第107話 予備鍵の返却便
日本側で目を覚ました第一配送者は、水車町への移動を選びました。
ただし、到着後に最初にしたいことは三つ。
満タン便の予備鍵を返すこと。
白糸の手紙を自分で開くこと。
そして、北方一号に会うかどうかは、相手の意思を先に確認すること。
帰ってくる人がいるからこそ。
水車町は、急いで迎えには行きません。
まず、無事に「引き継げる便」にします。
「第一配送者帰還便を、今日出します」
朝。
水車町配送所の運行板に、新しい札が掛けられた。
第一配送者帰還便
出発地――日本側配送所
到着地――水車町運行者一時帰着所
分類――人員
緊急性――なし
本人意思――移動希望
予定所持品――二点
満タン便予備鍵
田村誠司宛紙片
ロウグが確認する。
「緊急性なし、ですね」
「はい」
誠司は答えた。
第一配送者候補は目を覚ました。
水を飲める。
自力で座れる。
会話もできる。
生命状態は安定。
だから。
緊急転送ではない。
本人を急いで運ぶ理由はなかった。
「では、通常人員移送として扱います」
サーラが受入帳を開く。
「日本側の引渡確認が終わってから、水車町側で受け取ります」
第一配送者本人が。
水車町へ行きたいと言った。
それだけで、すぐ転送しない。
日本側で。
体調。
所持品。
着衣。
座位保持時間。
移動直前の本人意思。
すべて確認する。
水車町側でも。
受入れ場所。
移乗道具。
休息場所。
医療担当。
本人宛て書簡。
準備する。
「転送先は、満タン便の助手席になるようです」
補給網中枢の管理人が、始発線の古い表示を確認した。
人員救援経路
始発側乗車位置――予備鍵認証席
到着側乗車位置――満タン便助手席
到着時必要乗員
運転席――現運行責任者
助手席――帰還人員
「俺が運転席」
誠司が言う。
「第一配送者が助手席」
「車は走らせるのですか?」
エレナが尋ねた。
「いいえ」
管理人が答える。
「運転席は、受取側の責任者を確認するために使います」
エンジンを掛ける必要はない。
満タン便は車両返却所の受入位置へ置く。
車輪止め。
駐車ブレーキ。
扉周辺に人を置かない。
助手席側には、移乗台。
北方一号を移したときに使ったもの。
ただし今回は。
第一配送者候補は自力座位が可能。
日本側の記録では、支えがあれば数歩の移動も可能だった。
「歩けるから歩かせる、にはしません」
リアが言った。
長い睡眠のあと。
世界をまたぐ移送直後。
目眩や力の抜けが起きる可能性がある。
助手席の横には。
移乗椅子を用意する。
本人が問題なく立てれば。
椅子は使わない。
ふらつけば。
すぐ座る。
「使わないかもしれない道具も、先に置いておく」
ロウグが記録する。
「はい」
使わなかったことは。
無駄ではない。
必要になってから探すより。
最初から準備しておく。
*
日本側へ。
最終引渡確認票を送る。
第一配送者帰還便
移動直前確認
一、本人意思に変更なし
二、自力座位可能
三、生命状態安定
四、所持品照合
五、移送中に医療的特別処置不要
六、本人へ水車町側受入手順説明済み
返答は。
日本側の時間で短時間のうちに戻った。
一――変更なし
二――可能
三――安定
四――二点確認
五――不要
六――説明済み
さらに。
本人からの伝言。
「着いたら、まず鍵を返します」
誠司は、その一文を見る。
「鍵の返却場所を決めましょう」
ガランが車両返却所の鍵箱を開いた。
中には。
現在使っている満タン便の主鍵。
予備鍵の欄は空。
以前から。
そこだけ二本目の形に切られた溝がある。
「最初から二本入るようになっていたんだな」
「でも、一度も二本揃っていなかった」
ロウグが言う。
第一配送者が持ったまま。
日本側へ渡っていたから。
「返却先は、車両返却所」
誠司が決めた。
「俺個人へ返すのではなく、満タン便へ返す」
第一配送者が。
誠司に鍵を渡したいと思っていたとしても。
