第25話〜ちゃんと笑えるようになっていました〜
食事を終えたあと、メイはそのまま軽くよろけるようにして倒れた。無理もない。海で溺れたばかりだというのに、休む間もなく動き続けていたのだから、体力の限界はとうに超えていたのだろう。レントに抱きとめられ、そのまま寝かされると、「今日は何もするな、しっかり休め」と言い聞かされるように告げられた。
それからは、驚くほどあっさりと意識が落ちた。前の夜のような、不安で眠れない感覚はなかった。ここにいていいのかと考える余裕すらなく、ただ静かに眠りに沈んでいった。
――そして。
次に目を覚ましたときには、すべてが軽くなっていた。身体に残っていたはずの疲労も、重さも、まるで最初からなかったかのように消えている。指先に力を込めても違和感はなく、呼吸も深く、澄んでいた。
完全に回復している。そう言い切れるほどに、体は万全だった。室内には誰もいなかった。整えられた空間と、やわらかな光だけが広がっている。確か、朝一番に嵐で壊れた罠を仕掛け直して、海岸にも新しい仕掛けを設置すると言っていた、気がする。
窓の外に目を向けると、太陽はすでに高い位置にあった。どうやら、思っていたよりも長く眠っていたらしい。ゆっくりと立ち上がり、そのまま扉へと向かった。
外に出た瞬間、空気が変わる。頬を撫でる風。草の匂い。どこまでも広がる青空。思わず足が止まった。こんなにも、世界は広かったのかと。
小屋の中とはまるで違う、開けた景色にしばし視線を奪われる。草原の先には丘が続き、その向こうにかすかに海が見えた。
そのとき、丘の下の方から人の声が聞こえてきた。少しだけ迷ってから、丘を下りていくことにした。斜面を慎重に進み、やがて視界が開ける。
そこには、半円形にくぼんだ海岸と、その入口を塞ぐように積み上げられた石の列があった。
「お、起きたか、体調はどうだ?」
こちらに気づいたレントが手を上げる。
「大丈夫……だよ。……完全に回復して……るよ」
……思わず敬語が出そうになり無理やり修整する。変な喋り方になってしまった。
「本当か?それならいいけど、無理すんなよ。なんか喋り方変だし」
……案の定喋り方が変だと言われてしまった。恥ずかしい。
レントは大きめの石を持ち上げ、位置を調整しながら積み上げていく。見るからに力仕事だ。
「それ、何をしている……の?」
「罠を設置してるところだ。この地形、ちょうどいいだろ。ここを石で塞いでおくと、潮が満ちたときに魚が入ってきて、引いたときに外に出られなくなるんだよ。あとは網で簡単に捕れる」
「……そんなことが出来るん……だ」
「うまくいけばな。まあ、試しながら調整する感じだ」
「何か手伝うことは?」
「石を運ぶのは力仕事だからな、メイには別のこと頼みたい」
「うん」
「エサに使う貝を集めてほしい。そこらにあるやつでいいから」
「分かった」
……なんかタメ口慣れないな。
足元は砂と水で少し不安定だったが、慎重に歩けば問題はない。しゃがみ込み、岩の隙間を覗くと、小さな貝が張り付いているのが見えた。指先で触れ、ゆっくりと剥がす。思ったよりも固い。けれど、少し力を入れると、ぺり、と音を立てて外れた。
「……取れた」
もう一つ、見つける。今度は少し要領よく外せた。そのときだった。視界の端で何かが現れた。思わず顔を上げる。
――何もなかったはずの空間に、石があった。いや、正確には今、そこに出てきたように見えた。
「……え?」
瞬きをする。見間違いではない。アリーナが何もない場所から石を取り出し、それをレントの近くに運んでいた。何をしたのか、全く分からない。
……いまの、どうなってるの……?
「インベントリー機能です。物資の収納および取り出しが可能です」
……インベントリー?
こちらの視線に気づいたのか、アリーナが淡々と説明するが、聞き慣れない言葉に、頭の中で疑問が増える。
「便利だろ?こいつがいると、こういう作業はかなり楽になるんだよ」
「効率は大幅に向上しています」
「さすが俺の相棒だな」
軽い会話が交わされる。
……仲が良いな。
メイはもう一度、手元の貝に視線を戻した。もう一つ拾い上げる。波が足元をかすめ、ひやりとした感触が広がる。けれど、不思議と嫌ではなかった。風が吹くと、すぐにその冷たさはやわらぐ。作業を続けているうちに、少しずつ手つきにも慣れてきた。
やがて――
「よし、こんなもんか」
半円の入口は、石でしっかりと塞がれていた。
「問題ありません」
「よし、なら次、行くか」
「次?」
「ああ、罠の確認だ」
―――
草の上にはまだ夜の名残の露が残っていて、踏みしめるたびに靴の裏がわずかに冷たくなる。レントは小さく息を吐きながら、森へ続く獣道を見回した。
「……まあ、そんな簡単には掛からないか」
朝設置し直した罠はいくつかあったが、どれも静かなままだった。枝はそのまま、仕掛けも崩れていない。つまり、獲物はまだ通っていないということだ。
「設置から時間が短いので、当然の結果です」
「わかってるっての。戻るか、今日は干し肉定食だな」
獣道を抜け、拠点へ向かう途中だった。草の向こうで何かが動いた。最初は風かと思った。しかし違う。規則的な、重みのある動きだ。
「……アリーナ、あれ、なんだ?」
