第108話 名前で会う便
第一配送者は、もう「第一配送者」だけではありません。
個人札に残されていた名前は、三浦直人。
北方一号もまた、荷札で呼ばれ続けてきた一人です。
二人は今日、事故を起こした運転者と被害を受けた人員としてではなく。
名前を持つ二人の人間として、初めて向き合います。
そして同じ日。
誠司たちは、満タン便そのものの始発点へ照会を送ることにしました。
「面会は、十分で切ります」
朝。
返送受入所と運行者用客室の中間にある、小さな休憩室。
リアは、壁の時計を指した。
部屋には椅子が二つ。
小さな卓。
水差し。
薄い茶。
それだけ。
事故報告。
配送帳面。
白糸の手紙。
満タン便の鍵。
そうした物は、一つも置かなかった。
今日は事故確認の場ではない。
聞き取りでも。
調査でもない。
二人が会う場所だった。
「どちらかが途中で止めたい場合は」
ロウグが机へ小さな白札を置く。
「これを伏せます」
言葉で止めてくださいと言えなくなったとき。
札を伏せるだけでいい。
伏せられたら。
理由を尋ねず面会終了。
「立ち上がって出ていく必要もありません」
リアが言った。
二人とも、まだ完全な体調ではない。
特に佐伯澪――。
いや。
今朝までは、まだ北方一号だった。
誠司は、その名前をまだ知らなかった。
「北方一号さんにも、同じ説明をしています」
サーラが確認票を見る。
「面会希望、あり。今日の面会、同意」
「直人さんは?」
「同意。時間制限も了承済み」
「話題の制限は?」
「ありません。ただし、事故について答えたくない場合は答えなくていいと伝えました」
同じことを。
北方一号側にも伝えている。
謝罪を受け入れる必要はない。
事故の記憶を話す必要もない。
相手を慰める必要もない。
会うと同意したことは。
何でも話すと同意したことではない。
「面会室までの移動は?」
直人は、杖があれば短い距離を歩ける。
だが。
今日は車椅子を使う。
体力を会う前に使い切らないため。
北方一号も。
移乗椅子。
二人は別の入口から入る。
先に一方を待たせない。
ほぼ同じ時刻に。
それぞれの担当が連れてくる。
「まるで荷物の同時引渡しだな」
ガランが言った。
誠司は首を横に振った。
「待たせる側を一人に決めないためです」
先に来た人が。
いつ来るのか分からない相手を見つめながら待つ。
それを避ける。
遅れる場合は。
面会そのものを少し後ろへずらす。
会う前から。
片方だけへ負担を載せない。
「誠司さんは入りますか」
ロウグが尋ねる。
「入りません」
室内には。
直人。
北方一号。
それから医療上の理由でリア。
三人だけ。
リアは。
会話へ参加しない。
体調だけを見る。
誠司たちは隣室。
声は聞かない。
呼ばれたときだけ入る。
「知りたいことは山ほどありますけどね」
ロウグが苦笑した。
「だから入らないほうがいい」
誠司が答えた。
質問したい者がいると。
二人の会話が。
二人だけのものではなくなる。
*
面会予定の十五分前。
直人は、客室で身支度をしていた。
灰色の作業服ではなく。
水車町で用意された簡素な上着。
前を紐で留める。
袖は少し長い。
「大きいですね」
ロウグが言う。
「ちょうどいいです」
直人は袖を折った。
「借り物だと分かるほうが」
個人札。
三浦直人。
それは首へ掛けなかった。
今日。
名前は。
札で示さない。
自分で名乗るつもりだった。
白糸の手紙は。
客室の鍵付き箱。
自分で保管している。
「持っていかなくていいんですか」
誠司が尋ねた。
直人は首を横に振る。
「今日は、手紙の答えを話す日じゃありません」
「答え?」
「まだ」
直人は少し笑った。
「俺の中でも、まとまっていないので」
聞かない。
誠司は。
それだけで会話を終えた。
一方。
返送受入所。
北方一号も。