鍵は、個人の所有物ではない。
車両管理品。
受け取る者が替わっても。
同じ場所へ返せるようにする。
「ただし、最初の手渡しは誠司さんが受ける?」
サーラが尋ねる。
「本人がそう希望しています」
「なら」
サーラは二段階にした。
一時受領――現運行責任者
正式返却――水車町車両返却所
誠司が手で受け取る。
その場で番号を見る。
勝手にポケットへ入れない。
透明な鍵袋へ。
帰着後。
ガランと二人で車両返却所へ正式に返す。
「手渡した、で終わらない」
ロウグが言う。
「はい」
誰かへ返す。
場所へ返す。
記録へ返す。
三つそろって。
返却完了だった。
*
北方一号は。
返送受入所で、帰還便が出ることを聞いた。
「今日ですか」
「はい」
誠司は答えた。
「ただし、到着後すぐに面会はしません」
「分かっています」
「本人は、鍵を返して、白糸の手紙を開いて、それから休む予定です」
北方一号は頷いた。
「私も、今日はここで待ちます」
迎えに行かない。
満タン便のそばにも行かない。
運行者一時帰着所にも。
「会いたくありませんか」
リアが尋ねた。
北方一号は。
少し笑った。
「会いたいです」
「では」
「だから、待ちます」
以前。
第一配送者は待てなかった。
今度は。
北方一号が待つ。
「向こうが来ると選んだだけで」
彼女は言った。
「私に会うと決めたわけではありません」
誠司は頷いた。
同じ水車町へ来ること。
同じ部屋へ入ること。
誰かに会うこと。
それぞれ。
別の同意だった。
*
昼前。
満タン便を。
車両返却所の受入位置へ移す。
今日の車両移動は。
誠司ではなく、ガランが外から誘導。
誠司が運転。
わずか数十歩。
それでも構内運行票を作る。
到着位置。
停止線。
車輪止め。
エンジン停止。
誠司はいったん降りる。
車両を受入状態へ。
助手席扉。
開閉確認。
移乗台。
固定。
移乗椅子。
停止具。
人員区画の寝台。
水。
薄い茶。
毛布。
仕切り布。
すべて確認する。
そのあと。
誠司が改めて運転席へ座る。
便名。
第一配送者帰還便・水車町受入
鍵を差す。
エンジンは掛けない。
配送帳面が光る。
到着側運転者――田村誠司
確認
助手席は空。
到着側受入席――空席
始発側引渡確認待ち
車内には。
誠司だけ。
助手席の外。
リア。
ガラン。
サーラ。
ロウグ。
管理人。
必要な人数だけ。
エレナは記録室。
それ以外の者は。
受入所の外。
街の人々にも。
今日、人が帰ってくることは伝えていない。
第一配送者は。
見世物ではない。
*
始発照会口から。
一枚の紙が出る。
日本側引渡準備――完了
帰還人員――一名
座位――安定
本人意思――水車町へ移動
所持品――二点
引渡担当――日本側帰着当番
続いて。
始発側予備鍵認証――待機
誠司は、主鍵へ手を添えた。
管理人が説明する。
「日本側では、本人が予備鍵を認証口へ差します」
「こちらでは?」
「主鍵を一段だけ回してください。始動位置までは回さない」
二つの鍵。
日本側の予備鍵。
水車町側の主鍵。
同じ車両に属する鍵が。
二つの世界で。
同時に使われる。
「認証後、本人の手元へ予備鍵は戻ります」
ロウグが確認する。
「転送時に消えたりしない?」
「所持品として一緒に移動します」
「紙片も?」
「はい」
所持品二点。
身体とは別に。
引継記録が付いている。
失われた場合。
人だけ受け取って終わらない。
所持品事故として受付ける。
「始発側、準備完了」
表示。
予備鍵認証――確認
誠司が主鍵を。
一段。
回す。
かちり。
満タン便の計器盤が。
赤ではなく。
白く光った。
主鍵認証――確認
人員帰還経路――接続
助手席の座面に。
薄い光の線が走る。
背もたれ。
足元。
扉の縁。
誠司は触れない。
「受入開始」
サーラが記録する。
音は。
ほとんどなかった。
風も。
大きな光もない。
助手席の空気が。
