第21話……私は、誰ですか……?
冷たい水の底へゆっくりと引きずり込まれていく感覚。どこまでも深く、どこまでも暗い。
胸の奥が焼けるように痛む。けれど、その苦しささえどこか遠く、現実感を伴わないまま、ただ意識だけが沈んでいく。
――怖い。どうしようもなく怖い。
声にならないはずのその感情が、水の中で泡のように浮かんでは消えていく。
――苦しい。助けて。
誰に向けたのかも分からない願いが、かすかに形を持つ。けれどそれもすぐに重たい水に押し潰されるように消えていった。
沈む。ただ、沈み続ける。
このままどこまでも――
そのときふいに。何かを掴まなければいけない気がした。理由は分からない。けれど、それだけは確かだった。伸ばそうとした手は、水に絡め取られ思うように動かない。それでも、指先にわずかな力を込める。
――助けなきゃ。
かすれた意識の奥で、言葉が浮かぶ。大切な人。守らなければいけない存在。
焦りだけが胸の奥で膨らんでいく。掴まなきゃ。沈んでいる場合じゃない。そう思うのに体が動かない。意識がさらに深く沈んでいく。
光が遠い。手を伸ばしても、何にも届かない。
それでも、なお。消えかけた意識の中で、必死に何かを求めて手を伸ばす。
――助けなきゃ。
でも、誰を?
その何かを掴もうとしたその瞬間、意識は、白く弾けた。
―――
意識がゆっくりと浮かび上がってくる。最初に感じたのは、身体の奥に残る鈍い痛みと、それを包み込むようなかすかな温もりだった。ついさっきまで確かにあったはずの冷たい水の感覚は、もうどこにもない。
重たい瞼を持ち上げると、ぼやけた視界の先に粗い木の天井が見えた。節だらけの板が歪んで並び、突貫で継ぎ足したような跡もある。
――見知らぬ場所だった。
思わず息を吸うと、空気が肺に満ちる感覚に、遅れて安堵が追いつく。苦しくない。水の中ではない。それだけで、自分が生きているのだと理解できた。
けれど、身体をわずかに動かした瞬間、その安堵は簡単に崩れた。肌に触れる感触がおかしい。ざらついた布が、何も隔てるものなく直接触れている。
――何も着ていない。
理解が追いついた瞬間、心臓が強く跳ねた。衣服の代わりに掛けられているのは粗末な布一枚だけだった。
「……なん、で、あた、し……」
喉はひどく乾いていて、声はかすれていた。
「……目が覚めたか?」
低い声に反射的に顔を向けると、そこには見知らぬ男が立っていた。無造作な髪に、どこか気の抜けた表情。けれど、その視線はまっすぐこちらを捉えていた。
――見知らぬ部屋に見知らぬ男性、そして、この状況。
身体を引こうとしても力が入らず、わずかに布が擦れるだけで思うように動けない。それでも、視線だけは逸らせなかった。
「無理に喋らなくていい。かなり消耗してる」
聞かなければならないこと、確かめなければいけないことがたくさんあるのに、喉がうまく動かない。
そんな中、男が思い出したように壁の方を向いた。つられるように視線を向ける。
「そうだった、お前の服ならあそこに掛けてある」
粗く打ち付けられた板の一部に、自分のものらしい衣服が干されているのが見えた。少女はかすかに唇を動かした。
「……あな、たが、あたし……いえ、私の、服を?」
自分でも分かるほど声が揺れていた。男は一瞬きょとんとしたように目を瞬かせ、それから困ったように頭をかいた。
「いや、俺じゃない」
「……では、誰が……」
そのとき、すぐ横で衣擦れの音がした。
「私が行いました」
すぐ横から別の声が割って入った。いつの間にそこにいたのか、視界の端に一人の少女が立っている。
黒を基調とした衣服に身を包んだ黒髪の少女。無表情でこちらを見下ろしていた。
「濡れていた衣服は、全て取り外しています。低体温および感染症リスクの回避を優先しました」
感情のない事実だけの説明。一瞬、言葉の意味を理解するのに時間がかかる。
つまり――
助けられたのだ。この人たちに。
顔に熱が集まるのを感じた。誤解だったと理解すると同時に、別の意味でどうしていいか分からなくなる。何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。
少女が気まずそうにしているのを見て、男は小さく息を吐いた。
「……気が付かなくて悪い。着替えたいよな、外に出てる。終わったら声かけてくれ」
それだけ言い残して、扉を開け、そのまま静かに閉じられた。室内に残ったのは自分と、無表情の少女だけだった。
その少女は手元の作業へと意識を移している。小さな火にかけられた容器から、わずかに湯気が立ち上っていた。
――今のうちに。
意を決して、ゆっくりと身を起こす。まだ少しだけ震える指で体に掛けられていた布を押さえながら、壁の衣服に手を伸ばす。袖を通し、着慣れた感覚に、ようやく一つだけ息を吐く。着替え終わる頃には、心臓の音もわずかに落ち着いていた。
「……終わりました」
控えめに声をかける。間を置かず、外から扉が開いた。男が戻ってくる。ちらりとこちらを確認し、すぐに視線を逸らした。
「服は乾いてたか?まさかドライヤー機能がこんな形で役に立つとはな」
「はい、マスター。APを使用してのドライヤー機能解放、英断でした」
男と少女の会話には聞き慣れない単語が飛び交っている。少女の言葉には、賞賛らしきものが含まれているようだが、感情はほとんど感じられない。
「そうか?まあ結果オーライだな」
男は肩をすくめ、特に気にした様子もなく室内へと入ってくる。そのまま、火にかけられていた容器へと視線を向けた。
「それ、もういいか?」
「はい。適温です」
「ほら。飲めるか?ハーブティーだ」
差し出された器を、少女は一瞬だけためらい、それでもゆっくりと受け取った。指先に伝わる熱が、じんわりと身体の奥へと広がっていく。恐る恐る口をつけると、優しい温もりが喉を通り、胸の奥へと落ちていった。
「……おいしい」
思わず、そんな言葉が漏れる。男はそれを聞いて、少しだけ肩の力を抜いたようだった。
「そりゃよかった。……落ち着いたら、そろそろ自己紹介しないとな……あー、その。俺の名前はクロガネ・レント。この小屋の持ち主だ」
どこかぎこちない調子で名乗りながら、わずかに視線を逸らす。
「レントでいい。……えっと、女神の誤配送でこの島に飛ばされて、今はこいつと二人で生活してる」
親指で隣を指す。それを受けて、隣の少女が一歩前に出た。
「紹介に預かりました。アルケミーナ・コルドロン。アリーナとお呼びください。マスター専属の錬金釜です」
「……改めて聞くとクセの強いプロフィールだな、俺たち」
レントと名乗った男が軽く突っ込む。そのやり取りに、ほんのわずかだけ空気が緩む。張り詰めていたものが、少しだけほどけた気がした。
「……で」
レントが今度はこちらをまっすぐ見る。
「無理にとは言わないが……名前と何があったか聞いてもいいか?」
その問いに、器を持つ手がわずかに止まる。
「……わた、し……は」
口を開き、言葉にしようとする。けれどその先が続かない。頭の中に、ぽっかりと穴が開いたように、何も出てこなかった。
「……あれ……?」
自分でも分かるほど声が揺れる。知っているはずなのに。ずっと使ってきたはずなのに。どうして出てこないのか。
「……私は……」
もう一度試みる。けれど、やはり何も掴めない。焦りがじわじわと広がっていく。
「……私は、誰ですか……?」
沈黙が、答えのないまま部屋に落ちた。