面会準備をしていた。
薄い色の服。
返送庫の預かり手が送った覚醒後用品の一つ。
紐で大きさを調整できる。
髪は。
簡単に後ろへまとめられていた。
リアが、移乗椅子へ座らせる。
「今から面会室へ向かいます」
北方一号が頷く。
「途中で戻りたくなったら?」
「戻ります」
「部屋へ入ったあとでも?」
「戻ります」
「相手が話している途中でも?」
少し間。
「戻ります」
「十分です」
リアが笑う。
移乗椅子が動き出す。
*
面会室。
二つの扉。
同時に開いた。
直人。
北方一号。
二人は。
お互いを見た。
何も言わない。
直人の車椅子。
北方一号の移乗椅子。
向かい合わせ。
間に小さな卓。
リアだけが。
壁際に座る。
時刻。
開始。
直人が。
先に口を開いた。
「北方一号さん」
彼女は。
ほんの少しだけ。
首を横に振った。
「今日は」
掠れた声。
それでも。
以前よりずっと強い。
「その呼び方を、やめませんか」
直人の表情が止まる。
「はい」
彼女は。
自分で言った。
「佐伯澪です」
リアは。
記録を取らなかった。
ここは。
登録の場ではない。
直人は。
ゆっくり名前を繰り返した。
「佐伯……澪さん」
澪が頷く。
「はい」
少し。
間。
「三浦直人さん」
今度は。
直人の番だった。
彼も頷く。
「はい」
それだけで。
二人の間の空気が。
少し変わった。
第一配送者。
北方一号。
役目と荷札が。
部屋の外へ置かれたようだった。
直人は。
膝の上で両手を握る。
「事故のことを――」
澪が。
首を横に振った。
直人が止まる。
「今日は」
澪は言う。
「最初に、それを話さないでください」
直人は。
少しだけ息を呑んだ。
「分かりました」
謝罪を拒まれたわけではない。
事故を消されたわけでもない。
ただ。
順番を変えられた。
澪は尋ねる。
「鍵、返しましたか」
直人は。
予想していなかったように瞬きをした。
「返しました」
「二本、揃いました?」
「はい」
「よかった」
澪が。
ほんの少し笑う。
直人も。
小さく笑った。
「最初にそこなんですね」
「ずっと持っていたでしょう」
「そうみたいです」
「返せと言ったのは私です」
直人が目を上げる。
「覚えていません」
「でしょうね」
責める言い方ではなかった。
「満タン便の予備鍵を持ったまま、どこかへ行かないでくださいって」
澪が続ける。
「もし離れるなら、車両返却所へ戻してからにしてくださいって」
「俺は?」
「持ったまま行きました」
直人が。
両手で顔を覆う。
リアは動かない。
澪が。
少し笑った。
初めて。
はっきり。
「あれも事故報告に入れればよかった」
直人の手の隙間から。
小さな笑い声が漏れた。
「それは……本当にすみません」
「鍵については、許します」
「鍵だけ」
「鍵だけです」
二人とも笑った。
長くは続かない。
笑えば。
体力も使う。
リアが時計を見る。
まだ三分。
澪は水を一口。
直人も。
少し飲む。
直人が言った。
「帰着を受け取ってくれたと聞きました」
「はい」
「ありがとうございます」
「事故を許したという意味ではありません」
「分かっています」
即答だった。
「そこは、もう間違えません」
澪は。
直人を見る。
「なら」
少しだけ。
声が柔らかくなる。
「それで十分です」
直人は。
視線を落とした。
「俺は」
言葉を探す。
「帰っていいのか分からなかった」
澪は。
答えなかった。
直人が続ける。
「事故報告を書いたら」
「運転席を降りたら」
「もう満タン便を運転できなくなったら」
「何が残るのか分からなかった」
澪は。
少し考える。
「名前が残りました」
直人が。
顔を上げる。
「三浦直人」
澪が言った。
「それで、足りませんか」
直人は。
すぐには答えられなかった。
目元が。
少し赤くなる。
リアは。
白札を見る。
