第38話〜錬金でスライムを倒しました〜
通路の奥から溢れ出したそれは、通路いっぱいに広がり、巨大な塊となってゆっくりと押し寄せてくる。
床を覆い、壁を這い、天井にまで張り付きながら、形を保ったまま進んでくるそれは、まるで水そのものが意思を持った存在のようだった。
背後では、ルビーがメイを支えながら部屋の奥へと退避している気配がある。だが、振り返らず、視線は前に集中する。
「マスター、ご命令を」
隣に立つアリーナが、いつも通りの抑揚のない声で告げる。その横顔は変わらない。だが、その金の瞳だけは、流動する敵の挙動を一瞬たりとも逃さず追い続けていた。
「……斧じゃ、決め手にならねぇ」
小さく呟く。先ほどの戦いで理解している。物理は通る。だが、意味がない。核を捉えなければ、いくら叩こうが潰そうが、いずれ再生する。
そして今、その核は見えない。巨大化したことで、完全に内部へ埋もれている。
「物理攻撃による殲滅は非効率です」
「だろうな、でも俺には魔法は使えない。俺に使えるのは錬金術だけだ、それも、お前の力があってこそだ……だから、力を貸してくれ、アリーナ」
「はい、マスター。私はマスターの所有物ですから」
「所有物なんて言い方はやめてくれ、お前は俺の相棒だ」
「はい、私はマスターの相棒です」
そのやりとりの間にも、スライムの群体は距離を詰めてくる。一定の間合いを保ったまま、じわり、じわりと圧をかけてくるその動きは、どこか知性すら感じさせた。
そして――ぶしゅっ、と。
再び、液体を噴き出した。床に叩きつけられ、広がるそれは、やはりただの水だ。だが、ぬめりとした感触と、鼻につく臭気は変わらない。
「……またそれか」
「雨水を検出しました」
「くさい水を吐き出してるだけかよ!」
レントは軽く舌打ちしながら、足元を確認する。滑る。確実に動きを鈍らせるための攻撃だ。踏み込むたびに、ぬちゃり、と音が鳴る。
視線を前に戻す。巨大スライムは、ゆっくりと形を変えながらこちらへ迫ってくる。内部が脈打つように揺れ、どこに核があるのか、もはや判別できない……斧の刃は届かない。
だから――
「アリーナ」
「はい、マスター」
「――錬金だ。細かい調整はお前に任せる」
「了解しました、マスター」
アリーナが被っていた帽子が、ふわりと宙へ浮く。ひらり、と一振り。それだけで形が崩れ、歪み、再構築される。布だったものが硬質な質感へと変わり、縁が広がり、厚みを持ち――金属の釜へと変貌した。
レントはその両端へと手をかけ――
「『軽量化』解除」
その瞬間、見た目以上の重量が一気に現実へ落ちる。床がわずかに軋み、腕に確かな重みが乗った。だが、その重さこそが本来の性能だと理解できた。アリーナも反対側を支え、無駄のない動きで角度を調整する。錬金釜の口は、通路いっぱいに広がるスライムの集合体へと向けられた。巨大な粘体が、こちらを飲み込もうと迫ってくる。
「素材は――『水』だ」
「はい、マスター。インベントリーより水を使用します」
空間が微かに歪む。見えない場所から、水が消費されていく感覚だけが伝わる。
呼吸を整え、そして――
「錬金するのは――」
ほんの一瞬の静寂。スライムの波が目前まで迫る。そのすべてを切り裂くように、言葉を叩きつけた。
「――『酸素』だ」
「了解しました。『酸素』の錬金を開始します」
釜が淡く光り始める。内部で変化が起きる。光が強まり、空気がわずかに震えた。
スライムの巨大な塊が目前で膨れ上がる。飲み込まれる距離。
レントはただ、錬金釜を構えたまま動かない。
やがて、光がすっと収束した。アリーナが静かに告げる。
「『酸素』の錬金に成功しました」
その瞬間――空気が、変わった。
見えないはずのそれが、そこに満ちたと分かる。
……重い。
押し返されるような圧力が、肌に触れてくる。
……いける。
レントは、確信した。
「ぶっ放せ!!」
その声と同時に、錬金釜から不可視の圧力が解き放たれた。
――世界が弾けた。
錬金釜の口から解き放たれたのは、目には見えない塊だった。圧縮され、極限まで押し固められた酸素が、解放と同時に爆ぜる。爆風ではなく、空気そのものが弾丸のように撃ち出された。衝撃は一瞬。だが、その一瞬で十分だった。
通路を埋め尽くしていた巨大スライムが、内側から押し潰される。ぶよ、とした質量が、逃げ場を失い、圧縮され、限界を超え――破裂。
バンッ!!
