第31話《名前をもらったよ!》
網の中で、小さな獣は身じろぎ一つせず、じっと三人を見上げていた。脳内へ直接響く声に、メイが肩を跳ねさせた。
「しゃ、喋った……!」
「正確には念話です。発声ではありません」
アリーナはいつも通り淡々としている。レントだけが眉をひそめ、網を押さえたまま視線を落とした。
「悪い獣じゃないやつは、人の飯を盗まない」
《だって美味しいものは分け合った方が幸せになれるでしょ?》
「盗られた方は幸せにならないんだよ!」
思わず声を荒げると、獣はきょとんと首を傾げた。悪びれた様子がまるでない。メイはその様子を見て、おずおずとレントの袖を引いた。
「……レントくん、この子、なんか……ほんとに悪い子じゃなさそう」
「飯は盗られたぞ」
「そ、それはそうなんだけど……お腹空いてたのかもしれないし」
《うん、ボク、すごくお腹空いてたんだ》
全然堪えていない返事だった。メイは困ったように笑ってから、網の中の小さな体を見つめた。さっきまでの警戒より、今は哀れみのほうが勝っているらしい。
「ねえ、見て。この子、暴れてないよ」
確かにそうだった。逃げようと思えばもっと暴れてもいいはずなのに、絡まったまま大人しくしている。大きな瞳だけが、こちらを順番に見ていた。
「……だからって油断はできない」
「でも、このままじゃ苦しそうだよ。お願い、ほどいてあげよう?」
メイの声は弱いが、真っすぐだった。レントは言葉を返さず、網の獣を見る。額の宝石、妙に整った毛並み、猫とも兎ともつかない姿。どうにも得体が知れない。
「補足します。この個体の身体能力は低水準です。拘束状態から観測される筋力・反応速度ともに、小型動物相当」
「つまり?」
「マスター単独で制圧可能です。さらに、知性・言語能力を確認。周辺地理情報の保有も見込めます。加えて、食事への高い執着を確認。餌による統制が容易と推定されます」
《餌って言い方やだなぁ》
メイが小さく吹き出した。
「ほら、アリーナちゃんもそう言ってるし。レントくんも本気で怖がってる感じじゃないでしょ?」
図星だった。もし本当に危険だと思っているなら、こんなふうに会話などしていない。レントは深く息を吐き、肩の力を抜いた。
「……逃げたらまた捕まえるぞ」
《うん!そのときはもっと速く逃げる!》
「今のなしにするぞ」
《ごめんごめん》
まったく懲りていない。レントはしゃがみ込み、網に手をかけた。
「メイ、下がってろ。アリーナ、いつでも動けるようにしとけ」
「はい、マスター」
絡まった糸を慎重にほどいていく。小さな獣は意外なほど大人しく、されるがままになっていた。最後の輪が外れると、獣はぴょこんと地面へ降り立つ。逃げるかと思ったが、その場で前足を揃え、ぺこりと頭を下げた。
《ありがとう!じゃあ、ごはんちょうだい》
「まず飯かよ、図々しいなお前」
「はい、どうぞ」
メイが残っていた皿をそっと差し出す。小さな獣は目を輝かせ、ぴょんと跳ねて卓上へ飛び乗った。
《わぁ……!いいにおい!》
ためらいもなく肉へかじりつく。夢中で頬張り、尻尾をぶんぶん振っている。警戒心の欠片もない食べっぷりだった。
「……本当に腹が減ってたんだな」
「なんか……かわいいね」
「食事への執着度、高水準。行動原理は明快です」
「そこ分析する必要あるか?」
皿の上はあっという間に空になった。小さな獣はぺろりと口元を舐め、満足そうに胸を張る。
《ごちそうさま!こんなに美味しい料理、長いこと食べてなかったよ!》
「えっ、あ、ありがとう……」
「……さて」
レントはため息をつき、腕を組んだ。声の調子が変わる。メイも姿勢を正し、アリーナは無言で視線を向けた。
「色々聞きたいことがある。お前は何者だ。なんで俺たちをつけ回してた」
《あ、ちょっと待ってね。このまま会話するの、疲れちゃうから》
「は?」
《こっちになるね》
次の瞬間、赤い宝石が柔らかな光を放った。光は小さな獣の全身を包み込み、輪郭がゆらゆらと揺れる。丸い体がすらりと伸び、前足は腕へ、後ろ足は脚へ変わっていく。赤みがかった毛並みはふわりと桃色の髪へほどけた。
「なっ……!?」
「か、可愛い……!」
光が弾けるように消える。そこに立っていたのは、幼い少女だった。ふわふわの桃色の髪に、大きな瞳。額には赤い宝石が輝き、頭には猫と兎の中間ほどの長さをした耳がぴんと伸びている。腰の後ろでは、やわらかな尻尾が楽しげに揺れていた。質素なワンピースを着て、小さな靴まで履いている。
少女はその場でくるりと回り、にぱっと笑う。
「あー、あー、あー、うんっ。こっちの方がしゃべりやすい!」
「しゃ、喋ってる……!」
メイが思わず声を上げる。
「最初から喋ってたよ?」
「そういう意味じゃなくて!」
レントはこめかみを押さえた。
「……変身できるなら先に言え」
「だって聞かれなかったし」
悪びれた様子はまるでない。アリーナが少女の周囲を一周しながら淡々と告げる。
「変身により発声器官を獲得。念話より低燃費。さらに手指使用可能。労働効率向上が見込めます」
「お前はブレないな」
少女は首を傾げた。
「ろうどうって、おいしいの?」
「労働の対価に美味しいものを提供します」
「いいね、それ!」
「……座れ。話の続きだ」