まだ伏せられていない。
直人は。
息を整えた。
「今は」
小さく答える。
「それで十分だと思います」
五分。
リアが。
二人へ見えるように指を五本立てる。
半分。
澪が尋ねた。
「水車町に残りますか」
「まだ決めていません」
「日本へ帰ります?」
「それも」
直人が。
少し笑う。
「まだ決めていません」
澪は頷く。
「それでいいです」
直人が。
同じ言葉を返す。
「澪さんは?」
「私も」
「次の行き先」
澪は。
窓の外を見る。
水車町の仕分け場。
荷車。
人。
遠くの風車。
「まだ決めていません」
直人が頷いた。
「それでいいですね」
「はい」
二人とも。
帰着した。
それでも。
次の行き先は。
決めなくていい。
帰ってきたから。
すぐ次の便へ乗る必要はない。
*
残り三分。
直人が。
一度。
白札へ目を向ける。
それから。
澪へ尋ねた。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
「答えるかは、聞いてから決めます」
「はい」
直人は言う。
「俺が名前を使わなくなった理由」
「覚えていますか」
澪は。
しばらく黙った。
「全部は」
「一部は?」
「あなたは」
澪は言葉を選ぶ。
「名前を呼ばれると、戻りたくなると言いました」
「どこへ?」
「日本へ」
直人の目が。
わずかに動く。
「でも、日本へ戻れば」
澪は続ける。
「まだ運んでいない荷物を置いていくことになると」
直人は。
何も言わない。
「だから」
澪が言う。
「名前を使わなくなった」
帰る場所を思い出さないため。
役目を終わらせないため。
「馬鹿ですね」
直人が呟く。
「はい」
澪は即答した。
直人が笑う。
澪も。
少し笑う。
「でも」
澪は言った。
「今は、名前を持っていてください」
「はい」
「次に何を運ぶか決める前に」
「はい」
「一度」
澪は。
ゆっくり息を整える。
「三浦直人として、休んでください」
直人は。
長く。
澪を見た。
「分かりました」
時計。
十分。
リアが。
白札を立てたまま。
「時間です」
二人とも。
反論しなかった。
直人が言う。
「また会えますか」
澪は。
少しだけ考える。
「明日は休みます」
「はい」
「明後日なら」
「分かりました」
次の約束。
その場で時刻までは決めない。
体調を見て。
翌日に確認する。
直人の車椅子が。
一方の扉から。
澪の移乗椅子が。
反対側から出る。
どちらも。
振り返らなかった。
今日。
十分で十分だった。
*
面会後。
二人の体調。
安定。
疲労あり。
休息。
面会記録には。
会話内容を書かなかった。
面会者――三浦直人、佐伯澪
開始――予定時刻
終了――十分後
中断――なし
体調悪化――なし
次回希望――双方あり
日時――未定
それだけ。
「内容は記録しないんですね」
ロウグが尋ねる。
「運行に必要ありません」
リアが答えた。
事故調査なら。
話した内容が必要。
だが。
個人的な面会。
すべてを配送帳面へ残す必要はない。
物流の記録が。
人の会話まで所有しない。
*
午後。
誠司たちは。
満タン便の製造元照会へ取りかかった。
昨夜判明した情報。
満タン便・帰還基準者
田村誠司
登録時刻――満タン便初回起動以前
登録元――満タン便製造時設定
製造地点――日本側
まず。
日本側へ問い合わせるためには。
車両を正確に特定する必要がある。
赤いトラック。
というだけでは足りない。
車台番号。
製造番号。
特装番号。
原動機番号。
それぞれ。
別の車体と取り違えないための情報。
「車台番号なら、普通は車体に打ってある」
ガランが言う。
日本の車両規格を。
完全に知っているわけではない。
だが。
満タン便を長く整備するうち。
番号らしき刻印はいくつか見つけていた。
「全部を一度に探しません」
