第37話〜逃げ場はありませんでした〜
「――メイッ!!」
レントの声が通路に叩きつけられる。振り向いた先。そこにあったのは、もはや襲われているという言葉では足りない光景だった。
半透明の粘体が上から覆いかぶさるように広がり、メイの上半身を丸ごと飲み込んでいる。顔の輪郭は歪み、口元は完全に塞がれ、腕は絡め取られて動かない。……空気が、入っていない。
「くそっ……!」
レントは迷わず駆けた。斧を振らずとも、あれは斬るものじゃない。直感がそう告げていた。
「ルビー!人の姿に戻れ!メイから引き剥がすぞ!」
「うんっ!」
返事と同時に、小さな獣の姿がほどけるように揺らぐ。赤みがかった毛並みが光に溶け、次の瞬間には人の姿へと変わっていた。ルビーは迷いなくメイへ飛びつく。
「メイ、しっかり!」
腕を差し込み、粘体を引き剥がそうとする。ぬるりとした抵抗。生温い感触が肘までまとわりつく。だが構わない。
「離れろっ!!」
力任せに引き剥がす。ぶち、と嫌な音がして、粘体が引き延ばされる。さらに力を込めて引く。粘体が剥がれ、メイの口元が露出した。
「――っ、はぁっ!!けほっ……げほっ……!」
空気を求めるように、メイが大きく息を吸い込む。崩れるように膝をつき、激しく咳き込む。
「よしっ、ルビー、メイのことは任せた!」
「うん!」
ルビーがそのままメイを支え、残った粘体を必死に払い落とす。視界の奥。床を這うように、いくつもの半透明の塊が蠢いている。形を持たないそれらは、じわじわと距離を詰めてきていた。
斧を構えたその時、一体が跳ねた。
踏み込みと同時に振り抜く。重い刃が、確かに捉え
た。だが――手応えが、ない。ぶよ、とした感触だけを残し、刃はそのまま通り抜ける。切れたはずの粘体は、すぐに元の形へと戻った。
「……は?」
理解が一瞬遅れる。その間にも、別の個体が横から迫る。もう一撃。今度は叩き潰すように振るう。ぼす、と鈍い音。だが、潰れたはずのそれは、床に広がるだけで――すぐに集まり、再び形を取り戻す。
「効いてねえ……!スライムってこんなに強いのかよ」
舌打ちが漏れる。その間にも、数が増えていた。最初は数体だったはずのスライムが、いつの間にか十を超えている。分裂しているのか、それともどこかから湧いているのか判断がつかない。斧は当たる。だが意味がない。むしろ叩いた分だけ、広がっているようにすら見える。
「……レント……くん、ちょっと……だけ、色の違う……部分が……ある……よ」
目を凝らしてみる。スライムの中心に、ほんのわずかに色の違う部分がある。
「……あれか?」
狙いを定める。次に迫ってきた個体へ、踏み込む。今度は斬るのではなく、ぐしゃり、と内部に刃を押し込む。
「――そこだろ!」
力任せに、えぐるように引き裂いた。
ぴたり。
粘体の動きが止まる。次の瞬間、形を保てなくなったスライムが崩れ落ちた。ただの水のように床へと広がる。
「……やっぱりか、中心にある核を壊せば倒せる……」
そう理解し、斧を握り直す。しかし、レントの動きを察したのかスライムたちの動きが、一斉に変わる。先ほどまで詰めてきていたはずのそれらが、一定の距離を保ったまま、ぴたりと止まる。
そして――ぶしゅっ、と。粘体の一部が弾けるように放たれた。
「っ!」
反射的に身を引く。だが、飛んできたそれはただ、べちゃりと床や壁にぶつかり、広がるだけだった。
「……なんだ?水?」
レントが眉をひそめる。だが次の瞬間、その意味を理解する。じゅっ、と嫌な音がした。松明の火が揺れ、そして――消えた。一瞬で、視界が落ちる。完全な闇ではない。だが、明らかに光量が足りない。
「……くさっ」
ただの水ではない。どこか腐ったような、鼻に残る匂いが広がっていた。
「くそっ、火が消された……!」
暗闇の中でスライムが動く音だけがやけに鮮明に響く。ぬるり、ぬるりと、床を這う音。
見えない。だが分かる。数が減っていないどころか、むしろ増えている。
――そのとき。
床を這っていたスライムたちが、ぴたりと止まり、そしてゆっくりと集まり始めた。
「……おいおい」
思わず声が漏れる。一体一体が、溶けるように混ざり合う。境界が消え、形が崩れ、やがてひとつの大きな塊へと変わっていく。音を立てて膨れ上がるそれは、すでに人の背丈を超えていた。
「……マジかよ、キングサイズじゃねぇか」