一瞬だけ歪んだ。
向こう側に。
白い壁の部屋が見えた。
ほんの一瞬。
椅子。
机。
立っている誰かの腕。
そして。
座席に。
人が現れた。
*
男だった。
誠司より少し年上に見える。
髪は短い。
顔色はまだ薄い。
痩せてはいるが。
北方一号の覚醒直後ほど弱ってはいない。
灰色の作業服。
胸ポケット。
左手には。
折り畳まれた紙。
右手には。
青黒い鍵。
第一配送者。
いや。
今はまだ。
そう呼ぶ以外の名前を知らない人。
彼は。
助手席へ座ったまま。
最初に周囲を見た。
正面。
計器盤。
助手席の扉。
そして。
運転席の誠司。
目が合う。
男は。
少し眉を寄せた。
誠司を見て。
自分と同じ顔ではないことを確認するように。
何秒か。
見ていた。
実際。
似ていなかった。
顔立ちも。
身体つきも。
手も。
別の人間だった。
第一配送者の音声記録が。
誠司の声で聞こえた理由は。
やはり声そのものの一致ではなかった。
男の実際の声は。
少し低く。
掠れていた。
「……田村さん」
「はい」
男は。
右手を上げた。
青黒い鍵。
「これ」
一度。
呼吸。
「返します」
誠司は。
運転席から手を伸ばさなかった。
先に。
座席間の受渡台を開く。
小さな平らな台。
以前は書類を置くためのもの。
そこへ。
透明な鍵袋を置く。
「ここへお願いします」
男は。
少しだけ笑った。
「手渡しじゃないんですね」
「落とすと困るので」
「そうですね」
鍵を。
台へ置く。
誠司が番号を読む。
満タン便。
予備。
番号一致。
傷。
一本。
古い擦れ。
日本側の記録と一致。
透明袋へ。
封をする。
誠司が受領印。
満タン便予備鍵
一時受領――田村誠司
「受け取りました」
男は。
目を閉じた。
ほんの少し。
肩の力が抜けた。
「やっと」
小さく言った。
「返せた」
配送帳面が光る。
第一配送者帰還便
所持品一
満タン便予備鍵――引渡済み
まだ。
正式返却ではない。
だが。
本人の手から。
現在の運行責任者へ。
引継ぎは終わった。
「体調を確認します」
リアが助手席側から声を掛ける。
男は頷く。
「目眩は?」
「少し」
「吐き気」
「ありません」
「手足の痺れ」
「なし」
「自力で立てそうですか」
男は。
少し考えた。
「立てると思います」
「思う、なら椅子を使います」
男は。
今度は、はっきり笑った。
「分かりました」
第一配送者が。
自分の判断だけで。
大丈夫だと押し切らない。
移乗椅子。
助手席横。
高さ合わせ。
停止具。
男自身が。
足を床へ。
一度止まる。
脈。
問題なし。
左右を支える。
立つ。
一歩。
力が抜ける。
「止めます」
リアが言う。
すぐ。
椅子へ。
男も逆らわない。
「立てると思ったんですけどね」
「思っただけでした」
「はい」
椅子で。
運行者一時帰着所へ。
数歩。
急がない。
人員区画。
白線。
寝台横。
まず座ったまま。
水。
一口。
二口。
状態確認。
「第一配送者帰還便」
ロウグが記録を読み上げる。
「人員一名、水車町側へ到着」
サーラが続ける。
「生命状態、安定」
「所持品二点、うち予備鍵一点引渡済み」
「紙片一点、本人保持」
「帰還便、人員引渡完了」
二本の手。
受領印。
ごん。
第一配送者帰還便
人員引渡――完了
第一配送者は。
長く。
運転席から降りられなかった。
今。
身体も。
水車町へ到着した。
*
それでも。
すぐに白糸の手紙は出さなかった。
まず十五分休む。
本人も同意する。
水を飲む。
背中を寝台へ預ける。
名前は聞かない。
北方一号のことも。
聞かない。
事故のことも。
「今、必要なものはありますか」
リアが尋ねる。
男は少し考える。
「紙を渡したいです」
左手。
ずっと持っていた。
田村誠司宛ての日本語の紙片。
「今ですか?」
「忘れる前に」
「では、誠司さん本人へ渡しますか」
「はい」
誠司が近づく。