誠司は車両仕様確認票を作った。
満タン便は。
今も優先車両。
分解調査のために。
一日使えなくしてはいけない。
今日。
確認するのは。
外から見える銘板と刻印だけ。
運転席扉。
エンジン周辺。
車体下の見える範囲。
荷台の特装銘板。
座席や床は外さない。
「三十分で終わらせます」
ガランが笑う。
「今日は短いな」
「番号を見るだけです」
「見つからなかったら?」
「明日、次の範囲」
調査も。
区間配送と同じ。
全部を一度に終わらせない。
*
最初。
運転席側の扉柱。
小さな金属板。
今まで。
塗料の下に隠れていた。
ガランが。
表面だけを布で磨く。
削らない。
刻印。
型式 K2-D
車台 K2D-0713
ロウグが写す。
紙を板へ当て。
薄く炭を擦る。
原本の刻印へ。
余計な傷を付けない。
次。
原動機。
番号。
E-0713-04
次。
荷台。
後方の下部。
小さな特装銘板。
こちらは。
異世界の泥と。
古い塗料に覆われている。
水は使わない。
乾いた木片で。
表面の汚れだけを落とす。
文字。
日本語。
誠司が読む。
特装車体番号 M-001
用途 補給・帰還支援
製造状態 仮登録
「仮登録?」
ロウグが言う。
製造済みの車体に。
仮登録。
さらに。
下部。
正式完成検査――未実施
ガランが。
思わず銘板を見る。
「こんなに走ってる車が?」
橋。
砂漠。
雪原。
豪雨。
何百年分にも見える異世界の記録。
それなのに。
製造銘板では。
完成検査すら終わっていない。
「日本側へ照会します」
誠司は言った。
「推測はそのあとです」
車台番号。
原動機番号。
特装番号。
三つ。
写真の代わりに。
写し。
刻印図。
寸法。
色。
現在状態。
照会票。
水車町車両照会第一号
対象車両――満タン便
車台番号――K2D-0713
原動機番号――E-0713-04
特装車体番号――M-001
日本側製造記録の照合を希望。
特に確認事項
製造者
完成検査日
帰還基準者設定の登録者
特装車体「補給・帰還支援」の仕様
「全部返事が来るとは限りません」
ロウグが言う。
「分からない欄は、分からないでいいです」
始発照会口へ。
送信。
車両そのものは。
すぐ通常状態へ戻す。
銘板へ保護布。
扉。
確認。
工具。
残置なし。
三十分。
予定内。
満タン便。
運行可能。
*
返事を待つあいだ。
直人は。
一度だけ車庫へ来た。
歩行補助具。
ロウグが付き添う。
満タン便の前で止まる。
「製造番号を調べていると聞きました」
「はい」
誠司が答える。
「何か覚えていますか」
「少し」
直人は。
荷台下の特装銘板を見る。
「これ」
「見たことが?」
「一度だけ」
「どこで?」
「日本側だったと思います」
記憶は。
まだ断片的。
断定しない。
「乗り始める前?」
直人は首を傾げる。
「違う」
しばらく考える。
「俺が満タン便を運転していた途中で」
誠司が眉を寄せる。
「日本側に戻ったとき?」
「……たぶん」
「そのとき、この銘板は?」
「仮登録でした」
今と同じ。
「完成検査を受けようとは?」
直人は。
苦い顔をした。
「受けようとしました」
「できなかった?」
「車を持っていったら」
直人は。
銘板を見ながら言う。
「まだ、その車は作っていないと言われた」
ロウグが。
筆を止める。
「作っていない?」
「同じ車台番号の車はあった」
「どこに?」
「工場です」
「満タン便があるのに?」
「はい」
直人は言った。
「向こうにも、同じ番号の車があった」
その記憶が。
どこまで正確か。
まだ分からない。
だから。
運行記録には。
三浦直人記憶情報・未照合
とだけ書く。
「色は?」
誠司が尋ねる。
直人は。
少し考えた。
「白でした」
赤い満タン便。
同じ車台番号。
日本側の工場。
白い車両。
誠司は。
それ以上聞かなかった。
