第18話――足りない。
鈍い音が響いた。
何が起きたのかを理解するよりも早く、アリーナの意識は床へと向いていた。視界の端で捉えた落下の軌跡と、直前の衝撃音が結びつき、そこにある状況を即座に確定させる。
床に錬金釜の所有者である青年――レントが倒れていた。さっきまで梁の上にいたはずの身体は、不自然な姿勢のまま動かない。
「マスター、大丈夫ですか?」
応答はない。
アリーナはわずかに間を置き、再度呼びかける。
「マスター、応答してください」
やはり応答はない。
外では風が唸り、壊れた屋根の隙間から雨が吹き込んでいる。床にはすでに水が広がり始めていたが、それらを後回しにし、目の前のレントへと意識を集中する。
「状態確認を開始します」
黒い本体の表面に刻まれた金色の紋様がゆっくりと光を帯びた。次の瞬間、それは形を崩すように流れ出し、細長く伸びていく。金の線が二本の触手となり、迷いなくレントへと向かう。
触手の一本がレントの頬に触れる。体温の低下を確認。だが、まだ危険域ではない。もう一本の触手が首元へと移り、呼吸を探る。かすかな上下動がある。胸へ触れれば、不安定ながらも鼓動は続いていた。致命的な損傷は見当たらない。
だが、意識が自然と上を向く。屋根の破損箇所から落ち続ける雨。その水は容赦なく床へと溜まり、レントの衣服を濡らし続けていた。このままでは状態は確実に悪化する。
移動の試行を開始。
伸びた触手がレントの腕を絡め取る。そのまま引き寄せようとするが、身体はほとんど動かない。
再試行。
今度は角度を変え、腕、衣服、複数箇所を同時に引く。わずかに身体が揺れるが、それだけだ。
重量の超過により移動不可。
別手段の検討。
触手が周囲の板材へと伸びる。太い木材は持ち上げられないが、比較的軽い板ならば動かせる。角度を変えながら引き寄せ、組み合わせ、屋根の穴の下に簡易的な遮蔽物を作っていく。
雨の直撃はわずかに和らいだ。
だがそれだけだった。
防ぎきれなかった水は床を伝い、じわじわと広がっていく。流れは止まらず、時間とともに確実に増えていった。
布や毛皮を引き寄せ、レントの体に被せる。しかしそれらはすぐに水を含み、冷たく重くなっていく。保温効果はほとんど期待出来ない。
近くに転がっていた木桶へと触手を伸ばし、水を汲み上げる。持ち上げ、傾け、そのまま自らの釜の内部へと流し込み排水を試みる。
二度、三度と繰り返すが、水位はほとんど変わらない。落ちてくる量に対して、取り除ける量が圧倒的に足りていない。
床に広がる水は確実に増え続け、その中に横たわるレントの体温を、ゆっくりと奪っていく。
アリーナは次の手段の選定に移行する。救命のための錬金。だが、錬金に必要な素材、そしてMPは所有者――レントに依存する。
「マスター、素材とMPの使用許可をお願いします」
当然ながら応答はない。
「マスター、事後報告となることをお許しください」
結論は変わらなかった。
使用可能なMPは27。
安全を考慮し、MPを使い切ることは出来ない。
最初に浮かんだのは移動手段の構築だった。周囲の木材を組み合わせ、レントの体を滑らせる、ソリの形成。しかし、触手の出力ではレントの体は動かせない。ソリを作っても意味はない。
思考は即座に切り替わる。
皮と竹、糸が釜の中へと投入される。
「錬金を開始します」
淡い光が内部で膨らみ、静かに収束した。
次の瞬間、それは形を持って現れる。
簡易的な骨組みと、それを覆う皮。雨を遮るためのシェルター。触手がそれを持ち上げ、レントの上へと展開する。
屋根の穴の下に設置した簡易的な遮蔽物と合わせて、雨の直接の侵入は大きく軽減される。
――残りMP21。
続いてインベントリー内の石を消費。
淡い光の中で再構成された石材を、床の水を押し分けるように配置していく。
円を描くように隙間なく積み上げられ、レントの周囲に堤防が形成される。外から流れ込んでいた雨水の大部分は、その外側でせき止められた。
――残りMP15。
だが、堤防の内側の水は消えていない。すでに溜まった冷水が、レントの体温を奪い続けている。
レントは草を万能素材だと言い、やたらと溜め込んでいた。その万能素材である草を消費する。
淡い光の中で繊維が組み直され、吸水材として現れた。触手がそれを水面へと押し当て、吸収と排出を繰り返す。水位は少しずつ、だが確実に下がっていく。
――残りMP12。
それでもまだ足りない。視線は再びレントへと戻る。濡れた衣服と、奪われ続ける体温。
続いて使用するのは皮、そして先ほど釜の中に排水した雨水。皮を容器として再構成。その皮の水筒に雨水の温度を上げたお湯を注ぐ。簡易的な湯たんぽだ。
触手がそれを掴み、レントの体へと押し当てる。わずかに、体温低下の速度が緩やかになった。
――残りMP8。
風の音は続いている。雨も止まらない。それでも、状況は変化していた。
雨の直撃は防いだ。レントの周りへの雨水の流入は止めた。体温の低下も抑えている。
積み重ねた処理は、すべて有効に機能していた。アリーナは静かに状況を再評価する。数値はわずかに改善している。致命的な悪化は抑えられている。
残りのMPにまだ余力はある。
このまま錬金を継続すれば助けられる可能性がある。わずかずつではあるが、確実に状況は好転していた。
――次の瞬間だった。
轟音が響いた。建物全体が軋み、一瞬遅れて風が吹き込んだ。浮いていた屋根が、突風に耐えきれずに持ち上げられた。レントが応急処置を施した窓が、内側へと大きくたわむ。抑えていたはずの隙間から、雨が一気に流れ込む。
横殴りの雨が容赦なく叩きつけてくる。干し草の吸水材は一瞬で飽和し、水を含みきれなくなる。シェルターは飛ばされ、逃がしていたはずの水が逆流するように戻ってくる。石材の囲いの内側に再び雨が振り注ぎ、水位が跳ね上がった。湯の入った水筒が転がり、冷たい水の中に沈む。
さっきまで抑えていたものが、すべて無意味になる。一つ一つ対処していたはずの問題が、同時に襲いかかる。
処理が、追いつかない。
――残りMP8。
何を優先すべきか、一瞬だけ思考が止まる。
そして、理解する。
――足りない。