男は。
折り畳まれた紙を差し出す。
今度は。
鍵ではない。
個人宛て。
受渡台も。
車両管理も必要ない。
誠司は。
手で受け取った。
表。
日本語。
田村誠司様
差出人欄。
空白。
「開けても?」
誠司が尋ねる。
男が頷く。
「そのために持ってきました」
紙を開く。
中に。
短い文章。
配送伝票のように。
項目が並んでいた。
緊急救援・事後引渡票
受取人 田村誠司
預かり品
「帰るか、残るかを自分で決める権利」 一件
預かり理由
救援時、本人同意取得不能
引渡条件
本人覚醒後
安全な受入先確保後
本人が自ら判断可能となった後
引渡状態
未完了
その下に。
手書き。
救うために勝手に運びました。
だから、その先まで勝手に決める権利はありません。
帰るか。
残るか。
別の場所へ行くか。
決めるのは、あなたです。
署名欄。
差出担当――未署名
男は。
紙を見た。
「これを書いたところまでは、少し思い出しました」
「事故のあと?」
「たぶん」
「日本側配送所で?」
「それも……たぶん」
分からない部分を。
断定しない。
男は。
誠司へ言った。
「今、受け取れますか」
誠司は紙を見る。
帰るか。
残るか。
まだ決めていない。
「決めていません」
「それでいいです」
「受け取っても?」
「選択を受け取るんじゃありません」
男は答えた。
「選ぶ権利を返すだけです」
誠司は。
受領欄へ署名する。
田村誠司。
事後引渡――受領
男が。
差出担当欄へ。
筆を持とうとして。
止まる。
「名前がありません」
「役目で署名できます」
ロウグが言った。
「今の本人確認では、第二配送単位差出担当者と照合されています」
男は。
少し考えた。
そして。
名前ではなく。
差出担当
とだけ書いた。
本人確認板へ。
指を置く。
本人照合――一致
配送帳面が光った。
田村誠司・緊急救援便
差出担当署名――完了
本人事後受領――完了
救援配送――完了
誠司の配送状態が。
長く残っていた文字が。
変わる。
田村誠司
救援配送状態――完了
帰還意思――本人保留
現在帰還先――水車町配送所
「運送中じゃなくなった」
ロウグが呟いた。
誠司は。
表示を見た。
異世界へ来てから。
ずっと。
補給網の上では。
運送途中だった。
今。
ようやく。
救援そのものが終わった。
帰るか残るか。
それは別。
今すぐ決めなくていい。
「受け取りました」
誠司が言う。
男は。
ゆっくり頷いた。
「ありがとうございます」
どちらが言う言葉なのか。
少し分からなかった。
*
休憩。
さらに二十分。
状態。
安定。
男のほうから言った。
「白い手紙を、お願いします」
誠司はサーラを見る。
サーラが頷く。
二鍵保管箱。
一つの鍵。
サーラ。
もう一つ。
北方一号。
本人は返送受入所にいる。
「北方一号さんの鍵が必要です」
サーラが説明する。
男の顔が。
少し固くなる。
「本人が持っているんですか」
「はい」
「……元気ですか」
「回復中です」
それ以上。
答えない。
男も聞かない。
北方一号へ。
鍵使用の確認票を送る。
内容。
第一配送者候補が水車町へ到着。
本人より、白糸内封の開封希望あり。
二鍵保管箱を開けるため、あなたの鍵を使用してよいですか。
返答。
はい。
ただし。
北方一号自身は来ない。
鍵だけを。
リアの補助員が受け取る。
鍵の受渡記録。
本人確認。
使用目的。
開封後返却。
すべて記録する。
二つの鍵。
同時に回す。
保管箱が開く。
白い糸の封書。
長く。
誰にも開かれなかった手紙。
外装。
破損なし。
宛先。
第一配送者殿
本人以外開封不可
サーラが。
男へ渡す前に尋ねる。
「あなたは、この宛先の本人として受け取りますか」
男は。
封書を見つめた。
「名前は思い出せません」
「名前では確認しません」
ロウグが言う。
「運行履歴と本人認証で、宛先本人候補百パーセントです」