始発線から。
正式記録が来るのを待つ。
*
夕方。
車庫。
からん。
始発照会口。
返答票。
サーラ。
ロウグ。
二人確認。
誠司。
ガラン。
エレナ。
必要な者だけが集まる。
日本側の車両照合結果。
車台番号 K2D-0713
照合――一致
続いて。
車両種別――小型貨物車
現在状態――特装前ベース車両
ガランが。
ゆっくり顔を上げる。
「特装前?」
次。
車体色――白
現在地――日本側特装工場・保管区画
走行登録――未実施
直人の記憶と一致する。
日本側に。
同じ車台番号。
白い車。
しかも。
今も存在している。
水車町にも。
同じ番号の赤い満タン便がある。
「同じ車両が二台あるんですか」
ロウグが尋ねる。
返答票には。
その問いを予測したように。
注意書き。
同一車両の重複登録ではありません。
始発線時間差による同一車両・異時点照合です。
同じ車。
別の時点。
日本側にあるのは。
満タン便になる前。
水車町にあるのは。
その後。
「未来の車両が、こっちにある」
エレナが言う。
管理人は首を横に振る。
「未来という言葉が正確かは分かりません」
始発線では。
発行順と適用順が一致しない。
時間の前後も。
固定ではない。
それでも。
製造工程の順番だけは追える。
白いベース車。
特装。
赤い満タン便。
返答票を読み進める。
特装車体番号 M-001
特装名称――満タン便
特装工事――未着手
工事予定日――日本側時間・十一日後
水車町側で。
満タン便は。
何百年にもわたる配送記録を持つ。
だが。
日本側では。
満タン便を作る工事そのものが。
まだ始まっていない。
「製造者は?」
ガランが言う。
ベース車製造者――照合済み
特装施工者――未確定
特装依頼――予約のみ登録
「依頼者」
誠司が読む。
一瞬。
言葉が止まる。
特装依頼元――水車町配送所
誰も。
すぐには話さなかった。
現在。
水車町配送所は。
満タン便があるから成り立っている。
だが。
日本側の記録では。
その水車町配送所が。
十一日後。
満タン便を作るよう依頼することになっている。
「俺たちは、まだそんな依頼を出していません」
ロウグが言う。
「はい」
誠司が答える。
「予約票は?」
エレナが尋ねる。
始発照会口。
予約保留槽。
調べたとき。
見つかったのは。
誠司救援用の一枚だけだった。
満タン便製造依頼票は。
なかった。
返答票は続く。
特装依頼票――未受領
日本側工場では、始発線予約枠のみ確認。
依頼原本は水車町側未発行。
また。
先行予約。
結果の側が。
先に存在している。
しかし。
今回は人命救援ではない。
車両製造。
しかも。
未来の水車町配送所が。
過去の自分たちへ満タン便を送ることになる。
「条件を確認してください」
誠司が言う。
予約があるから。
出す。
では駄目。
誠司自身の救援票と同じ。
内容を見なければならない。
返答票の次の項目。
特装仕様・概要
一、物資補給機能
二、始発線照会口
三、人員救援用座席認証
四、帰還線接続機能
五、循環補給変換機能
今。
満タン便にある機能。
すべて。
さらに。
六、帰還基準者登録
初期設定値――田村誠司
「ここです」
ロウグが言った。
製造時。
なぜ。
田村誠司が帰還基準者として設定されていたのか。
設定者。
最後の欄。
帰還基準者設定申請
申請者――水車町配送所
承認者――未登録
本人同意――未取得
現在状態――予約
誠司の表情が変わる。
「本人同意、未取得」
自分の名前を。
車両の帰還基準にする。
そんな依頼。
今の誠司は。
出していない。
「救援票と同じように、あとから同意する可能性は」
ロウグが言う。
「あります」
誠司は答えた。
「でも、まだ同意しません」
理由が分からない。
帰還基準者とは。
具体的に何をするのか。
責任。
