列を見た。
それから地図を開き、位置を書き込む。
「誘導線を確認。雪崩跡より北へ継続」
最後に、細く線を引き足した。
「次は、ここからですね」
「はい」
帰路。
雪原に作った三本線は、まだ残っていた。
青い標識棒の反対側に結んだ、白い布が見える。
一つ目。
二つ目。
そして返送庫の横に立つ三つ目。
進むときには青。
戻るときには白。
行きと帰りでは、同じ道でも見えるものが違った。
満タン便は、ゆっくりと三本線の上を走った。
冬季中継所へ戻ったのは、日が傾く少し前だった。
予定時刻より、わずかに早い。
「北方探索路、第一段階」
ロウグが帳面へ記す。
「冬季中継所から返送庫まで。標識三本。仮設保管所一か所。旧街道の一部除雪」
誠司は最後に付け加えた。
「帰路確認済み」
その一行が、今日の最も大切な成果だった。
*
数日後。
満タン便は、水車町へ戻った。
荷台には北方補給網中枢管理所から返送された木箱が積まれている。
知らせを聞いた仲間たちが、配送所へ集まった。
サーラ。
バシール。
リア。
北方に同行できなかった者たちも、木箱を遠巻きに見守っている。
誠司は配送台の上へ箱を置いた。
すぐには開けない。
まず、帳面へ記入する。
返送元。
発見場所。
運搬経路。
荷姿の状態。
封印の有無。
ロウグが宛名を読み上げる。
ガランが箱の角と底を確認する。
「破損なし。水濡れもない」
誠司は最後の欄へ、自分の名前を書いた。
受取人。
田村誠司。
水車町配送所。
その瞬間。
かちり、と小さな音がした。
誰も触れていないのに、木箱の封印が外れた。
エレナが息を呑む。
誠司はゆっくり蓋を開けた。
中に入っていたのは、一枚の薄い金属板だった。
荷物というより、地図に近い。
表面には、北方一帯の山と街道が細かく刻まれている。
冬季中継所。
北砦。
雪の集落。
返送庫と思われる四角い印。
そして、北の奥。
補給網中枢があると思われる場所だけが、丸く削り取られていた。
まるで、そこにあるものを地図から消そうとしたように。
ロウグが金属板を裏返した。
裏面には、短い文章が刻まれている。
「第一配送者の筆跡です」
配送帳面に残された記録と同じ癖。
同じ文字の傾き。
ロウグは読み上げた。
「中枢へ、荷物を届けてはならない」
室内が静まり返る。
続き。
「中枢から帰ってくる荷物を待て」
誠司は金属板を見つめた。
第一配送者は、補給網中枢を目指していた。
これまで、そう考えていた。
だが。
荷物を届けに行こうとしていたのではないとしたら。
中枢から何かが出てくるのを待っていたのだとしたら。
「何が帰ってくるんでしょう」
リアが小さな声で尋ねた。
答えられる者はいなかった。
誠司は空になった木箱の底へ目を向けた。
そこに、一滴だけ。
透明な水が付いていた。
指先で触れる。
冷たくない。
長い年月、雪に埋もれた返送庫に置かれていた箱。
凍りついていてもおかしくない。
それなのに、水滴は凍っていなかった。
その夜。
配送所の机に置いていた配送帳面が、淡く光った。
ひとりで記録を確認していた誠司は、椅子から立ち上がる。
何も書かれていなかったページに、文字が浮かび始めた。
――第一配送記録・北方第十七便。
誠司は黙って、その続きを読んだ。
荷物は、届ければ終わりではない。
帰ってくるはずのものを待つのも、配送の仕事だ。
私は北端で三日待った。
四日目、道のほうから私の名前を呼ぶ声がした。
文字は、そこで途切れた。
だが、ページの下に新しい欄が現れる。
これまで一度も表示されたことのない項目だった。
北方補給網中枢
返送準備率――九十九パーセント
誠司はページを見つめた。
誰が。
何を。
どこへ返そうとしているのか。
あと一パーセント。
補給網中枢では、何かが帰る準備を終えようとしていた。
北方探索路の最初の一区間が整備され、返送庫が新たな補給地点となりました。
中枢へ急ぐのではなく、まず帰る道を作る。
それが誠司たちの探索の始まりです。
しかし、補給網中枢の「返送準備率」は九十九パーセント。
次に北方で動き出すものは、荷物なのでしょうか。
それとも――。