「候補?」
「個人札を確認するまでは」
男は。
少し笑った。
「慎重ですね」
「最近、そうするようになりました」
誠司が答える。
男は。
封書を両手で受け取った。
「受け取ります」
白糸内封
宛先本人受領――確認
封。
本人が切る。
中には。
二つ。
折り畳まれた手紙。
それから。
小さな金属札。
男は。
先に金属札を見た。
薄い。
手のひらの半分ほど。
表面には。
一つの名前。
日本語だった。
誠司にも読める。
三浦 直人
男は。
長い時間。
その文字を見た。
誰も。
読み上げなかった。
本人が。
自分で読むまで。
待つ。
唇が動く。
「……みうら」
止まる。
「なおと」
声にした瞬間。
何かを思い出した様子はなかった。
涙も。
驚きも。
ただ。
知らない住所を確認するように。
もう一度読む。
「三浦、直人」
配送帳面が光る。
個人札――照合
旧登録個人名――三浦直人
本人照合――一致
第一配送者役目記録との分離――可能
「思い出しましたか」
リアが尋ねる。
三浦直人。
そう記された男は。
首を横に振った。
「まだ」
「では、その名前で呼びますか?」
サーラが尋ねる。
本人が選ぶ。
記録にあるからといって。
すぐ周囲が使い始めない。
直人は。
金属札を指でなぞった。
「……今は」
少し考える。
「直人でお願いします」
役目ではなく。
第一配送者でもなく。
差出担当でもなく。
自分の個人札に残っていた名前。
本人が。
もう一度使うと選んだ。
ロウグが記録する。
本人希望呼称――直人
配送帳面から。
一つの表示が消える。
個人名――未登録
代わりに。
三浦直人
旧第一配送者運行責任者
第二配送単位差出担当
個人記録――復帰
誠司は。
その表示を見た。
長く続いていた疑問の一つ。
第一配送者は。
田村誠司ではなかった。
満タン便の過去の運転席に。
田村誠司という名が登録されていた時代にも。
実際に運転していた人間の個人名は。
三浦直人。
「運転席の田村誠司という登録は」
ロウグが言う。
「やっぱり、運転者の名前ではなかった」
管理人が補給網表示を確認する。
満タン便・運転席登録
登録種別――帰還基準者
登録名――田村誠司
帰還基準者。
運転席へ座っている人間ではない。
満タン便が。
誰のところへ戻るべきかを示す基準。
だから。
直人が運転していた時代にも。
田村誠司の名があった。
「最初から」
エレナが呟いた。
「満タン便は誠司さんを帰還基準にしていた?」
答えは。
まだ分からない。
だが。
一つだけ。
明確になった。
直人と誠司は。
同一人物ではない。
記録上も。
身体も。
個人名も。
別人。
重なっていたのは。
人ではなく。
役目と帰還契約だった。
*
直人は。
個人札の次に。
白糸の手紙を開いた。
北方一号からの手紙。
最初の一行を読んだところで。
手が止まる。
誠司たちは。
少し離れる。
個人宛ての手紙。
読む内容を。
周囲が覗かない。
直人は。
静かに読み続けた。
途中。
一度だけ。
目元を押さえた。
だが。
声には出さなかった。
最後まで読む。
折る。
すぐ封へ戻さず。
膝の上へ置く。
「保管しますか」
サーラが尋ねる。
「自分で持ちます」
「分かりました」
白糸封書。
正式受領。
二鍵保管終了。
北方一号の鍵。
返却。
その記録まで終える。
しばらくして。
直人が言った。
「今日は、会いません」
誰も理由を尋ねない。
「明日」
直人は続ける。
「もし、向こうもまだ会いたいと言ってくれるなら」
「確認します」
誠司が答える。
「お願いします」
会いたい。
でも。
今日ではない。
それも。
本人の意思。
北方一号へ。
短い連絡票を送る。
三浦直人さんが水車町へ到着しました。
個人札を本人が受領。
本人希望呼称――直人。
本日は休息を希望。
明日、あなたが希望する場合、面会を希望しています。
返答は。
すぐには来なかった。