危険。
解除方法。
変更方法。
全部確認してから。
「製造依頼も?」
「出しません」
「でも、出さないと満タン便が――」
ロウグは。
そこまで言って止まる。
目の前に。
満タン便はある。
すでに。
何百もの便を走った。
「存在しているから作る、では駄目なんですね」
「はい」
誠司は言った。
「作っていいものか確認します」
結果を守るために。
手順を飛ばさない。
過去。
第一配送者が。
北方一号を起こすとき。
それをやって事故を起こした。
現在。
満タン便が存在しているからといって。
製造条件を読まず。
未来の依頼票へ署名する。
同じことはしない。
「日本側へ、仕様書を請求します」
誠司が言った。
「完成検査基準も」
ガランが追加する。
「故障時の停止方法」
リア。
「人員救援機能の安全条件」
サーラ。
「所有者と管理責任」
ロウグ。
「帰還基準者の変更手順」
エレナ。
「廃車や運行終了条件」
次々に出る。
誠司が。
一枚の照会票へまとめる。
ただし。
全部を同時に聞かない。
優先。
まず。
人命と運行に関係する四つ。
安全。
停止。
帰還基準者。
管理責任。
残りは。
二便目。
「製造依頼を出す前の確認便」
ロウグが言う。
「はい」
満タン便を作るための便ではない。
作ってよいか。
確かめる便。
*
その夜。
三浦直人は。
返答票の写しを読んだ。
「十一日後」
「はい」
「日本側では、まだ白い車」
「はい」
直人は。
少しだけ笑った。
「やっぱり、記憶違いじゃなかった」
「工場で見たんですか」
「白い車を」
「たぶん」
直人は。
考えながら話す。
「赤い満タン便で日本側へ戻った」
「工場に行った」
「同じ番号を調べてもらった」
「そしたら、目の前に白い車があった」
「何と説明されました?」
「担当者が」
直人は。
少し目を細める。
「『まだ納車してません』って」
ガランが笑いそうになり。
途中で止める。
確かに。
工場側からすれば。
そうなる。
完成していない車を。
完成した状態で。
客が乗ってきた。
「そのとき、製造依頼者を調べなかったんですか」
エレナが尋ねる。
「調べました」
「誰でした?」
直人は。
首を横に振る。
「水車町配送所」
「今と同じ」
「はい」
「誰が署名したかは?」
直人は。
長く考えた。
そして。
「そこだけ」
顔を曇らせる。
「塗り潰されていた」
現在の返答票では。
承認者――未登録。
過去の直人が見た記録では。
署名部分が塗り潰されていた。
同じことを示しているのか。
別の改変なのか。
まだ分からない。
「覚えているのは」
直人が続ける。
「担当の人に言われたことです」
「何と?」
「この車」
直人は。
車庫の満タン便を見る。
「工場から水車町へ納車する車じゃないって」
誠司が眉を寄せる。
「では」
「水車町から工場へ返ってくる車だって」
誰も。
すぐには意味を理解できなかった。
普通。
製造。
完成検査。
納車。
使用。
返却。
その順。
だが。
満タン便は。
逆。
水車町ですでに使用され。
最後に日本側の工場へ戻り。
そこで。
製造される。
「完成検査は」
ガランが呟く。
「最後にやるのか?」
直人は。
小さく頷く。
「担当者は、そう言ってました」
「何百年も使ったあとで?」
「向こうでは十一日後です」
時間の長さが。
同じではない。
満タン便にとっての最後が。
日本側では。
製造の日になる。
「じゃあ」
ロウグが言う。
「満タン便は、作られてから走り始める車じゃない」
「走り終わったあとに」
エレナが続ける。
「作られたことになる車?」
管理人は。
配送帳面を見る。
「始発線の車両なら、あり得ます」
しかし。
誠司は。
すぐには受け入れなかった。
「記録で確認します」
未来だから。
時間が逆だから。
そういう説明だけで。