遅れて破壊音が炸裂した。巨大な塊が内側から弾け飛ぶ。粘体が霧状に吹き飛び、壁へ、天井へと叩きつけられる。その中心。ほんの一瞬だけ露出した核が――ぐしゃり、と。完全に押し潰された。
「……っ、決まった!」
レントの声が漏れる。だが、それで終わりではない。解き放たれた圧力の余波が、空間全体に広がる。目に見えない衝撃波が、わずかに遅れて通路を薙ぎ払った。
――ドンッ!!
床を這っていたスライムが、一斉に叩き潰される。壁に張り付いた個体も、天井に逃げようとしたものも、まとめて引き剥がされ、押し潰される。バチンッ、バチンッ、と。小さな破裂音が連鎖する。核が砕ける音だ。一体、また一体と、スライムがただの水へと変わっていく。
そして――静寂が、訪れた。残っているのは、床に広がる水だけ。あれほどの質量を誇っていた存在は、跡形もなく崩壊していた。レントはしばらく動かなかった。呼吸だけが、やけに大きく響く。やがて、ゆっくりと息を吐く。
「……終わった、か」
「敵対反応、消失。殲滅を確認しました」
隣でアリーナがいつも通りの調子で告げる。その声を合図にしたかのように、二人で支えていた錬金釜が、ふわりと光を帯びた。重厚な金属の質感が、溶けるように崩れていく。輪郭がほどけ、質量が消え、形が縮む。やがてそれは、何事もなかったかのように一つの帽子へと戻った。
アリーナは自然な動作でそれを受け取り、軽く埃を払うような仕草をしてから、いつもの位置にかぶり直す。まるで、先ほどの戦闘など存在しなかったかのように。レントはその様子を見て、思わず苦笑した。
「……ほんと、便利だなお前」
「はい、マスター専用の万能錬金釜です」
淡々とした返答。だが、そのやり取りが妙に落ち着く。張り詰めていた空気が、ゆっくりとほどけていくのが分かった。
レントは肩の力を抜き、もう一度だけ前を見た。スライムの残骸が、床の上でゆっくりと広がっていく。さっきまで圧倒的な質量で押し潰そうとしてきたそれは、いまやただの水のように、力なくそこにあるだけだった。その一部が、ふっと消える。
「……?」
レントが視線を向けると、アリーナが静かに手を下ろしたところだった。
「スライムの残骸をインベントリーに回収しました」
「……いや、なんで?」
「素材ツリー内に、魔物素材の項目を確認しました。該当する可能性があるため、回収を実行しました」
「えっ、素材って魔物まであんのかよ、いやまぁ、ファンタジー世界ならよくあるけど……」
軽く肩をすくめたところで、奥から足音が近づいてくる。
「……レント……くん」
「大丈夫だった?」
メイとルビーが、少し警戒しながらもこちらへ戻ってくる。メイはまだ息が荒いが、自分の足で立てている。ルビーはその隣で、不安そうにこちらを見ていた。
「もう平気だ。終わったよ」
そう告げると、二人の緊張がようやく少し緩んだ……が、それも束の間だった。
「ねえ、レントくん、さっきの……なに?」
メイが真っ直ぐに聞いてくる。隣でルビーも、こくこくと大きく頷いた。
「ボクも気になる!なんかドーンってなって、ボク、すっ転んじゃったよ!」
苦笑しつつ、レントは少しだけ考えてから口を開いた。
「簡単に言うと、水を分解して、その中から酸素だけ取り出した」
「……水を、分解?」
「水っていうのはな、ただの液体じゃなくて、もっと細かい単位でできてるんだよ。その中には酸素と水素っていう成分があって……今回は錬金で、そのうちの酸素だけを取り出した」
「……それだけで……あんな威力になるの?」
