第22話〜記憶喪失の少女に名前をつけることになりました〜
薄暗い小屋の中、ぱちぱちと薪がはぜる音だけが静かに響いていた。壁に掛けられた簡素な松明が揺れる橙の光を落とし、室内に長い影を作っている。
松明の光が揺れ、少女を照らす。青みがかった銀色の髪が、かすかな光を受けて淡く輝いていた。まっすぐに伸びた髪は背中の中ほどまで届いている。その奥にある瞳は深い青。揺れているのは炎の反射だけではない。不安と戸惑いが、そのまま色になったような目だった。
身にまとっているのは、白と黒を基調にしたメイド服。胸元や裾に走る青のアクセントが、どこか上品な印象を与えている。だが、その布地はところどころ裂け、ほつれ、海水に晒された痕がはっきりと残っていた。
「マジか、記憶喪失ってやつか?ちょっと確認させてくれ……えっと、名前はわかるか?」
「……いえ」
「じゃあ、どこから来たかは?」
「……分かりません」
「昨日の朝ごはんは?」
「……それも覚えてません……」
俺も昨日の朝ごはんは覚えてない。そこから先は同じようなやり取りがいくつか続いた。出身地は思い出せない。家族のことも分からない。自分がどこで、どんな生活をしていたのかも、まるで霧の中のように掴めない。それでも……。
「言葉は普通に通じるし、会話もできる。今、手に持ってる物は何かわかるか?」
少女は戸惑いながらも手元の器を見た。
「……これは、カップ……ですよね」
「合ってる。物の名前は分かるけど、名前とか、出身とか、そういう自分に関する情報だけが抜けてる感じだな」
「外傷による影響、または精神的ショックが原因と考えられます」
「やっぱり海で溺れたことが原因だろうな……こういうの漫画とかだとさ、同じショックもう一回与えたら治る、とかあるよな」
「推奨されません。科学的根拠がありません」
「だよな……さすがに海で溺れたやつをもう一回溺れさせるわけにもいかないしな……まあ、生きてるだけマシだな」
半分冗談のように言ってから、ちらりと少女を見る。松明の光の中、青い瞳はまだ不安に揺れていた。
「あんまり質問攻めにしても良くないな、今度はこっちの話もしようか。改めて俺はレントだ。んで、こっちが相棒のアリーナ」
「アリーナと申します」
一度息を整え、少しだけ声の調子を落とした。この島が人のいない無人島であること。嵐の後、海岸で倒れていた彼女を見つけて運び込んだこと。必要なことだけを簡潔に伝える。
細かい経緯を長々と説明するつもりはなかったが、それでも少女が置かれている状況だけははっきりさせておく必要があった。
話を聞き終えた少女はしばらく何も言わなかった。ただ、手にしたカップを両手で包み込むように握りしめている。
「……無人島、なんですね……」
小さく呟く声は、まだ現実を受け止めきれていないようだった。話をしながらも少女の様子を観察する。器を持つ手つき。無意識に伸びた背筋。
「……お前、やたら育ち良さそうだな」
「え……?」
思わず口に出てしまった。少女はきょとんとした顔をした。レントは言葉を探すように頭をかく。
「いや、なんつーか……場違い感すごいっていうか、ボロボロの小屋に咲く一輪の花みたいな」
ふと自分の手元を見る。節くれだった指。細かい傷。乾ききっていない荒れた肌。
一瞬、妙な不安がよぎる。顔は毎朝ちゃんと洗っている。体も石鹸で洗っている。最低限の清潔は保っている、はずだ。
……でも鏡、ないんだよな。
自分の顔が今どうなっているのか、正確には分からない。髪はちゃんと整っているか?どこか変なことになっていないか?初対面の女の子相手に、この状態で大丈夫か……?