視線の先、低木の影から現れたのは、大きな鳥だった。羽はあるが飛ぶ気配はない。丸みのある体に、やや短い翼。地面をゆっくりと歩き回りながら、嘴で草をついばんでいる。その姿は、どこかのんびりとしていて、警戒心というものが薄い。
「島嶼部に生息する大型の鳥類、トロドー。飛翔能力は退化しており、地上での生活に適応しています」
「やっぱ飛べないのか」
「はい、マスター。また、外敵が少ない環境に適応しているため、警戒心が極めて低い個体が多いです」
「なるほどな……食える?」
「問題ありません。可食部も多く、栄養価も良好です」
「よし、決まりだな」
トロドーはまだこちらに気づいていない。草をついばむ動作はのんびりとしていて、距離感もあまり理解していないようだった。レントはゆっくりと姿勢を低くする。地面を踏む音を極限まで殺す。風の向き、足場の硬さ、鳥の視線の死角。
「今だ」
レントは一気に踏み込んだ。砂がわずかに跳ねる。トロドーが顔を上げたが、遅い。気づいた時には、もう距離は詰まっている。
「……!」
羽ばたこうとする動きより早く、レントの手がその体を押さえ込んだ。暴れるように羽が動くが、力はそれほど強くない。体重を預けるようにして押さえ込めば、逃げることはできなかった。
「よし……!捕まえた」
「捕獲を確認しました」
「……すごい」
「いや、こいつが鈍いだけだよ……これ、今日の飯な」
三人は鳥を携えたまま、丘へと戻っていった。
―――
捕獲したトロドーを地面に横たえ、レントは軽く息を吐いた。
「よし……じゃあ、解体するか」
そう言いながらナイフを手に取るものの、視線はどこか定まらない。やったことがないわけではないが、手が覚えているほどでもない作業に、ほんのわずかな迷いが混じっていた。
「えーと……ここから、だよな……あれ?」
「マスター、効率が低下しています」
「うるさい、分かってるって……!」
反射的に言い返しながらも、手は止まる。どこから手を付けるのが正解なのか、いまひとつ確信が持てない。そんな空気の中で、不意に小さな声が落ちた。
「……代わる……よ」
顔を上げると、メイが一歩前に出ていた。少しだけ緊張を含んだ表情のまま、それでも視線は逸らさない。
「できるのか?」
「……うん、たぶん」
レントは一瞬だけ考え、ナイフを差し出す。
「じゃあ、頼む」
「……任せて」
受け取った指先は、驚くほど落ち着いていた。メイはそのまま静かに膝をつき、トロドーの体に手を添える。その瞬間、さっきまでのぎこちなさがほどけるように消え、動きだけが自然に流れ始めた。
羽に触れ、滑らせるように、ほどいていくように、ひとつ、またひとつと無駄なく処理していく。そのリズムは、風に揺れる草と同じくらいに自然だった。ナイフが入る。迷いはなく、探る様子もない。どこに何があるのか分かっているかのように、必要な分だけを正確に切り分けていく。雑音はほとんどない。ただ、規則正しい動きだけがそこにあった。
気づけば形はすでに整えられていた。最初からそうあるべきだったかのように、必要な部位が静かに並んでいる。
「……終わった」
小さく息を吐きながら、メイがナイフを軽く拭う。その仕草には、どこか名残のような余韻すら感じられた。レントはしばらく何も言えずにいたが、やがてゆっくりと口を開く。
「……すごいな」
ようやく出たのは、それだけだった。メイは一瞬だけ視線を逸らし、少しだけ言葉を探す。
「……その、ナイフの通り道が視えて」
「いや、それ完全に職人の技だな」
「……そう、かな」
「作業効率が大幅に向上しました。最適な対応です」
「……それじゃ、調理する、ね」
火が起こされ、鍋がかけられる。薪のはぜる音が、静かな空間に心地よく響く。肉は一口大に切り分けられ、軽く塩を振られる。熱した鍋に入れられた瞬間、じゅう、と小さく音が立ち、香ばしい匂いが立ち上った。
「いい匂いしてきたな」
表面に焼き色がついたところで、野草が加えられる。緑が一瞬しんなりと沈み、そこに水が注がれると、ふわりと湯気が立ち上った。やがて、ぐつぐつと穏やかな音に変わる。香りはさらに広がり、空腹をじわじわと刺激してくる。
「これ、絶対うまいやつだろ」
「……たぶん、大丈夫」
メイは少しだけ自信なさげに言いながらも、手は止まらない。味を確かめ、ほんの少しだけ調整を加える。火から下ろされ、木の器に盛られたそれは、湯気をまといながら、静かに存在感を放っていた。
「できた……よ」
「待ってました」
レントはすぐに器を受け取り、スプーンを手にする。口に入れた瞬間、思わず目を見開いた。
「……うまっ」
短い言葉だったが、それだけで十分だった。外で捕まえたばかりの肉は、驚くほど柔らかく、噛むたびに旨味が広がる。脂はしつこくなく、野草のほのかな苦味と合わさることで、後味はむしろ軽やかだった。体の奥に、じんわりと染み込んでくる。
「……これ、すごいな」
「……ほんと?」
「ほんと。めちゃくちゃうまい」
はっきりと言い切る。メイは一瞬だけ目を伏せ、それから小さく息を吐いた。
「……よかった」
「栄養価、味覚ともに良好です。最適な調理です」
「……ありがと、アリーナちゃん」
ほんの少しだけ、口元が緩む。それは意識したものではなく、気づけばそうなっていた、というような小さな変化だった。
誰にも気づかれないくらいの、ささやかなもの。
けれど確かに、そこには――
さっきまでとは違う、やわらかな表情があった。