数分。
それから。
はい。
明日、会います。
それだけ。
余計な言葉は。
紙に載せなかった。
*
夕方。
満タン便の予備鍵を。
正式に返却する。
直人は。
一時帰着所の椅子に座ったまま立ち会う。
誠司が一時受領袋を。
ガランへ渡す。
封。
異常なし。
番号。
一致。
傷。
日本側記録と一致。
主鍵。
車両返却所の保管箱。
予備鍵。
隣の溝。
二本。
初めて揃う。
ガランが蓋を閉じる。
満タン便鍵
主鍵――返却済み
予備鍵――返却済み
鍵一式――完備
配送帳面に。
新しい表示。
旧運行責任者・三浦直人
車両権限――返却完了
直人が。
その表示を見る。
「これで」
一度。
息を吐く。
「本当に降りたんですね」
誠司が答える。
「はい」
運転席から。
役目から。
鍵から。
全部。
ようやく。
降りた。
「寂しいですか」
ロウグが尋ねた。
直人は。
少し考える。
「分かりません」
それから。
車庫にある赤い満タン便を見る。
「でも」
「もう俺が持っていなくていいんだと思うと」
小さく笑う。
「軽いです」
*
その夜。
三浦直人は。
運行者一時帰着所ではなく。
返送受入所に近い客室で休むことになった。
理由。
人員区画は。
一時的な到着確認のための場所。
本人確認も。
所持品引渡も。
鍵返却も。
終わった。
いつまでも「帰着人員」として置いておかない。
普通の寝床へ移る。
客室の入口には。
札。
三浦直人
休息中
用件のある者は受付を通すこと
第一配送者。
ではない。
三浦直人。
本人が選んだ呼び名。
その日の最後。
配送帳面が。
新しいページを開いた。
第一配送記録・帰着第三便
私は、個人札へ自分の名前を書いた。
三浦直人。
書いたとき。
それが本当に自分の名前なのか、自信がなかった。
名前を始発線へ返したあと。
私は長く、役目だけで呼ばれていたからだ。
北方一号は言った。
「思い出せなくても、持っていてください」
「名前は、記憶の答えではありません」
「誰かがあなたを役目だけで呼ぼうとしたとき、自分は人だと示すための札です」
私は、その札を白い手紙へ入れた。
誠司は。
静かに読む。
記録は続く。
満タン便の運転席へ登録されていた田村誠司という名は、私の名前ではない。
あれは、満タン便が帰る方向を失わないための名前だった。
やはり。
直人と。
誠司。
別人。
その下。
私は、その名前を登録した覚えがない。
誠司の指が止まる。
北方一号も。
初代返送庫預かり手も。
中枢管理人も。
誰も、田村誠司を運転席へ登録していなかった。
配送帳面に。
古い運転席登録情報が表示される。
満タン便・帰還基準者
田村誠司
登録時刻――満タン便初回起動以前
「初回起動……以前?」
満タン便が。
第一配送者に使われるより前。
水車町の補給網へつながるより前。
まだ。
誰も田村誠司を知らないはずの時代。
すでに。
満タン便は。
帰るべき名前として。
田村誠司を登録していた。
最後に。
登録元が現れた。
登録元――満タン便製造時設定
設定者――未登録
製造地点――日本側
赤い満タン便は。
異世界で作られた車ではなかった。
日本側で製造された時点から。
まだ生まれてすらいないかもしれない田村誠司を。
帰還基準者として知っていた。
第一配送者帰還便が正式に実行され、第一配送者の身体が日本側配送所から水車町へ到着しました。
本人は最初に満タン便の予備鍵を返却。
続いて誠司へ「帰るか残るかを自分で決める権利」の事後引渡票を渡し、田村誠司の緊急救援便も正式に完了しています。
白糸の手紙に入っていた個人札から、第一配送者の旧登録名も判明しました。
三浦直人。
満タン便の過去の運転席に登録されていた「田村誠司」は、直人の名前ではなく、車両の「帰還基準者」でした。
そして、その登録は満タン便が最初に動くより前。
日本側で製造された時点から存在していたようです。