「うん!」
少女は空いていた椅子によじ登り、行儀よく座る。足をぶらぶらさせながら、にこにこと三人を見回した。
「それで、なにから話せばいい?」
「……まず確認だ。湖でこっちを見てたの、お前か?」
「うん、ボクだよ」
「やっぱりお前か……」
「じゃあ、あの変な視線って……ずっとあなただったの?」
「変ってひどいなぁ。ちゃんと隠れて見てたのに」
「隠れて見てる時点で変なんだよ」
レントが即座に突っ込むと、少女は「そっかぁ」と妙に納得したように頷いた。
「観察行動と推定されます。敵対意思は低水準」
「次だ、なんで俺たちをつけ回してた?」
「えっとね――ボク、湖の近くのおうちで暮らしてたんだ」
「湖の近くの小屋……?」
レントの脳裏に、以前見つけた荒れ果てた小屋がよぎる。巨大なイノシシのねぐらとなっていた廃屋。
「あそこか」
「うん。でもね、ある日おっきなイノシシが来て、ぐちゃぐちゃにしちゃったの」
「じゃあ……追い出されちゃったの?」
「うん。こわかったから逃げた」
少女はあっけらかんと言ったが、耳だけが少し伏せられていた。
「……そのイノシシなら、俺とアリーナが倒した」
「知ってる!ボク、見てたもん!でも、そのあとね、今度は狼さんたちが森をうろうろし始めたの」
「ああ……」
「こわいし、うるさいし、落ち着かないし……そしたらまた君たちがやっつけた!だから気になって、ついてきた!」
「理由がだいぶ軽いな」
「あと、ごはんがいい匂いだった!」
「そっちが本音だろ」
「えへへ」
まったく悪びれず笑う。メイが思わず吹き出した。レントは額を押さえ、それから少女を見る。
「……で、お前の名前は?」
「名前?えっと……」
そこで初めて、少女の笑顔が止まった。耳がぺたりと寝る。尻尾の動きも止まる。
「……わすれちゃった」
「は?」
「ずーっとむかしのことだから。思い出せない」
部屋の空気が少しだけ静かになる。メイがそっと声を落とした。
「昔って、どれくらい前……?」
「んー……いっぱい前!おじいちゃんは呼んでくれてた気がするんだけど……なんだったかなぁ」
少女は困ったように笑い、それでもどこか寂しそうに額の宝石へ触れた。誰も、すぐには言葉を返せなかった。やがてレントが椅子にもたれ、ぽつりと呟く。
「……またこのパターンかよ……」
「レントくん、あたしたちで名前つけてあげようよ」
少女の目が、ぱっと丸くなった。
「名前……くれるの?」
その声は、今までで一番小さく、そして嬉しそうだった。
レントは照れ隠しのように頭をかき、それから隣に立つアリーナへ視線を向けた。
「……とりあえず、アリーナ。何か案あるか」
「はい、マスター」
間髪入れない即答だった。嫌な予感しかしない。アリーナは胸を張り、誇らしげに告げる。
「『赤眼の桃髪』はいかがでしょうか」
「やると思ったよ!『青眼の銀髪』とどっちが強いか決闘じゃねぇんだよ!なんで毎回そうなる!」
「合理的だと判断しました」
少女はぱちぱちと瞬きをしたあと、感心したように頷いた。
「なんか強そう!」
「気に入るな!」
青眼の銀髪が堪えきれず吹き出す。肩を震わせながら口元を押さえていたが、やがて自分にも視線が向いたことに気づき、慌てて姿勢を正した。
「メイは何か案あるか?」
「つ、次はあたし?……えっと、名前って見た目から付けるんだよね?」
「アリーナのせいで変な学習してるじゃねぇか!」
メイはきょとんとしてから、指先でレントを示した。
「レントくんだけど?」
「は?」
「あたしの名前、メイド服着てたからメイって付けたよね?」
「ぐっ……」
痛恨だった。レントが言葉に詰まり、アリーナが静かに頷く。
「事実です。命名『メイ』は衣装由来です」
「見た目で決めて悪かったよ!」
メイは少女をじっと見つめた。もこもこの耳と尻尾、ふわふわの髪。しばらく真剣に考え込んだ末、ぱっと顔を上げる。
「じゃあ、『もこふわ』!だって、もこもこでふわふわなんだもん!」
少女は自分の髪を触り、尻尾を揺らして嬉しそうに笑う。
「もこふわ……かわいい!」
「お前もハードル低いな!」
レントは額を押さえ、深いため息をついた。
「……結局こうなるのか」
「レントくんが決めてよ」
「マスター案を要求します」
二人から同時に迫られて、レントは渋い顔で少女を見た。桃色の髪。無邪気に輝く大きな瞳。そして額には赤い宝石。
「……ルビー、でどうだ」
「ルビー?」
アリーナがすぐさま評価した。
「さすが、マスター。特徴に基づく命名、合理的です」
「だから、悪かったって」
「でも、かわいい名前だと思う」
少女は胸の前で手をぎゅっと握りしめると、じわじわと実感するようにその名を繰り返した。
「ルビー……ルビー……」
やがて顔いっぱいに笑みを咲かせ、その場でくるりと一回転する。
「うんっ、好き!今日からボク、ルビー!」
耳が跳ね、尻尾がぶんぶんと揺れる。全身で喜びを表しているようだった。その様子に、メイもつられて笑い、アリーナは静かに拍手を一度だけ送る。レントは呆れたように息を吐きながらも、口元だけはわずかに緩んでいた。
「……ま、気に入ったなら良かったよ。よろしくな、ルビー」
「うんっ!」
元気いっぱいの返事が、夜の拠点に明るく響いた。




