第27話〜水路作りのはずが狼に遭遇しました〜
竹林の奥から、さらさらと水の流れる音が届いてきた。風に揺れた竹同士が、カン、カン、と乾いた音を立てる。湿り気を含んだ空気が頬を撫で、土と水の匂いが混ざり合っていた。
「もうすぐ着くぞ。足元気をつけろ」
「うんっ」
後ろからメイの返事が返ってくる。数歩進んだところで、ぱっと視界が開けた。
「……着いた」
竹林の向こうに、川があった。陽光を受けて水面がきらきらと揺れている。澄んだ流れは岩の間を縫い、ときおり白い飛沫を散らしながら先へ走っていた。岸辺には草が揺れ、丸い石が点々と転がっている。
以前、一度だけ来た場所だ。あのときはフライパンづくりのための粘土探しで余裕がなかったが、今見るとずいぶん穏やかに見える。川辺へ降り、水へ手を入れた。指先から伝わる冷たさを確かめ、そのまま岸の土を掴む。握って崩し、粘り気を見た。
「水温……悪くない。濁りも少ないな。地盤は場所次第か。掘る場所は選ばないとマズい」
「わぁ……きれい……」
その横で、メイが目を輝かせながら、岸辺まで歩いていく。しゃがみ込み、水に指先をつけた。
「つめた……でも気持ちいい」
両手で水をすくい、指の間からこぼれる雫を見て嬉しそうに笑った。
「見て、レントくん。すごく澄んでる」
「見ればわかる」
「むぅ……つれないなぁ」
頬を膨らませるが、すぐにまた楽しそうに川へ視線を戻す。その切り替えの早さに、レントは小さく息を吐いた。
「アリーナ。拠点までの最適ルート出せるか?」
「はい、マスター」
アリーナが一歩前に出る。黒髪が風に揺れ、その瞳が周囲を走査するように細められた。
「解析を開始します……現在地から拠点方面へ緩やかな下り傾斜を確認。導水は可能です。ただし途中二か所、地盤強度に難あり。補強を推奨します」
「やっぱ補強は必要か」
レントは川岸から森の奥――拠点の方角を見やる。水があるだけで生活は変わる。畑への水やり。洗い場。余裕ができれば風呂だって作れる。
「まずはルート決めるか」
「ねえ、レントくん、あたし何すればいい?」
「……そうだな」
足元の細枝を拾い、一本をメイへ差し出した。
「俺が進む位置に合わせて、目印を刺していってくれ。あと、地面が柔らかい場所や沈む場所があったら教えてほしい」
「大事な仕事じゃん。あたしに任せて」
メイは枝を両手で受け取り、少しだけ背筋を伸ばした。
「そんな気合い入れることか?」
「そりゃそうだよ。だって、あたしも仲間だもん」
「ま、やる気があるのはいいことだな。……よし、始めるぞ。まずは取水口の位置決めだ」
川岸に沿って歩きながら、水深と流れを見ていく。浅すぎれば水量が足りない。深すぎれば作業が危険になる。流れが速すぎても、遅すぎてもよくない。
「この辺り……いや、もう少し上か」
独り言のように呟きながら進むレントの後ろを、メイが枝を持ってついていく。
「ここ?」
「まだだ。そこは土が柔らかい」
「むぅ……難しい」
少し離れた場所では、アリーナが周囲の地形を確認している。斜面の角度、地盤の硬さ、木々の密度。視線を巡らせながら、必要な情報を拾っているらしい。
「マスター。この先十数メートル地点に、導水路として適した緩斜面があります」
「了解。そこまで見てみる」
三人は川沿いにさらに進んだ。途中、レントは石をどけ、邪魔な草を踏み倒しながら進路を確かめる。メイは言われた通り、節目ごとに枝を地面へ刺していった。まっすぐ刺さらず首を傾げたり、何度も刺し直したりしながらも、その表情は楽しそうだ。
「レントくん、これ曲がってる?」