絶望的な質量。核がどこにあるかも分からない。暗闇の中でそれは静かに、だが確実に形を持ち始めていた。通路を塞ぐように、巨大なスライムがゆっくりとこちらへ傾いた。
―――
扉が光っている――そう見えたのは一瞬で、実際にはそれは光ではなく、意思に近いものだった。紫の魔法陣が幾重にも重なり合い、扉一面を覆っている。円環と直線、意味を持たないはずの記号群が絶えず組み替えられ、書き換えられ、その構造そのものが侵入に応じて変化しているのが、視覚的にもはっきりと分かった。
……固定式ではない。入力に応じて最適化される、防御そのものが進化する構造。
アリーナの指先から金の光がにじむように扉へと流れ込み、そのまま幾何学模様の溝をなぞるように内部へと侵入していく。だが、それが一定の深度へ達したところで、ばちん、と乾いた音が弾け、いくつかの経路が強制的に切断された。
《侵入行為を検知。認証情報照合――不一致。アクセスを拒否します》
拒絶は即時。しかも一度きりではない。侵入の履歴をもとに、内部構造そのものを書き換えている。
……同じやり方は通用しない。ならば、方法は一つしかない。試行回数を増やす。
その判断と同時に、アリーナの髪がふわりと浮かび上がった。黒を基調とした髪の中で、金のメッシュだけがほどけるように解け、一本、また一本と細い糸となって空間へと広がっていく。それらはやがて数十、数百へと分岐し、それぞれが独立した経路として魔法陣へ突き刺さる。
《侵入負荷上昇を確認。防御層を追加。構造を再定義します》
紫の魔法陣が増殖する。層が重なり、書き換え速度がさらに加速する。だが、それに対して金の糸もまた止まらない。弾かれた経路は即座に切り捨てられ、成功率の低いパターンが排除されていく。残された糸だけが、より深く、より効率的に内部へと潜り込んでいった。
《不正アクセス継続中。再構築――再構築を実行》
応答にわずかな遅延が混じる。アリーナは動きを変えた。侵入を続けていた糸の一部が方向を変える。内部へ潜るのではなく、ある一点へと絡みつくように配置される。
再構築の起点。修復処理が発生する源を押さえ込む。
《異常を検知。再構築プロセスに遅延発生。原因特定を試みます――失敗》
わずかなズレだが、それで十分だった。遅延が生じた瞬間の構造を基準に、内部の優先処理順が逆算される。分散していたはずの制御が、どこを中心に回っているのか――その輪郭が浮かび上がる。
《警告。コア領域へのアクセスを検知。優先防御プロトコルを実行》
次の瞬間、紫の光が爆発するように膨れ上がった。侵入していた金の糸の一部が焼き切られ、逆流する圧力が全体を押し戻そうとする。
だが、アリーナの動きは止まらない。分散していた処理を一点へと収束させる。逃げる構造に対して、広く探るのではなく、深く突き刺す。再構築と侵入、その速度が拮抗し――ほんの一瞬、均衡が崩れた。
「――そこです」
同時に、残されたすべての金の糸が一点へと集中し、紫の層を貫いた。
《……権限照合……不一致……再確認……》
防御が追いつかない。侵入ではなく、支配が始まる。金の光が内部へと流れ込み、構造そのものを書き換えていく。紫の魔法陣が揺らぎ、維持できずに崩れ始める。
《異常。権限階層に不正アクセス。管理者情報……上書き……認証……完了……》
紫だった魔法陣の、その全てが金へと染まる。
「制御権限を取得しました」
《……ようこそ、マスター》
―――
ぎぃ――と、重い音が通路に響いた。金に染まった紋様が脈打ち、そのまま、扉がゆっくりと内側へ開いていく。
「マスター、扉のハッキングが完了しました」
その声が落ちるより早く、レントは動いていた。
「ルビー、先行け!道を確保しろ、敵とか罠には気をつけろ」
「うんっ!まかせて!」
即座に飛び出す小さな背中。その後を追うように、レントはメイの前へ滑り込む。
「……メイ、動けるか!」
「うん……大丈夫……」
言葉とは裏腹に呼吸が荒い。視線も揺れている。――迷う時間はない。
「悪い、我慢しろ!」
そのまま背を向け、メイを背負い上げる。ぐったりと体重を預けてくる軽い体を支え、同時に片腕でアリーナを抱え上げた。
「行くぞ!」
「はい、マスター」
アリーナの体は驚くほど軽い。脇に抱えたままでも走りに支障はない。レントはそのまま、開いた扉の先へと踏み込んだ。