さっきまで気にしていなかったことが、急に気になり始める。ちらりと少女の方を見る。整った所作。落ち着いた雰囲気。明らかにちゃんとしている側の人間。
……いや、比べる相手が悪いだろ。
「マスターは野性味があって素敵です」
「野性味ってことは身だしなみ整ってなさそうだな!あと、心の声読まないでくれる!?」
「マスターと私は一心同体ですから」
「一心同体ならもっと上手くフォローしてくれ」
「『荒野に咲く一輪の花』と『小屋に咲く一輪の花』をかけたダジャレ、お見事です」
「そこ掘り返さなくていいから!あと、ダジャレって言ってる時点で褒めてないから」
「……ふっ」
小さな音がした。視線を向けると、少女がほんのわずかに口元を緩めていた。
……よかった、笑ってくれた。
レントの中で、張り詰めていた何かがふっと緩む。
思わず小さく拳を握る。その勢いのまま、隣へ手を差し出した。
「ナイスだ、アリーナ」
「?」
アリーナは一瞬だけその手を見つめ――
――ぱしん。
わずかにタイミングのずれたハイタッチが鳴った。
「今のは何の動作ですか」
「いや、こう……成功を分かち合う的なやつ」
「成功の定義が不明瞭です」
「お前、俺と一心同体じゃなかったの?」
軽く咳払いして誤魔化す。そのやり取りを見て、少女はもう一度、小さく息を漏らした。さっきよりも、ほんの少しだけ自然な笑みだった。揺れていた青い瞳から、わずかに力が抜けている。張り詰めていた空気がゆっくりとほどけていく。その様子を見てレントは内心でほっと息をついた。とりあえず最悪の空気にはならなかった。
そこでふと、ある問題に気づく。少しだけ言いづらそうに頭をかきながら、視線を少女へ向ける。
「……あー、そのさ、ずっと『メイド服の少女』って呼び続けるわけにもいかないし……名前、どうする?」
少女は一瞬きょとんとしたあと、小さく目を伏せた。
「……あ、私は……」
言葉を探すように唇がわずかに動く。けれど、やはり何も出てこない。
「……両親の名前も、友人の名前も思い出せません。だから、自分では……決められない、です」
申し訳なさそうにそう言って、手元のカップをぎゅっと握る。
「いや、謝る必要はないって、じゃあ、まあ……本人が嫌じゃなければ、こっちで考えるってことでいいか?」
少女は少し迷うように視線を揺らし、それから小さく頷いた。
「……はい。お願いします」
「よし……アリーナ、お前の意見は?」
「はい、マスター。対象の外見的特徴を分析した結果――」
淡々とした声音のまま、アリーナは少女を一瞥する。
「青眼の銀髪が最適名称と判断します」
「長い上にそれ絶対カードゲームのレアモンスターだろ!?今にも決闘しそうな名前やめろ!」
「視覚情報に基づいた合理的命名です」
「合理性で名前つけるな!」
即座に返ってきた反論に、レントは思わず頭を抱える。いや、でも。こいつ、自分のことも普通に『錬金釜』とか名乗ろうとしてたんだよな……。
「……まあ、お前はそういうやつだよな」
「はい、マスター。では、マスターの案を提示してください」
「うっ……」
話を振られた瞬間、レントは言葉に詰まった。正直なところ、名前を考えるのは得意じゃない。ゲームのキャラ名だって、結局は適当につけていた記憶しかない。
ちらりと少女を見る。青みがかった銀の髪。深い青の瞳。そして、無意識に整えられたその姿勢。黒を基調としたメイド服。
「……メイド、か……」
ぽつりと呟く。その言葉を転がすように、少しだけ考えて――
「……メイ、とかどうだ?」
口に出してから、自分でも少し単純すぎたかと思う。だが。
「……メイ……」
少女が、小さくその名前を繰り返した。確かめるように、もう一度。その響きを、ゆっくりと噛みしめる。
「……その名前、嫌じゃないです」
そっと顔を上げた少女の表情は、先ほどよりもほんの少しだけ柔らかくなっていた。
「メイド服のメイ。合理的と判断します」
「さっきは否定して悪かったよ……じゃあ決まりだな」
まっすぐ少女を見る。
「メイ。これからよろしくな」
その言葉に、メイド服の少女――メイは一瞬だけ動きを止めた。ほんのわずかに、何かを思い出そうとするような間。けれど次の瞬間。すっと背筋が伸びる。
片足をわずかに引き、スカートの端を軽く摘まむ。指先まで意識の行き届いた、淀みのない動き。そして、静かに膝を折る。
「改めまして……メイです。よろしくお願いします」
深く、優雅な一礼――カーテシー。その所作は、あまりにも自然で、あまりにも完成されていた。この粗末な小屋の中では、どこか場違いに思えるほどに。
――なんだか、とんでもない子を拾っちまった気がする。……たぶん、いろんな意味で。