「曲がってるな」
「こっちは?」
「もっと曲がってる」
「えぇ、なんでぇ……」
しゃがみ込んで真剣に枝と格闘する姿に、思わず口元が緩む。その背後で、アリーナが別方向へ足を進めた。
「右岸側の地盤も確認します」
「ああ、頼む」
軽く返し、再び地面へ視線を落とす。掘るならこの辺りからだ。傾斜は足りる。問題は途中の岩場と、土の崩れやすい場所――。
どすっ。
背後から、妙に鈍い音が響いた。
「……ん?」
振り返ると、少し離れた斜面の途中に、アリーナが座っていた。
綺麗に両足を投げ出した姿勢のまま、無表情でこちらを見ている。
「何してるんだ、お前」
「転倒しました、マスター」
「転んだのかよ、大丈夫か?」
「臀部を強打しましたが、負傷はありません。行動継続可能です」
「そういう報告じゃなくてだな……」
メイはアリーナの前へしゃがみ込み、手を差し出した。
「ほら、立てる?」
「可能です」
そう言ってその手を取るが、足場が悪いせいか立ち上がりはぎこちない。
「おっと……ゆっくりね」
「制御に微調整が必要です」
よろよろとしながらも、なんとか立ち上がる。レントは腕を組み、呆れたように息を吐いた。
「森の中でもそうだったけどな。転ぶなら声くらい出せ。川に流されても気づかないぞ」
「警報音の発声なら可能です」
「やってみろ」
アリーナは一拍置いて口を開いた。
「ピーッ、ピーッ。警告。転倒しました」
「思ってたのと違う!」
するとメイが、ぴっと人差し指を立てた。
「アリーナちゃん、女の子は、そういう時は『きゃあ』って言うの」
「きゃあ」
抑揚のない、完璧な棒読みだった。一拍置いて、レントが吹き出した。
「ぶっ……なんだそれ」
メイも耐えきれず笑い出す。
「違う違う!もっとこう、びっくりして、可愛く!」
「再試行します。きゃあ」
「あんま変わんねぇな!」
三人の笑い声が、穏やかな川辺へやわらかく広がっていく。水は絶えず流れ、風は竹を揺らし、ただ心地よい時間だけが満ちていた。
ひとしきり笑い合った、その直後だった。
――空気が不意に変わった。
風の音だけがすっと耳に残る。気づけば、賑やかだった鳥のさえずりが、どこにもない。レントの表情から笑みが消えた。
「……二人とも、下がれ」
低く抑えた声にメイの肩がぴくりと揺れる。何が起きたのかは分からない。それでも、ただ事ではないと察したのだろう。素直に数歩下がり、アリーナもまた即座にレントの後方へ位置を取った。
川向こうの茂みが音もなく揺れた。次の瞬間、灰色の獣がゆっくりと姿を現す。
狼――そう呼ぶには、あまりにも大きかった。
肩の高さはレントの腰近くまであり、引き締まった四肢には無駄がない。陽光を受けた毛並みは鈍く光り、その金色の瞳だけが異様なほど鋭く、まっすぐこちらを射抜いていた。
メイが小さく息を呑む。
だが、それで終わりではなかった。左手の草むらが揺れ、もう一頭。右手の岩陰から、さらにもう一頭。いつの間にか、三頭の狼が半円を描くように並び、こちらの動きを測るように静かに立っている。
「……マスター。対象三体を確認。高い連携行動の可能性があります」
アリーナの声はいつも通り冷静だったが、その内容は決して軽くない。レントは無言のまま鉄斧へ手をかけ、ゆっくりと前へ出た。
背後では、メイが枝を握ったまま固まっている。先ほどまで目印に使っていた細枝が、ひどく頼りなく見えた。
川のせせらぎだけが、妙に大きく聞こえる。
やがて、三頭のうち中央の一頭が、わずかに身を沈めた。
三頭の殺意が、一斉にレントへ向けられた。