「鍋でお湯を沸かしたこと、あるよな?水って、熱すると蒸気になるだろ。あれ、見た目以上にすごい勢いで膨らんでるんだよ。鍋に蓋するとガタガタ暴れ出すだろ?」
「あ……」
「つまり、水っていう液体から、一気に気体に変わると、それだけで押し出す力が生まれる」
「……だから、あんな風に?」
「そういうこと」
完全ではないが、大筋はわかる。メイはゆっくりと頷いた。その横で――
「……?ごめん、ぜんぜんわかんない!」
「だろうな」
そこで、アリーナが一歩前に出る。
「補足します。例えば、コップ一杯の水を使用した場合、それをすべて酸素として気体に変換すると、コップ一杯の水の体積が、この部屋全体に広がる規模の気体へと変化します」
「――えっ」
思わず、メイが周囲を見回した。
「この部屋、全部……?」
「はい、それが錬金により一瞬で放出された場合、強い圧力として作用します」
「……だから、あんな風に吹き飛んだの……」
ルビーは少し考えてから、
「えっと……すごいってこと?」
「すごいってことだ」
レントが頷いた。そして、ふっとアリーナの方を見る。
「……ま、すごいのはアリーナだな。さっきの威力。あれ、お前が調整したんだろ」
「はい。構造物および人的被害を回避するため、使用水量を制限しました」
「やっぱりな。もし調整を間違ってたら、この建物ごと吹き飛んでた」
「その可能性は高いと判断しています」
「……だよな。俺が、細かい調整は任せるって言っただけで、そこまで読み取るとか……正直、助かった」
「マスターの意図は明確でしたので」
相変わらずの無機質な返答。だが、その精度は疑いようがない。
「……ありがとな、アリーナ。お前がいたから勝てた」
「はい、マスター。私はマスターの相棒ですから」
そう答えながら――
手にしていた帽子を、静かにかぶり直した。
―――
部屋の中心にあったのは台座だった。素材は石でも金属でもない、触れれば違和感を覚えそうな滑らかさを持っている。その中心には深く空いたくぼみがひとつ。
そして周囲には、等間隔に配置された六つの台座。そのくぼみの形はそれぞれ微妙に異なり、まるで最初から役割が違うことを前提に設計されているようだった。
中央台座の縁には削り取るように刻まれた文字があった。整った古代文字というよりは、人の手で急いで刻んだような跡が残っている。
「これ、おじいちゃんの字だよ!」
「アリーナちゃん……なんて書いてあるの?」
「解析完了しました。翻訳を開始します」
『中央の器に鍵を入れてくれ。それで動くはずじゃ』
一瞬の沈黙のあと、レントが小さく息を吐いた。
「……そんだけかよ!」
「え、大事なところじゃないの?」
「おじいちゃん、そういうとこあるから」
「つまり……ここに何か入れればいいってこと?」
「その理解で問題ありません」
「まあ、これしかないよな」
レントは懐から、静かに球を取り出した。
「おじいちゃんの球!」
謎の球は中央のくぼみと明らかに同じ材質で作られていた。
「それが……鍵?」
「鍵である可能性が極めて高いです」
レントは球を中央のくぼみに落とした。カン、と乾いた音が広間に響く。その瞬間、空気が一瞬止まった。次に来たのは、音ではなく変化だった。
球が淡く光を帯び始める。内側から滲むような光が、静かに脈動し、呼吸するように明滅を繰り返した。それに呼応するように、中央の台座もまた同じ色味の光を帯び始める。
まるで、長い時間をかけて失われていた片割れ同士が、ようやく再会したかのようだった。