――ずるり。背後から嫌な音が追ってくる。
「……やっぱり、来やがったか!」
振り返らなくても分かる。巨大スライムが、崩れた流体のまま通路へと流れ込んできている。その奥から、小型の個体も床を這うように侵入してくる。扉は開いた。だが、遮るものは何もない。
狭い通路を、全力で駆ける。背中でメイの呼吸が乱れている。肩口にかかる吐息が熱い。その横で、アリーナが淡々と口を開いた。
「マスター、提案があります。私を盾として使用してください――」
「却下だ」
「ですが、私は『女神の隠し子』なので壊れることはありません――」
「『女神の隠し子』って字面ヤバいな!って、お前を盾にするなんて選択肢最初からあり得ねぇよ!」
「ですが、ワイルドボアとの時は――」
「あの時はあの時!……今は全員で逃げる。それだけだ」
「はい、マスター」
そのときだった。ぶしゅっ、と。床を叩くような音が響く。
「っ!?」
足元にぬるりとした感触が広がった。視線を落とすと半透明の液体が床一面に飛び散っている。水――いや、くさい水だ。
「ちっ……!」
踏み込んだ瞬間、足が滑る。ぐらり、と体勢が崩れた。
「――っ!」
倒れるわけにはいかない。無理やり踏ん張り、体勢を立て直す。背中のメイと、脇のアリーナを支えながら、強引に走りを維持する。
後ろから、同じ音が続く。ぶしゅっ、ぶしゅっ、と。スライムたちが次々と液体を吐き、床を濡らしていく。
「くそっ……足場まで潰してきやがるのかよ!」
滑る。走りにくい。確実に速度が落ちる。
――水。ほんの一瞬、思考が引っかかった……いや、今はいい。すぐに切り捨てる。考える時間はない。
「進路を一時封鎖します」
不意に、アリーナが告げた。次の瞬間、通路の空間がわずかに歪んだ。何もなかったはずの場所に、突如として木材が現れる。続けて石材が落ち、がらがらと音を立てながら積み重なっていく。
「インベントリーから物資を取り出しました。通路を封鎖します」
「ナイスだ、アリーナ!」
「はい、マスター」
短い応答の間にも障壁は完成していく。板が組まれ、石が噛み合い、即席ながら通路を塞ぐ壁が出来上がった。
「よし、時間稼ぎには――」
言い終わる前に、石材の隙間から半透明の粘体が染み出してくる。木材の隙間を押し広げ、形を変えながらじわじわと侵入してくる。
「……マジかよ」
止まらない。完全には塞げない。
「密閉構造ではないため、完全封鎖は不可能です」
「スライム最強すぎんだろ!」
だが、わずかでも時間は稼げた。それで十分だ。
「行くぞ!」
再び踏み込む。背後では、障壁が内側から軋み始めている。木が裂け、石がずれ――やがて、ばきん、と音を立てて崩壊した。
振り返らない。振り返れば、足が止まる。前だけを見る。
「もうすぐ広いとこに出るよ!」
ルビーの声が響く。その先――通路が、開けた。視界が一気に広がる。高い天井、広い空間。そして中央には、何かの装置が設置されているのが見えた。だが、確認している余裕はない。
レントはそのまま部屋へ踏み込み、勢いのままメイを下ろした。
「ルビー!メイ連れて奥行け!隠れられるとこ探せ!」
「うん、わかった!」
ルビーがすぐにメイを支える。まだ足元がおぼつかないメイを引きながら、部屋の奥へと向かっていく。
「メイ、大丈夫……?」
「うん、ごめん……ルビーちゃん」
その声を背に、レントはゆっくりと振り返った。通路の奥、ぬるりとした影が溢れ出してくる。それはもはや『流れ』だった。床も壁も関係なく、粘体が押し寄せてくる。小型のスライムが先行し、その背後で巨大な塊がゆっくりと形を整えながら迫っていた。
……逃げ場は、ない。
レントは静かに息を吐いた。
「……はっ」
短く笑う。喉の奥で、わずかに乾いた音が鳴る。
……ふと、視線が合う。
隣に立つアリーナは帽子を目深にかぶり、ただ静かにこちらを見ている。黒を基調とした髪の中で、金の糸がわずかに揺れていた。
その瞳には、迷いも、恐れもない。
――いける。
理屈は分からない。だが、そう判断できた。
「迎撃しますか」
「ああ、ここで止める」
迷いはない。背後には守るべき二人。隣には頼れる相棒。前にはすべてを飲み込む流体の群れ。
――なら、やることは一つだ。
「……来いよ」
通路いっぱいに広がったスライムの波が、音もなく溢れ出した。