故障や安全を曖昧にしない。
車は。
今ここで走っている。
タイヤがある。
制動装置がある。
燃料を使う。
橋を渡る。
人を載せる。
どんな時間構造でも。
整備は必要だった。
*
夜。
配送帳面が。
新しいページを開いた。
第一配送記録・車両第一便
私は、日本側の工場で満タン便を見せた。
担当者は、赤い車と、工場に置かれた白い車を何度も見比べた。
車台番号は同じだった。
私は尋ねた。
「どちらが本物ですか」
担当者は答えた。
「どちらも同じ車です」
「こちらは、まだ出発していない車」
「あなたが乗ってきたのは、帰ってきた車です」
記録が続く。
私は、赤い車を完成検査に入れようとした。
担当者は断った。
「まだ駄目です」
「この車には、最後の積荷が足りません」
誠司は。
文字を追う。
私は荷台を確認した。
空だった。
担当者は、荷台ではなく運転席を指した。
「最後の積荷は、車両そのものが持って帰ってきます」
その下。
現在の製造予約情報が表示される。
満タン便・完成検査条件
一、循環補給網――稼働
二、帰還線――接続
三、旧運行責任者――降車
四、帰還基準者――本人意思確認
五、最終積荷――未受領
四つ目。
帰還基準者。
田村誠司。
本人意思確認。
まだ。
していない。
そして。
五つ目。
最終積荷。
未受領。
「最終積荷って」
ロウグが言う。
「何ですか」
配送帳面に。
詳細が現れる。
荷名――満タン便・運行記録原本
保管地点――車両内
状態――蓄積中
受取先――日本側特装工場
何百年にもわたる。
第一配送者の便。
誠司の便。
西。
東。
南。
北。
事故。
修理。
返送。
帰着。
すべての原本。
満タン便は。
それを車体のどこかへ。
積み続けている。
完成検査とは。
新品の車を検査することではない。
走ってきたすべての運行記録を。
日本側へ返却し。
その記録をもとに。
これから作る満タン便の仕様を決めること。
つまり。
今ある満タン便の改善記録が。
過去の満タン便を作る設計図になる。
最後の表示。
運行記録原本・蓄積率――九十九パーセント
あと一パーセント。
何かの運行記録が。
まだ足りない。
その項目が。
浮かぶ。
未記録便――満タン便最終帰還便
運行者――未登録
積荷――満タン便
配送先――日本側特装工場
最後に運ばなければならない荷物は。
人でも。
物資でもなかった。
赤い満タン便そのもの。
いつか。
誰かがこの車を運転し。
日本側の工場へ返す。
そこで。
何百年分の運行記録が引き渡され。
その記録を使って。
十一日後の日本で。
満タン便が初めて作られる。
そしてまた。
水車町へ送られる。
誠司は。
最後の欄を見つめた。
最終帰還便・運行者候補
三浦直人――権限返却済み
田村誠司――帰還基準者のため対象外
候補者――第三配送者。
返送庫で待つ。
七代目の預かり手。
雪板の印を持つ女性。
登録保留のままだった。
第三配送者。
彼女に予定されている最初の正式な仕事は。
荷物を運ぶことではない。
満タン便そのものを。
日本側の製造工場へ返却することだった。
三浦直人と北方一号は、初めて役目や荷札ではなく、名前を使って面会しました。
北方一号は、自らの名前を「佐伯澪」と明かしています。
二人は事故の許しを結論にせず、帰着と事故記録を別々に扱ったまま、次の面会を約束しました。
一方、日本側への製造照会によって、満タン便と同じ車台番号の白いベース車両が現在も特装工場に存在することが判明。
日本側では「満タン便」の特装工事そのものが、まだ始まっていません。
満タン便は、走り終えた運行記録を日本側工場へ返すことで、その記録をもとに製造される車両のようです。
そして最後の一パーセント。
必要なのは「満タン便最終帰還便」。
その運行者候補として登録されているのは――第三配送者でした。




